一夕話
更新を再開いたしました。
「……まぁ、その後は、盗人の道にまっしぐらよ」
幟から涼多に視線を戻し、伊織はそう言った。
「正直、あの時の御嬢様のことは、今でも複雑な気持ちになるわ。それこそ、偽善者、と思ったときもあった。でも、あの金があったから、腹を満たせた。飢えからくる弊害を免れた。……風邪を引いたりしたら、一瞬だからね」
どう言葉を返せばよいのか分からず、涼多はただ相槌を打つ。
答えを望んではいなかったのか、伊織は話を続けた。
「何度も危ない橋を渡ったけど、足の速さと悪運には自信があったからね。どうにか逃げおおせてきたわ」
背後から「返してくれ!大切な物なんだっ!!」と声が聞こえても、伊織が足を止めることはなかった。生きるのに、必死だったのだ。
「綱渡りのような生活を続けて数年、私は、ある男の人と知り合った。元はいいとこのお坊ちゃんだったんだけど、親の事業が傾いて、ついには無一文になっちゃった人」
落ちる前はふくよかな体形であったらしく、少々、腹まわりの皮が弛んでいた。
腹いっぱい飯も菓子も食えなくなったのだから、当然だろう。
だが、彼は決して腐りはしなかった。
周囲から「いい気味だ」という目を向けられても、気にしていなかった。
「……『富める者の気高さ』とでも言うのかしらね。草臥れた服を身に纏い、橋のたもとで眠る日々の中にあっても、どこか凛としていたわ」
そして、伊織の盗みを、唯一咎めた存在でもあった。
最初は鬱陶しがっていた伊織も、いつしか彼の言葉に耳を傾けるようになった。
自分と違い、しっかりとした『筋』を持っている人間。
伊織は、「気づけば、そこに惚れちゃってね」と笑う。
「……で、一緒に過ごすようになって二年、露命を繋ぐ暮らしから、雨風を凌げて、ご飯が食べられて、ぐっすりと眠れる生活にまでなっていった」
満ち足りた生活。
そこに到達できたことは、嬉しくもあり、複雑でもあった。
子供の頃は「はんっ、ぬくぬく育ちの御大臣様が!」と思っていた場所に、足を踏み入れてしまったからだ。
「何かされた訳じゃないけど、僻み根性丸出しで見ていた人たち。……でも、自分がそうなった瞬間、すごく手放しがたくなる。ふふっ、勝手なものよね」
眉を顰め、伊織は自嘲した。
それでも、幸せな日々だった、と彼女は語る。
「あの人も、元の……とまではいかないけど、ぽっちゃりとした体形になったし、私も、髪や肌にまで、気を使えるようになった」
暮らしに余裕ができても、彼の性格は相変わらず優しかった。
伊織も、これからもこの人の隣にいたい、と強く願った。
だが、彼女の願いを、どこかの神は許しはしなかった。
幸せな日々は、ある日ぷつんと終わりを告げる。
「こんな雨の日だったわ。あの人が……お父様の話をしたのは」
不運が重なり業績が傾き、追い打ちをかけるように最愛の妻がなくなった。
しかし、妻の形見である椿の帯留を心の支えに、どうにか立てていた。
肌身離さず持ち歩いていたそれを、何者かに盗られてしまうまでは。
どれだけ探しても見つからず、彼の心は折れてしまった。
そして、弱った心に鞭うつように病がやって来て、あっけなく――。
「それが私だったのかは、分からない。盗んだ物なんて、いちいち覚えていなかったから。……ただ、あの人がカマをかけた様子もなかった。というか、とっくの昔に、私が盗人だったことを忘れている感じだった」
だからこそ、自分に話したのだろう、と伊織は呟く。
彼女は、自身の手を見つめ「……最低な話よね」と嗤う。
「どんな逆境にもくじけず、僻むことなく、私みたいな女に優しくしてくれた『いい人』。……そして、彼のご両親も、とても『いい人』たちだった」
伊織自身は、彼の両親を知らない。
だが、言葉の端々から、『いい人』であることが分かった。
