EP 11
氷の辺境伯の怒り
応接間の空気が、文字通り凍りついた。
扉の枠に寄りかかるようにして現れたクラウスから放たれるのは、歴戦の竜騎士団長としての圧倒的な覇気と、底知れぬ殺意だ。
室内の温度が急激に下がり、窓ガラスにピキピキと霜が張り付いていく。
王太子アルバートも、オズワルド男爵も、悲鳴を上げかけたミリアナも、一歩も動くことができない。
先ほどまでリゼットを取り囲もうとしていた十数名の近衛騎士たちに至っては、クラウスの睨みを受けただけでガチガチと歯の根を鳴らし、剣を構える腕を震わせていた。
クラウスは彼らを完全に無視し、リゼットの元へと静かに歩み寄った。
「……怪我はないか、リゼット」
感情の読めない、冷え切った低い声。
だが、リゼットの耳に装着された翻訳魔導具からは、鼓膜を破らんばかりの大絶叫が響き渡った。
『(あああああああ!! 間に合った!! 俺の女神に傷一つでもついていたら、俺はこの場で自害して詫びた後にこいつらを地獄の底まで道連れにするところだった!! 怖かったですよね!? 申し訳ありません、俺の警備が甘かったせいでこんなゴミ虫どもを屋敷に入れてしまって!!)』
(……ふふっ)
相変わらずの激重な心の声と、それに反比例するような絶対零度の無表情。
その落差が愛おしくて、リゼットは先ほどまでの張り詰めた空気も忘れ、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「ええ。大丈夫ですわ、旦那様。……来てくださって、ありがとうございます」
「……そうか」
クラウスは微かに目を伏せ、耳の先をほんのりと赤く染めた。
『(あああっ、俺の妻の笑顔が尊すぎる!! この笑顔を守るためなら神にでも悪魔にでも挑める!! ……よし、まずは目の前のゴミ掃除からだ)』
クラウスが再び王太子たちへ振り返った瞬間、その瞳に宿る殺意が一段と鋭さを増した。
「へ、辺境伯……! いきなり現れて、なんだその態度は!」
アルバートが虚勢を張って声を張り上げた。
「私は王太子だぞ! 貴様が押し付けられたその無能な女は、王城の魔導具に呪いをかけて逃げたのだ! 私はそれを連行しに来ただけだ、文句を言われる筋合いはない!」
「そうだ! 親であるこの私に逆らい、あろうことか法外な請求書を送りつけてくるような恥知らずな娘だ! 閣下もこんな女、さぞお困りであったでしょう!?」
男爵もアルバートに同調して喚き立てる。
クラウスは、彼らの言葉にピクリとも眉を動かさず、ただ静かに腰の剣の柄に手を置いた。
「……おい、お前たち。やれ!」
アルバートが近衛騎士たちに命令を下す。
恐怖で動けずにいた騎士たちだったが、王太子の命令と辺境伯の威圧感との板挟みになり、半狂乱で剣を振り上げ、リゼットとクラウスへ向かって踏み込もうとした。
――チャキッ。
クラウスが、剣を鞘からわずかに一寸だけ引き抜いた。
ただそれだけだった。
刀身が空気に触れた瞬間、クラウスから爆発的な闘気と極寒の魔力が放射状に吹き荒れた。
「ッ!?」
パキィィィィンッッ!!
