第33話 水月のソリスト
月光がルミネーアの屋上、静寂の水園の水面を、まるで銀の絵の具を溶かしたかのように優しく揺らす。
そこは夜空の星々をそのまま映し込んだかのように水で満たされた広大な庭園であり、艶やかな睡蓮や瑞々しい水草が水面を美しく彩っていた。
そして、その幻想的な空間の真ん中には、ひっそりと静まり返る一つの石造りの墓標がぽつんと佇んでいる。
パンドラが水の上を一歩踏み出すたびに、足元から幾重もの波紋が広がっていく。
彼女はやがてその墓標の前にたどり着くと、右足を引き、右手を胸の前に添えて、凛としたお上品なお辞儀をした。
古びた墓標の表面には、長い年月と風雨にさらされて消えかけた文字で、かつての偉大な足跡が刻まれている。
「――師匠……あなたの予言のとおり、フェルが来てくれました……。でも、千二百五十七年も一人で待たされるなんて聞いてませんよ。」
パンドラは儚げに、それでいてどこか愛おしそうに墓標に向けて笑いかける。
そして、目の前の冷たい石にそっと右手を乗せ、薄れた文字をなぞるようにスッと指を滑らせて、静かに目を閉じた。
目を閉じたパンドラの脳裏、その記憶の深層には、懐かしい幻影が鮮やかに蘇る。
そこには、水色の長髪に渦を巻くような癖毛をたくさんつけ、太陽のように無邪気にかつてと変わらぬ笑顔を浮かべる少女――大賢者ステラの姿があった。
「今でも、信じられないな。師匠、いきなり『あーし、明日死ぬからよろしくね〜。』って……そんな軽々しく言われても困りますよ……。」
瞼の裏で微笑む師の面影に語りかけながら、パンドラの胸の奥で、甘くそして切ない痛みがチクリと波打つ。
周囲の情景は、まるで彼女の孤独な歴史を物語るかのように静まり返っていた。
夜空に浮かぶ満月が、雲海の彼方から冷たくも美しい青白い光を放ち、水面を鏡のように照らし出す。
水草が夜風に揺れてかすかな葉擦れの音を立てるたび、この天空の遺跡が背負ってきた途方もない時間の重みが、ひんやりとした空気となって肌を撫でつけていく。
静寂のなかに響くのは、ただパンドラの吐息と、かすかな水音だけだった。
その様子を、フェルは冷え切った石柱の影に隠れてじっと見つめていた。
大浴場から上がったあと、今後について整理したいこともありリゼットを探したところ、彼女は三階層の客室で手足を大の字に広げだらしなくも大いびきをかいていた。
フェルはそこですぐ寝る気にはなれず、夜風にあたろうと屋上へ向かったのだ。
しかし、目の前で繰り広げられている私的な光景を目の当たりにして、フェルはうっかり足を踏み入れてしまったことを激しく後悔していた。
(……これは、話しかけていい雰囲気……じゃないよな。……それにしても、千二百五十七年……。)
フェルは複雑な思いを抱えながら、そっと右手を顎にやる。
パンドラはその途方もない時の中で、誰もいないこの天空の遺跡にたった一人で残り、師匠の遺言と予言を守ってフェルが訪れるのをずっと待ち続けていたのだ。
頭では理解しようとするが、正直なところ、フェル自身にはその途方もない時間の重みを実感するだけの現実味がなかった。
フェルにとってパンドラは、ついさっき出会ったばかりの奇妙で愛らしい少女にすぎない。
なのに、パンドラはずっと前からフェルのことを知っていて、途方もない年月をかけて待ち侘びてくれていた。
その圧倒的な時間のギャップを、いきなり突きつけられてもうまく飲み込めるわけがなかった。
千二百五十七年という途方もない歳月。
その重みを、今日初めて出会ったばかりの自分が、知ったような顔で理解できるはずもない。いや、そもそも軽々しく分かったつもりになること自体が、彼女が背負ってきた孤独に対してあまりにも不誠実で、烏滸がましいことのように思えた。
待っていてくれたという彼女の言葉は事実なのだろう。
けれど、今日会ったばかりの相手に、この自分が何を返せばいいのか。
無責任に「よく頑張ったね。」と頭を撫でてやることなどできるはずもないし、そんな資格が自分にあるとも到底思えなかった。
そもそも、自分はパンドラにとっていったい何なのだろうか。
