第22話 里巡りだぁ!
温水の霊峰――北の地。
北地邪竜決戦の跡地には、綺麗に晴れ渡った朝焼けの光と、冬の冷たい風だけが吹き抜けていた。
先の大戦で放たれた『万象を穿つ創世の雷霆』、その直撃によって抉り取られた巨大なクレータの底に、静かに佇む一つの人影があった。
黄緑色の美しい長髪を冷たい朝風にたなびかせながら、一人の青年が、翠の瞳に静かな光を宿し、足元から拾い上げた小さな球体をしげしげと見つめている。
「……命の宝珠。フィーの『万象を穿つ創世の雷霆』の余波を受けながらも、破壊されないなんてね。」
彼はその命の宝珠をゆっくりと持ち上げ、差し込む朝陽にかざした。
眩い光を透過する宝珠の輝きを見つめながら、青年はどこか陶酔したような、それでいて冷徹な笑みを浮かべる。
「――マスターのために。」
その呟きが静寂のクレータに溶けた瞬間。
シュタッ……!
乾いた風を切り裂く軽やかな音とともに、もう一つの人影がまるで最初からそこにいたかのように舞い降りた。
「…ドルガロが復活したって聞いて見に来たんだけど……。なぜ君がここにいるんだい。エン=リド。」
声をあげたのは、黒いポンチョを身につけ、灰色の髪を風になびかせた一人の女だった。
彼女は光のない深い茶色の目をゆっくりと据え、周囲の荒れ果てたクレータと、目の前の青年…エン=リドを無機質に見据える。
エン=リドはわずかに眉をひそめ、呆れたような眼差しで振り返った。
「……ネーベルか。…元マスターなら、少し前にフィーと……その仲間の『ヒューマノイドポイズンスライム』に討伐されたよ。」
「本当?竜がスライムにね……。」
ネーベルは表情を一切動かさず、ただ静かに湿った笑みを浮かべる。
その感情の読めない瞳の奥に、得体の知れない闇が揺らめいていた。
エン=リドは命の宝珠をしまい、やれやれと肩をすくめる。
「どうやら、そのスライムは『フェル』と名乗り、今のフィーと一緒に『人魔共生』を目指しているらしい。……気になるなら、直接会いに行ってみればいいんじゃないかな。」
エン=リドの淡々とした言葉に、ネーベルは薄気味悪い笑みを深める。
「面白そうだね。エン=リドはいかないのかい?」
「……僕は他にやることがあるからね。失礼させてもらうよ。」
ネーベルの底知れない誘いをさらりと受け流すと、エン=リドの体がふわりと淡い光の粒子へと変わり始めた。
「じゃあね。」
言い残した彼の姿は、まるで最初から存在していなかったかのように、光に溶けるようにしてその場から消え去っていく。
静まり返ったクレータの底。
風だけが吹き抜ける中、ネーベルはその場に立ち尽くしたまま、癖のある髪を揺らした。
「……フェルか。」
遠くの空に昇る朝日を背負いながら、彼女は誰にも聞き取れないほどの小さな声で、冷たく呟き、口角を上げた。
「どうしたもんかなぁ。」
フェルの叫び声が議事堂内に響き渡る。
ドルガロ討伐から一ヶ月……。
フェルは目の前の書類の山に目を回していた。北地邪竜決戦の後、滞っていた里の発展は反発によるものなのか急速に進んだ。
かつて食堂であったここは、なぜか重要な会議をする機会が多かったため、そのままこの里の議事堂へと改装工事が行わた。
温水の霊峰の土地は果てしないほど広大だ。
それに、所有権を持つフィーネからの許可が降りているため、森を開墾すれば資源にも困らない。
だが――フェルが今ぶつかっている壁は、そういうものではなかった。
一、北地邪竜決戦の戦後処理について。
二、三国都協定を正式に結ぶかどうかの
議会に向けた準備。
三、経済的な問題。
ドルガロの暴走によって荒らされた周辺の土地を今後どう復興させるのか。
そして、近々開かれる議会に向けたインフラの整備。
さらに頭が痛いのが経済的な問題だ。
