第7話 役立たずではない証明
北西辺境補給砦の朝は、やはり唐突だった。
まだ空が白みきる前から、医務棟の外では兵士たちの足音が響いている。雪かきの音、馬の世話をする声、樽を運ぶ掛け声。王都ではまだ侍女が寝室の外で静かに待機しているような時刻に、この砦ではもう半日ぶんほどの仕事が始まっているようにさえ思える。
リシェルは冷えた空気の中で素早く身支度を整えた。
鏡は小さく、磨きも王都のものほど丁寧ではない。それでもそこに映る自分の顔は、王都を出る前よりどこか締まって見えた。頬の線はわずかに細くなり、目元の弱々しさが少しずつ削れている。代わりに残ったのは、疲労と、それでもまだ折れていない光だった。
髪を後ろで一つにまとめ、動きやすい服の上から厚手の外套を羽織る。母の手記は机の上へ置いたまま、今日は小さな薬草袋と記録用の紙束だけを懐へ入れた。
昨夜、アルヴェインが言ったのだ。
巡回路の薬草帯を確認しろ、と。
使うなら、まず覚えろ、と。
その言葉が、妙に胸の中へ残っていた。
王都では、知識を深めようとすればするほど「余計なこと」と見なされた。ここでは逆に、知っているだけでは足りず、使うために覚えろと言われる。厳しい。だが、厳しさの向きが違う。
部屋を出ると、トーマスがすでに廊下で待っていた。
「おはようございます、リシェルさん」
「おはよう、早いのね」
「今日は北の薬草帯に行くって聞いて、ちょっと楽しみで」
「楽しみ?」
「医務棟の手伝いばっかりだと、たまには外へ出たいじゃないですか」
そう言って笑う顔は年相応に若い。
王都では使用人たちも、こういうふうに素直な笑い方をあまりしなかった。主家の空気を読み、気配を殺し、余計なことを言わないように生きていたからだろう。
砦では人も風も、何もかもが少しだけ剥き出しだ。
そこが嫌ではなかった。
中庭へ出ると、すでにガレスが待っていた。今日は鎧の上から長めの外套を羽織り、腰には剣、背には短槍を負っている。隣には護衛らしい兵が二人。さらに少し離れたところで、ベルンが不機嫌そうに腕を組んでいた。
「来たか」
副官の声は相変わらずぶっきらぼうだ。
「団長は?」
思わず口にすると、ガレスは片眉を上げた。
「今日は別行動だ。見張りの再編と荷の割り振りがある」
「そう」
返した声が、自分でも少しだけ期待を落とした響きになった気がして、リシェルは内心で眉を寄せた。
何を期待しているのだろう。
あの男が同行すれば、きっと空気はもっと張りつめただろうに。
ベルンが鼻を鳴らす。
「団長に付きっきりで世話されるほど甘い場所じゃない。残念だったな、令嬢」
「残念とは言っていません」
「顔に出ている」
「出ていないと思います」
「出ている」
老人は即答した。
トーマスが肩を震わせて笑いを堪える。ガレスまで口元をわずかに動かしたように見えた。
リシェルは少しだけ視線を逸らし、外套の襟を整える。
王都なら、こんな軽口が交わされること自体ありえなかった。少しでも揶揄われれば、それがそのまま上下や優劣の確認になり、やがて噂に変わっていくからだ。
だがここでの言葉は、もっと乾いている。
刺があっても、ねじ曲がっていない。
「行くぞ」
ガレスのひと言で、四人は砦の北門から外へ出た。
砦の外は、思っていた以上に白かった。
夜の間に積もった雪が地面を均し、踏み固められた巡回路だけが灰色の筋になって続いている。左右には針葉樹の林が広がり、その根元には風に吹き寄せられた雪の塊がいくつも積もっていた。空気は痛いほど冷たい。けれど、鼻の奥を通る匂いは澄んでいる。
王都の冬は、香油や煙や人の匂いが混じっていた。
ここには雪と樹と、土と鉄の匂いしかない。
「北の薬草帯って、こんな雪の中でも見つかるの?」
リシェルが問うと、ベルンが唸るように答える。
