第10話 妖狐族
ガルたちが里にやってきてから、すでに六日もの日数が過ぎ去っていた。
「おいおい……あいつらは、自分たちの国へ帰る気があるのか?」
フェルは、毎日のように温泉に浸かり、建築部隊を手伝ったり子供たちと遊んだりしてすっかり里の生活を満喫している三人組を眺めながら、思わずそんな疑念を抱いてしまうほどだった。
もちろん、フェルとしても彼らから外の世界の貴重な情報や人間の文化を教えてもらえるのは非常にありがたいし、里の住民たちともすっかり打ち解けて楽しそうにやっているのだから文句はない。
ただ、依頼を放り出してこんな場所で連日ダラダラと過ごしていて、彼らの上司『冒険王ケビン』から後でお説教や面倒な沙汰を受けたりしないのだろうかと、フェルは少しばかり心配になっていた。
ちなみに、フィーネはというと、相変わらず食事の時以外は姿を見せず、例の魔導濃度の高い洞窟の中にずっとこもりきりだった。
フェルは理解を示し、今は無駄な詮索や干渉をしないようにそっと見守ることにしていた。
里の日常が、少しずつ、しかし確実に『賑やかな生活』へと形を変えていく。
そんな穏やかな空気が満ちていた最中――それは、とある静かな明け方に突然起こった。
ドガン! ドゴンッ!!!
と、突如として静寂を切り裂くような凄まじい轟音が響き渡り、霊峰の奥にある洞窟付近の森林からもうもうと巨大な土煙が立ち上った。
「いったい、今度は何が起きたんだ……!」
フェルは昇り始めたばかりの眩しい朝日の中、険しい顔で土煙の上がる方向を鋭く睨みつけると、すぐに近くにいたビッツを大声で呼び寄せ、全速力で現場へと急行した。
同時刻、まさにその土煙が上がる洞窟付近の森の中では、激しい殺気が周囲の空気を凍りつかせていた。
『――氷輪!』
冷徹な声とともに、漆黒の狐の耳と、腰まで届く艶やかな黒髪を揺らす一人の女が鋭い一撃を放つ。その冷気を帯びた赤い瞳は、完全に獲物を見据えていた。
彼女が振るった、氷の冷気を纏う刀は、まるで夜空に浮かぶ三日月のような美しくも残酷な軌道を描き、洞窟から出てきたばかりのフィーネへと容赦なく迫る。
「っ……!」
フィーネは小さく舌打ちをすると、大精霊としての卓越した機動力を生かして空中で華麗に身をかわす。
それと同時に、周囲の空気中の水分を瞬時に自らの周囲へと引き寄せた。
「誰だか知らないけど……いい度胸じゃない!」
フィーネが両手を掲げると、集まった水は空気中で一気に収束し、激しい回転を伴いながら鋭利な槍の形状へと変化していく。
『創世の水槍!!』
フィーネの合図とともに、無数の水の槍が唸りを上げて漆黒の狐の獣人を正確に捉え、猛スピードで突進していく。
しかし、狐の獣人は慌てる様子もなく、飛来する槍を紙一重の身のこなしで次々と軽やかに避け、避けきれない軌道の槍は、太刀で一閃のもとに鋭く断ち切っていく。
「なかなかやるわねッ!」
フィーネは眉をひそめ、さらに魔導を込めて次々と新たな水の槍を打ち込んでいく。
その激しい弾幕の最中、獣人はふっと息を整えると、愛用の太刀をガチャリと音を立てて鞘に深く納めた。
そして、無数の槍を華麗に避けながら、静かに、しかし絶対的な確信を宿した赤い目でフィーネの姿を真正面から捉える。
彼女の足元から、周囲の木々や地面までがみるみるうちに凍りついていく。
「白銀の月よ、我が刃に降りよ。万象を凍てつかせ、此の一太刀にて断つ。」
(――詠唱……!? こいつ、本気……!)