この里の内部で自給自足する分には魔物の素材や温泉資源のおかげで何の問題もないが、人間との本格的な交流と交易を行うとなれば、共通の硬貨や通貨が必要になる。
それに、これまで貨幣経済とは無縁だった魔物たちに、商いのやり方やルールの基礎から一から教え込まなければならない。
「……こっちの世界に来てからも、激務をすることになるとはなぁ。」
フェルは机に突っ伏し、深い溜息をついた。
平和になったのは素晴らしいことだ。
しかし、命がけの戦いとはまた違った種類の終わらない激務が、今まさに新米リーダーのフェル容赦なく牙を剥いていたのだった。
(前世ではこういう時どうやって乗り切って
いたっけなぁ………。)
フェルは淹れたての紅茶を口にし、ふと目を閉じる。
そして、前世の記憶――毎週残業を平均して四十二時間もこなしていた、あの過酷な社畜時代を思い出していた。
(確か、仕事が行き詰まったときはいつい
つもの銭湯に行って、肩までしっかりと浸か
って………ん?…銭湯……温泉……。)
そこでフェルはハッとした。
(な、なんてことだ!俺が!三百六十五日銭湯・温泉に通おうスタンプラリー六周目の記録を持つこの俺が!毎日のように温泉が湧き出いるこの里にいながら、すっかり湯に浸かることの癒やしを忘れていた…だとっ!)
フェルはガバッと立ち上がり、信じられないというばかりの悔しそうな表情を浮かべる。
(あぁ〜、なんか唐突に、無性に風呂に入りたくなってきた……! でもなぁ、この書類の山を放置したらヘルメスやケビンにあきれられるだろうし……。)
フェルはデスクの上に広がる、紙の代わりに公文書として使われている分厚い木札の束をしげしげと見つめる。
そして、現実の重圧と温泉への誘惑の間で、ぐっと激しく悩む表情を浮かべた。
……が、わずか三秒後。
「アトデヤロ〜。」
フェルは乾いた声で現実逃避をキメて、あっさりと椅子を放り出し、議事堂を後にしたのだった。
「あ゛ぁ゛〜!これこれぇ〜、最高ぉ……生き返るわぁ……。」
すっかり夜も更けた頃。湯気がもうもうと立ち込めるほぼ貸切状態の露天風呂に、フェルの至福のため息が響き渡った。
※ここで、フェルの名誉のために一応しっかりと補足しておこう。彼の現在の姿は端正な人間の青年そのものだが、その実態はヒューマノイドポイズンスライムであり、明確な『性別』という概念が存在しない。
そのため、種族の垣根を越えた平等を掲げるこの里の取り決めに従い、基本的には『混浴風呂』に入らなければならないのである。
視線を上げれば、静まり返った夜空を覆い尽くすほどの満天の星々。
月明かりが湯面を優しく照らし出し、白銀の光の波紋を描いている。
そして目線を前に向けば、温水の霊峰が誇る圧倒的な大自然の絶景パノラマがどこまでも広がっていた。
だが、フェルをここまで深く狂喜乱舞させている真の理由は、ロケーションの素晴らしさだけではない。
「いやぁ、ヘルメスに頼み込んで本当によかったなぁ……。まさか、ここまで完璧にヒノキ風呂を再現してくれるとはな……。」
彼が浸かっているのは、温水の霊峰に自生する特殊な銘木『ユリカゴ』を贅沢に組み上げて作られた特製の露天風呂だ。
その湯船から立ち上る芳香は、前世で愛してやまなかったヒノキの香りを完璧に彷彿とさせる。
それもそのはず、この『ユリカゴ』の木部から発せられる揮発性成分には、大気中に放たれる芳香物質の一種である「α-ピネン」や「フィトンチッド」などの複合テルペン類が極めて高濃度で含まれているのだ。
これらの天然成分は、人間の嗅覚から大脳辺縁系を介して自律神経系へ直接アプローチする。具体的には、交感神経の緊張状態を強力に抑制しつつ、副交感神経を優位に立たせることで脳のアルファ波を誘発。
