二十六話・B.End
気が付くと、俺は夜の駅のホームに立っていた。
目の前に電車が止まり、扉が開く。それが当たり前のことなのだというように。どこか、頭がぼんやりしている。人々が車内に進んでいく。自動的な動作のように。それに続いて、俺は何も考えることなく電車に乗り込み、混雑の中なんとか吊り革を掴む。
酒に酔った大声の会話が飛び交い、無心にスマホを見詰めたり、席でぐったりと眠り込み。そんな人々で溢れる見慣れた終電の車内だ。懐かしむものでもない。
……懐かしい?
なぜ、そんな言葉が出てくるというのだろう。いつも通りのことだろうに。何か、違和感がある。何なのかは分からない。頭が霧がかっている感じがする。どうかしているのか。いや、俺がどうかしているのも、いつも通りのことか。
車内が揺れ、時々隣の人の鞄や腕や背中が当たる。停車して、発車する。それらを繰り返す。次第に人は減っていく。空いた席に、俺は座り込む。
正面に車窓が並んでいる。当然のことながら暗く、ほとんどなにも見えない。街灯や家などの、なんらかの光が尾を引いて通り過ぎ、間を置かず現れてはまた通り過ぎる。あらかじめコピーされたかのように、何度も何度も。
…………ここは…………。
不意に、海面へ浮上するような、意識の目覚めが湧き上がる。それが俺に明確な、一つの認識をもたらした。
──そうだ。ここは、俺の元いた世界だ。
「……フラウッ!?」
思わず立ち上がり、彼女の名を呼ぶ。
まばらな周囲の人間が、俺の方を見ていた。すみませんと、情けない細い声を出して腰を下ろす。俺は何をやっているのだ。ここに彼女はいない。いるわけもない。
彼女は……フラウは、そうだ、おそらくミルの攻撃によって、俺と共に…………。
俺はなぜここにいる?
戻らねば。あの異世界に戻って、彼女を守らねば。どうすれば、良い? どうすれば、行ける? もう一度死ねば戻れるのか? いやそんな保証はない。しかしそれしか……いや、俺が……俺は……。
…………死んだ後、俺は異世界に飛んだ。そして、もし……もし、もう一度死んで再びこの元の世界へと飛んだのであれば、ミルの攻撃は既に放たれた後に違いないのだ。
そうであるならば。
フラウは既に……死んでいる?
意味が分からない、馬鹿げてる、という叫びたくなるような衝動と、現状を思えばそうとしか考えられない、という冷えた理性が入り交じる。心臓の鼓動が、歪なほど激しい。力の入らない身体を、呻きながら、無理やり擦り付けるように座席に支えた。
そうなのか。俺はまた、何も出来なかったのか。彼女を守れなかったのか。あの時の自分は、決して無力ではなかったはずだ。それなのに、それでもなお、無能はどこまでも無能でしかないというのか。それこそが俺の運命であり、どうあがいても動かしようがない定めであるというのか。嫌だ、そんなのは馬鹿げてる。何かあるはずだ。何か出来るはずだ。何か、あったって良いじゃないか。彼女は俺とは、違うのだから……。
考えて、考えて、考えて…………思い付いたものはもう、可能性などと名付けるのもおこがましい、ただ自分を慰めるだけの虚構でしかないのだと、重くなった頭の隅に潜む冷淡な声が俺に告げる。今ここだけが、お前のいるどうしようもない現実であるのだと。
不定形に粘ついて離れない、暗い感情が自分を圧倒し、俺は何も考えられなくなり、動けなくなり、もはや自分では抗いようがない、何か大きなものにされるがままにされるように、揺れる電車の震動に身を任せ続けた。
・
『次は──駅、──駅に止まります。お客様にお願いいたします……』
ふと耳に入ったアナウンスが、俺の住居の地名を告げていた。
降りる必要などないのではないか、そんな考えが頭を過る。だが、もう、遅いのだろう。本当に全てを棄てた人間なら降りないという発想そのものすら、多分湧かない。思考は息の根を止めて、どんなことだって出来るかもしれない。
そうなっていない自分にも、もはや何も感じなかった。降りるか、降りないか、そんな二択の堂々巡りも煩わしかったから、俺は席を立ち、扉前のつり革を前のめりに掴んだ。
停車して、扉が開き、ホームに出て、階段を歩き、改札を通る。道を歩く。灰色の世界に迷い込んだかのように、ただ無機質に、無感情に、帰路を辿る。安い家賃のアパートに辿り着き、鍵も掛けていないドアを開く。部屋に入る。
電気を点けないまま、俺は部屋にぼんやりと立っている。家に帰ってきた。何もない。俺の部屋であるここには何もない。当たり前のことだ。
何をするのか、と考えて、今は深夜で、明日は会社に行く必要があるのだと思い、布団に倒れ込んだ。だが、眠れそうにない。頭が重く、酷く疲れを感じているが、奇妙に意識が覚醒しているということが分かる。布団の感触が煩わしく、何度か身体を捩らせて、衝動的に起き上がり電気を付けた。
狭いワンルームの中で、俺の目に入ったものは、片隅にある小さな本棚だった。
もう何年も、触れていなかった。新しい本を入れることも、単に取り出すこともなかった。こうして目に止まることすらも、久しぶりのことかもしれない。本の手前に覗く小さな木目は埃を被っている。並んだ本の何冊かには『異世界』というタイトルが付いている。
…………異世界か。
夢や妄想でなければ、俺は確かに異世界に行っていた。今はぼやけて霞んでいる、それでも心の奥に蠢く黒い感情がその証拠になるだろう。
俺が得たものはそれだけだ。他は、ない。異世界にまで行って、それでこの有り様なのが俺という人間なのだ。
本の中の物語であれば、こうはならないだろう。チート能力を得て、無双して、人々から賞賛され、友や仲間にも恵まれて。そうして、理想の人生を堪能していくのだろう。
あるいは……俺は一度異世界に行った身だ。もう一度死ねば、俺は今度こそそうした理想の異世界に行けるのかもしれない。
「不毛な考えだ。そんなものは理想じゃない」
きっとそこに、フラウがいるわけではない。俺は彼女を守ることが出来なかったし、彼女はもう、どこにだっていない。どのような手段を用いても、自分の理想は実現しようがないものになってしまったのだと、俺はそう思った。
それは文字通りの、完全なる非現実で、存在しない空想でしかない。
「……。ここにあるものは皆そうか」
本棚に並ぶ物語たちを眺めながら、俺は独りごちる。
言葉を用いてこの世あらざる世界を作った人々は、何を思ってそうしたのだろう。そんなことが、分かる訳はない。読む側の気持ちですら、今の俺は思い出すことが出来ない。
だが、もしかしたら。
自分の手には届かない理想を、それがどれだけ無駄な行為であろうとも、なにかしらの形にしたかったのかもしれない。
「……馬鹿なことを考えているな、俺は」
自嘲を無理やり笑みの形にしながら、俺は一冊のノートを手に取った。仕事のメモが並んだページを捲っていき、やがてそこに白紙のページが現れて、一文、殴り書きをした。
『俺はただ、自分の力で人生を生きたかった』




