二十五話・確認済
今日は想定外のことばかりだと、ミルは思った。
確実に二人の息の根を止めようとした二つの触手……それが今、展開された防御魔法によって止められていた。
それが誰の手によるものか、考えるまでもない。いつの間に来たのやら、少女の横に身を屈める、封じたと思っていた一人の男の仕業なのだと。
「……シンイチ、さん……?」
「遅くなってすまない、フラウ。……後は任せろ」
新一は立ち上がってフラウに背を向け、ミルに向き合う。届かぬ祈り手を纏う、無数に蠢く黒き触手。その冒涜的な姿は、目撃した人間を狂気に陥れる邪神の似姿だ。
『邪神の化身、か。フハハハッ! 実に下らん。我輩に精神的恐慌をもたらすなど出来るはずもない』
「頭がクラクラするが……まあ、生きたまま全身を細切れにされるよりはマシだな」
なぜ新一がここにいるのかと、ミルは一瞬だけ考え、そしてその思考は消え失せた。彼にこの状況を覆す力があるという想像が、欠片たりとも出来なかったのだから。
「……男前になったものだね、新一君。けれど君が私に勝てると?」
『その御託も下らん。シンイチ、撃て』
ブラーゼの言葉と共に、体内に満ち満ちていく力の流れ──これが魔力というものであるのだと、今の新一には分かる。
「う……おおおおおおッ!!」
それを両の掌に集約させ、声に確かな気迫を乗せて、ミルに向かって撃ち放つ。
その高速かつ強大な魔力の奔流に、ミルは驚愕する。
「速──」
青みを帯びた銀色に輝く巨大なエネルギーの塊が、想像を絶する閃光と暴風を放ちながら、ミルを、その巨大な異形の全てを余すことなく呑み込み、周囲一帯ごと消し飛ばしていった。
「……なんて威力だ……あんな化け物が一撃で……」
呆然とするのは、魔力を放った当人である新一であった。
『それだけではないぞ、シンイチ……布石は既に打ってあると言ったはずだ』
ブラーゼが新一に呼び掛ける。
『シンイチの中に宿った時、我輩はいきなり全魔力をミルとやらに見せるような真似はしなかった。そして非常にゆっくり……ゆっくりと貴様を再生させて見せたのだ。そうした裏工作によって奴はまんまと我輩の力を見誤り、あの程度の封印で我々を封じたと思い上がった。そして今もまた奴は油断したまま、想定外の魔力に不意を打たれ死に至ったのだ』
「……ブラーゼ……アンタは一体、何者なんだ……?」
『何者か、だと? 語るほどのものはないな。…………我輩はただの泡だよ、シンイチ……』
「…………そうか」
新一は多くを語らないブラーゼに頷き、そうして必要なことを口にする。
「奴は……ミルは死んだのか?」
『仕留め損ないの心配はいらん。奴の全ては消し去った。魔力の反応もない。貴様は成すべきことを成したぞ』
「……分かった。ありがとう」
そうして新一は、彼女の方へと向き合った。
「……大丈夫か、フラウ」
まだ邪神の影響は残っているのだろう。フラウは立ち上がろうとしてふらりとよろめき、その肩を新一が支えた。
「……なんとか。……私、シンイチさんに助けてもらってばかりですね……」
弱々しい声ではあったが、その表情には安堵の笑みが零れている。それを見て新一もまた、己の心が暖かく緩むのを感じていた。他者に安心感をもたらして、その様子を見た自分もまた安らぎに満ちている。こんなことは初めてのことだった。
そうだ。このために、彼女のために、新一は戦ったのだ。どうしようもない無能である自分を、命を賭して助けてくれた彼女のために。
「そんなことはない。君がいなければ俺はきっと、ミルと戦う覚悟なんて持てなかった」
なにせ自分だけとなれば、戦う理由が見出だせない。例えブラーゼに何をされたところで、立ち上がれる想像が全く出来ないのだから。
「……だからなんというか、貸し借りとかはナシだ。おあいこだな」
・
ほんの一瞬前。消えていく自分を感じながら、ミルはぼんやりとした思考に身を任せていた。
──結局私は、私の人生に何をも見出だすことが叶わなかった。
物心ついた時には、ミルは自分が人々とどこか違うことに気付いていた。
私は『異物』だ。自分と他の人間との間には、埋めようのない断絶が存在しているのだと。故郷を出て、様々な人間と出会ってなお、燻るようなその想いはなくなることがなかった。
彼らと私とは、違う。別の生き物だ。それをどうして、同じ存在だと考えることが出来るのだろう。
自分とは違う、理解しがたき人々の、幸福や喜びの表情が脳裏を過る。
個人に特有の『何か』が、人の心を満たすことは理解している。
魔法で、金で、表情で、自分がそれを他者に与えられることをも理解している。
……では、私自身は?
この世界はさながら牢獄だ。こののっぺりと広がる檻の中で、自分のことを知る人間など、どこにもいなかった。自分自身ですらも、自分のことが分からない。何もかもが、何もかもが理解することが出来ない。
己の抱き続けたこの飢えをどのようにして満たすことが出来るのか、知りたいことはそれだけで。
ただそれだけのことを知り得ないまま死んでいくことだけが、分かった。
不意に、声が聞こえた。
それは触手に宿る、意思と呼ぶには穢らわしくて、心と呼ぶにはあまりにも歪な、冷たく、邪悪で、そして狂気的な……。
人を、世界を、全てを嘲笑う者。
……触手が、ミルに問うた。『君は何が欲しいのか』と。
…………欲しい。
欲しい。この飢えを満たすものが、欲しい。まだ、私は足りていない。何もかもが足りていない。まだ足りない、まだ足りない、まだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りない。まだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りないまだ足りない、まだ──。
『なんて素晴らしい! ならば探し続ければ良い。君が求めているものを。この世界が滅びる時まで。何もシンパイしなくて良い。私が君を生かしてあげよう。さあ。目覚めなさい。殺しなさい。探しなさい。永久の果てまでも。そうして──
『私を
楽しま
せなさい』』
・
『馬鹿な……馬鹿げているぞ! シンイチ! シンイチ!』
突如、焦燥を覚えたブラーゼの怒声が新一の心中に響く。
「な、なんだ、どうし……」
『見上げて備えろシンイチ! 早く──』
その上空にあるは、先ほど討ったはずの、届かない祈りを膿む黒き触手の集合体。そうして新一たちに向けて数十本の触手が銃身のように束ねられ、既にそこから魔法を放つ体制が完了していて──打ち出された。
新一が何事かを言う前に、為す前に、視野は光に押し潰されて。その光の中を通るように、ミルの声が響いた。
「私は君の人生の全てを見た。失敗以外には何もない、その人生を。今回の失敗は、そう。君は私が死んだのだと、そう思い込んでしまったね。──確認不足だ。これは責任問題だよ、君。なんてね。
──さようなら、新一君」




