第34話 フェル
二階層の食事処には、窓からあたたかな朝の日の出が眩しいほどに差し込んでいた。
静かな朝の光に包まれた空間の中、リゼットは目の前に用意されたスープの碗をじっと見つめ、すごく怪訝そうな顔つきのままスプーンですくい、そっと一口飲む。
そして、小さく一息ついた。
「………あのさぁ。」
リゼットはスプーンをトレイに置き、呆れ返ったような、あるいはすべてを諦めたような声を漏らしながら、テーブルの向かい側へと視線を向けた。
そこには、昨日と変わらずフェルにぴったりとくっついているパンドラの姿があった。
それだけならまだいい。
問題は、その隣にいるフェルの様子だった。
「……パンドラはまだ分かるよ。でもさぁ……。」
昨日まで若干引き気味で、複雑な顔をしていたはずのフェルが、今やパンドラのスキンシップをすんなりと受け入れ、むしろどこか落ち着いた様子ですらあるのだ。
「何があった!一体何があったんだよ昨夜!寝たんか!あんたら寝たんか!」
リゼットは思わず堪えきれなくなり、ガタッと椅子から身を乗り出すと、テーブルをバンバンと両手で叩きながら容赦ないツッコミを炸裂させた。
そのあまりの剣幕に、パンドラはふふんと勝ち誇ったような笑みを浮かべてフェルの腕にさらにギュッと身を寄せる。
「朝からあまり大声を出さないでくれよ。俺らはただ……。」
フェルは涼しい顔でそう返すと、そこで一度言葉を区切り、意味ありげな含みを持たせた。
直後、フェルとパンドラは息ぴったりのタイミングで同時に右手を掲げ、パチンと鮮やかに指を鳴らす。
そして、朝日に照らされる中、揃ってリゼットの方へとこれ以上ないほどの完璧なキメ顔を向けて言い放った。
「「お互いを知っただけさッ。」」
「なんかムカつくぅ……。」
リゼットは額に青筋を浮かべながら深いため息をついた。
くだらない会話だった。
しかし、この他愛のないやり取りが、千年以上もの途方もない孤独を貫いてきたこの遺跡にとって、そしてパンドラという少女にとって、どれほど大きくて温かい意味を持つのか――今のフェルには、少しだけ分かる気がした。
昨夜、二人が月夜の下で交わした時間が、確かな絆となって今の彼らを繋いでいる。
穏やかな朝の空気を切り裂くように、ゴゴゴ……と重い扉が開く音が、静まり返った知恵の塔の奥深くへと響き渡った。
「ふふーん、ここを開くのも何百年ぶりだよ!」
パンドラは胸を張り、両手を腰に当ててえっへんと得意げなポーズをとってみせる。
そこから足を進めた先は、幾重もの歴史が眠る場所――四階層・知恵の図書館。
この大陸のあらゆる場所で起きている出来事を、自動的に書物に変換し保管し続ける、世界でも類を見ない超常の空間である。
重厚な扉が完全に開き切り、フェルたちの視界の先に飛び込んできたのは、息を呑むような光景だった。
部屋一面を埋め尽くす壁沿いの巨大な本棚、そして規則正しく並ぶ円柱状の本棚の柱――。
見渡すかぎり、どこを見ても数え切れないほどの書物がびっしりと詰まっている。
「すっげぇな……。」
フェルは圧倒的な光景の前に言葉を失い、感嘆のため息を漏らしながら、辺りを見回しつつ部屋の中心へとゆっくり歩みを進める。
足元には磨き抜かれた床が広がり、部屋の中心には一つだけ、いかにも重要そうな古びた木製の閲覧テーブルがぽつんと置かれていた。
ふと、気になって首を真上に向けたフェルは、さらに度肝を抜かれる。
見上げる天井の遥か彼方、目が眩むような高さの限界まで、書物の詰まった棚が途方もなく伸びていたのだ。
「……上はどうなってるの? 知恵の塔って外から見た感じだと、そこまで大きくなかったよね?」
リゼットもまた、上へ上へと広がる底知れぬ空間を見上げながら、純粋な疑問を口に漏らす。
「あぁ、そうだね。外見はただの塔だけど……。」
パンドラはフワリと振り返ると、楽しげにピッと人差し指を上向きに突き立てた。
