第13話 消えた日々に想いを…
昼時の温水の霊峰。
その里の訓練用広場には、今日も湯けむりが立ち込めていた。
温泉から立ち昇る白い湯気の向こう側で、木刀がぶつかり合う乾いた音と、訓練に励む者たちの掛け声が絶え間なく響いている。
ラビットフット、ヒューマノイドラビッツ、そしてゴブリンたちの志願兵は、ヒョウとビッツの指示のもと、何度も模擬戦を繰り返していた。
「もっと腰を低くしましょう! そこは斬るのではなく、突く方がいいですよ!」
「は、はいっ!」
ビッツは模擬戦によって土埃が舞う広場を歩き回りながら、一人ひとりの動きを細かく確認していく。
「今の動きはよかったです! でも、相手の右腕を意識しすぎて足元への警戒が疎かになっています! もう一度やってみましょう!」
「わかりました!」
以前までなら、戦いの訓練など一部の者しか経験していなかった。
しかし今では、志願した者たちが互いに木刀を交え、少しでも強くなろうと必死に食らいついていた。その光景を横目に、ヒョウもまた数人の志願兵を相手に直接指導を行っていた。
「――そこです。」
次の瞬間。
シュッ!
鋭い抜刀が閃き、三人のゴブリンがほぼ同時に弾き飛ばされた。
「うわっ!」
「ぐぇっ!」
「いてて……!」
三人は地面を転がったものの、すぐに立ち上がって木刀を構え直す。
「一人で敵わぬなら三人で……確かに良い考えです。」
ヒョウは木刀を軽く下ろしながら、三人を見つめる。
「ですが、己の間合いを見定めなければ、人数を増やしたところで何の意味もありません。互いの動きを邪魔してしまえば、三人いることが逆に隙となる。」
「な、なるほど……!」
「もう一度、お互いの動きを見直すといいでしょう。」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
人のゴブリンたちは深々と頭を下げると、互いに顔を見合わせながら先ほどの戦いについて話し始めた。
そんな彼らの様子を確認すると、ヒョウは小さく頷いた。
そして、広場の端に置かれていた切り株へ腰を下ろした。
「……ふぅ。」
小さく息を吐き、肩を回す。
連日の訓練。
数十人もの志願兵を相手に指導しているのだから、さすがのヒョウにも多少の疲労はあった。
とはいえ、その表情には疲れよりも、どこか懐かしむような穏やかさが浮かんでいた。
「ヒョウさーん!」
その時だった。
広場の向こうから、ビッツが駆けてくる。
その手には、竹で作られたコップが二つ握られていた。
「ご苦労様です。」
ビッツはそのうちの一つをヒョウへ差し出す。
「これは?」
「水ですよ。結構動きましたからね。」
「かたじけない。」
ヒョウはコップを受け取ると、そのまま一気に飲み干し、空になったコップを眺め、ヒョウは満足そうに息を吐く。
「ビッツ殿。そちらの様子は?」
「ええ、いい感じですよ。」
ビッツも隣へ腰を下ろし、水を一口飲む。
「みんな、思った以上に飲み込みが早いです。」
そう言って、ビッツは広場を見渡した。
そこでは、先ほどヒョウに吹き飛ばされた三人のゴブリンが、今度は互いに距離を取りながら模擬戦を行っている。
「……なんだか、久しぶりですよ。」
「何がです?」
ヒョウはコップを片手に首を傾げる。
「こうやって、みんなで戦い方を教えたり、競い合ったりするのが。」
ビッツは少しだけ笑う。
「僕たちは、もともとは戦闘を得意とする種族ですからね。最近は平和に暮らしていたせいで、すっかり忘れていました。」
「なるほど。」
ビッツはコップを両手で持ったまま、少しだけ遠くを見る。
「こうしてみんなが必死になっているのを見ると……やっぱり、僕たちも戦えるんだなって思います。」
ヒョウは何も言わず、ビッツの横顔を見つめた。
「みんな、怖いはずなんです。相手は邪竜ドルガロですから。」
ビッツは苦笑し、模擬戦に目を向ける。
「それでも、逃げなかった。」
笑い声。
怒号。
木刀の音。
そして、何度失敗しても立ち上がる者たちの姿。
その光景を眺めながら、ヒョウはふと目を細めた。
「……良い里ですね。」
「え?」
「いえ。」
