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平日の昼下がり、俺は独り外出していた。まだ終えていない仕事もあるにはあるのだが、ペース配分を考えた結果余裕が少しあり、目的もなく散歩をしようと思ったわけだ。たまには出かけないと、本当に腐る。俺が。
こんな時間だと、やはり人通りが少なく、見かけるのは主婦であろう女性やその子供くらいだった。本当のところこんな時間にこんな場所を歩く俺は社会的に異質であるのだけれど、それに対してなんら弁解もなく、ただそういう気分だったというのが本音であった。だから、たまに感じられる視線には大して背徳感めいたものはない。ないけれど、別の何かがチクチクと俺の心を突いた。
「無職な訳じゃないんだけど。まぁ、仕方がない」
それにしても、たまにこうして歩くのも良いものだ。少し爺臭い気がするが、俺のような職業柄引き篭もってしまう人間は意識的に外に出なければいけない。元々俺は自発的に外へ出る人間ではないので、こういう風に気分のベクトルをある程度意識的に変えないといけない。
何年も履き続け底が磨り減った靴から地面を踏む感触が伝わる。視線を辺りに行き渡らせると、少しずつだが春を感じさせる草花が天へとその身を伸ばしていた。
「なんだか懐かしさを覚えるな。ここに来て大して経ってないのに」
去年の今頃、こうして自分の自由な時間が出来るとは思っていなかった。一度だけデスマーチに駆り出された事を思い出すと、今の状況は本当に考えられない事だ。生きていることさえ不思議に思える。
「生きてるって素晴らしい、なんてものじゃないよな。あの時はどうしようかと思ったくらいだ」
自嘲気味に苦笑いを浮かべる。そこまで昔の事ではないが、どこかセピア色に思える。早く忘れたいという意志の表れだろうか。
しばらく歩くと、田んぼ道のところまで来ていた。辺り一面稲の刈り跡が残っているだけだった。少しばかり土の香りが漂っているようで、それだけでいつもとは違う町の顔を見れたようだった。
「昔は、こういうところに来ていた気がするな。とても居心地が良い」
体中の緊張が解けていく様に思えた。意識すらもどこか遠く、糸で掴んでおかないとどこかに飛ばされそうだった。
ほとんど覚えていない幼い時の記憶を撫でる。無意識に頬は緩み、端から見れば気持ちの悪い表情をしているだろう。
「こういう気持ちが残ってるだけ、幸せなんだろうな」
俺はその殺風景な風景をただジッと立ち止まって何も言わずに眺めた。時折カラスや雀の鳴き声がするだけで閑散とした雰囲気を漂わせ、とても広い場所であったが、そこはかとなく狭く感じた。
「これも大人になるって事なのかな。体ばっかしじゃないんだな」
俺は身を翻して、来た道を戻った。そろそろ仕事に取り組まなければならないし、コトも帰ってくる頃だ。
「大人になる、ねぇ……」
そう呟かれた言葉は誰の耳に届くこともなく、静かに姿を消した。
蝉の鳴く声は耳をつんざくように甲高く、目の前の風景は太陽の光により貫かれているようだった。汗が頬を伝い、風が吹くたびにそれは冷たく感じられたが、それでもジメッとした空気のせいでその汗はなかなか乾かずにジトリと肌にはり付いていた。
僕は祖父母の家の近くの山にいた。土で坂道なのでとても歩きづらく、家にばかりいる僕にとっては坂道にしても土道にしても辛かった。周りの景色を見る気力もなく、僕は一心不乱に山道を登った。
汗を襟で拭き、道の先を見ている。やっつけで作ったような簡単な道で、手すり代わりに杭に鎖を繋いで脇にある崖と仕切られているが、大した意味がなく、気をつけてないと落ちてしまいそうだった。
「……着いた」
歩いた先にはとても簡素な広場があった。小さなベンチが二つほどしかないそこにはここ数年は誰も来ている感じはなく、そのベンチも苔で塗れていた。
僕は広場の真ん中に進み、そこで寝転んだ。外で寝転ぶという事は初めてだ。生きていると人の目を無意識に気にして、こんなことは出来ないだろう。人の世の中の窮屈さを思い出し、苦笑した。
土の感触が体全体で感じられ、先ほどまで乱れていた呼吸も段々と整ってきた。目の前に広がる空は先ほどより近づいたせいか、目視では違いなど分からないかもしれないが、なんとなく空の色が濃くなった気がした。
蝉は止まることを知らずに鳴き続けた。頭の中にはそれが響いて止まない。咽はカラカラに渇き、潤いを求めるかの様に口は自然と半開きのままになっていた。
普段の生活での街中の喧騒というものがまるで違う世界のものみたいに思えた。まるで体が小さくなったようで、どこにも僕は居らず、観念的な存在になってしまったみたいだった。誰も僕に触れることが出来ず、また僕は誰にも触れることが出来なくなってしまったようだった。
空に向けて手を伸ばしてみる。強く拳を握り、掌を自身に向けて拳を開ける。何かがあるわけでもなく、汗が滲んでいた。
自分の色が削がれるとともに、世界の色が濃くなっていっている気がした。
とある日、コトが風邪をひいた。ちょうどその時期、コトの学校で風邪が流行しているので、菌を拾ってきたのかも知れない。
「大丈夫か?」
「うん……」
俺の言葉に弱々しくコトは答えた。額には冷えピタ、水枕、そして二重に重ねた布団の下敷きになっている。
その傍ら、俺は仕事を続けていた。こういう時、会社勤めでなくて良かったと思う。不測の事態が起きると気になって、どうも気が散ってしまうからだ。
「なんか飲み物が欲しい」
「あいよ」
コトに言われた通りに俺は冷蔵庫からコーラを持ってきて、コップについでやる。
「なんか自分で動かないから楽でいいね。偉くなった気分」
「そうかいお嬢様」
そんな軽いやり取りが少々あるものの、基本的に話す事はなく、自然と沈黙は続いた。しばらくすると、コトは俺の仕事する様子をマジマジと見ていた。
「よく見ると、本当に仕事してるね」
「まだその話を持ってくるのか。これでも社会人、職としては大分不安定だけど、職業欄に記入出来るくらいの事はやってるよ」
「前にも聞いたと思うけど、何で会社辞めたの?」
その言葉を聞き、俺は一瞬手を止め、苦笑してしまった。自らに対する嘲笑か、だったのかもしれない。何にしてもコトの問いは俺にとっても他人にとってもとてもくだらない事だった。
「なんとなく」
「なんとなくで会社辞めるの? それっておかしくない?」
「あぁ、おかしいことだな。ずっとフリーになろうかと思ってたけど、やっぱり根本的な理由はその一
言で尽きるよ」
その言葉以外に、俺の答えはなかった。至極単純で陳腐、しかしそれを表現するにはあまりにも俺の語彙は少なかった。
コトは上手く理解できていないのか、俺を視線から外し、どことも言えない所を向いていた。熱のせいで頭が回らないのかもしれない。
コトは数分経った後眠りについた。
俺は仕事の方に気を向けた。だけれど、先ほどとは違い何か異物を飲み込んだかのような違和感がした。無視できるほどの小さなその違和感は、意識すればするほど増していくようで、俺はなるべく意識しないように仕事に集中した。
「いつまで俺はこうしているんだろうな」
俺は独り、呟いた。




