四話・闘争と逃走
「う……おおおおおおッ!」
俺には、何もない。戦術も、剣術も、魔法も、強力な膂力もだ。
故にその一突きは、少女に飛び掛からんとするゴブリンに対し、工夫も考えも何もなく、ただ己の精一杯の力を持ってナイフを前に出したに過ぎない。
「GYA…………」
よって、その短い刃がゴブリンの喉笛を突いたのは幸運という他はない。血を吹き出しながら細い呻き声を上げ、肢体はダラリと力を失ってこんぼうが無骨な落下音を奏でる。次いで重力の意のままとなった亡骸が、ズルリとナイフから抜け落ちて地に果てた。
「…………やった、のか?」
己の行為に、いまいち実感がないままに、血濡れになった手とナイフとを見やった。
だが、現実は常に、自分の意識などという矮小なものを置き去りにしていくのだ。
「……まだ、です……!」
少女の切迫した声に、意識は無理矢理に周囲へと引き戻される。
「「「GYAAAAAAAAAAAA!!」」」
視界に入るは、ゴブリンの群れ。それも三匹や四匹ではない。降り注ぐ眼差しは、殺意を映し出すようにギラギラと光っている。ゾッと全身に冷や汗が吹き出ているのを感じた。あんなにも無数の怪物が、自分たちの命を奪おうとしているのだ。
これではもう、幸運などというものには頼れそうもない。それでも先ほどよりもマシなのは、まだ距離が空いているということだ。
「逃げるぞッ!」
「はい……ッ!」
雄叫びを上げ、醜悪に笑う者どもを背にして俺たちは走り出す。目元に垂れる汗を拭いながら。早鐘を打つ心臓に落ち着けと呼び掛けながら。
幸い、街への方向は開いている。それに、ゴブリンの身体能力は子供並みであるはずだ。このまま走れば俺が追い付かれることはない。
あくまで俺はだが、と横の少女を見やった。
彼女もまた、危機的な状況に対して表情を固く引き締めている。しかし、ただ今危惧したような息切れや疲労の兆候は見られない。
「……大丈夫です。ゴブリンも途中で諦めるはずです。このまま振り切りましょう!」
「……ああ」
ともすればパニックでも起こしていないか、などと考えていたものだが。全く、無用な心配だった。少なくとも俺よりも冷静そうにすら見える。
そうだ、彼女とて危険に身を委ねる冒険者なのだ。か弱い少女などではない。このような状況から逃れられるだけの気概と強さがひしひしと感じられた。無論それは、ゴブリンたちを打ち倒せるという強さではないにしても。
戦うか、逃げるか。そのどちらかでも選べたならば、全てを諦めるよりはよほど強い。
とかく、なにも問題はない。逃げて、逃げて、生き延びよう。それが今の俺に出来る最大限のことなのだから。
踏んだ小枝がパキリと音を鳴らす。驚いた小鳥が素早く空へと飛び上がる。走る。走る。走り続ける。走る以外のことなど、もはや考える余地もなかった。
そうしてやがて森を抜け、生い茂る木々という障害を失った視野が青空を捉え──。
──瞬間、俺は心臓でも止まってしまったのではないかという衝撃に見舞われた。
青空の下に広がるその平野に、何者かが座している。
それは一瞬、苔むした巨岩のようにも見えた。だかそうではない。そうであったならば、どれほど良かったことだろう。
それは生物だ。それは嗤っていた。それは立ち上がった。血に濡れた大斧を杖として。
体表はゴブリンのそれと変わらない。獣の眼も、曲がった鼻も、牙も涎も。
唯一異なるのは、その体躯。
俺の三倍以上の身の丈はあるであろうそれは、もはやちょっとした建物にも近しい。膨れ上がった胴体に繋がるは、隆々とした二つの豪腕、身体を支える両脚は強固な柱を思わせる。
魔物や冒険者の蔓延るこの世にあって、脆弱な他のゴブリンたちが死んでいく中、彼らと同じ道を辿ることなく生き延び、成長し、やがて種族を率いるまでに至ったゴブリンの首領。
「ボ、……ボブゴブリン……」
少女がその魔物の呼び名を漏らす。
存在を知らなかったわけではない。だが想定はしていなかった。
ボブゴブリンが森の奥地から出てくることはそうそうないとマニュアルには書かれていた。長く生きたゴブリンの長として、数多の仲間を殺してきた人間というものを知っているからだ。まだ若いゴブリンたちと違い、街に近づく理由を首領は持たない。
それでも可能性がゼロというわけではないのだろう。飢えた熊が人里に降りてくるのと同じように。俺たちは運悪く、そのようなタイミングにかち合ったということなのか。
──否。
ボブゴブリンは立ち上がったまま、その場から動こうとはしなかった。ただニヤニヤと嗤いながら、舐め回すように俺たちを見ているだけだ。笑みに悪意を滲ませて、愚かしい人間の怯える姿を楽しもうとするかのように。それは少なくとも、空腹に狂うがままに人を襲う熊のそれとは全く異なる。
おそらく奴は最初から、俺たちをここへ誘い込み、挟み込もうとしていたのだろう。ゴブリンは連携を是とする集団性の生き物だ。ともすれば、どこかの時点で付けられていたのかもしれない。
「クソ、どうすれば……」
前方にはボブゴブリン。後方からはゴブリンの群れが迫ってきている。横に抜け出せば、ゴブリンから逃げることは可能だろう。だが、ボブゴブリンは? あのような強靭な生物から、人の脚で逃げ切れるとは到底思えない。血に刃の鈍ったナイフ一本で切り抜けるなど、考えるまでもなく不可能だ。
……なら。
俺はここで……終わりなのか?
一度死に、異世界というやり直しの機会が降ってきてなお、俺は何事も成せることなくただ無為に命を散らすだけだというのか。俺という人間はそれほどまでに、どうしようもなく無能でしかなかったというのか。
そんなのは嫌だ。何かないのか。この場を切り抜ける何かは……。
「あの、……貴方の、お名前は……?」
思い付く案もないまま虚しい空回りを続ける脳に、少女の声が通り抜ける。
俺の、名前。俺ごときの名前。
そんなものを今聞かれる理由が、まるで分からなかった。そんなものに一体、なんの意味があるのか。それどころではないはずだろうと思った。それでも、答えを導き出せぬ絶望的な思考から、答えの明確なその問い掛けへと逃げ行くように俺の口が開いていた。
「新一……」
「シンイチさん」
変わった名前ですね、と彼女ははにかむ。
なにかがおかしい、とようやく俺は気付く。
なぜ、彼女は笑っているのだろう。そうして彼女の声は震えもせず絶望の念も感じられはしなかった。それどころか、地に己を支えて咲き誇る桜のような、揺らぐことなき穏やかな声音が響いてきた。
「シンイチさん。スープ、美味しかったです。本当にありがとうございました」
彼女は俺に正面から向き直り、再び深く頭を下げる。
「……今は、それどころじゃ……」
一度心の内に揺蕩ったその言葉を口にした俺に、彼女は何事でもないかのように、そうして一切の躊躇いなく言い放ったのだった。
「この場は私がなんとかします。シンイチさんは逃げてください」