「そんな『いい人』の命を、私は縮めてしまったかもしれない。……ううん、彼のお父様だけじゃなく、他の人たちだって――」
金持ちなのだから、少しくらい奪ったって構わない。
苦労知らずの者たちなんだから、少しくらい痛い目に遭ったらいい。
金持ちだから。
御大臣様だから。
…………幸せな連中なんだから。
少しくらい、少しくらい、少しくらい、少しくらい、少しくらい――。
「不幸でいたくないのに、気がつけば不幸で優越感に浸っていた。……それでも、やっぱり幸福になりたくて、でも、私は幸福を得る術を知らないから、と自分に言い訳して、何もかもを、認めたくなくて、全部、考えないようにしていた」
継ぎはぎめいた言葉を、伊織は羅列する。
彼女は、拳を強く握りしめ、自身の額に押し当てた。
「話を聞き終えた後、思っちゃったんだ。ああ、この人の妻になる資格なんて、私にはないんだ、と。……気がついたら、外に飛び出していた」
無我夢中に走りに走って、辿り着いた先は川だった。
それも、雨で水嵩と勢いが増した川。
「そこから先は、…………言わなくても分かるでしょう?」
伊織の視線を受け、涼多は静かに頷いた。
(ああ、だから水川……火山さんに、シンパシーを感じているのかも。状況も何もかもが違うけど、川に飛び込んだのは、同じだから)
「…………でも、私の場合は、ただの逃げでしかないけど」
涼多は、「私の場合は?」と心中で首を傾げた。
伊織も、彼の視線を感じはしたが、それには触れなかった。
次いで、「続きがあってね――」と彼女は口を開く。
「あの人は、私の亡骸を引き取って、懇ろに弔ってくれたわ。有難くもあったし、申し訳なくもあった。……でも、嬉しかった」
伊織が亡くなってから十五年後、彼は事故で世を去った。
そして、ヒダル神が黄泉路から化生界へと連れてきた。
「では、今もその方と――」
「ううん、あの世に行っちゃったわ」
十五年の間に、彼は周囲の勧めもあり、結婚し幸せな家庭を築いていた。
愛する妻と三人の子供、絵に描いたような『幸せな家族』。
「再会できて、すごく嬉しかったけど、……もう、生きていた頃の関係には戻れない。私は自ら手放してしまったし、あの人は、奥様を愛していたから」
伊織の顔を見て、彼は目に涙を浮かべて喜んだ。
だが、葛藤するような目をしたのを、伊織は見逃さなかった。
「だから、……サヨナラしてもらったの」
目を伏せたまま、伊織は小声でそう言った。
「自分で手放しておいて、凄く身勝手な話なんだけど、……愛されている奥様に、凄く嫉妬したわ。あの世で仲良く、と思いつつも、どうしてなの、って」
自分が、確かに隣にいたはずなのに――。
自己嫌悪に陥っていた伊織に発破をかけたのは、熊の冒険家だった。
「気のすむまで体を動かせ、そしたら少しはマシになる、と言われてね。それが高じて、今は、お巡りさん紛いな仕事をしているのよ」
力こぶを作り、伊織は涼多にニコッと笑いかける。
それは、涼多が良く知る伊織の笑顔だった。
「ふふっ、まさか、会って一週間も経っていない相手に、身の上話をしちゃうなんてね。…………涼ちゃん、聞いてくれて、どうもありがとう」
姿勢を正し、伊織は涼多に頭を下げた。
涼多は慌てて首を振ると、恐る恐る口を開く。
「……ええっと、その、僕は、あまり聞き上手でも話し上手でもないんですけど、お役に立ちましたか?」
「勿論よ!それに、こういうのは聞いてもらうだけでいいの!!」
伊織にガバッと抱き着かれ、涼多は顔を赤らめる。
「…………涼ちゃんは、手放しちゃだめだよ?」
「えっ?」
「なんとなーく、そんな気がしただけ!!」
眼を瞬かせる涼多から体を離し、伊織は、柔らかな笑みを浮かべた。
涼多の脳裏に、春の顔がよぎる。
同時に、思い出したことがあった――。