フィーネは背筋に冷たいものが走るのを覚える。ただの獣人の技ではない、歴戦の猛者による本気の構えだった。
圧倒的な冷気が周囲の酸素すら凍らせていく中、フィーネは拳を握り締め、青白い魔導を全身から噴き上がらせる。
「……舐めないでちょうだい!」
彼女もまた、大精霊そして、五大覇王としての誇りと意地にかけて、詠唱を紡ぎ始める。
「原初の精霊が語る。
命は水より生まれ、水は天へ還り、天は再び命を育む――!」
(くっ……! 今の魔導の量じゃ、完全詠唱は無理……ッ! でも、これだけの魔導をぶつければクッション代わりにはなるはず!)
フィーネの周囲を水の粒子が包み、青白い電雷を纏う。
漆黒の耳をピシリと波立たせながら、狐の獣人は静かに告げる。
「我が同胞たちの痛みを身をもって知るがいい。あの世で懺悔しろ!」
『霜天・狐月!!』
フィーネもそれに合わせ、腕を前に出し叫ぶ。
「消し飛んでも恨まないでよ!」
『万象を穿つ創世の雷霆!!』
刹那、周囲の温度が一瞬で零下に落ち込み、すべてを凍結させる絶対零度の斬撃が放たれると同時に、天を裂くような眩い青白き雷霆が空間ごと激突すべく正面へと撃ち出された。
「――そこまでだっ!!」
瞬間、風を切り裂いて現場へと飛び込んできたのは、青い光を纏ったフェルだった。
フェルは自身の持つ特殊な粘性と全魔導を一気に解放し、二人の間に巨大な粘性の障壁を展開する。
キィィンッ!! と、世界が凍りつくような激しい金属音と世界を裂くような雷の衝撃が響き渡り、フェルの展開した障壁が凄まじい冷気、そして電熱によってバリバリと音を立てて凍りつき、砕け散る。
しかし、その身を挺した決死の割り込みによって、狐の獣人の一撃そして、フィーネの一撃はともに軌道を逸らされ、直撃は間一髪で防がれたのだ。
「邪魔が入ったか……。」
獣人は距離を取り、氷のように冷たい赤い目が、新たに現れたフェルとビッツをじっと射貫く。
「フィーネ! 一体何があったんだ!」
フェルが慌てて声をかけると、フィーネは不機嫌そうにローブの裾を払いながら声を荒げた。
「突然いきなり斬りかかられてきたのよ! もう! 何なのよあいつ、頭おかしいんじゃないの!?」
ビッツも事態の危険性を察し、瞬時に両手の双剣をシャキッと抜き構えてフェルの前に立つ。
「しらばっくれるな! お前はあの野郎の仲間だろ!」
獣人は鋭く身構えたまま、敵意剥き出しで大声を張り上げた。
「はぁ? 誰の仲間ですって? 意味がわからない!」
「ふざけるな! お前は水の大精霊フィーネだ! ならば、あの『エン=リド』と無関係なはずがない……!」
フィーネは、その名前を耳にした瞬間、ハッとしたように表情を曇らせ、意味深にその名を呟いた。
「エン=リド……誰だそれ?」
フェルが首をかしげると、ビッツは視線を目の前の獣人から変えず補足する。
「フェル様、知りませんか……? エン=リドとは、この世界に君臨する『五大覇王』の一角にして、植物を司る『深緑の大精霊』です……!」
「フィーネと同じ五大覇王? そんなやつの名前がなんで出てくるんだよ……。」
ピリピリとした緊張感が再びその場を支配する中、狐の獣人はさらに敵意をむき出しにして太刀を握り直した。
「問答無用! 次は外さんぞ……! 助太刀に来たお前の仲間ごと、まとめて斬り伏せる!」
獣人が再び殺気を立ち昇らせ、真剣な表情をしながらビシッと抜刀の構えを取る。
フェル、ビッツ、そしてフィーネの三人は、いつでも動けるようにさらに表情を引き締めた。
――その時だった。
パタンッ……!
まるでギャグ漫画のように、今しがたまで殺気立っていたはずのその獣人が、前のめりにその場へと綺麗に倒れ込んだのである。
それだけではない。
グゥ〜〜〜〜……ッ!!