彼女のなかにいる『フェル』と、目の前にいる今の自分は、本当に同じ存在だと言えるのだろうか。
(――知らないことばかりだ。)
パンドラのことも、彼女が待ち続けた理由も、この遺跡が隠している真実も。
何もかもが分からないまま、ただ圧倒的な歴史のなかに放り出されている。
すべてを把握して寄り添ってやれたら格好はついたかもしれない。
だが、急にそんな全知全能の保護者のような振る舞いができるほど、フェルは器用にできていなかった。
むしろ、分からないからこそ中途半端に踏み込めず、ただ足元で渦巻く戸惑いを飲み込むことしかできない。それは決して冷淡さからではなく、相手の背景の大きさに気圧されているがゆえの、極めて等身大でリアルな迷いだった。
フェルは密かに、足元を漂う青白く光る波紋を眺めた。
その時だった。
「そこにいるんでしょ、フェル。」
静寂を切り裂くように、パンドラの声が冷たい夜風に乗って響き渡る。
その不意打ちの言葉に、フェルは思わず「ビクッ!」と肩を大きく跳ねさせ、隠れていた石柱の陰からバツが悪そうにゆっくりと顔を覗かせた。
「ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだ……ただ、その……。」
歯切れ悪く言い訳をしようとするフェルに対し、パンドラはゆっくりと振り返り、どこか優しく、そして救われたような穏やかな笑みを浮かべた。
「いや、全然いいよ。……ほら、フェルもこっちに来て。」
パンドラはそう言って、師匠が眠るその墓標の方へと、そっと手招きするように優しく手を向けた。
パンドラが向けた優しい手招きに応じるように、フェルは迷いを孕んだ足を一歩ずつ前へと踏み出し、冷たい石造りの墓標へと歩みを進めた。
「……触れてみて。」
静寂の水園に溶け込むような、パンドラの鈴を転がすような優しい声が聞こえる。
促されるままに、フェルは恐る恐るその古びた墓標へとそっと指先を伸ばし、冷たい石の表面に触れてみた。
その瞬間、フェルは思わず息を呑んだ。石の冷たさの奥底から、まるで微かに脈打つ心臓のような、確かな命の温もりがじんわりと指先を通じて伝わってきたからだ。
「……温かい。」
驚きに目を見張りながらそう呟くフェルに、パンドラは柔らかく微笑み返すと、墓標に触れているフェルの手のすぐ横に、自分の小さな手をそっと重ね合わせた。
「フェル、なんかごめんね。」
「え……。」
「ボクさ、色々混乱させてるよね。」
「………。」
言葉を失うフェルを包み込むように、夜の帳と静寂が辺りを支配する。
周囲の情景が、その場の空気を一層際立たせていた。
水面を渡る夜風が睡蓮の葉をそよがせ、さざ波のように立てる微かな水音が、まるで遠い過去の時間を刻む時計の針のように響き渡る。
頭上に広がる夜空では、漆黒の闇のなかで満月が青白く澄んだ光を放ち、水面にその姿を鏡のように映し出していた。
静まり返った天空の遺跡の中で、二人の周囲だけが、どこか現実離れした神秘的な時間の流れに閉ざされているかのような錯覚に陥る。
「ボクは知っていても、フェルはボクのことを知らない。今日会っていきなり運命の人なんて言われたら、誰でもそうなるよ。」
自嘲するような、それでいてどこか切なさを帯びた微笑みを残すと、パンドラはスッとその場に立ち上がった。
そして、静かに月を見上げながら、近くに横たわる古い石柱の腰掛けへと歩み寄り、そこに上品に腰を下ろす。
「だから、フェルにはボクのことを少しだけでも知ってもらいたい。」
その瞬間、雲の切れ間からこぼれ落ちた夜月の光が、スポットライトのようにピンポイントでパンドラの小さな姿を鮮やかに照らし出した。
青白い光を纏ったその姿は、まるで広大な夜空を舞台にした劇場のなかで、たった一人で過去の物語を語り始める語り手のようだった。
「今から話すのは一人の少女……いや、一人の愚かな龍人形のお話……。聞いてくれると嬉しいな。」
静かに、しかしどこか芯のあるその響きに引き寄せられるように、フェルはその光景から目を離すことができず、ただ黙って彼女の言葉を待つ姿勢をとっていた。