「見つかるものだけが生き残る土地だからな。冬に採れる草は少ないが、その分強い」
「土地が厳しいぶん、薬効も濃い?」
「一概には言えん。強いだけで扱いづらいものもある。お前が昨日見抜いた葉毒草なんか、その典型だ」
歩きながら老人は雪の下から半ば顔を出した濃緑の葉を杖の先でつつく。
「これが葉毒草。青臭くて、傷に入ると痺れる。だが量を見極めれば痛み止めにも使える」
リシェルは屈み込み、雪を払って葉の形を確かめた。
王都近郊で見る品種より葉脈が太い。色も深く、匂いが少し鋭い。
「……土壌が違うのね」
「寒さと鉱脈だ。ここは痩せているようで、地下が妙に濃い」
ベルンの説明を聞きながら、リシェルは記録紙に簡単な線と特徴を書き込んでいく。
その様子をガレスが横目で見た。
「いちいち書くのか」
「忘れたくないので」
「全部覚えられる頭はないと?」
「覚えられるかどうかと、記録するかどうかは別です」
「……団長が好みそうな答えだな」
ぽつりと落とされたその一言に、リシェルは思わず顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「別に」
副官は歩みを止めずに言う。
「感覚だけじゃなく形に残す。現場では大事なことだ」
それだけだったが、妙に胸に残る。
王都では、記録を取る癖すら「理屈っぽい」と笑われたことがある。だがここでは、それが現場で生きるやり方として受け止められる。
たったそれだけの違いが、今の彼女にはひどく大きかった。
林を抜け、少し開けた斜面へ出た頃だった。
先を歩いていた護衛の兵が急に足を止め、低く声を上げる。
「待て」
全員が立ち止まる。
風の音が一層鋭く聞こえる中、兵士はしゃがみ込み、雪の上を指した。
そこには不自然に黒ずんだ跡があった。
血だ。
「新しいな」
ガレスの声が低くなる。
「昨夜のものか」
ベルンではなく、別の護衛兵が答えた。
「いや、凍り方が浅い。今朝方だ」
血痕は一つだけではなかった。少し先にも、またその先にも、小さな飛沫が続いている。そして雪の表面には、何かが足を引きずったような跡。
「魔獣か、人か」
ガレスが短く問う。
護衛兵が目を凝らす。
「……人の靴跡がある。だが乱れてる」
その言葉に、リシェルの胸がきゅっと縮んだ。
負傷者だ。
しかも一人で歩いているなら、かなり危ない。
「追うぞ」
ガレスが即断する。
「ベルン、令嬢を連れて戻れ」
「嫌よ」
反射的に言葉が出た。
三人の視線が一斉にこちらを向く。
ベルンがあからさまに眉をひそめた。
「何だと」
「血痕を追って人を探すのでしょう。見つけた時に怪我人だったら、わたくしがいたほうが早い」
「だから危険だと言っている」
「危険なのはその人も同じです」
自分でも驚くほど強い声だった。
けれど一度口にしたら、引くつもりはなかった。
「王都の温室で育った令嬢なら、ここで引き返すのが正しいのでしょうね。でもわたくしは今、薬師としてここにいるつもりです。怪我人を前にして戻るなら、最初から来る意味がありません」
言い切った後、雪の静けさが一瞬だけ濃くなる。
ガレスの顔は厳しいままだ。だが怒鳴りはしなかった。
「見つけた後、言われたこと以外はするな」
その代わり、低くそう言った。
許可だった。
ベルンが忌々しそうに舌打ちする。
「本当に団長に似た面倒くささだな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
言い合いながらも、四人は血痕を追って林の奥へ進む。
雪は深く、踏み込むたびに足を取られる。木々の間を抜ける風が冷たい。だが血痕は途切れず続き、その代わりに足跡は次第に乱れていった。
やがて、倒木の陰からうめき声が聞こえた。
「いた!」
トーマスが駆け寄ろうとするのを、ガレスが腕で制する。
「待て。周囲を確認する」
