第27話 猫と兎
フェルと別れ、エルリアの広大な大通りを一人で歩くことになったビッツ。
目の前に広がる活気ある光景や、色鮮やかな露店に並ぶ珍しい武具の数々は、彼にとってどれも新鮮で眩しいものばかりだった。
しかし、そんなビッツの胸のうちは、次第に冷や汗で満たされていく。
(どうしよう……。)
ビッツが抱えていた最大の問題――それは、彼は里の外での買い物というものを全く経験したことがなかったという点だった。
元の生活圏内では、基本的に物々交換や集落内での共有が主であり、硬貨を使った『商い』のルールや、相場という概念をほとんど知らなかったのだ。
街をただ彷徨い歩いた挙句、結局元の出発点である巨大な女神像の噴水へと戻ってきてしまったビッツは、手渡された銀貨の入った小袋をトボトボと取り出し、途方に暮れるように呟いた。
「この銀貨どう使うのが正解なんでしょう……。」
ビッツがしげしげと噴水の縁に腰掛けお腹を鳴らしていたその時、ふわりと香ばしい肉の焼ける匂いが鼻腔をくすぐった。
見れば、すぐ近くの路地に一軒の串焼きの屋台が出ている。
緊張により空腹を迎えていたビッツは、吸い寄せられるようにその屋台へとフラフラと歩み寄った。
「す、すみません、これと……あとこれ、ください!」
七輪のような魔導具に並ぶ美味しそうな串を指差しながら、ビッツは緊張で上ずった声を出す。
屋台の店主は、いかにも胡散臭い笑みを浮かべながらチラリとビッツの様子を伺う。
そこで、ビッツが字(値札)を読めていないことを見抜いた瞬間、店主は「フッ。」と笑う。
「あいよ! じゃあ合わせて銀貨二枚ね。」
「わ、わかりました。」
ビッツは不慣れな様子でフェルから貰ったばかりの小袋から銀貨を取り出そうとしたその時だった。
「――ちょっと待ちな。」
パシッ、と乾いた音を立てて、ビッツの銀貨を持とうとした手首が誰かの大きな手によってガシッと掴まれた。
「……!?」
ビッツがハッと顔を上げると、そこには深く中折れ帽を被り、どこか面倒臭そうな、それでいて鋭い青い瞳を宿した一人の猫の獣人が立っていた。
「ダ、ダルダーニャ……。」
店主はその獣人を見て罰が悪そうに顔を歪める。
ダルダーニャはビッツを一瞥すると、そのまま冷ややかな視線を屋台の店主へと移す。
その細い目から放たれたただならぬ気迫に、店主はビクッと肩を跳ねさせた。
「店主さんよ。ガキを相手にボッタクリとは、いい度胸をしてるじゃねぇか。相場はせいぜい銅貨五枚(日本円にして五百円程度。)程度だろ。それは悪手ってもんじゃねぇのか?」
ダルダーニャの低く静かな声に、店主は青ざめ、滝のような冷や汗を流しながら激しく首を横に振った。
「す、すまない! つい出来心で……! お、お代は結構だ! だから、その……見逃してくれ!」
店主の慌てふためく様子を見て、ダルダーニャはやれやれと肩をすくめ、ビッツの手首からそっと手を離した。
「……次からはするんじゃねぇぞ。次があったら、その商売道具ごとこの屋台をひっくり返すからな。」
「は、はいぃぃ!!」
恐怖に震える店主から、ダルダーニャは手際よく香ばしい肉の串を二本ひったくるように受け取ると、それを呆然と見つめるビッツの手にポンと押し付けた。
そして、それ以上何も言わずに、気だるげな足取りでそのままスタスタと歩き出してしまう。
「あ、あの……!」
ビッツは手に持った温かい肉串を見下ろし、慌ててダルダーニャの背中を追いかけた。
まだ硬い石畳を踏みしめる足音が響く中、ビッツは小走りでその猫の獣人の後ろ姿に追いつき、大きく息を弾ませながら声を張り上げる。
「待ってください! そこの獣人さん!」
ダルダーニャは面倒臭そうにポケットから片手だけを抜くと、ふっと振り返り、気だるげな視線をビッツに向けた。
「なんだよ坊主。」
「いえ、その……助けていただき、本当にありがとうございました!」
ビッツが深々と頭を下げると、ダルダーニャはボリボリと頭を掻きながら、小さく息を吐いた。
「別に、お礼を言われるようなことじゃねぇよ。……あのな坊主、この国は冒険者と同じくらい商人も集まるんだ。世間知らずなガキが一人で歩いてりゃ、カモにされるのがオチだ。気をつけな。」
「そうだったんですね……。俺、こういう街でお買い物をしたことがほとんどなくて、相場とかも全然わからなくて……。」
ビッツが困ったように眉をハの字に下げて苦笑いすると、ダルダーニャは細い目をさらに細め、どこか呆れたような顔をした。
