第32話 エンリル
「ジャジャジァーン!ようこそ知恵の塔へ!」
パンドラは満面の笑顔でくるりと鮮やかに回ると、両手を広げて自信満々に決めポーズをしてみせた。
「「…………。」」
しかし、フェルとリゼットの二人は、目の前に広がっている光景を目の当たりにして、なんとも言い難い絶妙な反応を示した。
「これは……どう反応するのが正解なんだ?」
「ホテル……だね。」
入り口の扉をくぐったそのすぐ目の前に広がっていたのは、古の観測基地や殺伐とした遺跡のイメージとは微塵もかすりもしない、西洋クラシック風の装飾や高級なアンティーク家具が上品に揃えられた、まるで格式高い高級ホテルのような広々としたロビーそのものだった。
(これが観測基地……鏖殺の遺跡の姿なのか……?)
フェルは、クローデルから聞いていた伝説の数々を思い出し、少し聞いて呆れたというように深い溜息をこぼす。
すると、パンドラは二人のそんな呆気にとられた様子など気にする素振りも見せず、むしろ「驚くのはまだ早い!」と言わんばかりにふんっと誇らしげに胸を張った。
「二階層は食事処、三階層は客室! 四階層が知恵の図書館で、五階層が知恵の蔵、六階層が屋上! そして……地下一階が大浴場になっているよ!」
「な、なにぃ!!!大浴場だと!!!!」
「いや、気になるのそこなんかい!」
『大浴場』という予想外すぎるワードに過剰に反応し、目を輝かせて前のめりになるフェルに対し、リゼットのキレのあるツッコミが間髪入れずに炸裂する。
「ちょっと待ってよ。なんで観測基地なんて大層な名前がついているのに、中身は完全に宿泊施設になってるの?」
リゼットが問いかけと、パンドラは少しだけ視線を天井へと泳がせ、気まずそうに頬をポリポリとかいた。
「んーとね。元々、この塔自体はほぼ全体が歴史の記録・保管所だったんだけど……師匠が勝手に色々といじり倒して、気がついたらこんな感じの居住スペースにね。」
「いや、どういじったらこうなるんだよ!」
「ここに来てからつくづく思うんだけど……ぶっ飛んでるね、パンドラの先生は……。」
リゼットがやれやれといった調子で笑いを浮かべると、その言葉をきっかけに、パンドラはふっとわずかに目を逸らした。
「そう、だね……。」
小さく呟いたその声には、先ほどまでの底抜けに明るい調子が綺麗に消え失せていた。
「あ、いや……別に貶しているとかじゃなくてね! いい意味で、その、型破りで素晴らしいって意味だから!」
リゼットはパンドラの微妙な変化を察し、慌てて両手をブンブンと振ってフォローを入れる。
「うんうん、本当におかしいよ。師匠は……。」
パンドラはフッと小さく自嘲気味に笑ってみせた。
だが、その表情の奥には、隠しきれないほどの痛切な寂しさと、どうしようもない切なさが深く滲み出ており、明らかに無理をしているのが痛いほど伝わってきた。
彼女はそのまま歩みを進めると、ロビーの端にある大きなバルコニーの窓を開け、夜の闇に浮かぶ冷たい月へとそっと視線を向けた。
「いつも何を考えているのか全然わからない人だった……。何かと思えば急にパタッと寝るし……でも、笑った時の顔は誰よりも優しかった……本当におかしい人。」
ぽつり、ぽつりと零れ落ちる言葉。
窓辺から差し込む青白い月光が、少女の小さな背中を包み込み、一層その輪郭を寂しげに際立たせていく。
その孤独な後ろ姿を目の当たりにして、フェルとリゼットは、今までのパンドラからは決して感じることのなかった、あまりにも深く途方もない孤独の影をまざまざと見せつけられた思いがした。