と、静まり返った森の中に、空腹を告げる豪快な腹の音が盛大に響き渡った。
「「「ズコーーーッ!!!」」」
一気に張り詰めていた緊張感の糸がプツリと切れ、フェル、ビッツ、フィーネの三人は、あまりにもシュールで場違いな光景のあまり、勢いよく派手にずっこけるのであった。
「おいおい、冗談だろ……。」
地面にバタリと倒れ込んだ狐の獣人を前に、フェルはプルプルと身体を震わせながら力なくだらりと触手を垂らした。
あまりの急展開に、戦闘態勢をとっていたビッツも双剣を納め、呆気に取られてまばたきをしている。
「……で、どうするのよこれ。放置するわけにもいかないし。」
腕を組みながらやれやれといった表情を浮かべるフィーネの横で、フェルは大きなため息を一つ吐いた。
「仕方ない、とりあえず運ぶぞ。死なれたらこっちもめんどくさいことになりそうだしな。」
こうして、殺気立った戦闘の直後というのに、フェルたちは先ほどまで刃を交えていたはずの狐の獣人をかつぎ上げ、里のなかに新しく建設中だった食堂へと慌てて運び込むのだった。
木の香りがほのかに残る食堂の長テーブルに、どんっと横たえられた狐の獣人。それからしばらくして、ようやく彼女はうっすらと意識を取り戻した。
「ん……ここは……?」
ぼんやりと開いた赤い瞳が、目の前に座るフェルたちを捉えると、彼女はハッと跳ね起き、すぐさま腰の太刀に手をかけようとする。
しかし、極度の空腹と疲労で身体に力が入らず、ふらりとその場に崩れ落ちてしまった。
「おっと、あまり動かないほうがいい。、自滅されたらこっちの後味が悪すぎる。」
フェルが呆れたように触手をひらひらと振ると、テーブルの上には、香ばしい匂いを漂わせるジューシーな肉串と、木製のカップに満たされた冷たい水がスッと差し出された。
「腹が減っているんだろ?」
肉の焼ける極上の香りが、空腹の胃袋を直撃する。しかし、狐の獣人は警戒心を全く解かず、真っ赤な目で肉串とフェルを交互に睨みつけた。
「……っ。ふん、敵の施しなど……受けん。どうせ、これを食べて動けなくなったところを襲いに来るに決まっている……!」
彼女は必死に気高さを保とうと声を震わせながら、目の前の誘惑を必死に手で払いのけようとする。
そのプライドの高さに、フェルは苦笑いを隠せなかった。
「なぁ、そんなこと言って意地を張ってたら、お前本当にそのまま餓死しちまうぞ? 敵意がないからこうして温存してやってるんだ。とりあえず食え、話はそれからだ。」
「ぐっ……私をだまそうったって……。」
グゥーーーーッ……!!
再び、彼女の意志とは全く関係なく、お腹の底から盛大な抗議の音が響き渡る。
あまりの音の大きさに、彼女の顔は一瞬で真っ赤に染まった。
「ほら、お腹は正直だ。 毒なんて入れてない、食べな。」
フェルが肉串を少しだけ彼女のほうへと押し出すと、獣人は恥ずかしさと飢えの限界から、震える手でゆっくりとその肉串に手を伸ばした。
「くっ…!」
覚悟を決めたような、どこメランコリックですらある捨て鉢な呟きとともに、彼女は恐る恐る肉串を口へと運び、一口噛み締めた。
――その瞬間。
「っ……!!?」
彼女の大きな黒い耳がぴょこんと跳ね上がり、美しい赤い目が皿のように見開かれた。
ジューシーな肉汁が口の中に広がり、絶妙な塩加減と香ばしさが疲弊しきった五臓六腑にしみわたっていく。
あまりの美味さに、理性のタガがものの見事に外れ去ったのか、彼女の瞳に理性の光が戻る暇もなく、野生の本能が爆発した。
「んむっ……! むぐっ……!!」
さっきまでの警戒心や気高さはどこへやら、彼女はまるで何かに取り憑かれたかのように、次から次へと夢中で肉串を貪り食っていく。
串に残った肉片すら逃すまいと、すごい勢いで平らげていくその食べっぷりは、見ていて清々しいほどだった。
「ふふっ……。」
その様子を入口のほうから眺めていた一人の人影が、クスリと小さく笑った。
「……ヘルメス? どうしたんだ?」