(まったく、どこの田舎出身の人間だよ……。)
ダルダーニャが再び背を向けて歩き出そうとしたその瞬間、ビッツは意を決したようにその背中に向かって一歩踏み出し、勢いよく頭を下げて頼み込んだ。
「あ、あの! お願いです、……一緒に街を回っていただけませんか!?」
「は? なんで俺がガキの散歩につき合わなきゃならねぇんだ。お断りだオ・コ・ト・ワ・リ。」
即座に拒絶するダルダーニャに対し、ビッツは必死の形相で両手を合わせて懇願する。
「じ、実は……僕、文字が読めないんです! だから、看板も料金表も全然読めなくて、さっきみたいにまた変なことに巻き込まれたら……。お願いしますっ……!」
あまりにも裏表のない、あまりにもまっすぐすぎる直球の告白。
頭を下げたまま必死に食い下がるビッツの姿を目の当たりにして、ダルダーニャはしばし呆気にとられたように固まった。
やがて、その口元がふっと緩み、肩が小刻みに震え始める。
「ぷっ……ははっ、ははははは!」
ついに堪えきれなくなったように、ダルダーニャは声を上げて盛大に笑い出した。
「な、なんで笑うんですか……。」
赤面しながら慌てるビッツをよそに、ダルダーニャは涙を拭う仕草をしながら、面白そうにニヤリと口角を吊り上げる。
「いや、すまんすまん。……文字が読めねぇから助けてくれって、坊主お前、初対面の相手にそんなど正直に頼むやつなんて一度も見たことねぇよ。」
ダルダーニャはフッと息を整えると、愛用の帽子を少しだけ押し上げ、楽しげな青い瞳でビッツを見据えた。
「――気に入った。いいぜ、少しの間だけ付き合ってやるよ。」
「本当ですか! ありがとうございます!」
ビッツの顔にパッと満面の笑みが広がり、その姿を見たダルダーニャは、やれやれと首を振るいながらも、どこか満更でもなさそうな足取りで再び歩き出す。
「ほら、行くぞ。」
「はい! 」
ダルダーニャはビッツの買い物に付き合うだけではなく、そのままエルリアの街のあちこちを丁寧に案内してくれた。
ただ文字が読めないビッツのために看板や値札を読み上げるだけでなく、「この店は武器の手入れ道具が安い。」「あそこの大通りで売っている果実は美味いが、観光客はよくふっかけられるからやめておけ。」といった、街を知り尽くした者ならではの役に立つアドバイスを次々と教えてくれる。
無愛想な態度とは裏腹に、意外と面倒見の良いダルダーニャの姿に、ビッツは次第に緊張をほぐし、素直な尊敬の念を抱き始めていた。
二人は並んで色々な店を回りつつ、賑やかな人混みの中を歩きながらぽつりぽつりと会話を交わしていく。
「それにしてもダルダーニャさん、この街のことにめちゃくちゃ詳しいんですね!」
ビッツが感心したように目を丸くすると、ダルダーニャはポケットに片手を突っ込んだまま、ふっと息を吐いた。
「なに、あちこちの街を転々としてるうちに、自然と知識が肥えてくるのさ。坊主こそ、その年であちこちの街を歩いてるのか? 明らかに、このエルリアの住人じゃなさそうだが。」
「 僕は、『温泉都市フェーネ』から来ました。」
その瞬間、前を歩いていたダルダーニャの足がピタリと止まった。
彼はゆっくりと振り返ると、鋭い青い瞳をわずかに見開いてビッツの顔をじっと凝視する。
「おい、坊主……今なんて言った?」
「え? ええと、『温泉都市フェーネ』ですけど……?」
ダルダーニャは信じられないものを見るような目でビッツを上から下まで見渡し、それから思わずといった様子で小さく声をもらした。
「坊主、お前……! フェーネから来たのか!?」
ダルダーニャはしばらく絶句していたが、やがて視線をビッツの頭の上にある、ピンと立った可愛らしい兎の耳へと向けた。
「ってことは……お前、魔物なのか。俺はてっきり同じ獣人族かと思ってたぜ。」
「紛らわしい見た目ですみません……。」
ビッツが申し訳なさそうに頭を掻くと、ダルダーニャは「いや……なるほどな。」と納得したように深く腕を組んだ。
今世界中で話題の、新生都市。
その関係者とこんなところで出会うなんて思っていなかったのだろう。
少しの沈黙の後、ビッツは気を取り直すように、ふと気になっていた疑問を口にした。
「あの……ダルダーニャさんは、いつもはエルリアを拠点に活動されているんですか?」
「いや、そう言うわけじゃねぇよ。俺は一つの場所に長く居座る趣味はねぇからな。今回は、俺の今の『雇用主』がこの街に用があるって言うから、それに付き合って流れてきただけだ。」