「ここはね、師匠の使っていた遺物によって造られた、いわば広大な『異空間』なのさ! この四階層と五階層はそれぞれ別の空間に繋がっていて、この世界で永遠に増え続ける書物や遺物を、どれだけ溜め込んでもパンクしないようにできているんだよ。」
「へぇ〜……外見からは想像もつかないね。その遺物は今ここにあるの?」
リゼットは感心したように細い顎に手を当て、興味深そうに周囲の書棚を眺めながら再び問う。
「いいや、師匠と一緒に火葬しちゃったからもう無いよ。」
「そっか……。」
リゼットは少し残念にそう呟きながら、パラパラと本を読み再び本棚に戻した。
「さ、フェルたちは元々ルミネーアの調査に来たんんだろう? ボクも全力で付き合うからさ、早速始めようよ!」
パンドラはパタパタと軽やかな足音を立てながらフェルのそばに駆け寄り、満面の笑みを向ける。
「あぁ、そうだな。」
フェルは力強く頷くと、胸に広がる新たな決意を胸に、果てしない知の海へと足を踏み出していく。
そして、あっという間に『五日』の歳月が流れた。
「やっと終わったぁ!!!」
フェルは知恵の図書館の中心にある閲覧テーブルに、ガタガタと音を立てながら盛大に突っ伏した。
もう腕を動かす気力すらない。
「まぁ……まだ記録作業があるんだけどな。」
「モウイヤダ……ホン……イブツ……アハアハハハハハ。」
その隣では、リゼットが白目を剥きかけながら大粒の涙を流し、壊れた人形のようにケタケタと乾いた笑い声を上げていた。
かつての人々を導く勇者の面影は綺麗にどこかへ吹き飛び、二人ともすっかり限界を迎えていた。
「まさか……書物と遺物の総数が18億近くあるなんて思わないじゃん……。ボクもさすがに目が回ったよ。」
パンドラはさすがに少し息を弾ませながらも、ピンと背筋を伸ばしてテーブルの端にちょこんと座っている。
それもそのはずである。
この五日間、彼らの生活は過酷を極めていた。
三人はこの五日間にわたり、最小限の『寝て、起きて、ご飯を食べて、お風呂に入る。』という生命維持のための行為以外、起きている時間のすべてをルミネーアの調査――すなわち、果てしない書物と遺物の確認作業に文字通り全時間を割いていたのだ。
膨大な記録を調査するのだから、時間がかかることくらい全員が最初から覚悟していた。
だが、その想像の限界を数千倍、数万倍も超えていたのがこの現実だった。
「流石に……今日はもう寝ようか。」
フェルがテーブルに顔を埋めたまま、絞り出すようなかすれた声を漏らす。
「そうだね。」
「賛成〜……。」
リゼットは重力に逆らうように片腕をプルプルと震わせながら力なく上げ、消え入りそうな声でその提案に完全同意を示す。
パンドラは軽やかな足取りで廊下を歩いていく。
リゼットやフェルと打って変わって、体力の有り余る子供のようであった。
「おやすみ、フェル♪」
「あぁ、パンドラも。」
パンドラはふふっとその言葉を嬉しそうに噛み締めながら、自分の部屋へと入っていく。
フェルもまた、フラフラとした足取りで第三階層の客室に用意された自室へとたどり着き、重い扉を開けて中へ滑り込んだ。
部屋の中では、相変わらず純白のカーテンが夜の月光を優しく包み込みながら、静かに美しく揺れていた。
ドサッと、フェルがそのままの勢いでベッドに横たわると、ギギィ……っと古い木製のベッドフレームが心地よく軋む。
ぼぉっと霞む意識のなかで、静まり返った部屋の天井を見つめる。
(なんだか、呪いにも慣れてきちゃったな……。腹は減るし、すぐ眠くなるし、痛みや疲労もちゃんと感じる。不便ちゃ〜不便だけど、なんだか……悪くないよな。)
フェルは、遠い昔の記憶を辿るように、自分がまだ『佐伯蓮』という人間だった時の姿を微かに想像しながら、重くなった瞼をパチパチと瞬かせる。
(あの時……鉄骨に押し潰されていなかったら、俺は、どうなって……。)
