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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第8話 騎士団長の傷

 その夜、医務棟は珍しく静かだった。


 静か、といっても王都の屋敷の夜のような上品な無音ではない。壁の向こうで誰かが咳き込み、遠くで見張り交代の声が上がり、炉の火がぱちりと小さく弾ける。けれど、負傷兵が立て続けに運び込まれるような慌ただしさはなく、ようやく一息つける程度には落ち着いていた。


 それだけで、医務棟に漂う空気はまるで別物になる。


 湯気を含んだ薬草の香りがゆるやかに広がり、木の床板は昼間ほど乱暴に軋まず、トーマスでさえ小走りをやめて普通に歩いている。


 リシェルは作業台の端で、包帯用の布を裂きながら、ようやく指先の痛みに気づいていた。


 今日一日、雪の中を走り、血に触れ、薬草を刻み、何度も湯に手を浸したせいで、指の節が赤く腫れている。王都にいた頃なら、こんな手を人前に晒すことすら考えられなかっただろう。


 だが今は、その荒れた手が少しだけ誇らしかった。


「まだやってるのか」


 ベルンの声がした。


 振り返ると、老人薬師は肩に毛布を引っかけ、いつもの不機嫌な顔で立っていた。だがその不機嫌さにも、もう最初の頃の拒絶は混じっていない。


「包帯が減っていたので」


「明日やれ」


「明日も減るでしょう」


「減る前提で話すな」


「減らない砦のほうが珍しいのでは」


 返すと、ベルンは鼻を鳴らした。


「口が回るようになったな」


「ここでは、黙っていると仕事が増えるだけだと学びました」


「違いない」


 老人は少しだけ肩をすくめ、作業台の横へ近づいてきた。


「今日はもう大きな怪我人は来んだろう。お前も休め」


「ベルン先生こそ」


「儂は年寄りだから、逆に眠りすぎると骨が痛む」


「便利なのか不便なのか分かりませんね」


「不便に決まっとる」


 そのやり取りに、廊下を通りかかったトーマスがくすりと笑った。


 王都では、こうして誰かと軽口を交わすことすら少なかった。会話には常に立場が貼りつき、何気ない一言が翌日には別の意味へ変えられて広がっていたからだ。


 ここでは、少なくともその恐れは薄い。


 言葉がその場で終わる。


 だからこそ、少しずつ本音が口に出るのかもしれない。


 布を裂き終えたところで、リシェルはふと湯桶の残りを見た。まだ温かい。医務棟の奥では、傷薬用の煎じ液も火から下ろしたばかりで、しばらくは湯気がもつだろう。


 その時だった。


 外の廊下から、どさりと重いものが壁にもたれかかるような音がした。


 全員の動きが止まる。


 ベルンが眉をひそめる。


「……何だ」


 トーマスが先に飛び出しかけたが、リシェルのほうが少しだけ早かった。


 戸口を開ける。


 廊下の曲がり角、医務棟の外へ続く半屋外の通路に、一人の男が立っていた。いや、立っているというより、石壁に片手をついて辛うじて体を支えているように見える。


 黒い外套。


 広い肩。


 そして、血の匂い。


「団長……?」


 トーマスの声がひっくり返る。


 アルヴェインだった。


 雪を払う余裕もなかったのか、外套の肩と髪に白い粒がまだ残っている。だがそれ以上に目を引いたのは、左脇腹のあたりだ。黒い軍装の色に紛れて一見分かりづらいが、布地が濡れて重く沈み、そこから血の匂いが強く立っていた。


「何が……!」


 トーマスが駆け寄ろうとする。


 だがアルヴェインはそれを手で制した。


「騒ぐな」


 いつも通り低い声だった。


 しかし声量はわずかに抑えられ、呼吸も浅い。


 リシェルは一歩前へ出る。


「怪我をしているのですか」


「大したことはない」


「それは今、決めることではありません」


 思ったより強い口調になった。


 ベルンがすぐに前へ出る。


「中へ入れ。立ったまま死なれると面倒だ」


「死なん」


「なら入れ」


 老人の返しも容赦がない。


 アルヴェインは一瞬だけ眉を寄せたが、やがて小さく息を吐き、壁から手を離した。だがそのわずかな動きだけで、脇腹のあたりに鋭い痛みが走ったらしい。青い瞳の奥がかすかに揺れる。


