優しくて残酷で……
「へぇ、苦手苦手と言っていたわりには上手じゃない」
スケッチブックを覗き込み、伊織は涼多にそう言った。
「あ、ありがとうございます……」
涼多は、照れ笑いを浮かべつつも、鉛筆を動かし客車を描いてゆく。
時刻は午前九時。
外は暗く、光鈴の姿と光を反射する雨粒以外、見えるものはない。
「ルテさんがお風呂から出たら、次は涼ちゃんね!……というか、ごめんね。私が一番風呂をもらっちゃって」
眉をハの字にする伊織に、涼多は首を横に振る。
雨脚が酷く、家まで帰るのが面倒とのことで、伊織も今日は泊まるのだ。
彼女は、「よっこいしょ」と胡坐をかくと、壁に背を預けた。
風呂上がりの湿った髪を伝い、水滴が褐色の肌へと一粒落ちる。
伊織は、隣で眠りこけている栞の毛布を掛け直す。
次いで、雨音響く窓の外を見つめ、すっと目を細めた。
「……『夜雨の奇』なんて言葉があるけど、私は苦手だわ。夜の雨に魅力なんて感じない。鬱陶しいだけ」
伊織の、少々蓮っ葉な言葉に、涼多は目を丸くする。
出会ってまだ日は浅いが、「意外だ」と思ってしまった。
涼多の視線に気がついたのか、伊織は、口に手を当て肩をすくめる。
彼女は「つい、素が出ちゃったわ」と片目を瞑り舌を出した。
「…………いきなりの質問で悪いけど、涼ちゃんたちはさ、人間界に帰るのは諦めて、化生界で暮らそう、とは思わないの?」
思いがけない問いに、涼多は一瞬固まった。
しかし、直ぐに「はい」と頷くと、自身の身の上をかいつまんで話す。
「――なるほど。そりゃあ、帰らないといけないわね!」
話を聞き終えた伊織は、両の手をグッと握りしめた。
「帰る場所があるのなら、それに越したことはないもの。羨ましいわ。……私みたいに、自分から手放しちゃった奴からすればね」
自嘲めいた口調と声に、涼多は不安な気持ちになる。
光鈴か伊織の傍を舞い、瓦斯燈を模した簪がキラリと光った。
「……伊織さんは、どうして化生界で暮らしているんですか?」
「ふふっ、聞いてくれると思った」
悪戯っ子めいた笑みを浮かべ、伊織は簪を外す。
暫くそれを見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
◇◇◇
今から百年以上昔の話。
子供だった伊織は、父と二人で各地を転々としていた。
理由あって旅をしている、という訳ではない。
物乞い紛いなことをして、枯葉のように流れ流れていただけだ。
父がどこからか手に入れた書画や骨董を筵に並べ、露命を繋ぐ日々。
だが、名画が二円ほどのご時世であったから、どれも捨て売り状態だった。
言ってしまえば、「気の毒だな」と思う心ありきの商売。
伊織は、稗や粟が椀一杯に目の前にある景色を夢想しながら店番をした。
なぜ、自分をどこかに売り飛ばさなかったのか。
なぜ、自分には母がいないのか。
幼い伊織に、そこまで考える力はなかった。
いや、母のことは一度だけ聞いた。
だが、伊織の父は、頑として口を割らなかった。
その理由は、今でも分からず仕舞いだ。
垢のついた木綿の単衣を纏い、髪はぼさぼさ。
伊織はいつも、道行く人たちを、髪の間から羨まし気に見つめていた。
憐れむような目を向ける者もいれば、無関心な者もいた。
中には、こちらの『不幸』を見て、安堵するような目を向ける者も。
そんな彼らは、伊織からすれば、どこか無防備だった。
いっそ、巾着切りでもしたほうが稼げるのでは、と思うほどに。
どうせ、御蚕ぐるみ、乳母日傘で育った、御曹司やお御嬢様だ。
そこまでとはいかずとも、自分たちよりは、余程いい暮らしをしている。
多少、懐が寒くなったところで、痛くも痒くもないだろう。
そう思いはしたのだが、心に錦を纏った父が許さなかった。
「悪銭が、いい方に転がることはない」