答えの出ない思考の海に溶け込むように、フェルの意識はゆっくりと沈んでいく。
そして、彼はそのまま抗いがたい深い眠りへと誘われ、意識の糸をプツリと切り落した。
「ヤァ⭐︎」
見渡すかぎりの真っ白な世界――『天理の回廊』。
目を覚ましたフェルの視界のど真ん中を、エンリルの顔面が文字通り埋め尽くしていた。
「近い近い。」
フェルはまったく動じず、むしろ呆れ果てたような声でそう吐き捨てると、エンリルの顔を手のひらでぐいと押しやって遠ざける。
エンリルは「あぁ〜。」と茶化すような声を出しながら、くるりと軽やかに後退りしていった。
「いやぁ〜、ルミネーアの図書館調査、お疲れ様ぁ〜。めちゃくちゃ頑張ってたねぇ〜! 見てた俺っちまで肩が凝っちゃったよぉ。」
「まだ全行程が終わったわけじゃないけどな。」
「まぁね、残りも頑張っておくれよ。」
口では軽口を叩きつつ、フェルの内心では
(寝かせてくれよ……。)
と、自称・神様に対する文句と溜息がグルグルと渦巻いていた。
「で? お前がわざわざこうして現れたということは……」
「そうさ! 君にちょっとした便宜を……って言うより、素敵な『御信託』を授けにきたよ⭐︎」
エンリルはパッとその場でくるりと一回転すると、なぜか妙にセクシーな決めポーズをビシッと披露してみせる。
その男とも女ともつかない中性的な整った顔立ちから繰り出されるあざといウインクは、フェルの逆鱗をねちっこく逆撫でるようであった。
(――やっぱりコイツ、一度くらい本気でぶん殴ってやろうかな。)
ジトッとした冷ややかな視線を送るフェルに対し、エンリルはけろっとした顔で涼しい笑みを浮かべ続ける。
「そうか。じゃあなるべく手短に頼むわ。最近、マジで疲れが取れないんだよ。」
「それは気の毒に〜、よくなるといいねぇ。」
エンリルはまるで他人事のように、まったく響いていない軽い声で相槌を打つ。
だが、次の瞬間――。
エンリルはフッと息を整え、それまでのふざけた空気を嘘のようにかき消すように、似合わないほどの真剣な表情へとスッと切り替えた。
「――じゃあ、真面目な話、フェル。君に御信託だ。」
ピリッとした緊張感が白い空間に走る。
「目覚めたら、知恵の図書館へ行きなさい。そして、あの部屋の中心にあった机の上に、ぽつんと置いてある一冊の本を開くんだ。……それは、君に辛く、厳しい試練を与えるだろう。
だが、それを乗り越えた時、君は『第二の覚醒』を果たすことになるだろう。」
「『第二の覚醒』……レベルアップのことか!」
フェルは思わず身を乗り出す。
「あぁ、そうさ! 君はさらなる力を持つことができるのさ! 大切な仲間たちを守るためのね⭐︎」
『仲間を守る』――その言葉は、今のフェルという存在を形作り、突き動かしている最も大きな原動力だった。
『第一の覚醒』の時、そして北地邪竜決戦のなかで、その重みと意味は痛いほどに身に染みて分かっている。
(新しい力を得られるのはそりゃあ嬉しい。俺が強くなればなるほど、守れる存在や手札は確実に増えるからな。……だけど。)
「ちょっと待て。『試練』って具体的に何なんだよ?」
その言葉の響きが、どうしてもフェルの胸のなかに引っかかる。
楽に力が手に入るとは最初から思っていないが、詳細が分からないのはやはり不気味だった。
「それを事前に言っちゃぁ〜、物語として全然面白くないだろ?」
エンリルはケラケラと楽しげに笑い、はぐらかすように両手を広げてみせる。
「いや、心の準備ってものがあるだろ。知っておくべきだと思うんだが……。」
「まぁまぁ、細かいことは気にしない! 現場に行ってみれば、すぐにわかるさ。」
エンリルのその無責任な言葉を合図にしたかのように、足元の真っ白な床からたくさんの白い光の粒子がふわふわと湧き上がり、フェルの体を優しく、そして強制的に包み込んでいく。