「雇用主、ですか?」
ビッツが首をかしげると、ダルダーニャは愛用の帽子を少しだけ直しながら、どこか気だるげに答える。
「あぁ。俺はな、冒険者じゃねぇんだ。……金次第でどんな面倒ごとも引き受ける、雇われの『傭兵』さ。」
「傭兵、ですか……。」
ビッツはわずかに目を丸くしたものの、警戒するような素振りは微塵も見せなかった。
むしろ、目の前の猫の獣人が纏うどこか頼りがいのある雰囲気に、胸の内で密かな憧れのようなものを抱いていた。
「なんだ、もっと怖がるかと思ったんだが。」
「恩人を怖がるなんてしませんよ!」
ダルダーニャは気恥ずかしそうに手を首の後ろに回す。
「俺みたいな物騒な稼ぎをしてる奴は敬遠されがちなんだがな。」
ダルダーニャが片眉を上げて不思議そうに尋ねると、ビッツは照れくさそうに笑って頭を掻いた。
「そんなことありません! だってダルダーニャさんは、すごく優しい方ですから!」
「……っ。」
ストレートすぎる純粋な言葉に、ダルダーニャはわずかに言葉を詰まらせた。
不意を突かれたように視線を泳がせ、やがてめんどくさそうにボリボリと頭を掻く。
「……ガキが、そんな簡単に人を信用するもんじゃねぇよ。世の中にはもっとタチの悪い奴が山ほどいるんだからな。」
口ではそう言いながらも、その口元はどこか緩んでいた。
それから二人は、再びエルリアの賑やかな街並みへと歩き出す。
ダルダーニャは露店が並ぶ一角で、ビッツが気になっていた小さな木彫りの魔獣の置物を見つけ出すと、適正な銅貨の枚数を教える。
ビッツは教えてもらった通りに自分の手で代金を支払い、初めて自力で買い物を成功させると、まるで宝物を手に入れたかのように目を輝かせて大喜びした。
小腹が空いた時には、焼き菓子が買える屋台にビッツを案内した。
焼きたての香ばしい生地を一口かじると、甘い幸福感が口いっぱいに広がり、ビッツは「美味しいです……!」と満面の笑みを浮かべる。
ダルダーニャはそんなビッツの様子を横目で見ながら、「甘党のガキってのは、どこも一緒だな。」と、ふっと優しく目を細めた。
そうして他愛のない雑談を交わしながら街を巡っていると、いつの間にか空の色がゆっくりと変わり始めていた。
街のあちこちに灯された魔導灯の明かりが、石畳の路地に温かいオレンジ色の光を投げかけていく。
やがて二人がたどり着いたのは、朝にフェルと別れた噴水広場だった。
周囲を行き交う人々の姿も少しずつまばらになり、夕暮れの穏やかな空気が広場を包み込んでいる。
「そろそろですね……。あっという間だったなぁ。」
ビッツが名残惜しそうに空を見上げると、ダルダーニャはポケットから両手を抜き、ふっと息をついた。
「あぁ。俺もそろそろ、戻らねぇとな。」
「ダルダーニャさん、今日は本当にありがとうございました! 文字が読めない俺に付き合ってくれて、すごく楽しかったです」
ビッツが深々と頭を下げてお礼を言うと、ダルダーニャは愛用の帽子のツルを軽く指で押し上げ、どこか照れくさそうに片手をヒラヒラと振った。
「おう、達者でな。次に街で会うときは、もう少しだけ買い物上手になっとけよ。」
「はい! 」
そう言って、二人は夕暮れの噴水前で互いに背中を向け、それぞれの目的地へと歩き出した。
数分後。
約束の時間通りに女神像の噴水前へやってきたフェルは、待ち合わせの場所にポツンと立っていたビッツの姿を見つけて、ふっと息を緩めながら近づいていく。
「おっ、ビッツ。待たせたな。」
「フェル様!」
振り返ったビッツの顔は、朝の不安げな表情が嘘のように晴れやかで、生き生きとした笑顔に満ちあふれていた。
その手には、大切そうに包まれた木彫りの置物や、街で買った細々とした戦利品がしっかりと握られている。
フェルはビッツの楽しげな様子を見て、すぐにその雰囲気を察した。
「なんだか、すごく楽しそうだな。いいことあったのか?」
フェルがからかうようにクスリと笑うと、ビッツは両目を輝かせ、満面の笑みで力強くうなずいた。
「はい! とてもかっこよくて、それにすっごく優しい人に会えました!」
「そいつはよかったな。それじゃ、クローデルが手配してくれた宿に向かうぞ。」
「はいっ!」
ビッツは弾むような足取りでフェルの後ろをついていき、二人は夜の帳が下り始めたエルリアの街並みの中へと溶け込んでいくのだった。
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