心身のストレスや過度な緊張状態を急速に鎮静化させる。
さらに、血中コルチゾール濃度の低減や抹消血管の拡張作用による血流改善、それに伴う乳酸などの疲労物質の迅速な体外排出(疲労回復効果)をもたらすという抜群のメカニズムを秘めていた。
おまけに、ユリカゴの木が持つ天然の精油成分には優れた抗菌・防虫・消臭作用まで備わっており、衛生面や環境維持の観点からも極めて優秀な建材である。激務で凝り固まったフェルの肉体と、すり減った精神のトータルケアにおいて、これ以上ないほどの贅沢な空間がここに完成していた。
「……ふぅ。」
現実逃避から始まった極上の湯あみ。
フェルは心地よい浮遊感と森林浴の効果に身を委ね、完全に骨抜きになりながら、夜空の星をぼんやりと眺め続ける。
体内の魔導が心地よく巡り、日々の激務ですり減っていた神経の隅々にまでユリカゴの精油成分が染み渡っていくのを感じる。
気づけば、あれほど頭を悩ませていた分厚い木札の書類の山も、今はすっかり遠い世界の出来事のようになっていた。
そして、十分すぎるほどに心身を癒やしたフェルは、名残惜しさを覚えつつも湯船からゆっくりと立ち上がり、脱衣所へと向かった。
フェルは暖簾をくぐり、外に出ると、キリリと引き締まった深夜の冷気が心地よく火照った肌を撫で付ける。
吐き出した息は夜の冷たい空気を真っ白に染め上げ、やがて夜霧のように儚く霧散していった。
(……さて、そろそろ戻って現実と向き合うとするか。………いや、待てよ。)
フェルはふと足を止め、静まり返った夜の里を見回した。
思い返せば、北地邪竜決戦が終わってからというもの、彼は議事堂に籠もりきりで書類仕事に明け暮れていた。
報告書の文字面だけで里の発展を把握してはいたものの、実際に自分の足でその新しい街並みを見て回ったことは、一度もなかったのだ。
(最近は報告を受けるばかりで、実際にはどう変わったのか自分の目で見ていないからな……。どうせなら少し、遠回りをして帰るとしようか。)
夜もすでに深い時間。
周囲に人影はなく、聞こえてくるのは自身の足音と、遠くでかすかに響く温泉の湯音だけだ。
フェルは心地よい夜風を浴びながら、新生した里を巡る深夜の散策へと足を踏み出した。
一歩一歩、新たに敷かれつつある石畳を踏みしめて歩き出す。
両脇に立ち並ぶ建物は、ヒョウとフェルの発案によって見事に和風テイストへと一新されていた。
黒い焼き板の外壁に、温かみのある木製の格子戸。
軒先には控えめな明かりを灯す和風の灯籠が並び、その柔らかな光がしっとりとした情緒を醸し出している。
(この街並み……なんだか、前世で旅行した草津の温泉街に似ている気がする。)
湯けむりが立ち込める細い路地を歩くうちに、脳裏に懐かしい記憶が蘇る。
石畳の感触、硫黄と湯の香り、そして浴衣の裾を揺らしながら歩いた夜の散歩道。
異世界に転生し、魔物と人間が手を取り合おうとしているこの場所で、まさか前世の原風景を思い出すことになるとは思っていなかった。
ヘルメスの職人技と、里の住民たちの手仕事の細やかさに、フェルは心の中で改めて感嘆の息を漏らす。
そのままゆっくりと歩を進め、里の中心部へと差し掛かると、視界が一気に開けた。
そこは、この里の象徴とも言うべき中央広場だった。
広場の中央には、夜の寒さに負けじと勢いよくもうもうと湯けむりを立て続ける美しい噴水が鎮座している。
その周囲には、旅人や住民たちがいつでも気軽に足の疲れを癒やせるよう、一定の距離を保ちながら綺麗に整備された『足湯』が設えられていた。
夜の闇夜に浮かび上がる湯けむりが幻想的な雰囲気を演出し、見ているだけで体の芯から温まってくるような錯覚に陥る。
広場を抜けたフェルは、さらに足を伸ばした。
