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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第9話 王都で崩れ始めるもの

 王都の朝は、辺境の朝とは違う意味で冷たかった。


 雪こそ北西ほど深くはないが、石畳の隙間にたまった薄氷が人々の足音を硬く響かせ、硝子窓の内側では暖炉の火が赤々と燃える。そのぬくもりは、外を歩く者のためにあるのではなく、内側にいる者のためだけに守られている。


 その閉じた温かさこそが、王都の本質なのかもしれないと、今のリシェルなら思っただろう。


 だがその頃、王都ではまだ誰も、自分たちの足元で何が崩れ始めているのかを正しく理解していなかった。


 フォルディア侯爵家の朝食室では、銀のカトラリーが静かに鳴っていた。


 白いクロスの上には焼きたての白パン、薄く切られた燻製肉、果実の煮詰めたもの、温めた牛乳、そして貴族らしく飾り立てられた卵料理。どれも見た目には整っている。だがその空気は、以前とは微妙に違っていた。


 何かが足りない。


 その足りなさを、まだ誰も言葉にはしていない。


 フォルディア侯爵は新聞代わりの宮廷報告書に目を通し、継母マルティナは銀の匙でスープをすくい、義妹セレナは可憐な顔で紅茶を口にしている。誰もがいつも通りを装っていた。


 けれど最初にその綻びを口にしたのは、意外にも継母だった。


「今朝の紅茶、少し渋くないかしら」


 たったそれだけのひと言。


 使用人がすぐに頭を下げる。


「申し訳ございません。いつもの茶葉が切れておりまして、代わりを」


「切れている?」


 マルティナが眉を寄せる。


「なぜそんなことになるの。補充の指示は出していたでしょう」


 使用人は一瞬だけ言いよどんだ。


「その……これまで茶商への定期便の手配は、リシェルお嬢様の管理帳に従っておりまして」


 食卓の空気が一瞬だけ止まった。


 父侯爵の視線が報告書から上がる。セレナは紅茶碗を持つ指先をほんのわずかに固くした。


 マルティナはすぐに顔をしかめる。


「そんなもの、他の者が見れば済む話でしょう」


「はい……ですが、帳面には月ごとの量と保管場所、湿気の影響を見て使い分ける指示まで細かく書かれておりまして、同じ茶葉はもう在庫がなく」


「紅茶ごときで大げさね」


 吐き捨てるように言ったが、その言葉にはわずかな苛立ちが滲んでいた。


 侯爵は黙っていたものの、指先で報告書の端を一度だけ叩いた。


 紅茶ごとき。


 たしかに、それは些細なことだ。


 だが、些細なことほど日常の土台になる。日々正しく満たされている時には、誰もそれを意識しない。なくなって初めて、人はそこに誰かの手があったことに気づく。


 リシェルはフォルディア侯爵家で、その“誰も意識しない細部”を黙々と整えてきた。


 茶葉だけではない。香料、水差しの交換、侍女たちの体調の記録、季節ごとの保存食の入れ替え、薬草棚の乾燥管理。侯爵家の長女としての表向きの役目とは別に、彼女はいつの間にか家の中の見えない流れを把握し、滞らぬよう支えていたのだ。


 けれどそのことに、家族の誰も感謝したことはなかった。


 感謝する以前に、それを“存在していて当然のもの”としか思っていなかった。


 だから今、綻びが出ても、それが誰の手によって支えられていたかを素直には認められない。


「セレナ」


 父侯爵が言った。


「今後はお前が家の内向きの帳面も見なさい。婚約者を迎える立場になるなら、最低限の采配は覚えておくべきだ」


 その言葉に、セレナはぱっと柔らかい笑みを作った。


「はい、お父様。お姉様にできていたことなら、わたくしにもできますわ」


 その言い方は愛らしく、控えめで、そしてどこか無邪気だった。


 だが侯爵は見逃さなかった。いや、正確には見逃したのではなく、意味を考えなかった。


 リシェルにできていたことなら。


 それは“誰でもできる雑事”と断じているのと同じだった。


 だが現実には、その雑事こそが誰にでもできるものではないと、この日から少しずつ明らかになっていく。


 同じ頃、レヴェント公爵家では、さらに露骨な綻びが生まれていた。


 婚約破棄の夜から数日、公爵家の若き嫡男エドガーは、表向きには社交界から称賛を受けていた。聖女候補を守るため、冷酷な婚約者を切った英断。道徳と名誉を重んじる決断。そんな言葉が周囲を取り巻き、若い貴族たちは彼の背を叩き、夫人たちは意味ありげな微笑みとともに「大変でしたわね」と囁いた。