「おい、ちょっと待て、まだ話が――」
「頑張っておくれよ、フェル。応援してるからさっ⭐︎」
エンリルのふざけた笑顔が、まばゆい光のなかにスッと溶けて消えていく。
「……っ!」
フェルはガバッと勢いよく上半身を起こした。
鼻腔をくすぐるのは、自室に漂う静かな夜の空気。
あのしつこい自称・神様のふざけた声が、まだ耳の奥や頭のなかにへばりついているような奇妙な感覚を覚える。
フェルは重たい頭を右手でゴシゴシと掻きながら、ふぅっと大きく息を吐き出した。
「ったく……。本当に、ふざけた神様だ。」
愚痴をこぼしつつも、フェルはベッドからゆっくりと足を下ろし、自室の扉をゆっくりと開いた。
ギギィ……と、静寂のなかに小さな木造りの音が響く。
フェルはまるで、夜中に親を起こさないよう忍び足で夜更かしをする子供のように、床のきしみに気を配りながら極力足音を殺して、四階層へと続く階段を静かに登っていった。
(それにしても……俺が図書館を出る時、机の上は綺麗に片付いていたはずなんだけどな。)
頭の片隅で、エンリルの残した言葉が引っかかり続ける。
不気味なほどの腑に落ちなさを抱えながら、フェルは四階層の重厚な扉の前にたどり着いた。
手をかけ、押し開く。
視界に飛び込んできたのは、いつものように知的な輝きを放つ、どこまでも続く本棚の群れだった。
しかし、その広大な空間の空気は、今までとは決定的に違っていた。
誰もいないはずの部屋の中心。
あの閲覧テーブルの上には、エンリルの予告通り、ぽつんと一冊の奇妙な本が意味深に置かれていた。
周囲の光を吸い込むかのように鎮座するその姿は、まるで自らへと近づく者を誘い込む『罠』のようであり、あるいは切実に開かれるのを待っているようでもあった。
「……。」
フェルは思わずごくりと喉を鳴らし、固唾を呑む。
重く張り詰めた空気を断ち切るように小さく一呼吸置くと、彼は覚悟を決めて、足音を忍ばせながら図書館の中へと足を踏み入れた。
足を踏み入れるたび、ひんやりとした静寂が肌を刺す。
今のこの場所には、いつもの安心感のかけらもなく、肌が粟立つようなただならぬ緊張感だけが濃く満ち満ちていた。
やがて、フェルはその本の前に立ち止まる。
そして、おそるおそる視線を落とし、表紙に刻まれたタイトルを凝視した。
『ᛋᛁᚾᚤᛁᚾᚩᛋᚤᛟ』
血のように暗い紅色の装丁をベースに、表紙の中央には、風化しかけたかすれた金色の文字で不気味にそう綴られていた。
文字を見つめているだけで、頭の奥がジンジンと熱を帯びるような、得体の知れない圧力を感じる。
逃げ出したいような本能的な警告をどうにか無視し、フェルは震えそうになる右手をゆっくりとその表紙へと伸ばした。
頬を伝い、一筋の冷や汗がスッと顎から零れ落ちる。
周囲の音が完全に消え失せた静寂のなかで、胸の奥から『ドクン、ドクン』と、自分の鼓動だけが生々しく、うるさいほどに耳底を打ち付けていた――。
フェルの指先は吸い寄せられるようにその暗紅色の表紙に触れ、ついに思い切ってその重いページを開いた。
「……あれ?」
恐る恐る目を凝らし、視線を落としたフェルから、気の抜けたような、しかしどこか震えた声が漏れる。
そこに広がっていたのは文字でも絵でもなく、ただ極めて古い年代物特有の、少し黄ばんだ『白紙』のページがぽっかりと広がっているだけだった。
「……白紙?」
困惑するフェルに、しかし奇妙な冷気がまとわりつく。
まるで見えない何者かに操られるかのように、フェルの意思とは無関係に彼の両手が勝手に動き、その本を持ち上げた。
そして、パラリ、とページをめくる。
――やはり、相変わらず白紙が続く。
しかし、フェルの手は勝手に、かつ狂ったようなスピードで次のページへ、そのまた次のページへ、めくる手をとどめることなく、
次へ
次へ
次へ
と、尋常ではないペースでめくり続けていく。
ザッ、ザッ、ザッ……!
