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第一章最終話 第21話 夜明け

 フェルは、紫俠(シキョウ)をしっかりと握りしめたまま、もう片方の腕をゆっくりと前方へ伸ばす。


「もういいだろ……。今……楽にしてやる。」


次の瞬間、フェルの体がかつての乳白色でプルプルとしたポイズンスライムの姿へと戻り、一気にその巨体を伸ばしてドルガロの残骸をすっぽりと覆い尽くした。

スライムの内部は容赦ない強力な猛毒で満たされ、まるで底知れぬ胃袋に落ちたかのように、ドルガロの肉体は音もなく、少しずつ、しかし確実に溶かされていく。

しかし、これほどの苦痛と消滅のプロセスを味わっていながら、ドルガロはもはや暴れようともせず、ただ静かにその身を委ねていた。


(…一欠片も残さない。これ以上、被害を出さないために。)


罪深き巨竜の命をすべて飲み込もうとしたその時、フェルの意識が突如として現実から切り離され、不思議な空間へと引きずり込まれた。


 そこは、光に満ちた、あたたかな庭園だった。

どこからか心地よい水の音が聞こえ、小さな噴水の周囲には色鮮やかな花が咲き誇り、小鳥たちが柔らかな歌声を響かせている。

戦場の血生臭さが嘘のような、穏やかな世界である。


「ここは……?」


戸惑うフェルの背後から、コツ、コツと、地面を叩く上品な足音が響いてきた。


「やぁ……。君が、フィーを頼んだフェル君かな?」


振り返ると、そこに立っていたのは穏やかな気品をまとった一人の男の姿だった。


「あなたは……?」


「おっと、失礼した。私は――ドルガロの魂だ。」


「ドルガロ…… じゃあ、あなたが……」


男は自嘲気味に、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべて首を横に振った。


「ああ。……どうやら、フィーは私との約束を果たしてくれたようだね。あの子には、長い年月をかけてあまりにも酷いことをさせてしまった。君たちにも、測り知れないほどの迷惑と恐怖を与えた。どれほど言葉を尽くしても、償っても償い切れないだろう……本当に、すまなかった。」


ドルガロのその謝罪は嘘偽りのないものだったが、フェルは複雑な眼差しを向け、静かに言葉を返す。


「……まぁ、受けた傷は簡単には消えないし、俺個人の気持ちとしても、お前のその謝罪をすんなりと受け入れるわけにはいかない。奪われた命は戻らないからな。」


「当然だ。私の犯した罪が消えることはない。」


ドルガロの魂は静かに頷き、自身の胸に手を当てた。


「だが、私の魂は命の宝珠と完全に分離することができた。この意味がわかるかい? 私は、魂ごとこの世界の理から完全に消滅するということだ。二度と輪廻の輪に入ることはなく、転生すらしない。永遠の無へと帰す……。こんな無様な結末で罪が帳消しになるとは思わないが、これがせめてもの、私にできる最後の償いだ。」


もはや救いすらも許されない完全なる消滅。自らの意思がどうであったにせよ、数え切れないほどの尊い命を奪い、多くのものを踏みにじった者が、自分だけ救われて平穏な来世を迎えることなどあってはならない。

ドルガロ自身もそれを痛いほど理解しているからこそ、自らの存在そのものを消し去る道を選んだのだ。


「王として責任を取るってことか……わかったよ。」


そして、消えゆく輪郭の中で、ドルガロは切なそうに、しかし強い願いを込めてフェルに告げた。


「フェル君、私は邪竜の中から戦う君の姿を見ていたんだよ。…だからこそ、君にお願いしたいことがあるんだ。私の最後の我儘を聞いてわくれないか?」


「…あぁ、聞くよ。」


フェルはまっすぐドルガロの目を見る。

そして、ドルガロからとある想いを受け取る。

すると、ドルガロの姿が、光の粒子となって風に溶けるように薄れていく。


「……あぁ、分かったよ。」


「頼んだよ…。」


やがてドルガロは光の粒子となり、蛍のように消えていってしまった。

フェルはその光を一つ手のひらに乗せた。

そして


「あんたは、本物の王だよ…。」


フェルがそう応えた瞬間、眩い閃光とともに、フェルの意識は現実の戦場へと引き戻された。

そこは、長く暗かった夜が明け、水平線の向こうから眩しい朝焼けの光が差し込む北の大地だった。

巨大なスライムの体の中には、ドルガロの骨の欠片すら一筋も残っていなかった。

すべてが完全に消化され、血も肉も消え去ったその透明な体には、ただ新しき朝の光だけが美しく反射している。


バシュッ!