ヒョウはそう言って、再び広場へ視線を戻した。
「……少し、私の故郷を思い出しただけです。」
その言葉を聞いた瞬間。
ビッツの表情から、先ほどまでの明るさがほんの少しだけ消えた。
「……故郷。」
「はい。」
ヒョウは静かに答え、自然に耳を傾ける。
湯けむりの向こうで訓練を続ける者たちの声が響いている。
だが、その声が次第に遠くなっていくような気がした。
「……もしよければ。」
ビッツが少し迷いながら口を開く。
その仕草はどこか、ぎこちなかった。
「聞かせてもらっても、いいですか?」
ヒョウはすぐには答えなかった。
ただ、手の中にある空のコップをじっと見つめる。
やがて――
「……わかりました。」
小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。
そうしてヒョウは、遠い記憶の中へと静かに目を向けた。
「――私の故郷は、とても静かで……そして、温かな場所でした。」
その声は、いつもの凛とした武士のものとは少し違って、遠い昔の日々を慈しむような――そんな優しい声だった。
「穏やかな小川が流れ、子供たちの楽しそうな声が絶え間なく響き……何より、家族がいました。」
ヒョウはそう呟くと、ゆっくりと目を閉じた。
――あの日々は、今でも鮮明に覚えている。
まだ幼かった頃のヒョウは、里の外れを流れる小川のほとりに一人で座り込んでいた。
さらさらと流れる清らかな水。
木々の隙間から差し込む暖かな日差し。
頬を撫でる柔らかな風。
何も特別なことなどない、穏やかな昼下がりだった。
ヒョウは水面に浮かぶ小さな葉を眺めながら、ぼんやりと足を揺らしていた。
その時――
「ヒョウ、こんなところにいたのか。」
聞き慣れた声が背後から聞こえた。
「……?」
ヒョウが振り返ると、
そこに立っていたのは――
「お兄様!」
一本の大太刀を背負い、太陽のような笑顔を浮かべた一人の青年だった。
ヒョウの兄――カイリ。
里の武士として皆から信頼され、ヒョウにとって自慢の兄だった。
「こんなところで何をしているんだ?」
「えっと……お魚を見ていました!」
「魚か。そいつは捕まえられそうか?」
「……む、無理です!」
幼いヒョウが頬を膨らませると、カイリは「はははっ!そうか無理か!」と豪快に笑った。
そんな兄の笑顔を見るのが、ヒョウは大好きだった。カイリはしゃがみ込み、ヒョウと目を合わせる。
「そうだヒョウ。母上がおやつを用意してくれているらしいぞ。」
「本当ですか!?」
「ああ。だからそろそろ帰らないとな。父上が全部食べてしまうかもしれない。」
「おやつは私が全部食べます!」
「おいおい、そりゃ困るな!」
二人の笑い声が、小川のせせらぎに混ざっていく。
――そんな、何気ない日々だった。
ヒョウは小さな背中を追いかけながら、いつも兄の姿を見ていた。
「私は、里のために戦う兄に憧れ……やがて、自分も兄と同じ武士になりました。」
ヒョウはそこで一度言葉を止め、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……兄は、私にとってずっと憧れでした。」
ヒョウはそこで、ほんの少しだけ視線を落とした。
その表情には、先ほどまで浮かんでいた穏やかな笑みが、わずかに残っていた。
けれど――その奥には、決して消えることのない痛みがあった。
「ですが、二週間前……私と兄が、里の周辺を見回っていた時……」
そこで言葉が途切れた。
握られた拳が、僅かに震える。
「――やつと、出会いました。」
その言葉を境に、ヒョウの意識は二週間前のあの日へと引き戻されていった。
――月明かりの照らす、静かな夜。
妖狐族の里から少し離れた山中。
そこには、長い年月の間、誰にも触れられることなくひっそりと佇む祠があった。
苔むした石造りの祠。
そして、その奥深くには――かつて世界を滅ぼしかけた邪竜、ドルガロが封じられている。
ヒョウとカイリは、その祠の周辺を警戒しながら巡回していた。
その時だった。
「――お前! そこで何をしている!」
カイリの鋭い声が夜の静寂を切り裂いた。