自身に言い聞かせるような言葉に、伊織はただ頷くしかなかった。
◇◇◇
伊織の運命が変わったのは、十二になったときだ。
流れ着いた町で、彼女は道に落ちている簪を見つけた。
瓦斯燈を模した、一目見て高価だと分かる簪。
父は出かけており、周囲に人はいない。
伊織の心に、ふっと魔が差した。
おどろ髪を手櫛で整え、簪を挿す。
盗むつもりは毛頭なかった。
ただ自分も、ほんの少しの間だけ、『年頃の娘』になりたかったのだ。
簪を挿す自身を見て満足したら、然るべき場所に行こうと思っていた。
だが、どこかの神はそれを許さなかった。
「泥棒っ!!」
はにかみながら川を覗き込む伊織に、少女の声が投げつけられる。
伊織よりも少し年上の、綺麗な着物を着た少女。
その後ろから、更に年上の少女が現れた。
彼女は、伊織を睨みつける少女に向かい「およしなさい。そのように、声を荒げるものではありませんよ」と品のいい笑みと共に窘める。
「でも、姉さま!」
なおも言い募ろうとする少女に、姉は、優雅に首を横に振った。
次いで、伊織の頭から爪先までを見て、瞳に憐みを孕ませる。
戸惑う伊織に近づき、彼女は愛らしい口を開く。
「ありがとう、拾ってくれたのね」
伊織の答えを待たず、白魚のような手がすっと簪を抜き取る。
続けて、彼女は伊織の手を取ると、幾ばくか金を握らせた。
薬指の先端が、手のひらをかすめる。
たったそれだけのことで、肌の肌理こまやかさを感じた。
自身の肌との差に、伊織の背に怖気に似た何かが走る。
伊織に「泥棒っ!!」と叫んだ少女は、数歩後ずさった。
まるで、近づくのも嫌だ、とでもいうように。
「では、失礼」
姉はそう言うと、烏の濡羽のような黒髪を翻した。
その後は、伊織を振り返ることなく二人並んで去って行く。
真っ白だった伊織の頭に、徐々に色が戻る。
我に返り、初めに感じたのは『羞恥』だった。
だが、何に対する羞恥なのかは、伊織自身にも分からなかった。
叫び散らしながら、手にした金を川に投げ捨てたい衝動に襲われる。
しかし、それは現実にはならなかった。
手のひらにあるそれは、紛れもなく金。
これがあれば、腹を膨らませる物が買えるのだ。
「尾羽打ち枯らして(落ちぶれて)しまえばいいのに……」
伊織がそう呟いたとき、父が帰ってきた。
夜店の場所を変える、と言われたので、伊織はそれに従う。
金のことを父に話そう、と口を開いたとき――。
「どーろぼうっ!!」
たまたま事の成り行きを見ていた子供が、勢いよく石を投げた。
その後ろで、囃し立てる子供が三人。
目についた虫を潰すような無邪気さを湛えた目で、こちらを見ていた。
七、八歳の子供の力とはいえ、それなりのものがある。
拳ほどの大きさの石は、ガツン、と父の頭に命中した。
石のおうとつで切ったのだろう、赤い血が流れる。
不味い、と思ったのか、子供たちは蜘蛛の子を散らすように去ってゆく。
父は、不安気に見上げてくる伊織を安心させるように笑うと、「さあ、行くぞ」と血を拭い歩き出した。
大丈夫そうな父を見て、伊織は胸を撫で下ろし、安堵の息を吐く。
だが、傷口から、良くない菌が入ってしまったのだろう。
ほどなくして、伊織の父は高熱で倒れ、根の国へと行ってしまった。
◇◇◇
「――と、まあ、ここまでなら、自分で言うのもなんだけど、『お涙頂戴』の部類に入ると思うのよ」
いったん話を止め、伊織は涼多にそう言った。
彼女が話をしている間に、雨は激しさを増した。
「なんというか、馬鹿らしくなっちゃってねぇ……」
目を伏せ、伊織は窓の外を見る。
光鈴に照らし出された幟が、ひらひらと揺れていた。
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