鋭い破裂音が応接間に響き渡る。
近衛騎士たちが振り上げた剣が、クラウスの放つ圧倒的な冷気と圧力に耐えきれず、まるでガラス細工のように一瞬で粉々に砕け散ったのだ。
「なっ……!?」
「ひぃっ……!」
武器を失った騎士たちは、次々と膝から崩れ落ち、恐怖のあまりその場に平伏した。
戦いにすらなっていない。
刃を交えるまでもなく、格の違いを見せつけられたのだ。リゼットのメンテナンスが行き届いていない脆い王都の量産剣など、最強の竜騎士が放つ闘気の前では木の枝と同義だった。
「俺の領地で、俺の妻に刃を向けたな」
カチャリ、と剣を鞘に納め、クラウスが静かに口を開いた。
その言葉は、もはや怒りというよりも、処刑を宣告する死神のそれだった。
「つ、妻……だと?」
アルバートが震える声で聞き返す。
「そんな無能な女、ただの身代わりの――」
「無能?」
クラウスの瞳が、剣呑に細められた。
「リゼットは俺の命の恩人であり、この辺境の絶対防衛結界を一晩で再構築した、帝国最高の天才魔導具師だ。そして何より、俺が永遠の愛を誓ったただ一人の正妻である」
『(そうだ!! 俺の女神だ!! 宇宙の至宝だ!! 二度と無能と呼んでみろ、貴様らの舌を引き抜いて極寒の海に沈めてやる!!)』
ダダ漏れの熱烈な本音に、リゼットは顔を真っ赤にして両手で口元を覆った。
「その妻を連行するだと? ……王太子。それは、我がレグナルド竜騎士団、ひいては辺境全軍を敵に回し、宣戦布告をしたと受け取っていいのだな?」
「なっ……!?」
アルバートの顔から、完全に血の気が引いた。
辺境軍は、帝国の中でも最強の武力集団だ。彼らがもし反旗を翻せば、魔物の抑えが効かなくなるばかりか、王都の軍事力では到底太刀打ちできない。
たかが一人の令嬢を連れ戻すために、内戦を引き起こす覚悟など、この温室育ちの王太子にあるはずがなかった。
「ま、待て……! そういうつもりでは……!」
「お父様ぁ! もう嫌っ! 怖いぃぃ!」
ミリアナは完全に腰を抜かし、絨毯の上でボロボロと涙をこぼして泣き喚いている。
男爵に至っては、恐怖のあまり失禁し、ガタガタと震えながら床に這いつくばっていた。
そこへ、応接間の扉が開き、分厚い書類の束を抱えた副団長が冷ややかな顔で入ってきた。
「閣下。王都の商業ギルドおよびゴルドスマイル銀行との手続き、すべて完了いたしました」
副団長は、震える男爵の目の前に、ドンッ! と書類の束を叩き落とした。
「オズワルド男爵。あなたの全口座の凍結、および当家が買い取ったあなた方のすべての債権の譲渡証明書です。……お嬢様への未払い賃金と特許侵害料、金貨五千枚。加えて今回の『不法侵入』および『辺境伯夫人への襲撃未遂』の慰謝料として金貨二千枚。合計、金貨七千枚を一括で三日後にお支払いいただきます」
「な、なな、七千……!?」
男爵は白目を剥いた。
男爵家の全財産を売り払っても、到底届かない金額だ。
「支払えなければ、法に則り、男爵家の領地、屋敷、そして身ぐるみすべてを差し押さえます。……もうあなた方に逃げ道はありませんよ」
副団長が冷酷に言い渡すと、男爵は「あ、あばば……」と意味不明なうめき声を上げて、ついにその場で気絶してしまった。
「さあ、用が済んだらとっとと失せろ。俺の視界をこれ以上汚すな」
クラウスが虫を払うように冷たく言い放つと、近衛騎士たちは気絶した男爵と泣き叫ぶミリアナを慌てて引きずり起こした。
「お、覚えておれ……! こんな暴挙、父上が黙ってはいないぞ!」
アルバートが最後に負け惜しみを叫んだが、クラウスは鼻で笑った。
「好きにしろ。王室が文句を言うなら、北の防壁を三日ほど開け放ち、魔物の大群を王都へ『観光』に向かわせてやると陛下に伝えておけ」
「ヒィッ……!!」
ついに完全に心が折れたアルバートは、騎士たちと共に逃げるように応接間から転がり出ていった。
馬車が慌ただしく辺境伯邸から逃走していく音が響き、やがて、応接間には静寂が戻った。
最大のストレス源であった過去の亡霊たちは、辺境の圧倒的な武力と財力、そして法的包囲網の前に、手も足も出ずに完全粉砕されたのだ。
王都へ戻った彼らを待っているのは、魔導具が完全に機能停止したサウナのような王城での責任追及と、全財産を没収される地獄の没落生活だけである。
「……終わったな」
クラウスが深く息を吐き出し、張り詰めていた殺気を解いた。
「大丈夫だったか、リゼット。怖い思いをさせてすまなかった」
彼はリゼットを振り返り、不器用な手つきで彼女の肩をそっと抱き寄せた。
『(あああああ!! あんなゴミ共の言葉、リゼット様の耳に入れることすら汚らわしいのに! もっと早く駆けつけたかった! 俺の妻は俺が絶対に守る!! 頼むから嫌いにならないでくれぇ!!)』
相変わらずの激甘な心の声に、リゼットは肩の力を抜き、彼のがっしりとした胸にコツンとおでこをぶつけた。
「いいえ。……旦那様が守ってくださったから、全然怖くありませんでした。ありがとうございます」
リゼットが心からの感謝を込めて見上げると、クラウスの黄金の瞳が大きく見開かれ、そして、ゆっくりと優しげな光を帯びていった。
二人の間の障害は、これで完全に消え去った。
あとはただ、この不器用で優しすぎる彼との「本当の絆」を結ぶだけだ。
リゼットの胸の奥で、確かな決意と、彼への愛おしさが静かに、けれど熱く燃え上がっていた。
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