フェルが首をかしげると、ヘルメスは遠い目をしながら、トコトコと獣人のほうへ歩み寄り、ぽつりと呟いた。
「……なんだか、昔の私を見ているみたい……。あの時も、お腹をすかせてボロボロで……。」
「……あぁ、そういえばヘルメスも、最初に会った時は空腹で限界迎えてたっけな。」
フェルのその言葉に、少し離れた場所で腕を組んでいたフィーネがやれやれと頭を抱え、呆れたようにため息を吐いた。
「まったく……。食べ終わったら、なぜあたしを襲ったのか、きっちり話してもらうわよ。」
やれやれと肩をすくめるフェルと、肉を頬張りすぎてむせる狐の獣人、そしてそれをどこか温かい目で囲む仲間たち。
一時はどうなることかと思った突然の襲撃事件は、なぜか最高にシュールな『ごはんの時間』へと様変わりしていた。
その後、テーブルには、なぜかフェル、フィーネ、ビッツ、ヘルメスに加え、ちゃっかりモチ丸や人間の冒険者であるガル、リル、ゴンの姿まで勢ぞろいしていた。
さっきまで命のやり取りをしていたはずの敵対相手を囲み、まるで大家族の夕食前のようなシュールな空気感の中、生き延びた狐の獣人――ヒョウに対する『事情聴取』が始まった。
その聞き取りは、昼過ぎから夕暮れの夕どきに至るまで、たっぷり数時間にわたって続けられた。
そして、彼女の口から語られた内容は、フェルたちの想像を遥かに超えた深刻なものだった。
ヒョウが語った経緯を整理すると、事態の発端はこうだ。
ある日、彼女が暮らしていた里の近くを巡回していたところ、突如として五大覇王の一角である『深緑の精霊』エン=リドが現れ、古びた祠の封印を解いたという。
その祠こそが、かつてフィーネが自身の魔導の大半を代償にし封印し続けていた、最悪の災厄――邪竜ドルガロを抑え込むための要だったのだ。
封印が解かれたことで目覚めた邪竜ドルガロは完全とまではいかないが復活を果たしてしまった。
それだけではない。ドルガロはエン=リドが召喚した『カイザードラゴン』(推定レベル三)を二体も従えて手駒とし、周辺の魔物たちや妖狐族の集落を手当たり次第に襲撃し始めたというのだ。
「突然の襲撃に、私たち妖狐族も一族総出で迎撃にあたった……。だけど、あの邪竜とカイザードラゴンたちの圧倒的な力の前に、一族は……私を逃がすために盾となった仲間たちは、皆……滅ぼされてしまった……。」
ヒョウはそこまで話すと、悔しさと絶望に満ちた震える手で、ぎゅっと自分の膝の着物を握りしめた。
テーブルの上の空気が、一気に凍りつくように重くなる。
「なるほどね……だから私を仇だと思って、いきなりあんな大技で突っ込んできたわけだ。」
フィーネは自分のカップに注がれた水を一口啜ると、少しだけ複雑そうな、それでいてどこか哀しげな目を伏せた。
「……すまなかった。あなたはかつて、エン=リドの親友であったと…それで、てっきり仲間なのかと……。」
ヒョウが悔しそうに歯を食いしばりながら頭を下げ「すまない。」と言うと、フィーネは「頭を上げなさいよ。」と優しくため息をついて首を横に振った。
「確かに、リドは親友だった、でもあいつが何を考えてそんなことをしたのか、今の私には全く見当がつかない。でも、あたしが知る彼は、そんなことをするようなやつじゃあなかった。一体……。」
その言葉に、ヒョウはわずかに目を見開き、そして深く息を吐き出した。
(これは……今まで以上に、確実にやばい事態に巻き込まれてる気がする……。)
フェルは食堂のテーブルの端で、頭を抱えたい衝動を必死に抑え込んでいた。
平和に温泉を掘って、美味しいご飯を作って、インフラを整備して、のんびりスローライフを送る――そんな当初の野望は、今や音を立てて崩れ去りつつある。深緑の精霊エン=リド、復活した邪竜ドルガロ、二体のカイザードラゴン。
温水の霊峰を揺るがす最大の脅威を前に、フェルたちの運命の歯車は、いま大きく、そして不可避に回り始めているのだった。
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