音とともに金色の飛沫が弾け、フェルは元の人間の姿へと戻り地に降り立った。

荒涼としていた戦場には、静寂とともに清らかな風が吹き抜けていく。

フェルは静かに立ち上がり、その瞳に強い決意を宿しながら、ギュッと自身の胸の前で拳を握りしめた。


「任せてくれ。」


誰に聞かせるでもなく、しかし確かに世界へ向けて放たれたその言葉とともに、北の大地に真の夜明けが訪れるのだった。



「フェル。」


そこへ、静かにフィーネが降りてくる。

戦いの狂騒が嘘のように静まり返った北の大地。その背中は、どこか頼りなく、しかし深い安堵と切なさを纏っていた。

フェルは声に応えるように、眩しい朝日の差し込む中へと振り返る。

そして、痛みを耐え抜いた彼女を安心させるかのように、爽やかな笑顔で、スッと親指を立てた。


「しっかり終わらせたぜ。」


その言葉を聞いた瞬間、フィーネの小さな体に溜まっていたすべての感情が、堰を切ったようにあふれ出した。

今の彼女の姿は、手のひらサイズとまではいかないものの、先ほどの一撃を使ったため、体を構築する魔導すらも消費し、再び縮んでいた。


「……うっ……うぅ……っ!」


フィーネはもう、自分の力で飛ぶのもやっとの状態となっていて、フェルの胸へと勢いよく飛び込み、その小さな両手でフェルの服をきゅっと強く掴みながら、声を殺さずに大粒の涙を流した。

五百年越しの呪縛。

救えなかった家族との別れ。

そして、愛する者を手にかけるという、あまりにも残酷な役目。

そのすべてを背負い続けた彼女の涙が、フェルの胸を温かく、そして痛いほどに濡らしていく。

フェルは何も言わず、ただ優しくその背中に腕を回し、頭をそっと撫でながら、吹き抜ける朝の冷たい風から彼女を包み込むように、しっかりと抱きしめるのだった。



 少し離れた丘の上では、合流を果たしたケビン率いる冒険者たちと兎鬼月(トウキゲツ)の面々が、その静かな光景を遠くから見守っていた。

全員が生き残った喜びを噛み締め、互いの無事を労う者。

過酷な死闘を乗り越えた達成感に浸る者。

張り詰めていた緊張の糸が切れた仲間たちが、それぞれのやり方で勝利の余韻を分かち合っていた。

ケビンは、そんな部下たちの頼もしい背中や笑顔を温かな眼差しで見つめながら、静かに微笑んだ。

その少し離れた場所で、ヒョウは腰を下ろし、自らの太刀を昇りゆく太陽の光にかざしていた。

戦いの返り血や汚れはきれいな朝日に照らされ、どこか神聖ですらある輝きを放っている。そこへ、深い傷を負いながらも手当を済ませたビッツが、おぼつかない足取りで歩み寄ってきた。


「ヒョウさん。」


その静かな呼びかけに、ヒョウはスッと視線を上げ、振り返る。

するとビッツは、両手で大切そうに一本の大太刀を抱え込み、ヒョウの前にそっと差し出した。

ヒョウは驚いたように目を見開き、差し出された大太刀へと視線を落とす。


「これは……。」


ビッツは柔らかく、しかしどこか切なさを帯びた笑みを浮かべて首を縦に振った。


「カイリさんのです。……形見というにはあまりに痛ましいかもしれないけれど、妹であるあなたが持っているべきだと思いました。……あの方との戦いは、本当に命がけだった。強かったですよ、カイリさんは……最後まで、誇り高い武士(モノノフ)でした。」


ビッツの言葉に、ヒョウは胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。

彼女はゆっくりと手を伸ばし、差し出された大太刀の柄にそっと触れる。

ひんやりとした金属の感触が、確かに兄が生きていた証のように手のひらに伝わってきた。

ヒョウは意を決するように息を吸い込むと、その大太刀を数センチだけ、慎重に鞘から引き抜いた。


シャキィン……。


静まり返った朝の空気に、澄んだ刃音が響く。

差し込む朝日の光が、抜き放たれた刃の表面を鋭く、そして優しく照らし出した。

その銀色の輝きは、かつて共に鍛錬に明け暮れた日々、優しかった兄の笑顔を思い出させるには十分すぎるほど美しかった。

ヒョウは、その刃に映る自分の瞳をじっと見つめ、静かに瞼を閉じた。


(……お兄様。私は、進むよ。)


