二十四話・届かない祈りと決意
フラウとアリアは、周囲一体を覆っていた砂埃から姿を現す、かつてミルという人間であったそれを見てしまった。
千と万と蠢く、ドス黒く巨大な、名状しがたいおぞましき触手の集合体を。
その触手の一つ一つから、無数の人の手のようなものが生え生まれては、腐り溶けるように消えていく。それらの手は痙攣するように酷く震えながらも互いを求め、近付こうとし、まるで祈りを捧げようとするように、曲げた五指を合わさんとする。だが無限にあるほどのそれらの手がもう一つに辿り着くことは決してない。消えていく。また生まれる。近付こうと手を伸ばし、また消えていく。
己の宿ったミルの肉体を内側から引き裂き、這いずり生まれたそれは化身だ。旧支配者と呼ばれ、邪神と呼ばれ、這い寄る混沌と呼ばれた無貌なる者の似姿。
「アアアア──アアアアアアア──アアア──」
「……はっ……はっ……ッ!」
その冒涜的な邪神は原始的な恐怖心を強く振るい起こし、目撃した人間の心から正気を奪い去っていく。アリアは胎児のようにうずくまり、断続的な金切り声を上げている。フラウは狂気的恐慌こそ起こさなかったが、荒い呼吸を短く繰り返しながら膝を突き、混濁した意識の中で、混沌なる者をただ見上げることしか出来ないでいた。
──私の意識は、まだ残っている。運が、良い。これで…………勝ちだ。
混沌なる者から二筋の触手が振るい立ち、伸び上がり、そうして空を裂きながら、フラウとアリアへと目掛けていった。
・
『……きろ』
『起きろ』
『起きろ、シンイチ』
誰かの声が聞こえる。聞いたことのない、誰かの声が。俺の名を、呼んでいる? ……誰が……?
『ようやく目覚めたか。我輩は貴様の中に入れられた者だ。ミルとやらの手によってな』
入れられたもの。確かミルは、もう一つの魂を俺に入れると言っていた。それがこの声のものなのだろうか。
『そういうことだ。さて、無駄話をしている暇はないぞ? どうやら貴様にとって一刻を争う事態になっているようだからな』
突如脳内に、映像が浮かぶ。
うずくまっているアリア。膝を突くフラウ。そして……なんだ、この化け物は……?
『それがミルだ。このままでは二人は殺されてしまうというわけだ。さあ、そうなる前に奴を倒すが良い』
……無理だ。
『ほほう! なぜだ?』
俺にそんなことが、出来るわけがない。人を守れるような力なんて何もないんだ。
『何も問題はない。力ならば貸してやる。既に布石は打ってあるのだからな。それに、我輩を捕らえていたミルとやらに罰を与える必要もある。後はシンイチ、貴様のやる気次第だが…………なるほど、元来貴様の心は閉ざされているようだ。ならば抉じ開けてやろう』
また別の映像が浮かぶ。そこには俺の知らない無数の人たちがいた。
誰かが誰かに、感謝をしていた。
誰かが、誰かと冒険を共にする仲間になった。
共に目標を叶え、その喜びを仲間たちと分かち合っていた。
あるいは、家族。あるいは、友人。様々な人々の、様々な幸せの記憶。感情。想い。
──そしてその想いが、俺の中にも流れ込んでいく。そして想いは、俺の記憶と繋がっていく。
フラウにスープを分け与え、そのことに彼女が感謝をしていたことを思い出した。
……心が、暖かい。そうか、感謝をされるということは、これほど暖かく心を緩ませるものなのか。そして感謝の念を抱く人間の心は、これほど潤い満たされているものなのか。
そうして、俺とフラウがパーティーを組み、共に日々を過ごしたことを思い出す。
人の仲間になること、人と共に在ること。それはこれほど喜ばしく、安心感を覚え。そしてなによりも満たされるものだったのか。
そうだ、俺は自覚していなかったのだ。孤独に覆われた自分が、飢えているということに。そうして今になって俺は満ち足りている自分の心を感じた。それはもしかしたら、フラウも……。
──シンイチさんに着いていきたいので。
あの時、あの言葉は、単に魔法使いとしての、ミルに対する興味関心であるのだろうと俺は思った。
そして彼女がアリアに弟子入りをして、それで俺自身は用済みなのだと思っていた。
だが思い上がりでなければ──それは単に、言葉通りの意味だったのだ。もしフラウが俺と一緒にいて、心が満たされていたのであれば、共に在りたいと思うのは、至極当たり前のことだ。
俺と、共に。そんな人間が、今までの俺の人生の中にいたはずもない。
その上で俺は彼女を見捨てるのか? 自分には無理だと。出来るはずがないのだと。
俺はどうしようもない、否定する余地もない無能な人間だ。
お前はどうせ失敗する。何も出来ない。下らない想いに走るな。ゴミはゴミだ。何かが出来るはずもない。そんな言葉はいくらでも浮かんでくる。
知ったことか。
知ったことかよ。
出来るとか出来ないとか、そんなことは関係がない。やるんだよ。フラウを殺されてなるものか。やるんだ。必ず俺が、助けるんだ。
『どうやら心の火は付いたようだな、シンイチ』
もう一つの魂が、そう俺に言った。
「アンタのおかげでな。……アンタじゃ悪いな。名前を教えてくれないか?」
『ふむ、名などどうでもいいが。そうだな、ブラーゼとでも呼ぶがいい』
「そうか。ありがとう、ブラーゼ」
『うむ。では行くぞシンイチ』
・
気が付けば、バラバラになっていたはずの俺の肉体は傷一つない五体へと戻っていた。
そうして、不思議な感覚を自分の中に感じていた。第六感とでもいうような、五感の外側にある感覚を。これが魔力というものなのだろう。部屋の外にある、三つの存在を確かに俺は捉えている。ミル、アリア、フラウ。
「今行く、フラウ。そして……」
そして必ず、君を助ける。
決意の言葉を胸に秘め、俺は宙を飛び立った。