ヒョウも反射的に振り返り、腰の太刀へ手を添える。
祠の前。
そこに、一人の青年が立っていた。
「それが邪竜の眠る祠だと知っているのか! 両手を上げ、こちらを向け!」
青年はゆっくりと振り返る。
月明かりに照らされ、美しくたなびく黄緑色の長髪。そして、どこか穏やかさすら感じさせる翠色の瞳。その姿は、あまりにも場違いなほど美しかった。
「君たちは、妖狐の里の武士かな?」
青年は両手をゆっくりと上げながら、困ったように笑う。
「そんなに警戒しないでおくれ。」
「誰が喋っていいと言った!」
カイリは一歩前へ出る。
「そのまま、こちらへ来るんだ!」
「まぁまぁ、そう怒鳴らないでおくれ。」
青年はまるで、ただ道端で出会った旅人と会話でもしているかのように、穏やかな口調で答えた。
「僕の名前はエン=リド。」
「「………ッ!」」
ヒョウは、隣に立つ兄の横顔をちらりと見た。
――おかしい。
兄は、いつだって冷静だった。
どれほど危険な魔物を前にしても、決して動揺することなどない。
そんな兄が、今まで見たことがないほど険しい表情を浮かべていた。
カイリは、エン=リドから一瞬たりとも視線を逸らさない。
「……ヒョウ。」
「はい。」
「絶対に俺から離れるな。」
「……はい。」
その声は、低く。
そして、明らかな警戒を含んでいた。
エン=リドはそんな二人の様子を見つめながら、ゆっくりと歩き出す。
一歩。
また一歩。
両手を上げたまま、こちらへ近づいてくる。
その顔には、先ほどと変わらない穏やかな笑顔が浮かんでいた。だからこそ、ヒョウは、その笑顔に言いようのない不気味さを覚えた。
そして、エン=リドは二人の目の前で足を止めた。
「……いきなりで悪いけど。」
翠色の瞳が、すっと細められる。
「――君たちには、死んでもらうよ。」
「……ッ!」
その瞬間、
――ゴォォォォォンッ!!
と音を立て、エン=リドの背後にある苔むした祠が、突如として眩い光ち、
ドゴォォォォォンッ!!!
轟音とともに、祠が内側から弾け飛んだ。
無数の瓦礫が夜空へと吹き飛び、地面が大きく揺れる。
「くっ……!」
ヒョウは腕で顔を覆いながら、必死に目を凝らした。
そして――
祠の跡地から。
何かが、黒い影を放ちながらゆっくりと浮かび上がっていく。
それは、禍々しいほど濃密な魔導の塊だった。
どす黒い影が夜空へと舞い上がる。
エン=リドは両手を広げ、夜空を見上げ、影に呑まれその姿を消した。
バサァッ!!
空中で巨大な翼が開かれた。
「………なんてものを復活させやがったんだ!」
ヒョウの身体が、凍りつく。
「……何……これ……。」
声が震えた。
隣にいたカイリが、即座に大太刀を抜く。
「――ヒョウ!!」
「は、はい!」
「里へ戻るぞ!!」
その声には、今まで聞いたことのないほどの焦りが滲んでいた。
ヒョウは兄の背中を見る。
いつも自分を守ってくれた、大きな背中。
――その背中が、今は震えていた。
「…………。」
ヒョウは、しばらく何も言わなかった。
ビッツもまた、口を挟むことができず、ただ黙って彼女の横顔を見つめていた。
「……あの日から、私の日常は……すべて消えてしまいました。」
その声は、とても小さかった。
「その夜、ドルガロはエン=リドの魔導を含むカイザードラゴンを二体従え、私たちの里を襲撃しました。」
ヒョウは俯いたまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「そして、私を逃がしてくれた兄を含め、全員……。」
そこで、言葉が止まった。
握りしめた拳が、わずかに震えている。
「…………。」
ビッツは何も言わなかった。
ただ、隣に座るヒョウの横顔を静かに見つめていた。やがて、ビッツは手にしていた竹のコップを地面へ置く。
「……話してくれて、ありがとうございます。」
「……ビッツ殿。」
「…正直に言うと……僕も、兄を亡くしています。」
その言葉に、ヒョウがゆっくりと顔を上げる。
「兄のエルマは……この里を守るために、最後まで戦いました。」
ビッツは遠くに広がる訓練場へ視線を向ける。そこでは今も、志願兵たちが必死に木刀を振るっている。