――今から遠い昔のお話。
嵐帝龍と三賢の戦いは終わりを迎え、傷口から血を流すようにして迎えた戦後。
世界各地に散らばった禍根の処理に奔走し、孤独な旅を続けていた一人の人間がいました。
『大賢者』ステラ・アルデバラン。
彼女がこの天空の遺跡――ルミネーアに辿り着いた時、そこにいたのは来訪者を迎える者などではなく、ただ己の役目に縛られ、塔を守護し続けるだけの生ける兵器……一人の『インドラ』と呼ばれる『龍人形』でした。
外界の者すべてを敵とみなすよう設定された龍人形は侵入者である大賢者に対し、牙を剥き、戦いを挑みました。
そして、死闘のなかで、大賢者は気づいたのです。
ただの戦闘人形として造られ、感情が凍りついていたはずの深層でひっそりと震えていた『本当の心』に。
彼女はためらいませんでした。
龍人形を救うため、己の命の綱である魔導回路そのものを犠牲にする道を選んだのです。
命を削るような禁忌の術によって龍人形の内側へと踏み込み、冷え切った心をその両腕で優しく救い出し、暴走の痛みに泣き叫ぶその心を、まるで母親のように、いや、それ以上に温かな温度で強く、強く抱きしめてくれた。
『もう泣かなくていいんだ。』
と、大賢者は無邪気な笑顔で、優しい声をかけてくれました。
その日から、龍人形は『パンドラ』という名前を新たに持つ一つの存在になりました。
大賢者は戦いの旅を終えた後も、この外界から孤立した遺跡に残り続け、どこにも行けない彼女にそっと寄り添い、共に暮らしてくれた。
それは彼女にとって、あまりにも心地よく、あまりにも眩しい、夢のような家族の時間でした。
温かな食事を分け合い、他愛のない冗談を言い合い、明日も明後年も、ずっとこの穏やかな日々が続いていくのだと――彼女は本気でそう信じて疑わなかった。
この先も、ずっとずっと、こうしていたかった。
けれど、時はあまりにも残酷でした。
あの時、魔導回路を犠牲にした代償は、想像を絶するほどに重いものでした。
体内に巡るべき魔導の奔流を失った彼女の身体は、その身に魔導溜め込み、数年の歳月をかけて、少しずつ、確実に内側から蝕まれていったのです。
毎日のように体調を崩し、それでも龍人形の前では無理をして笑ってみせる師匠の背中は、日を追うごとに小さく、儚くなっていきました。
龍人形は怯えました。
恐ろしかったのです。
この世界でたった一つの温もりが、目の前から消えてしまうかもしれないという恐怖に、毎夜一人で震えました。
そして、ある日のこと。
ついにその時は訪れました。
大賢者の命の火は、まるで風前の灯火のように、あまりにも静かに、そして抗いようもなく消え失せたのです。
その時、龍人形の世界を形作っていたすべてが、音を立てて崩れ去りました。
頭が狂いそうになるほどの絶望のなかで、来る日も、来る日も、彼女は冷たくなった大賢者の傍らで泣き続けました。
どれだけ涙を流しても、どれだけ名前を叫んでも、二度と彼女が目を開けて「どうしたぁパンドラ、嫌なことでもあったのかい。」と笑いかけてくれることはありませんでした。
孤独という名の底なし沼が、再び私を呑み込んでいったのです。
誰もいない。
何も聞こえない。
ただ一人、果てしない時間を刻むだけのルミネーアの中で、 彼女は名の通り人形のようにただ過ごしていました。
――けれど。
ある日のこと。
彼女は、大賢者が遺した一冊の日記を見つけました。
ページをめくり、震える指でその文字を辿っていったとき、彼女はその最後の最後に、自分へ向けて書き残された最後の予言を見つけたのです。
そこに記されていたのは、こんな言葉でした。
『これはあーしが君に残す、最後の予言だ!
いつの日か、君をこの鳥籠から救う運命の人が現れる。
その名は……フェル!
転生者の変わった男だ。
できることなら、あーしも会ってみたかったがぁ……考えても仕方がないか。
君はこれから永遠とも思える孤独な時を過ごすることになるだろう。
でもね、絶対に諦めてはいけないよ。
君の明日は必ず来るから。
あーしが保証する!