心の中でそう呟き、ヒョウはカチリと音を立てて、しっかりと鞘へと納めたのだった。




そして、7日後の夜。


「宴だぁ!!!!!!」


「「うおおおおぉ!!!!!」」


夜空の下、黄金色の灯火に照らされた里の広場に、割れんばかりの歓声と笑い声が響き渡る。

お酒の入った大きなジョッキやコップを高く持ち上げ、フェルが叫ぶと、冒険者たちと魔物たちが種族の垣根を越えて入り乱れ、豪快にコップをぶつけ合った。

邪竜ドルガロ討伐の激闘から七日が経過し、フェルたちは無事に里へと帰還を果たしていた。セレスティアへ一時避難させていた里の民たちも全員戻り、 温水の霊峰に平和が戻ったことを祝う盛大な祝勝会がこうして開かれていたのだ。


「あぁ!!! やっぱり味覚があるって最高ぉ……!」


フェルは満面の笑みを浮かべながら、香ばしく焼き上がった肉串を次から次へと豪快に頬張っていく。

するとそこへ、すっかり普段の様子に戻ったフィーネが、顔を赤く染めながらふらふらと飛んできた。


「ほらほら! フェル食べてばかりいないないで、もっと飲みなさいよぉ〜!」


そう言って、フィーネは手元にあった大きなボトルから、フェルの持つコップへ勢いよくお酒を注いでいく。


「…フィーネ様… さっきからペースが早すぎ…さすがに飲み過ぎだよ。」


フェルの隣の席から心配そうに声をかけたのはヘルメスだった。

しかし、酔いが回ったフィーネは「んあ?」と絡むように声を上げ。


「何よぉ、ヘルメスぅ〜! 今日はお祝いなんだからいいじゃない! しっかりと楽しまないと損よぉ!」


と叫ぶ。

そして、ボトルを一気に飲み干すと


「ほ〜らモチ丸!どんどんお酒持ってきなさい!」


と声を上げ、ボトルを振る。


「は、はい……!」


食器や、お酒、料理を運んでいたモチ丸は、フィーネの圧倒された様子に慌てたように、大急ぎで新しいお酒を取りに走っていった。

そんな賑やかな光景を横目に、フェルは手元の肉串をかじりながら、心の中で静かに頷いていた。


(今夜、この大宴会で分かったことがある。

それは――フィーネとヒョウが、見事に「からみ酒」のタイプだということだ。)


呆れたような、しかしどこか楽しげな溜息をつき、フェルは少し離れた席へと目線を移す。

そこでは、先ほどまで冷静沈着だったはずのヒョウが、すっかり頬を赤らめてビッツに絡みついていた。


「ビッツ殿ぉ! そんなお上品な飲みっぷりではいけませぇんよぉ! お祝いなんですから、ほらほらもっと飲んでぇ!」


「ひ、ヒョウさん!? ちょっと待ってください、もうこれ以上は……!」


必死に引き気味でグラスを遠ざけるビッツに対し、ヒョウは至近距離までぐっと顔を近づけ、潤んだ赤い瞳で凄みをきかせる。


「私のお酒が飲めないんですかぁ!」


「いや、そういうわけじゃあ……お酒自体は嫌いじゃないですけど……っ!」


「なら飲んで下さいよぉ〜! ほら、飲んで飲んで!」


強引にグラスを押し付けられ、ビッツは冷や汗をダラダラと流しながら、周囲へ必死に助けを求める視線を巡らせた。

そして、ちょうどこちらを見ていたフェルと目が合うと、言葉なき悲鳴を込めて、文字通り「助けてくれ!」という視線をビシビシと送ってきた。


(なんだよビッツ……その必死な助けを求めるような目はやめろぉ! 残念だが、今のあの状態のヒョウを止められるやつなんてこの里にはいないんだよ! すまないね。)


フェルは「何も…見なかった。」とばかりにスッと目をそらし、再び手元の肉串とお酒に意識を集中させるのだった。

その冷淡な裏切りを目の当たりにしたビッツは、文字通り頭の上に「ガーン!」と大きな効果音がつきそうなほどの絶望的な顔をし、次の瞬間、顔を真っ赤に染めて戦闘狂モードと化したヒョウにぐいぐいと何故か引きずられていってしまった。