「パンドラ……。」
フェルが思わず彼女の名を低く呟く。
その気配に気づいてパンドラがゆっくりと振り返ったその瞬間、彼女の瞳から、こぼれ落ちた一粒の涙の雫が、きらきらと光りながら床へと舞い散った。
「えへへ……ごめんね、いきなり変なこと言っちゃって。……こんな姿を見せたら、師匠にも怒られちゃう……。笑顔、笑顔っ。」
パンドラは無理やり両手で自分の頬をパチンと叩き、いつもの作り笑いを浮かべようとする。しかし、潤んだ瞳の縁は赤く染まったままだ。
彼女はそのままふらりとフェルに歩み寄ると、まるで縋るように、彼の大きな右手をそっと両手で包み込み、ぎゅっと優しく握りしめた。
フェルは、その場に立ち尽くしたまま、何も言葉を発することができなかった。
頭の中では、気の利いた慰めの言葉の一つや二つ、浮かんできていた。
けれど、今のパンドラに対して、そんな薄っぺらい言葉を投げかけたところで何の意味もないことくらい分かっていた。
それに、「予言で自分のことを知っているとは言え、ついさっき知り合ったばかりの自分が、安易な言葉をかけていい資格などあるのだろうか。」という自嘲と躊躇いが、フェルの思考の海でぐるぐると渦を巻いて離れない。
何かをしてやりたい。
この少女の抱える痛みを少しでも軽くしてやりたい。
けれど、今の自分には、彼女のためにかけてやれる言葉なんて何一つ持ち合わせていない。
ただただ、目の前で震える少女の小さな手から伝わってくる温もりを受け止め、その冷えた手を不器用ながらも静かに握り返すことしかできない――そのどうしようもない無力感ともどかしさが、フェルの胸の奥を重く、締め付けるように圧迫していった。
しばらくの沈黙の後、これ以上重い空気を引きずりたくないと思ったのか、パンドラはふっと息を吐き出し、まるで何事もなかったかのようにパッと顔を明るくさせた。
「えへへ……なんだか、急にしんみりしちゃったね!」
パンドラはわざとらしく両手を軽く合わせ、場の空気を無理やり切り替えるように声を弾ませる。
その健気な振る舞いに、フェルは複雑な胸中を押し隠しながら、ただ静かにうなずいた。
その後、これ以上感傷的な雰囲気に浸らせまいとでも言うように、パンドラはパタパタと足音を軽やかに響かせながら、突然思い出したかのように両手をパンと叩いた。
「そうだ! フェル、リゼット、お腹減ってない?」
「まぁ……。」
「……確かにぺこぺこだよ。」
言われてみれば、ここへ来てからまとわりつくような激しい疲労感と共に、急激な空腹感が胃の腑から込み上げてくるのを感じる。
(これも、観測基地全体にかけられた呪いによる弱体化の影響ってやつか……。)
フェルが内心で遠い目をしていると、パンドラは満面の笑みを浮かべて嬉しそうに宣言した。
「よぉし! じゃあ、ルームツ……オッホン! 基地の探索はまた明日にして、まずは温かい夜ご飯でもみんなで食べに行こうよ!」
「今、盛大に『ルームツアー』って言いそうになったよな!?」
さっきまでの重い空気などどこへやら、思わずフェルは鋭いツッコミを入れ返していた。
そのやり取りを横で見ながら、リゼットもふっと肩の力を抜き、といった表情で小さく笑みをこぼした。
こうして、少しの切なさと温かさを胸に抱きながら、一行は夕食をとるために『二階層』の食事処へと足を向けたのだった。
「あ゛ぁ゛〜……生き返るぅ……。」
重厚な石造りのアーチをくぐった先、地下一階にひっそりと佇む大浴場。
その広大な空間にこだまする歓喜の声を上げながら、フェルは湯気立ち込める巨大な湯船へと肩まで豪快に体を沈めていった。