 リシェルは迷わずその腕へ手を伸ばした。


「こちらへ」


 触れた瞬間、厚い外套越しでも体温が低いのが分かった。冷えている。出血でさらに体温が落ちているのかもしれない。


 アルヴェインは一瞬だけ彼女を見た。


「自分で歩ける」


「ええ。でも、転ばれると余計に困ります」


 返すと、彼は何も言わず、ほんのわずかに体重を預けた。


 それだけで、医務棟の空気が静かに変わった。


 トーマスは目を丸くし、ベルンは露骨に渋い顔をする。


 砦の誰もが逆らえぬ団長が、自分の足で歩けるのに、侯爵令嬢上がりの薬師へ触れさせている。


 それはこの砦では、十分すぎるほど異様な光景なのだろう。


 診察用の長椅子に座らせると、アルヴェインは外套だけを外し、軍装の上着へ手をかけた。だが途中で指が止まる。


 脇腹の傷が引きつるのだ。


「無理をしないでください」


「……自分でできる」


「では、わたくしは見ているだけにします」


 言いつつ、リシェルはすでに湯と布を準備していた。


 ベルンが唸る。


「トーマス、灯りを足せ。あと縫合具も出せ」


「は、はい!」


 炎が少し強くなり、医務棟の一角が明るく照らされる。


 アルヴェインはようやく上着を脱いだ。厚手の軍装の下には、戦場用の簡素な肌着と、さらにその下へ巻かれた布がある。だが布は血でほとんど黒く染まり、役目を果たしていなかった。