 最初の数日は、それでよかった。


 むしろ胸がすく思いすらした。ずっと自分の周囲にいた、気位ばかり高くて何を考えているか分からない女を追い払い、代わりにセシリアのように素直で可憐な女性が自分を見上げてくる。男として、それはある種の勝利に見えた。


 だが勝利の余韻は、思ったより短かった。


「どういうことだ?」


 エドガーは執務机の前で、苛立ちを隠しもせずに声を荒げた。


 机の上には数通の書簡と支出記録、そして季節の贈答品目録が散らばっている。対面に立つ執事長は、いつも通り感情を見せぬ顔のまま頭を下げた。


「何度も申し上げておりますが、今年の冬期贈答に関して、例年の選定表が見当たらないのです」


「見当たらないなら新しく作ればいいだろう」


「はい。ですが、レヴェント家が毎年贈る相手は百を超えます。相手ごとに好む産地や禁忌、過去の病歴まで踏まえた品選びをしておりましたので」


「病歴?」


 エドガーは眉をひそめた。


「なぜそんなものが必要なんだ」


「胃を悪くしている夫人へ強い酒を送れば無礼になりますし、香料に過敏な相手へ濃い香油を贈れば不快にさせます。以前は……リシェル嬢がそのあたりを詳細に整理なさっておりました」


 その名が出た瞬間、エドガーの顔が険しくなる。


「またそれか」


 執事長は一歩も引かなかった。


「事実です」


 彼の口調は淡々としていたが、その“事実です”という響きは妙に固かった。


「リシェル嬢は、婚約者として表に立つだけでなく、裏で必要な準備も多く担っておられました。贈答の選定、季節ごとの来客予定、夫人方の体調や嗜好の記録、公爵家の侍女頭との連絡――」


「たかが婚約者だぞ」


 エドガーは吐き捨てた。


「妻でもない女がそこまで入り込んでいたのか」


「それをお許しになっていたのは、坊ちゃまご自身です」


 執事長の声は相変わらず平坦だった。


 だがその一言は、刃のように真っ直ぐだった。


 エドガーは言葉を失う。


 許した覚えなどない。そんな細かな実務の話など、彼の耳には届いていなかった。いや、届いていたとしても流していただろう。リシェルはいつもきっちりと整えていた。必要な時には必要なものがあり、手違いは起こらず、社交の場で自分が恥をかくこともない。


 それが当然だと思っていた。


 婚約者として、彼女がそうするのは当然なのだと。


 そして今、その当然が消えた。


「では、どうしろというんだ」


 苛立ち混じりに問うと、執事長は一拍置いて答えた。


「作り直すしかありません」


「今からか?」


「はい。ですが間に合わない部分も出るかと」


 エドガーは机の上の書簡を掴み、乱暴に置き直した。


 その中には、既に軽い苦情に近い文面も混じっていた。昨年は完璧だった贈答の質が落ちた、香りが強すぎる、あの家にはこちらの好みが伝わっていないのか――そうした、直接的ではないが確実に印象を下げる言葉たち。