壁面に施された絢爛豪華なライオンらしき顔の装飾の口からは、轟音とともに絶えずお湯が注がれている。
その温度は約四十二度。
湯船を満たすのは、肌触りが極めて滑らかな微細気泡を含んだ『純白温泉』であり、鼻腔をくすぐる上品で芳醇な香りが、疲弊した神経を心地よく解きほぐしていく。
「ふぅ……。この大理石造りのクラシックな風呂のしつらえといい、極上の寛ぎを理解しているあたり、『大賢者ステラ』とはめちゃくちゃウマが合いそうだ……。」
フェルは湯船の縁に腕を預け、天井の吹き抜けから雲海と夜空にぽっかりと浮かぶ満月を眺めながら、心の底からしみじみと呟いた。
知っての通り、フェルは転生前からの筋金入りの『温泉・お風呂愛好家』である。
ただ浸かるだけにとどまらず、彼の脳内では瞬時にこの湯の分析が始まっている。
この微白濁した極上の湯質は、豊富な重曹成分が皮脂を乳化させて古い角質を優しく流す『美肌の湯』のそれであり、さらに微量の硫酸塩泉的な効能も混ざっているため、筋肉の深部にまで蓄積した疲労物質やコリを物理的かつ化学的にスルスルと流し去ってくれる。
しかもシルクのような超微細バブルによる温浴効果(カプサイシン的な血流促進作用)で、芯からポカポカと温まるという、まさに至高の配合バランスなのだ。
「いやぁ、素晴らしい……。血流のポンプ作用が促進されて、全身の毛細血管まで酸素と栄養がスッと行き渡るのがわかる。メタケイ酸も十分に含まれていそうなこのトロリとした肌触り……毎日でも通いたいわ……。」
独り言をゴタゴタと言いながら、フェルは究極の幸福感に浸る。
やがて、バシャッと景気よく顔にお湯をパシャリとかけると、濡れた前髪をかき上げ、湯船の縁にたたんだタオルを枕がわりに敷き、ふぅ……と長いため息とともに全身の力を抜き、虚空の天井を見上げた。
(それにしても……さっきパンドラが振る舞ってくれた晩ご飯、めちゃくちゃ美味しかったな……。)
ふと、先ほど食事処で繰り広げられた光景が頭によぎる。
「お待たせしましたぁ! 本日の特製ディナーコースだよ!」
パンドラはフリル付きの美しいエプロンをキュッと締め、どこか得意げに胸を張りながら、次々と皿をテーブルに並べていけた。
「前菜は、星見トマトと白花野菜のマリネ。
アマツブハーブをアクセントに。
次に、ゴールデンパンプキンのポタージュ。
メインは、レッドワイバーンのロースト。
黒葡萄のソースを添えて。
デザートは、ユニコーンミルクのシフォンケーキ。
蜜の香りとともに。
でございます。」
流暢かつ完璧なフルコースの説明を終えると、パンドラは満面の笑みで「どうだっ!」とばかりに腰に手を当てて胸を反らせた。
「いや、本格的だな!?」
(……あんなにうまい飯を腹一杯食って、こんな最高すぎる大浴場に浸かりながら、雲海と月を眺めるなんて……。なんだか、フェーネの街で留守番しているみんなに申し訳なくなってくるな……。極楽すぎてバチが当たりそうだ……。)
ポカポカと全身が心地よい温もりに包まれ、シルクの湯の優しさが疲労しきった筋肉や関節の芯からコリをほぐしていく。
あまりの快適さに、フェルはふにゃふにゃと緩みきった顔のまま、しばしの間、極上のリラックスタイムを存分に満喫していた。
――やがて、「そろそろ上がるか。」とフェルは湯船から出ようと腰を浮かせた。
だがその時、突如として先ほどまでのポカポカとした心地よさが嘘のように吹き飛ぶほどの、強烈な気だるさが全身を鉛のように重く縛り付ける。
フラフラと視界の端が激しくぼやけ、湯気立ち込める浴室の景色がぐにゃりと歪んで揺らいでいくのを感じた。
