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五話・過少と過多

「……君は何を言っているんだ」


「言葉通りの意味ですから」


 動揺する俺に、彼女はやはり笑いながら、少し困ったようにそういった。──まるで聞き分けのない弟に、優しく言い聞かせる姉のように。


「GYAAAAARUUUUU…!」


 眺め飽きたか、思いどおりの表情を浮かべぬ彼女に痺れを切らしたか、ボブゴブリンが大斧を振りかぶり、俺たちへの接近を開始する。


「シンイチさん、早く逃げて!」


「……逃げるなら、二人でだろう」


 こんな少女を置いて逃げて良いわけがない。第一、逃げられるはずもない。だがこのままなにも出来ないまま、死にたくもない。


 せめて、抗うんだ。それ以外はなにもない。


 そのように決意した、俺の目の前を。


 鉄の塊のような大斧が、頬を裂くような風と共に飛来し、鈍く重い音を立てて地を割った。


 投げ飛ばした、のではない。斧の柄はしっかりと暗い緑色の豪腕に握られて、その巨体が目の前に肉薄する。


 ……まだボブゴブリンとの距離は空いていたはずだ。生物としての格の違いを思い知るには十分な、あまりにも絶望的な能力の差。


 当たらなかったのは、幸運か。答えは否。


 見上げると、ボブゴブリンの瞳と視線が絡んだ。


 その眼を俺は知っている。


 何人もの同僚、何人もの上司が俺に向けていた眼と同じもの。自分よりも格下の人間だけに差し向ける嘲りの意志。


 そしてこの怪物が行おうとしている行為は、現代社会にあった人間のそれを上回るだろう。俺がそれまでに経験したことのない、直接的な暴力がその感情を満たしていくのだろう。脅し、痛め付け、存分に愉税を味わい、その上で殺すのだという疑いようのない悪意がそこにあった。


 人間から奪ったのであろう、血という血を吸い尽くした斧から、つんとした鉄の匂いが鼻を刺す。ぬらぬらとした血から僅かに覗く黒鉄の冷たさが、触れずとも自分の全身に鈍く、暗く、覆い被さってくる。




 奇妙な、乾いた笑いが耳に響いた。




どこかで聞いたものだと思った。ゴブリンが笑ったのだと思い、それが自分の笑い声であることに一瞬遅れて気が付いた。


 そうではないか。


 このゴブリンの眼差しが、この鉄の冷たさが、お前の人生の全てではないか。


 少女を置いて逃げて良いわけがない、などと、一体何を勘違いしていたというのだろう。お前に何が出来るわけもないのに。


 逃げてくださいと、少女はそう言った。


 そうだ、彼女だってそう言っているではないか。逃げてしまえばいい。それが最適解だ。それだけが答えなのだ。無力で、無能で、落ちこぼれのお前にそれ以外の何があるというのだろう。無能に誇りやなんかしがの矜持なんてものは持つ資格はない。そんなものはいらない。必要がない。何もかもがどうでも良い。逃げて、逃げて、クズのように生きていればいい。今までと同じように。


 そう決断した俺の脚は、不自然なほどに、軽やかに動いた。


 ゴブリンの瞳も、少女の顔も、何もかもが見えなかった。見なかった。ただ駆け出した。さっき逃げたのと同じことだ。ただそれだけをすれば良いのだと思った。もう何も考えなくて良かった。


 土を踏む行く感覚だけが続いていく、その時に、少女の声が耳に響いた。短く、それでいて明瞭な、何事かを祈り唱えるがごとく一筋の音色が。


 《初級炎魔法(フレイム)


 ──世界が、光った。


 刹那の間、視界全てが眩い白に包まれた。


 次いで、爆発的な轟音と共に、全身が焼けてしまうのではないかと、そう感じるほどの熱風が吹き抜けていく。


 思わず振り向けば、そこには業火が踊っていた。


 大地が、森が、溢れんばかりの炎に覆われ、一切が焼け焦げていく。


 何が起きたというのか。俺は立ち尽くして、燃え盛る炎を唖然と眺めるばかりだった。


 炎はやがて、焦土と化した景色だけを残して去っていく。


 そこにゴブリンはいなかった。


 というよりは、何も残ってはいなかった。


 ただ一人、倒れ付した少女だけを除いては。


 俺は駆けていた。つい先ほどとは逆向きに。


 走りながら、自分の醜さも脳裏を過っていた。


 だが、考えるよりも先に身体が動いたのだ。


 俺は倒れ伏す少女を抱え起こした。


「…………!」


 惨状、という他にない。白に近かった肌は焼けて赤黒く爛れ、短く繰り返される呼吸は彼女の状態がいかに危険であるかを明確に示していた。


 だが……死んでは、いない。


「おい……大丈夫か! おい……!」


 返事はない。意識を失っているのか。どうすれば良い。自分に医療の知識はない。ましてや魔法で傷を癒すなど、出来るはずもない。街まで連れて帰るしかない。


「ふ……ッ!」


 彼女を背負い、俺は歩き出す。ここから街までの距離はそう遠くはない。だが間に合うのか。手遅れではないのか。こうして歩いている間にもう、彼女は事切れてしまうのではないか。


 そんなことが、あってたまるものか。


 あの炎はきっと、彼女の魔法なのだ。彼女は俺を助けてくれたのだ。自分の身を犠牲にまでして、どうしようもないこの俺を。だったらこれくらいのことはすべきだ。難しいことではない。ただ歩くだけのことだ。それすら出来ないならば、俺に生きている資格もない。


 生きてくれ。間に合ってくれ。そうしてどんなことがあろうとも、必ずこの恩を返したい。

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