「タイラントグリズリーと戦って……帰ってきませんでした。」
「…………。」
「だから……兄がいなくなった後、何度も考えました。」
ビッツは少しだけ笑った。
けれど、それは決して明るい笑顔ではなかった。
「兄は、何のためにあそこまで戦ったんだろうって。」
ヒョウは黙って聞いている。
「でも、最近になって……少しだけ分かった気がするんです。」
「……それは?」
ビッツは小さく頷いた。
「命そのものじゃない。武器や財産でもない。」
『――想いです。』
その言葉に、ヒョウの瞳が僅かに揺れる。
「兄が最後まで守ろうとしたこの里を、今度は僕が守る。兄が守りたかった人たちが、これからも笑って暮らせるようにする。」
ビッツは胸元へそっと手を当てる。
「それが、兄から僕に託されたものなんじゃないかって……そう思っています。」
「…………。」
「だから、ヒョウさん。」
ビッツは彼女へと向き直った。
「あなたのお兄さんも、きっと同じだったんじゃないでしょうか。」
「……私の、兄が……?」
「はい。」
ビッツは優しく微笑んだ。
「カイリさんはヒョウさんを、己の命に変えて逃がしたんですよね。」
「…………はい。」
「…最後まで、ヒョウさんに生きてほしかった。」
ヒョウの瞳が僅かに潤む。
「生きて、見届けてほしかったんじゃないでしょうか。自分が守ろうとしたものを。その想いを。」
「…………。」
ビッツはゆっくりと立ち上がった。
「……僕は、何があっても兄が守ったこの里を守ります。」
そしてヒョウへ手を差し出す。
「ヒョウさんも……お兄さんから託されたものを、その想いを紡いでいきましょうよ。」
ヒョウはその手をじっと見つめた。
そして――
「……はい。」
彼女は静かに頷き、その手を取った。
「……ありがとうございます、ビッツ殿。」
「いえ。」
立ち上がったヒョウは、先ほどまでとは少し違う表情をしていた。
悲しみが消えたわけではない。
失ったものが戻ってくるわけでもない。
それでも、胸の奥に残されたものを、これからも抱えて歩いていく。
その決意だけは、確かにそこにあった。
「さて……そろそろ訓練に戻りましょうか。」
「ええ。」
そうして、二人が訓練場へ戻ろうとした――その時だった。
「――ビッツ!!ヒョウ!!」
慌ただしい声が、広場の向こうから響いた。
「……?」
二人が振り返るとそこには、息を切らしながらこちらへ駆けてくるヘルメスとモチ丸の姿があった。
「どうしたんですか、そんなに慌てて……?」
ビッツが尋ねると、ヘルメスは肩で息をしながら必死に言葉を紡ぐ。
「た、大変……!」
「何があった?」
ヒョウも表情を引き締める。
「『開拓の国エルリア』から……冒険者の集団が、この里へ向かって進行してきてる!」
「冒険者……?」
「うん! 数は……およそ五十人!」
ビッツの表情が一瞬で険しくなる。
「目的は?」
ビッツが尋ねる。
「…まだわからない。…ただ、かなりの速度で…こちらへ向かっている…。」
「……万が一のことを考えましょう。」
ビッツ振り返り、ヒョウをまっすぐに見る。
「ヒョウさん!」
「はい。」
「フェル様を呼んできてもらえませんか?」
「承知しました。」
「もし友好的な訪問なら、それに越したことはありませんが……」
ビッツは広場を訓練中の志願兵たちを、そして、その向こうに広がる温水の霊峰の里を見渡す。
「僕は、ここの入口へ向かいます。」
そう言うと、ビッツは訓練中の志願兵たちへ声を張り上げた。
「――十人ほど、僕についてきてください!」
「はい!」
すぐに十人ほどの志願兵がビッツのもとへ駆け寄る。
ビッツは彼らを率いるように、里の入口へ向かって走り出した。
「ヒョウさん!」
「はい!」
「くれぐれも急いでください!」
「はい!」
ヒョウは踵を返す。
向かう先は――
フェルとフィーネが特訓を行っている、あの洞窟。そして、里の入口へ向かうビッツの胸には、嫌な予感が静かに広がっていた。
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