二十一話・手段と目的
時間、というものがもはやどれだけの歩みを歩んだのか、それは分からない。酷く永い時が過ぎたようにも思うし、つい一瞬しか経っていないようにも思う。ともあれ時は、痛みの中を通り過ぎるように過ぎていった気がした。
もっとも防衛反応なのか、痛覚が麻痺してしまったのかのように、その痛みを感じることは今はない。それでも時折思い出したように、甦るように、身体の中を狂い踊るように、痛みという言葉が果たして正しいのかも分からないような、激痛、という言葉が正しいのかも分からないような負の感覚が身体とも言えぬ身体の中を駆け巡った。
身体、というものがどういうことになっているのかが、もはや自分でもよく分からないとは思うのだが。
ミルの言った通り、俺の身体は何度でも再生した。そうして再生する度に、それ以前の状態に戻すために、あるいはもっと酷い状態にするように、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度、も、バラバラに、裂かれていく。
手を、指を、足を、腹を、胸を、顔を。
今、俺の目の前には、俺自身の、どこのどれとも分からぬ無数の肉片が飛び散っている。
そうして、眼球のない、血塗れの、花のようにぱっくりと頭蓋の開いた、俺の顔であろうそれが横たわっている。口がパクパクと動いていた。まるで金魚みたいだな、と他人事みたいに俺は思う。
俺は何かを喋ろうとしているのだろうか。何を喋ろうと言うのだろう。自分でもそれがなんなのか、よく分からない。別に、言葉を吐こうとしているわけではないのかもしれない。ただ何かを叫ぼうとして、叫ぶことすらも出来ずに、何の意味も持たず、声のない声を呟いているだけなのかもしれない。
ふと、扉の開く音がした。遠くからそれは聞こえた。俺の耳は今、どこにあるのだろうと思った。
扉から、ミルが現れた。彼女は懐からタバコとマッチを取り出して着火した。一吸いし、ふぅ、と彼女の口から煙が漏れ出していく。
──君は、本当に、素晴らしい。
ああ、肉体のことではないよ。君の身体をずいぶん検めさせてもらったが、それ自体はどうやらただの人間のものみたいだからね。
問題は、そこじゃない。
君の魂の、とりわけ記憶の解析が今日終わったんだ。私は驚いたよ。どうやら今日は興奮で眠れそうにないね……。
異世界。
……分かるだろう? 本当に凄いことだ。文化、技術、歴史、時、空間、世界。君はこことは違う、完全に時空を隔たれた、全く別の世界からやってきたのだね……。そんなものがあるとは、完全に盲点だったよ……。
語りながら、ミルは歩き、俺の視野の中でその大きさを増していく。
──けれども嗚呼哀しいかな。君は自分も知らない内に世界の境界線を潜り抜けただけのことで、肝心の世界間の仕組み自体は知らないみたいだ。
幼子が英雄の物語を聞くように、ただ架空のお話程度の知識しか持ち合わせがない。君の所属する社会がどうであれ、君の世界は大まかに安全で、便利で、星々のことさえも知っているというのに、他世界のことなどは知るよしがない。
ああ、誤解しないで欲しい、私は別にがっかりしているわけじゃない。むしろ嬉しいの。そう、きっと嬉しいんだ。自分の見識が広がった。『君のお陰』で。新しい可能性が、そこにはある。異世界のことについては自分自身で模索を試みてみるよ。
ただ、君からその手掛かりを得ることは出来なさそうだ。
君とは……今日で、お別れだね。
だから、というわけではないけれど。……私は今、とても気分が良いからね。
もう少しだけ、話をしようか。
君は何か好きなものがあるかい?
いや、問うまでもなかったね。そんなものは君にはなかった。君は光のない、暗闇の人生を歩んできたのだから。
実は私も同じなんだ。私には人間がよく口にするもの、好きなもの、希望とも言える、人生を潤わせるようなものが何なのか、よく分からないんだよ。
子供の頃は、よく人の好きなものを聞いて回ったものだ。友人や仲間や恋人、家族と答えた者もいた。美味しいものを食べることだと答えた者もいた。旅や釣り、芸術や物語、自然や動物、金、賭博、仕事、冒険、魔法、剣、酒。実に様々な答えが返ってきたよ。
知らないもの、やったことがないものを見聞きする度に、私はそれらを試みてきた。一体なんの魅力があるのかさっぱり分からないものもあれば、中々楽しめたものもあった。
でもね、その楽しみも長くは続かなかった。ふとした時に、飽きてしまう。まだだ、もっと楽しもう、楽しもうと試みても、最初はあったはずの熱が戻ることはもうなかった。同じもので十年二十年と楽しみを見出だし続けている者がいたとしても、私にはその十分の一に満たない間に、無いも同然のものに成り果ててしまう。
羨ましかったよ、楽しみ続けられる人間が。そしてどれだけの試行錯誤を続けても私がそういう風になれることはないと、何度も何度も思い知り、思い知る度に酷く虚しさを覚えたものだ。
だが……好きなものがない。そんな人生は、実につまらないだろう?
私はもっと世界を知りたいと思った。この世界のどこか、まだ私の知らない未知なるものの中には、きっと私が心の底から好み、求められる何かがあるはずなのだと、そう思ったのだから。
それこそが私の研究の原動力なんだよ。もっとも同業者には研究それ自体が至上の喜びであり、目的であるというやつもいるけどね。その気持ちも分からないでもない。確かに研究が進み、新しいものを発見することにはそれなりの楽しみを感じられはするけれど。正直、それにだって物足りなさは感じてるんだ。私の中の飢えにも似た感覚が、まだまだ足りない、もっともっとと欲望を訴えてくるんだ。
……分かるかい? 私にとって研究は目的じゃない。手段なんだよ。
そしてその目的は未だ達せられていない。私の人生の隅々にまで、骨の髄までを満たし尽くす究極の一つを、私はこれからも探し続けるんだ。
そんな私にとって、異世界という存在は実に素晴らしいものだ。それは途方もなく大きな可能性の広がりだ。そこにこそ、私の求めるものがあるのかもしれないのだからね。
……こういう時、私は新一君に感謝するべきなんだろうね。他の人々と同じように。
──そう言って、ミルは俺の目の前に屈み込み、短くなった煙草の先端を差し向けた。一筋の白が立ち昇るそれは、視野の中で大きさを増していき、やがて視界全てを覆い──。
「……ッ!」
ジュウッという焦げるような音と共に、鈍付いた感覚の隙間を縫うように熱と痛みとが通り抜け、そうして完全な漆黒だけの世界が訪れた。きっと、視覚を失ったのだろう。
──そして、こういう時には謝罪をするんだ。実のところ、私にはそれもよく分からないんだけどね。人間が感謝や謝罪をする時っていうのは、一体どんな気持ちなんだろうね? 君にはそれが分かるのかな?
ああ、その状態では喋ることは出来ないか『済まなかったね』それじゃあ、君の最後の実験についての話をしよう。