……元気でね。
あーしの可愛い愛弟子。』
その文字を見た瞬間、私の胸の奥で、止まっていた時間が再び動き出しました。
大賢者は、彼女の未来を見ていてくれた。
『ボク』の孤独が終わる日を、信じていてくれた。
だからボクは、決意したのです。
どんなに長い夜が続こうとも、どんなに途方もない孤独に押しつぶされそうになっても、絶対に諦めない。
『師匠』が遺してくれた『明日』を、この手で迎えに行くために。
こうして、ボクはその日を待ちわびることにしました。
来る日も来る日も、師匠の言葉を胸に抱きながら……。
千二百五十七年の時を、ただ、ひたすらに待続けたのです。
静まり返った夜空の下、パンドラの声がふっと消え入るように止んだ。
スポットライトのように彼女を照らしていた月光が、雲の切れ間に隠れてふわりと辺りの陰影を戻す。
語り終えた彼女の横顔には、長い歳月の重みと、それを乗り越えて今ここに『彼』がいるという奇跡への実感が、切なさと微かな安堵の入り混じった表情となって浮かんでいた。
圧倒的な歴史の重さと、あまりにも純粋で深すぎる少女の執念。
そのすべてを聞き届けたフェルは、言葉を失った。
千二百五十七年という、人間の尺度では到底測ることのでえない途方もない孤独。
そのすべてが、目の前の小さな少女の細い肩に乗りかかっていたのだと思うと、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
自分はただ、気がつけばこの世界に転生していて、成り行きで毎日を必死に生きているだけの、ごく普通の男にすぎない。
そんな自分が、彼女の人生においては『世界を救う救世主』であり、すべての希望そのものだったのだ。
重すぎる、と最初は思った。
あまりにも不条理で、あまりにも過酷な巡り合わせに気圧されそうになった。
けれど――。
今、目の前で静かに微笑んでいるパンドラの瞳には、かつてのような底知れない闇や冷たさは微塵も感じられなかった。
そこにあるのは、長い長い冬が終わったあとに差し込む、春の日のような穏やかな光だけだった。
彼女は、ただ一人で待ち続けたのだ。
誰もいないこの天空の鳥籠で、消えゆく師の温もりを胸に抱きながら、いつか訪れると信じたその日を。
そして、その『未来』は今、こうして自分の足でこの場所にたどり着き、彼女の隣に立っている。
(……俺にできることは、大層な救済なんかじゃない。でも……。)
フェルはそっと息を吸い込むと、頭の中で渦巻いていた迷いや戸惑いを、ゆっくりと手放すように吐き出した。
今日出会ったばかりだとか、事情が大きすぎるとか、そんなことはもうどうだっていい。
今この瞬間、泣きそうなほど健気に笑うこの少女の隣にいるのは、他の誰でもない、この『フェル』なのだから。
すべての過去を肯定するように、フェルはふっと口元を緩め、彼女へと言葉を返そうと口を開きかけた。
だが、その言葉を遮るように、パンドラはふわりと軽やかに立ち上がった。
彼女は夜風に揺れる青いコートの裾を翻し、まるでこれから最高の舞台が始まるのだと告げるかのように、いたずらっぽく、そしてどこか誇らしげに微笑みながらこう呟いたのだ。
「ボクは、この遺跡でただ一人、終わることのない役を演じ続ける『水月のソリスト』……。――ボクはね、君が来るのを、待っていたのさぁ!」
その声は、静まり返った夜の水面に波紋を広げるように、どこまでも美しく響き渡った。
次の瞬間、パンドラはくるりと鮮やかなステップを踏み、驚くフェルの目の前へとスルスルと歩み寄る。
そして、戸惑う彼の大きな右手を、まるでダンスの誘いを受け入れるかのように、その両手でそっと優しく包み込んだ。
「えっ……ちょっ!?」
慌てて声を漏らすフェルをよそに、パンドラは嬉しそうにふっと目を細める。
――次の瞬間。
二人が立つ静寂の水園の水面が、まるで意思を持ったかのように一斉に微光を帯びて揺らぎ始めた。
シュプウン……と、夜空の星屑をすくい上げたかのような無数のサファイア色の水の滴が、パンドラのステップに合わせて水面からふわりと宙へと舞い上がる。
それはまるで、二人の門出を祝福するために夜空へ放たれた宝石のシャワーのようだった。
夜空の雲の切れ間から、再び満月がその姿を現す。
まるで二人のために用意された特等席のスポットライトのように、眩いばかりの純白の月光が、水面に浮かぶ石畳の舞台と、そこに立つ二人をすっぽりと包み込むように真っ直ぐに降り注いだ。
月光のヴェールと、周囲を舞うサファイアの水の滴が複雑な光の屈折を生み出し、辺り一面を幻想的でどこか温かな青銀色の輝きで満たしていく。
「ほら、フェル!せっかくの夜なんだ、踊ろう!」
パンドラは満面の、月のように眩しい笑顔をフェルに向ける。
そのあまりの純粋な輝きに、フェルは先ほどまでの硬さが嘘のようにスッと解きほぐされていくのを感じた。
やれやれ、と心の中で小さく苦笑いを浮かべながらも、フェルは観念したようにそっと息を吐き、パンドラの腰にそっと右手を添えた。
「……もちろん付き合うさ!」
フェルのその言葉を聞いた瞬間、パンドラの瞳が嬉しそうにパァッと満開の花のように輝いた。
――ゴゴゴ……と遠くで眠っていた天空の遺跡が、二人の足並みに合わせるように優しく鼓動を打つ。
千二百五十七年の孤独な夜を越え、月光とサファイアの水の滴に彩られた幻想的な舞台の真ん中で、フェルとパンドラの二人による、静かで、そしてどこか温かな舞踏の幕がゆっくりと上がっていったのだった。
――夜空の星々が、まるで二人のステップを祝福するかのように、一際まばゆい光を放ちながら夜風に揺られていた。
次回 第34話 フェル