 公爵家の格なら、些細なほころび一つが長く尾を引く。


 王都の社交とはそういうものだった。


「……セシリアへ聞けないのか」


 思いつきのように口にすると、執事長の表情が初めてわずかに曇った。


「聖女候補様へ、贈答管理の実務を丸ごとお頼みになるのですか」


「何か問題があるのか」


「問題しかございません」


 静かな返答だったが、その中には驚くほどはっきりとした拒絶があった。


「彼女はあくまで外向きの存在です。貴族家の内実務を今すぐ担える立場でも知識でもありません。それに」


「それに、何だ」


「……比較するようで恐縮ですが、リシェル嬢は目立たぬところまで気を配る方でした」


 またその名だ。


 またリシェル。


 婚約を破棄し、王都から消したはずの女の名が、なぜこうも至るところでちらつくのか。


 エドガーは奥歯を噛みしめた。


 あの夜、自分は間違っていなかったはずだ。セシリアを守るために必要なことだった。王都中の前で悪役令嬢を切り捨てたのは、正しく、賢い判断だった。


 それなのに。


 なぜ、その“正しい判断”のあとから、こんな細かな面倒ばかりが増えていくのだろう。


 その頃、セシリア・エルンストは、聖女候補として寄宿している離宮で鏡を見ていた。


 白いドレス。柔らかな巻き髪。儚げな微笑み。


 鏡の中の自分は今日も完璧に“守るべき少女”に見える。


 侍女が後ろから新しい髪飾りを差し出す。


「レヴェント公爵家からのお届けです。今朝届きました」


 セシリアはちらりとそれを見て、口元をわずかに歪めた。


 以前のリシェルが選んでいた贈り物に比べると、どこか露骨で浅い。高価ではあるが、彼女が本当に好む意匠ではなかった。装飾は華美すぎ、石の色も季節に合わない。


 つまり、もうあの女はいないのだ。


 その事実が、セシリアには甘い優越として染みる。


「ありがとう。そこへ置いてちょうだい」


 侍女が下がる。


 部屋に一人になってから、彼女は髪飾りを指先でつまみ上げた。


「見事に抜けたのね」


 小さく呟く。


 リシェルという女は、本人が思っていた以上に、いろいろな場所に根を張っていたらしい。だが所詮それは、誰にも気づかれぬよう張った地味な根だ。上から見れば華はない。だから抜けた時だけ、人はそこに何かがあったと知る。


 けれど、それも長くは続かない。


 人はすぐに慣れる。


 綻びもやがて新しい形に整えられ、そしてリシェルという女の存在など、まるで最初からなかったように埋もれていく。


 そうなるはずだった。


 なのに、セシリアには小さな苛立ちがあった。


 エドガーの手紙だ。


 内容は以前より少しだけ短くなり、熱が薄れている。忙しいのだろう。婚約破棄で注目を集め、公爵家の仕事も増えていると聞く。だがそれだけではない気配が文面の端々にある。


 苛立ち。


 焦り。


 そして、わずかな空白。


 その空白の正体が何なのか、セシリアにはまだ正確には分からない。


 だが、もしそれが“いなくなった女の不在”によるものなら、不快だった。


「……消えたままでいなさいよ」


 白く整えられた鏡の中の微笑みとは裏腹に、吐き出された声はわずかに冷たかった。


 一方その頃、フォルディア侯爵家ではさらに小さな事故が重なっていた。


 冬の保存庫で、乾燥果実の一部に湿気が入り、黴が出た。侍女頭が慌てて処分を進めるが、なぜ保存箱の位置を変えたのか誰も説明できない。花の活け替えの順番もずれ、来客用の小広間では香りの強い花が強すぎて頭痛を訴える夫人が出た。


 そんな些細な混乱が続くたび、使用人たちは自然と同じ言葉を口にするようになる。


「以前は、こうではなかった」

「お嬢様が見ていらした頃は」

「長女様は、いつの間にか帳面を整えてくださっていて」


 その“長女様”という囁きは、やがて使用人たちの間だけに留まらなくなった。


 侯爵の耳にも、継母の耳にも、そしてセレナの耳にも、少しずつ届き始める。


 リシェルがいなくなって、家の中の細部が荒れてきている。


 そういう空気そのものが、屋敷に染みていく。


 セレナはある日、ついに帳面を開かされた。


 父に言われたのだ。内向きの管理も学べ、と。


 紅茶の仕入れ表、侍女の体調記録、厨房との連携メモ、香油の消費量、季節ごとの保存食の回転表、客人ごとの禁忌一覧。そこに並んでいたのは、セレナが“地味でつまらない雑務”としか思っていなかったものばかりだった。


 けれど、その一つ一つが細かい。


 異様なほど細かい。


 誰がどの香りで咳をしやすいか、誰が甘味を控えているか、どの侍女が寒さに弱く、どの使用人が腹痛持ちか、どの茶葉は湿気に弱く、どの保存棚は西日を避けるべきか。


 リシェルの文字で、整然と、淡々と書かれている。


 セレナはページをめくりながら、次第に顔色を失っていった。


「……こんなもの、誰が全部覚えるのよ」


 思わず漏れた言葉に、侍女が困ったように目を伏せる。


「これまで長女様が」


「お姉様は、勝手に好きでやっていただけでしょう!」


 声が荒くなる。


 侍女は黙った。


 だがその沈黙が、かえってセレナを苛立たせた。


 勝手に好きでやっていただけ。


 そうだ。そういうことにしておかなければ困るのだ。もしこれらが本当に必要な仕事で、しかも誰にでもできることではなかったとしたら、リシェルを追い落としたあとに残るのは、ただの空席ではなく“失った機能”になる。