遠ざかっていくビッツの「助けてくれぇ……。」という掠れた悲鳴を聞き流しつつ、フェルはふと周囲の光景を見渡す。

あちこちで冒険者と魔物が肩を組み、バカ笑いをしながら杯をぶつけ合っている。

すっかり忘れていたことだが、かつては決して交わることのなかった魔物と人が、こうして一つのテーブルで同じ酒を飲み、盃を交わしている。

その光景がどれほど奇跡的で、大きな意味を持つことか。

そして、こうしてくだらないことで笑い合えるのも、すべては脅威が去り、この世界に「平和」が戻ったからこそなのだと、フェルは胸の奥でしみじみと噛み締めていた。


「いやぁ、こんなに羽目を外して酒を飲んだのは、それこそ二年ぶりですよ。」


そこへ、心地よさそうに赤ら顔をしたケビンが、林檎酒の入った小さな盃を片手にふらりとやってきた。

そして、フェルの前へとその盃をそっと差し出す。


「みんな楽しんでくれているようで、本当によかったですよ。」


フェルはそう言って心からの笑顔を浮かべ、ケビンとグラスをコツンと軽く合わせる。

ケビンはそれを「クッ……。」と喉を鳴らして一気に飲み干すと、空になった盃を置き、少しだけ真面目な顔つきになってフェルを見据えた。


「そうだ……フェル殿。実は、あなたにエルリアとの正式な『同盟協定』を結んでほしいのです。」


「協定? それなら、この前の討伐作戦の会議の時に結んだばかりではなかったですか?」


首をかしげるフェルに、ケビンは苦笑いしながら首を横に振る。


「あれはあくまで緊急時の共同戦線としての取り決めです。そうではなく、王国とこの魔物の里の間で、国家レベルでの正式な書面を通して、改めて確固たる同盟を結びたいと思うのです。」


「……それに関しては、その……お父…国王ガリウスからも、『ぜひフェル殿に、セレスティアと書面上での正式な協定を結んでほしい。』と……」


そこへ、お酒の入ったお盆を持ったまま、ヘルメスも慌てた様子でピョコっと顔を出し、真剣な表情で言葉を重ねる。


(正式な、書面上での協定を二カ国から……。人魔共生を目的としている俺たちからすれば、これはとても有益なことだ。それに、人間の国との繋がりを強めれば、いずれ交易が活発になって商業を発展させられる可能性がある…これは、俺が以前から考えている温泉街の計画や、里の経済的な成長にも直結することになる……。)


「ならさ、そのエルリア王国とセレスティア、そしてこの魔物の里の三者で、新たに『三国都協定(さんこくときょうてい)』を結ぶのはどうかな?」


フェルはグラスを置き、真剣な眼差しでそう提案した。

ケビンは腕を組み、


「なるほど……三国都協定ですか。」


と、その言葉の意味をじっくりと咀嚼するように呟く。

ヘルメスも、お盆をしっかりと持ち直しながら真面目な顔つきで考え込んだ。


「……確かに、結ぶなら…この里と協力関係にある国同士が、まとめて枠組みに入っていた方がいい……かも知れない。…個別に二国間でやるより、外交上のバランスも取りやすい…だろうし。」


「ああ、アイデアとしては非常に面白いし、前向きに検討する価値はあると思う。だが……正式な協定としてそこまで踏み込むとなると、各国の国内事情や調整もある。今この場で即決できる話ではないか。」


ケビンが腕を組みながらそう冷静に指摘すると、ヘルメスも小さくうなずいた。


「そうですね……。お父様とも改めて相談し、西側諸国や他の利害関係なども含めて慎重に精査する必要がある…三国都協定(さんこくときょうてい)を結ぶか否か…その是非を含めての具体的な話し合いは…今日のところは置いておいて、また…後日、改めて皆で集まって協議する…ということでどう…かな?」


「賛成だ。せっかくの無礼講の宴だ、堅苦しい外交の話はこれくらいにして、今は酒と料理を存分に楽しもうじゃないか。」


フェルはそう言いながら、笑顔でうなずき、再び盃を軽く合わせる。

ケビンは納得したように、そして、ヘルメスもほっとしたように笑みを浮かべ、それぞれの持ち場へと戻っていくのだった。

国と種族の壁を越えた未来の話は、ひとまずの温かい余韻を残したまま次の機会へと委ねられる。

夜はさらに深く進み、温水の霊峰に吹き抜ける風は少しずつ冷たさを増していくが、人々や魔物たちが囲む焚き火の熱は少しも衰えることを知らない。

数多の痛みを越え、脅威を打ち払い、勝ち取った穏やかな夜。

笑い声と杯の交わる音が響き渡る中、世界は確かな温もりを抱きながら、新しい時代の『夜明け』へと歩み出していくのだった。



第一章 邂逅の湯けむり編 完



次回 第二章 暗澹の天空遺跡編 開幕


   第22話 里巡りだぁ!

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