静まり返った夜の闇の中に、どっしりと佇む一際大きな空き地――『兎鬼月』の修練場だ。
日中はビッツやヒョウたちの鋭い気合の声や木刀が打ち合う激しい音が響き渡る場所だが、今はすっかり静まり返り、凛とした冷気が漂っている。
建物に近づくだけで、ここで命懸けの鍛錬に励み、そして戦い抜いた仲間たちの気配や熱気が、肌の記憶として蘇ってくるようだった。
フェルは静かに修練場の前を通り過ぎ、思いを馳せる。
さらに歩みを進めると、里の外れ、険しい岩肌が露出している一角にたどり着いた。
ここは、フェルが密かに温めている一大観光スポット……になる予定の『木製和船で行く鍾乳洞ツアー』でメインの会場として使おうと目論んでいる巨大な洞窟だ。
今はまだ立ち入り禁止の立て札が立てられているだけだが、内部には地底湖が広がり、幻想的な鍾乳石が眠っている。
いつの日か、この洞窟のなめらかな水面を和船ですべらせ、観光客たちが幻想的な光景に歓声を響かせる姿を想像すると、自然と口元が緩んでしまう。
洞窟を後にして、フェルはふと足を北の方角へと向けた。
足取りは自然と、あの日の記憶が刻まれた場所へと引き寄せられていく。
たどり着いたのは、穏やかな小高い丘の上だった。
見上げれば、一本の木が静かに夜空を背負って立っている。
あの時――フィーネが自身の過去の呪縛や、かつての家族との思い出を自身の言葉で打ち明けてくれた、あの場所だ。
フェルは木の幹にそっと手を触れた。
ひんやりとした樹皮の感触の向こう側に、あの日のフィーネの切なげな横顔や、流した涙の温もりがまだ残っているような気がした。
ここで彼女がどれほどの孤独と覚悟を抱えていたのかを思い出すと、胸の奥がキュッと締め付けられる。
しかし同時に、その呪縛を乗り越えて今は同じ空の下で笑い合えているという事実が、フェルに確かな安らぎをもたらした。
そして、里巡りの最後に向かったのは、職人たちの拠点であるヘルメスの工房の前だった。
昼夜を問わず新たな発明や里のインフラ整備に奔走しているヘルメスの工房は、さすがにこの時間になると完全に明かりが消え、ひっそりとしていた。
しかし、建物の軒先には、明日からの作業に備えてきれいに手入れされた道具や、実験に使われたであろう様々な木材の端材が整然と積まれている。
ヘルメスの妥協なき職人魂と、この里をより良くしようという熱意が、その静かな佇まいからもひしひしと伝わってきた。
ひと通り里の主要なスポットを巡り終えたフェルは、深く息を吸い込んだ。
冷たい夜の空気が肺の奥まで染み渡り、頭の芯がすっきりとクリアになっていく。
ドルガロとの激闘を経て、ここは確実に変わった。
かつては脅威に怯え、生き残るだけで精一杯だったこの場所が、今や温かな湯けむりに包まれ、人々や魔物が未来の夢を語り合える『故郷』へと進化している。
その変化の大きさを、自分の足で歩き、自分の目で確かめたことで、フェルの中で滞っていたエネルギーが再び満ちていくのを感じた。
(よし、英気は十分すぎるほど養えたな。)
心地よい疲労感と、明日へ向かうための確かな決意を胸に、フェルは足取り軽く議事堂へと引き返した。
朝までの静けさを纏う石畳の道を歩き、やがて目の前に現れたのは、見慣れた議事堂の重厚な木製の扉。
その扉を越え、ロビーを抜け、書斎の扉の前に立つ。
ガタッ……。
フェルは大きく息を吐き出すと、意を決したようにその頑丈な扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
そこには、先ほどまで放置して逃げ出した膨大な書類の山と、終わらない激務の現実が、相変わらず静かに彼を待ち構えていたのだった。
「…さぁ〜て…やるか。」
次回 第23話 陽炎