 リシェルは息を呑む。


 新しい傷だけではない。


 胸から腹、脇腹、肩にかけて、古い傷痕がいくつも走っている。刃の傷、爪の裂傷、焼けたような痕。どれも深く、軽い戦闘でつくものではない。


 それらの中に混じって、今夜の新しい傷があった。


 脇腹を横に裂くような傷。深いが、致命傷ではない。だが無理に動いたせいで開いたのだろう。血がじわじわとにじみ続けている。


「何にやられたのです」


 問うと、アルヴェインは短く答えた。


「岩角熊の爪」


 ガレスならここで「その程度」とでも言うのだろうかと思ったが、ベルンが先に舌打ちした。


「その程度で済む傷じゃない」


「死んでいない」


「死んでからでは遅いと言っている」


 リシェルは黙って傷口を見た。


 熊の爪による裂傷は単純に見えて厄介だ。えぐるように皮膚と筋を持っていく。しかも冬場は冷えて感覚が鈍くなり、本人が想像している以上に血を流していることがある。


 だが、彼女の意識はその新しい傷以上に、別の一点へ引かれていた。


 脇腹より少し上、肋の近くに古い傷がある。


 いや、傷というより……痕だ。


 焼き印のように皮膚が変質し、その輪郭がかすかに残っている。完全には読めない。だが、何かの紋を消そうとした跡に見えた。


 その一部だけが、妙に見覚えのある形をしている。


 王都で、父の書庫にあった古い王家系譜の図録。幼い頃にこっそり見た、王家傍流の紋章図。


 まさか、と思う。


 けれど思った瞬間、胸の奥で小さな音がした。


 あの所作。


 あの言葉遣い。


 誰もが逆らえぬ空気。


 そして、この傷の下に隠されたような紋。


「どうした」


 低い声に、リシェルは我に返る。


 アルヴェインがこちらを見ていた。青い瞳は鋭いが、探るような色もある。


「……いえ」


 危うく見入っていたことが知られるところだった。


 リシェルはすぐに表情を整え、淡々と答える。


「傷が思っていたより深いので、縫合が必要です。痛みます」


「構わん」


「構ってください。途中で動かれると困ります」


 そう言うと、トーマスが吹き出しそうになり、ベルンが「黙っとれ」と睨みつけた。


 リシェルは湯で布を温め、まず血を落としていく。触れた瞬間、アルヴェインの筋肉がほんのわずかに硬くなった。痛みを我慢しているのだ。


 だが声は上げない。


 表情もほとんど変えない。


 ただ、呼吸が少しだけ深くなる。


「消毒します」


「ああ」


 酒精の染み込んだ布を当てると、さすがに彼の眉がかすかに動いた。


 それでも身じろぎは最小限だ。


「本当に、我慢強い方ですね」


 思わず零すと、アルヴェインは乾いた声で返した。


「騒いでも傷は閉じない」


「ええ。でも、痛いものは痛いでしょう」


「お前は、処置をしながらよく喋る」


「黙っていると、相手が倒れることがあるので」


 その返答に、アルヴェインの目がほんの少しだけ細くなった。


 笑ったのではない。


 だが、その何かが柔らかくほどけたように見えた。


 縫合具を受け取り、リシェルは針先を灯りにかざす。


 王都で暮らしていた頃、自分がまさか騎士団長の脇腹を縫う日が来るとは思わなかった。


 けれど不思議と手は震えない。


 目の前にあるのは身分ではなく、裂けた皮膚と流れた血と、止めるべき傷だ。


 それだけで十分だった。


「始めます」


 針を通す。


 アルヴェインの肩が一瞬だけ強張る。


 だがそれ以上は動かない。


 その間、リシェルは自然と彼の体を近くで見ることになった。


 鍛え抜かれた筋肉。戦場でしか刻まれない古傷。冷えた皮膚の下を走る熱。そして、やはり気になるのはあの焼き消されたような痕だ。


 王家の紋に似ている。


 似ているだけかもしれない。


 けれど、もし本当にそうなら――


「お前」


 突然、アルヴェインが口を開いた。


「何ですか」


「さっきから、傷より別のものを見ている」


 心臓が跳ねる。


 見抜かれた。


 リシェルは一瞬だけ針を止めかけたが、すぐに動きを戻した。


「古傷が多いので」


「それだけか」


 問い方が妙に静かだった。


 追及ではない。だが、答え次第では何かが変わるような静けさ。


 リシェルは慎重に言葉を選ぶ。


「……ただの騎士団長にしては、あまりにも多いと思いました」


 それは嘘ではない。


 核心を避けた、本当の一部だった。


 アルヴェインは少し黙った。


 その沈黙のあいだ、針と糸だけが静かに動く。


 やがて彼は短く言った。


「辺境は長い」


「そうですね」


「長くいれば、こうもなる」


 それだけ。


 だが、答えになっていないこともまた明白だった。


 ベルンが横から口を挟む。


「令嬢、余計な詮索はするな。傷は傷だ」


「分かっています」


 本当は、完全には分かっていない。


 だが、今ここで追いかける話ではないのも確かだった。


 縫合を終え、最後に薬液を薄く塗る。


 リシェルが包帯を巻こうとした時、ふと別の違和感が鼻をかすめた。


 新しい傷の匂いではない。もっと奥に、微かに残る異質な匂い。


 冷たい鉄と、乾いた灰と、どこか薬草とも毒ともつかぬ苦み。


「……この古傷」


 思わず口をついて出る。