 それでは困る。


 だってセレナは勝者でなければならないのだから。


 可憐で、愛されて、姉より選ばれる存在でなければならないのだから。


「……この帳面、あとで写させて」


「はい」


「それと、厨房へはわたくしの好きな菓子を増やすよう伝えて」


 とっさにそう言ったものの、侍女は一瞬だけ妙な顔をした。


 それもそのはずだ。帳面にあったのは“誰の何を増やすか”ではなく、“家全体が滞りなく回るために何が必要か”だったのだから。


 セレナはその違いに気づいていない。


 いや、気づきたくないのだ。


 その夜、レヴェント公爵家ではさらに別の綻びが顔を出していた。


 エドガーは晩餐の席で、ふと口にした料理の味に違和感を覚えた。


「塩が強すぎる」


 口にすると、料理人が青ざめる。


「申し訳ございません」


「なぜこんなことになる」


 怒気を含んだ問いに、料理長は言いづらそうに答えた。


「以前は、季節ごとの献立表に合わせて、体調に応じた塩加減の指示が別紙で」


 まただ。


 またリシェルだった。


 彼女がいた頃は、エドガーが風邪気味なら香辛料を少し強め、疲れている時は胃に重くないものへ変え、狩りの後は塩と油を控えめにし、夜会前は酒に残りにくい献立に整えていた。


 そんなこと、彼は一度たりとも意識したことがなかった。


 意識しなかったということは、必要ないことだと思っていたということだ。


 だが必要ないのなら、なぜ今こうして違和感ばかりが残るのか。


「……面倒だ」


 思わず漏れた本音に、食堂の空気が凍った。


 面倒なのは料理の味ではない。


 気づいてしまうことだ。


 あの女が、ただ気位が高くて鬱陶しいだけの婚約者ではなかったかもしれないと、少しずつ分かってきてしまうこと。


 それが面倒だった。


 認めたくない。


 認めれば、あの夜の自分の判断の一部が軽くなるどころか、むしろ重くなる。


 だからエドガーは杯を強く置き、苛立ちを飲み込むようにワインをあおった。


「明日までに全部整えろ」


 誰に命じているのか自分でも曖昧なまま、そう言い捨てる。


 だが整えるべき“全部”が何なのか、彼自身が最も分かっていなかった。


 そしてその数日後、王都のある一角では、一通の報告書が静かに広げられていた。


 そこには簡潔にこう記されている。


 『北西辺境第三駐屯区にて、新任薬師リシェル・フォルディア到着後、重傷兵の生還率に変化あり。初動処置の迅速化が認められる』


 報告書を読んだ男は、ゆっくりと目を細めた。


 彼が誰であるか、まだこの時点では明かされない。


 ただ、その報告が王都の一部の人間にとって、決して小さくない意味を持ち始めたことだけは確かだった。


 リシェルは消えてなどいない。


 王都から追い出された先で、別の形で価値を証明し始めている。


 その事実は、静かに、だが確実に、これから多くのものを揺らしていくことになる。


 その頃、当のリシェルはそんな王都の綻びを知るはずもなく、砦の小さな部屋で今日の薬草記録を整理していた。


 外では雪がまた降り始めている。


 白い静けさの中で、火の揺れる音だけが小さく響く。


 彼女は紙の端に、今日新しく覚えた北側斜面の葉毒草の特徴を書き足した。


 知らないうちに、王都で崩れ始めたものがある。


 知らないうちに、彼女が抜けた後の空洞が広がっている。


 だが今のリシェルにとって大事なのは、そこではなかった。


 目の前の薬棚。明日の巡回。負傷兵の熱。団長の古傷。雪の下でも生きる草のこと。


 その一つ一つを積み重ねていくことで、自分はようやく、誰かに貼られた札ではなく、自分自身の輪郭を取り戻し始めている。


 それがどれほど王都を揺らしていようと、今はまだ知らなくていい。


 やがて知る時が来る。


 そしてその時、彼女はもう、王都で切り捨てられたままの令嬢ではないだろう。

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