(あれ……急に視界がかすんんで……。)
うっすらと開いていた瞼の裏で、世界が急激に暗くなっていく。
それはただの気のせいなどではなく、抗いがたいほどの途方もない眠気が、まるで津波のように突如として脳天から足元へ向かって全身を急襲してきたのだ。
思考の輪郭がみるみるうちに溶けていき、次に何を考えていたかすらスルスルと頭から抜け落ちていく。
徐々に意識が泥のように朦朧とし、自分でも何が起きているのかが全く理解できない。
のぼせたのではないことだけは確かだった。
頭がカーッと熱くなっているわけではなく、むしろ全身の血の気が一気に引いていくような、抗うことのできない凄まじい重力が体を内側から引っ張っている。
(ま、ずい……この感じは……ひょっとして、『弱体化』の呪いの影響……。)
頭の片隅でかろうじて残り香のような理性だけがその原因を疑うが、体に指令を送る神経はすでにほとんどが言うことを聞かなくなっている。
どうにかしてこの場から這い上がらなければならないと、フェルは最後の力を振り絞るようにグッと歯を食いしばり、必死に立ち上がろうと足を踏ん張り、どうにか左手で縁の大理石にしがみつこうとした。
しかし――手すりを掴んだその手に、ピクリとも力が入らない。
指先からスッと力が抜け落ち、全身の骨格が急速にその形を維持できなくなっていく。
「くっ……体が……。」
かすれた声を絞り出す間もなく、フェルを支えていた人型としての保形能力がプツリと完全に途切れた。
パシャン、と波紋が広がる音と共に、フェルの体はそのまま力なく湯船の中へと倒れ込む。
そこには人間の姿はなく、プカプカと無防備に浮かぶ、お馴染みの『クラゲのような元のスライムの姿』がぽつんと取り残されていた。
完全に意識を失ったフェルは、そのまま波間に漂うようにプカプカと温かな純白の湯の上に浮かんだまま、動かなくなってしまった。
「………。」
まぶたの裏を刺すような、どこまでも白く透き通る光。その眩しさに顔をしかめながら、フェルはゆっくりと上半身を起こした。
「ここは……あの時と同じ……。」
あたりを見渡すと、視界の隅々まで広がるのは、ルミネーアの入り口で気を失った時にも迷い込んだ、見覚えのある純白の世界だった。
上も下も、果てしない水平の彼方まで、ただただ混じり気のない白光だけが満ち満ちている。
フェルは頭を抱えながら立ち上がり、ポリポリと後ろ髪をかいた。
「ここは一体なんなんだ……さっきまで風呂に入ってたはずなのに……。」
「ここは天理の回廊さ。」
唐突に、空間そのものが直接語りかけてくるような不思議な声が響き渡る。
その声が耳に届いた瞬間、フェルの背筋にビクリと耐えがたい冷たいものが走った。
先ほどまでのぼんやりとした眠気が一気に吹き飛び、代わりに背後へと再び、あの時と同じ途方もない野望と、世界を容易く捻じ伏せられそうな底知れぬ圧倒的な力が入り混じった、尋常ではない気配が重くのしかかってくる。
フェルは咄嗟に身構えながら、ぐっと振り返った。
いつの間に現れたのか、そこにはあの頭から足元まですっぽりと神秘的な純白のローブを纏った人影が、音もなく佇んでいた。
「……すみませんが、どなたですか?」
警戒の色を隠しながら、フェルは純粋な疑問を真っ直ぐに投げかける。
すると、ローブの人影はふっと軽く肩を揺らし、やおらフードの端に手をかけた。
「見ての通りさ⭐︎」
どこか気取っているようで、それでいて少し鼻につくような軽妙な声色とともに、その人物は両手を腰にぴたりと当てて胸を張った。