 アルヴェインが視線を寄越す。


「何だ」


「少し、普通の裂傷とは違う匂いがします」


 その瞬間、ベルンの手がぴたりと止まった。


 トーマスも目を丸くする。


 だがアルヴェインは表情を変えなかった。


「昔の傷だ」


「ええ。でも、獣傷とも火傷とも少し違う。毒か……呪いのような後残りですか」


 言った瞬間、自分でも踏み込みすぎたと分かった。


 医務棟の空気が一気に重くなる。


 アルヴェインは黙っていた。


 あまりにも黙っているので、リシェルは針でも落としたような気持ちになる。


 やがて、彼は低く言った。


「鼻が利くな」


 否定ではなかった。


 ベルンが苦々しい顔で唸る。


「令嬢、そこまでだ」


「すみません」


 謝りつつも、胸の奥では別の感情が動いていた。


 やはりそうなのだ。


 この男はただの強い騎士ではない。古傷の一つ一つに、普通の辺境任務だけでは説明できない何かがある。


 しかも、その一つはたぶん王家に関わる。


「終わったか」


 アルヴェインが問う。


「はい。今夜は安静にしてください。明日も無理をすると、また開きます」


「明日は無理をする日だ」


「知っていました」


 そう返すと、彼の青い目がほんのわずかに揺れた。


 今度こそ、たしかに笑ったのだと分かった。ごく小さく、しかしはっきりと。


 それは王都の貴公子たちが見せるような人当たりの良い笑みではない。


 雪解け前の氷が、わずかにひび割れるような笑みだった。


「お前は本当に変わっている」


「この砦では、何度も言われます」


「王都でも言われていたか」


「ええ」


「だろうな」


 またその言い方だ。


 何もかも見透かしたようでいて、余計な同情をしない。


 その距離感が、なぜか心地よい。


 包帯を結び終えると、リシェルはようやく息を吐いた。


「しばらくは剣も控えてください」


「無理だ」


「即答しないでください」


「無理なものは無理だ」


「では、せめて今夜は」


 言いかけたところで、アルヴェインが立ち上がる。


 さすがに無茶だ、とリシェルもベルンも同時に声を上げた。


「待ってください!」

「馬鹿者!」


 だがアルヴェインはふらつきも見せず、ゆっくりと外套を取り上げた。ただし、その動きはわずかに慎重になっている。痛みを全く無視はできないのだろう。


「今夜は休む」


 その一言に、リシェルは少しだけ肩の力を抜いた。


「本当に?」


「お前がうるさいからな」


 淡々とした言い方なのに、どこか揶揄が混じっている。


 トーマスがまた笑いを堪え、ベルンは呆れたように首を振った。


 アルヴェインは外套を羽織り、戸口の手前でふと立ち止まる。


 そして振り返らぬまま言った。


「リシェル」


 初めて、名前を呼ばれた。


 それだけで胸の奥が強く鳴る。


「……はい」


「今日のことは、口外するな」


 それが傷のことか、匂いのことか、あるいは彼の弱みを見たことそのものか、明言はされなかった。


 だが分かる。


 これは命令であり、同時に信用の境界線でもあるのだ。


「しません」


 即答すると、アルヴェインはほんのわずかに頷いた。


「ならいい」


 そのまま彼は去っていく。


 黒い背中が廊下の向こうへ消えるまで、リシェルは動けなかった。


 名前を呼ばれたこと。


 傷を見せられたこと。


 口外するなと言われたこと。


 その全部が、妙に重く胸へ残っている。


 ベルンが長く息を吐いた。


「面倒なものを見たな」


「……先生は知っていたのですか」


「古傷のことか」


 老人は答えず、代わりに薬瓶の栓を閉めた。


「砦には、知らんほうが長生きすることもある」


 それだけ言って、毛布を肩にかけ直す。


 トーマスは何か聞きたそうな顔をしていたが、さすがに黙っていた。


 リシェルもそれ以上は問わない。


 問えない、のではない。


 今はまだ、問うべきではないと分かったからだ。


 けれど確信は深まった。


 最強騎士団長アルヴェイン。


 その正体の奥には、ただ強いだけでは済まない過去と、王都に繋がる秘密がある。


 そして、その秘密の縁へ、自分は今たしかに触れてしまったのだ。


 夜更け、医務棟の炉の火が静かに揺れる中で、リシェルは一人、小さな記録紙を取り出した。


 新しい傷。岩角熊。脇腹。縫合済み。


 そこまでは事実として書く。


 だが、その下の一行だけはしばらく迷った。


 そして結局、こうだけ記した。


 「騎士団長の古傷には、普通ではない過去の痕跡がある」


 王家の紋章に似ていたことも、呪いめいた匂いがしたことも、今は書かなかった。


 まだ、それを書けるほど整理できていない。


 けれどいつか必要になる気がした。


 この砦に来てから、自分は少しずつ、王都で捨てられた令嬢ではなくなっていく。


 そして同時に、騎士団長アルヴェインもまた、“ただの騎士団長”ではない輪郭を帯び始めていた。


 外では雪がまだ降っている。


 白く、冷たく、すべてを覆い隠すように。


 けれど、その雪の下で確かに動いているものがある。


 傷も、秘密も、まだ名を持たぬ感情も。

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