と乾いた紙擦れの音が図書館のなかに冷たく反響する。
開かれるページとともに、フェルの表情はみるみるうちに険しく、蒼白へと変わっていった。顔中から脂汗が滝のように湧き出し、床へとポタポタと落ちていく。
両目は限界までカッと見開かれ、その瞳は今まさに、目の前で絶対に受け止めたくない、正視不能な『底無しの絶望』そのものを目撃しているかのように恐怖で激しく揺れていた。
――バンッ!!!
その時、突如として張り詰めた空気を切り裂くような轟音が響き渡る。
「フェルっ……!」
知恵の図書館の重厚な扉が、激しい音を立てて内側へと押し開かれたのだ。
そこに飛び込んできたのは、息を切らせ、普段の余裕を完全に失ったパンドラの姿だった。
彼女は狂乱の相を浮かべ、血相を変えて叫ぶ。
「フェル! 今すぐそれを閉じ……っ!」
「……パンドラ?」
フェルがそちらへ視線を向けた、その瞬間だった。
――パンっ……!
あまりにも乾いた、冷たい破裂音が響いた。
そこで、フェルの目の前にいたはずのパンドラの姿が、一瞬でかき消えるようにパツリと途絶え、完全に消え去った。
「……パンドラ?」
急激な孤独と、何者かに精神を抉られるような悪寒に襲われながら、フェルは何かに怯え、すがりつくような、救いようのないほどに歪んだ恐怖の表情のまま、血走った目で周囲を狂ったように見回した。
だが、そこには誰もいない。
ただ、天井知らずにそびえ立つ無数の本棚の群れが、冷酷な壁となってフェルの全方位をぐるりと隙間なく包囲し、圧迫しているだけだった。
「パンドラぁ……っ……。」
情けなく掠れた声を振り絞るが、誰もその呼びかけに応じない。
完全な孤立無援状態。
その時だ。
背筋の毛穴という毛穴が逆立つような、不気味な気配が、フェルの背後から忍び寄るようにひたひたと這い上がってきた。
ゆっくりと、まるで首の骨が軋むかのような不自然な動作で、フェルは引き攣った顔を後ろへと振り返る。
そこに立っていたのは――。
漆黒の暗いブーツ、見慣れたファー付きの薄紫のコート、そして禍々しくも冷ややかに波打つ紫がかった銀髪の男……。
ほかならぬ、『フェル自身』が、薄気味悪い笑みを張り付けてそこに立っていた。
「あ……あぁ……っ、あぁ……!」
喉の奥から、情けない絶叫が漏れ出す。
眼前のもう一人の自分は、ゆっくりと歪んだ口角をニイィッと不気味に釣り上げ、おぞましい嘲笑を浮かべながら、恐怖に震えるフェルの鼻先へとまっすぐに右の人差し指を突きつけた。
『―― ■■■■■。』
耳を劈くような、しかし音としては絶対に認識できない、呪詛のような不協和音。
人の言葉とも捉えられないそのノイズが脳髄を直接掻きむしった瞬間、フェルの精神の防壁は完全に砕け散り、表情はさらに凄まじい絶望の色に塗り潰されていく。
――パンっ……!
再び、空間を引き裂くような乾いた音が鳴り響き、もう一人のフェルはまるで幻影のように煙るがごとく姿を消した。
「フェルっ! フェルってば……!」
直後、必死に肩を揺さぶり無事を確かめようとするパンドラの現実の声が、頭のなかに割って入ってくる。
だが、フェルはその呼びかけに反応しなかった。
ただ、この世の終わりのような空洞の目を浮かべ、フェルは両手で自分の頭をぐっと抱え込む。
足腰の力が完全に抜け落ち、その場にぐにゃりと縮こまった。
「あぁ…あぁぁぁ……ぁああっ――――――!!!」
人間の発声器官の限界を超えたような断末魔の絶叫が図書館の天井を震わせ、そして――プツリと、糸が切れたように唐突に止んだ。
シン……、と静まり返る空間。
フェルは、頭を抱えていた両手を力無く、まるで泥人形のパーツのようにパッと床へと落とした。
「フェル……? 」
震えるパンドラの声が響くなか、フェルはゆっくりと、ギクシャクした動きでその正気のないひどい顔を上げ、こう呟くのだった。
「オレは、いったい……。」
『誰なんだ。』
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