「俺っちはエンリル。君らの言うところの神様だよ。」
「なる……ほど?」
あまりにもサラリと飛び出した『神様』という単語の大きさに、フェルは思わず間の抜けた生返事を返す。
エンリルを名乗るその存在は、深いフードをすっと脱ぎ捨てた。
そこに現れたのは、男とも女ともつかない、年齢すら測れないほど美しく整った中性的な顔立ちだった。
「君の行動は、いつも予想外で面白いね。」
その端整な顔には、すべてを見透かしているかのような不敵で楽しげな笑みが浮かんでいる。
「見ていたんですか。」
フェルは少し怪訝に眉をひそめ、不満げな視線をぶつけた。
「そうさ! いやぁ、五大覇王と知り合い、魔物を次々とまとめ上げ、人と魔物の共生を目指し始めたと思ったら、今度は目ぇ剥いて邪竜を討伐してしまう。こんな最高なエンタメ、見ない方が損じゃないかい?」
悪びれる様子もなくケラケラと笑うエンリルを見て、フェルは思わずぐっと顔を険しく歪ませる。
自分のこれまでの軌跡が、まるでどこかの娯楽劇場の特等席で観劇でもするかのように面白おかしく消費されていたと知れば、腹が立つのも無理はない。
むしろ呆れすら通り越して怒りが戻ってくるほどだった。
「俺っちね〜、君を気に入ったから助けてあげることにしたんだぁ〜♪ つまり、俺っちは君の最強の味方ってこぉ〜と⭐︎ Do you understand?」
「……つまり、お前はこの世界の神様で、俺の生き様が気に入ったから便宜を図ってくれ
る……ってことか?」
「YE〜S! 話が早くて助かるねぇ!」
エンリルの軽すぎる肯定に、フェルはたまらず深く、大きくため息をついた。
「じゃあ、二つ聞かせてくれ。俺の体は今どうなってんだ? あと、この『天理の回廊』って場所は何なんだよ?」
フェルの問いかけに、エンリルはふわり、ふわりと足元を浮かせながら、まるで好奇心旺盛な子供のようにフェルの周りをぐるぐると円を描くように回り始めた。
「まず君の体についてだけど、心配いらないよ。無事だし生きてるさ。ただ、あの観測基地の『呪い』の影響で、極上の眠気が強制的に引き起こされているだけさね。『天理の回廊』については……そうだなァ、例えるなら『世界から隔離された無の空間』ってところかな!君は今、夢を通じてここへ来ているのさ。」
「そうか……。生きてるなら一安心だ……。」
フェルは胸を撫で下ろしてほっと息を漏らす。
「あれれ〜? もしかして、いよいよ『あっちの世界』に逝っちまったって思ったんじゃないかい? どうなのどうなの?教えてよ〜?」
エンリルはニヤニヤと意地悪く口元を両手で押さえ、面白がるようにぴょんっとフェルの目の前へ至近距離まで跳ねるように迫ってきた。
完璧に煽りに入っているその態度に、フェルのこめかみがピキリと青筋を立てて引きつる。
「あぁ! そうだよ! 死んだと思ったさ! 悪いかよ!!」
フェルは思わず声を荒らげ、真っ白な虚空に向かって鋭いツッコミを叩きつける。
「いやいやぁ〜、全然悪いことじゃないよ。ただ俺っちが揶揄いたかっただけさ⭐︎」
エンリルはケラケラと楽しげに笑い声を上げながら、ひらりと身を翻す。
フェルはその軽薄すぎる神様の態度に盛大に呆れ返り、その場にふっとあぐらをかくと、片膝を立てて肘を乗せ、やれやれと言わんばかりに不機嫌そうな視線を向けた。
「なあ……お前、これまでに性格が歪んでるだとか、趣味が悪いだとかって言われたことないか?」
「ないね。この『天理の回廊』には俺っちしかいないから。」
「そうかよ……一人ぼっちでよっぽど暇を持て余してんだな。」
