十八話・フラウの過去
「お前はクズだ」
「……はい。私はクズです」
父の言葉を、フラウは復唱した。言わなかった場合は、殴られる回数が増えるのだ。
それに自分はその通りなのだと思った。魔法の才に恵まれて、皆から期待されていたというのに、肝心の魔法はトラブルを引き起こすばかりなのだから。
父の折檻と罵倒が終わり、フラウは屋根裏部屋へと戻る。家族に呼び出された時を除き、フラウは屋根裏から出ることを許されていなかった。その規則は彼女が九歳の時に決められて、五年の間厳守されてきた。
部屋にあるのは、数冊の本だけで、それ以外は何もない。それと時たま嫌がらせのために、フラウが苦手な幾つかのトマトが放り投げられるだけだった。とても人が生きていくには足りない食糧。きっと、生かす気もなかったのだろう。絶えず飢餓感に苛まれながらも、それでもフラウはまだ生きていた。
おそらくは、自分の膨大な魔力が、死を防いでくれているのだとフラウは思った。──良いサンドバックだ、どれだけ放置しても殴っても死にゃしない、と父はフラウの前で言い放ったものだが。
彼女の唯一の生きる糧は、父が運び入れた数冊の本だった。フラウがまだ家族に失望される以前に、一通りの読み書きは習っていた。『美食冒険記』と題されたそれらに記されるは、美味しいものを求める冒険者たちの物語。父としては、餓えたフラウへの嫌がらせのためのものだった。しかしフラウは、その物語に貪るように夢中になった。
数年の間、彼女は何度も何度も、その物語の中に没頭した。餓えたフラウの、手付きのたどたどしさも相まって、元々古びていた本は、段々と折り目が増え、ページが少しずつ破れていき、文字が消えていった箇所もあった。しかしフラウにとっては、何の問題もないことだった。彼女はやがて、その物語の全てを覚えた。どんな些細な場面も、残らず全部。
それでもなお、本を開く度、変わることのない感動が、いつだって彼女の心を潤した。特に彼女の心を奪ったものは、アイシクルトマトの話。
──トマトって本当は美味しいんだ。
そう思い、フラウは目を輝かせて、床に潰れたトマトを食べた。普通に不味かった。けれど彼女の心の内では、ほんの少しだけ、トマトが愛らしいものへと変わっていた。
そんなある日のことだった。いつも通りの父の暴力が終わり、屋根裏へ登ろうとしたフラウはふと、強大な魔力の気配を感知した。
──なに、これ。怖い。大きい。魔物──?
皆に知らせなくてはならない。そう決断したフラウは家族のいる部屋へ戻った。
「……おい! 誰が勝手に来て良いと言った!」
「ま……まも、の、が……こっ……怖い魔物が、来ます……! 逃げ、ないと……! 村の皆、にっも、知らせ、ないと……!」
回らない舌を必死に動かして、彼女はそう訴える。
部屋に訪れたのは、一時の沈黙。次いで爆笑。
「あひゃーっはっはっはっはっ!ヒーッ!ヒーッ! おんもしれぇなァいきなり何を言い出すんだぁこのガキは!?」
父が嗤っていた。母が嗤っていた。兄妹も、やはり嗤っていた。誰一人として、フラウの言葉を真剣に捉えたものはいなかった。それはフラウを諦めさせるのには、十分な光景だった。野次と嘲笑を背に、フラウは屋根裏へと戻っていった。
──どうすればいいの。
屋根裏で独り、フラウは考えた。そしてもしかしたら、自分の力なら魔物を追い払えるのではないかと思った。同時に、それはとても危険なことでもある。
今フラウが生きているのは十中八九魔力のおかげだ。つまり魔法を使い、自分自身の魔力を消費した瞬間、本来とっくの昔にそうなっていたであろう餓死を迎える可能性が極めて高かった。
しかし、それでも良いのかもしれなかった。迷惑ばかり掛ける、自分のような人間が、最後の最後に皆を救えるのであれば、そうフラウは考えていた。考えていた、のだが。
「……美味しいもの、食べたい、なぁ……」
脳裏に浮かんだのは、『美食冒険記』の食材の数々。だから、死にたくはなかった。絶対に、死にたくなかったのだ。それがフラウの偽りなき想いであった。
ならばどうするか。まずは魔物が来る前に、ここから抜け出さなければならない。下の部屋を通るのはまず無理だろう。フラウは屋根裏に取り付けられた小窓を開いた。窓の周囲には、掴んで降りられそうなものは何もない。
それでも諦めることなく、フラウは考え続けた。そうしてあることに気付く。
どうして、自分の餓死を食い止めている魔力は、暴走していないのだろうかと。
そう思えば、彼女の魔法が暴走するのは、彼女が能動的に魔法を使った時だけだ。ならこういった、生命の本能に呼応するように、瀬戸際で自動的に働く魔力に関しては、過剰な浪費には繋がらないのではないか。
これは賭けだ。けれど、他の方法は見当たらない。
フラウは決断した。周囲に人がいないことを確認し、彼女は小窓から飛び降りた。
「……つぅっ! い……ぁ……」
地面に衝突し、身体を貫く重い痛みが這い回る。だが、死んではいない。彼女の危機に反応した自動的な魔力が、致命的な怪我や障害からフラウを守ったのだ。生きている。足も動く。歩くことが、出来る。
彼女は歩いた。歩き続けた。村の外へ出てなお歩き続けた。宛はない。結局は、何の意味もなく野垂れ死ぬのかもしれない。
ぼんやりとそう考えたフラウの頭上を、一瞬大きな影が覆った。緑龍王が飛び去って、それは村の方へと羽ばたいていく。
ああ、自分は全てを見捨てたのだ、とフラウは思った。家族を、村を、何もかもを。その事実がフラウの胸に、ズキズキと痛む罪悪感を伝わせる。
それでもフラウは前を向き、歩く。二度と振り返ることはなかった。生きるという決意を、強固に胸に刻んで歩いた。