フェルは思いっきり不貞腐れた態度を取り、わざとらしくそっぽを向いて鼻を鳴らす。
「おや、珍しく冷たいねぇ。でも、こうして退屈しのぎに付き合ってくれる君は、俺っちにとって最高の娯楽……っとと、可愛いお気に入りさ!」
エンリルは悪びれる様子もなくニコニコと微笑むと、急に真面目な――いや、どこか含みのある神秘的なトーンへと声を切り替えた。
「ま、今回はたっぷり楽しませてもらったよ。……さ、そろそろ目を覚ます時間だ。」
「おい、ちょっと待て。俺を助けるってさっき言ったよな? それで終わりか?」
置いていかれそうになったフェルが慌てて立ち上がろうとすると、エンリルはフワリと宙に浮いたまま、優雅に片手を差し出した。
「あぁ、もちろん助けるさ。これから先もね。……これから定期的に、君が眠りに落ちるたび、俺っちは君をここへ呼び入れることになるだろうさ。その度に、君が生き残るためのヒントや、ちょっとした便宜を図ってあげる。まぁ、君がその通りに行動するかどうかは自由だけどさ……少なくとも、俺っちの言うことに従ってさえいれば、世界の理から外れた理不尽に刈り取られるような大惨事は、大抵うまく回避できるようになるのさ。」
エンリルのその言葉には、ただの気まぐれではない、強大な運命を操る者の底知れぬ神性が宿っていた。
フェルはその真剣な響きに、思わず言葉を飲み込み、じっとエンリルの顔を見据える。
「それとね、一つだけ忠告しておくよ。」
エンリルは人差し指をぴっと立て、茶目っ気を含んだ笑みの中に鋭い光を宿した。
「俺っちの存在や、ここで交わした会話のことは、なるべく他の誰にも――そう、あの勇者の『リゼット』や、お仲間にも極力内緒にしておいたほうがいい。」
「……どうしてだ?」
「秘密のほうが、物語は圧倒的に面白いからさ! ……それに、神様の寵愛なんて知られたら、変なところで面倒事に巻き込まれちゃうかもしれないだろ? ま、せいぜい気を付けるこったね。」
フッと、エンリルの姿が朝霧のように輪郭をぼやかしていく。
足元から広がる純白の光が、まるで世界そのものを塗り替えるかのように、圧倒的な輝きを帯びて急速に視界を埋め尽くしていった。
「じゃあね、フェル君。また面白い物語を見せておくれよ……!」
「おい、エンリル……っ!」
フェルが何かを言い返そうとしたその瞬間、世界が真っ白な光の奔流にかき消された。
「……っ!!」
激しい息とともに、フェルはパッと大きく瞼を開いた。
鼻腔をくすぐるのは、先ほどまで楽しんでいたライオンの装飾から流れ出るお湯の香り。
肌を撫でるのは、大浴場の湿り気を帯びた心地よい温気だった。
(……ここは……戻ってきたのか。)
見上げた天井は、先ほどの真っ白な虚空ではなく、ルミネーアのクラシックで重厚な石造りのアーチを描いていた。
どうやら、すっかり意識を失って湯船に浮かんでいたスライムの体は、いつの間にか再び人間の姿へと戻っていたらしい。
「……妙なやつだったな。」
フェルは頭を軽く振りながら、濡れた髪をざっと手櫛でかき上げる。
あの一風変わった自称『神様』との出会いと、これから定期的に訪れるという不可解な約束。それが胸のつかえのように残りはしたが、不思議と体の奥底にあった倦怠感や疲労は綺麗に嘘のように消え去り、驚くほど軽やかになっていた。
エンリルの言う『便宜』が、これからフェルの運命にどう作用していくのか――。
まだ見ぬ波乱の予感を胸に抱きながら、フェルは湯船の縁に手をつき、静かに立ち上がるのだった。
次回 第33話 水月のソリスト