視線が鋭く林を巡る。
リシェルも息を潜めた。雪の上には倒れた男の体。その近くに散る黒い血。だが襲ったものがまだ近くにいる可能性もある。
数秒後、護衛兵が短く報告する。
「気配なし。多分もう去った」
「行くぞ」
全員が一気に動いた。
倒れていたのは若い兵士だった。砦の紋章を外套の下に着けている。脚を深く裂かれ、雪の上に流れた血はすでに凍り始めていた。唇は青く、意識も半分飛んでいる。
「巡回の……別働きか」
ガレスが舌打ちする。
「おい、聞こえるか!」
兵士はうっすらと目を開け、焦点の定まらぬ視線を向けた。
「……ふく、かん……」
「喋るな。傷を見る」
リシェルは膝をついた。脚の裂傷。深いが、骨はまだ無事かもしれない。問題は出血と冷えだ。
「布をください。あと、外套を一枚」
「私のを使え」
ガレスが即座に肩から外套を外す。
リシェルはそれを兵の上半身へかけ、まずは傷口より少し上を圧迫した。
「止血します。トーマス、湯はないわね」
「はい!」
「じゃあ雪を直接当てないで。布越しに少しだけ冷やして、それ以上は体温を奪わないように」
「分かった!」
トーマスが必死に頷く。
ベルンが素早く傷を覗き込み、低く言う。
「爪じゃない。牙も少し入ってる」
リシェルも匂いを確かめた。
獣臭が強い。だが昨日の腐敗毒ほどではない。代わりに、血の減りが危険だ。
「毒は薄い。けれど出血が多いです。今は止血優先」
兵の手が弱く空を掴んだ。
「……すま、ない……」
「謝らないで」
思わずリシェルは言った。
「今は息をして。砦へ戻れるから」
王都では、誰かにこんなふうに真っ直ぐ声をかけたことがあっただろうか。
相手の立場も、周囲の目も、礼儀も気にせず、ただ“助けるために必要な言葉”だけを口にする。
それが許される場所に今いることが、なぜか胸を打った。
止血を終え、簡易の固定を施す。二人がかりで担ぎ上げようとしたその時だった。
林の向こうから、雪を踏み割る大きな足音がした。
全員の体が硬直する。
護衛兵が剣に手をかける。ガレスが低く「来るぞ」と言った。
木々の間から現れたのは、灰白色の毛並みを持つ魔獣だった。雪狼。昨日より一回り大きい。飢えているのか、目が異様にぎらついている。
「ちっ……」
ガレスが舌打ちする。
担架もない。負傷兵を抱えた状態では動きが遅れる。
雪狼は低く唸り、こちらを見据えた。
空気が張る。
次の瞬間、鋭い笛のような音が林の向こうで鳴った。
ほとんど同時に、黒い影が雪を裂く。
馬だった。いや、その背の男が速すぎて、先に影だけが飛び込んできたように見えた。
黒馬が雪狼の脇をかすめる一瞬、銀の軌跡が走る。
雪狼の首が不自然に跳ね、その巨体が雪の上へ崩れ落ちた。
あまりにも速く、リシェルは刃筋をほとんど見られなかった。
ただ、次の瞬間にはアルヴェインが黒馬から降り、倒れた雪狼を冷たく見下ろしていた。
黒い外套、雪を払う暇もないまま抜かれた剣、青い瞳。
最強騎士団長。
その呼び名が、初めて形を持って目の前に現れた。
「無事か」
問いは短い。だが、その場の全員が一息に緊張を解いた。
「負傷兵一名、脚をやられました」
ガレスが即答する。
「見れば分かる」
アルヴェインは剣の血を払って鞘へ戻し、地面に膝をつくリシェルへ視線を落とした。
「お前まで来ていたのか」
「怪我人がいたので」
「見れば分かる」
先ほどと同じ返しだったのに、不思議と声音は少し違った。
呆れと、諦めと、わずかな納得が混じっているように聞こえる。
ベルンがぼやく。
「だから戻らせろと言ったんだ」
「戻っていたら、この方の止血が遅れたわ」
「それも事実だな」
アルヴェインがあっさり言った。
ベルンが口をつぐむ。
団長がそう言えば、それ以上の反論はしづらいのだろう。
アルヴェインは負傷兵の脚を一目見て、すぐに判断した。
「砦まで運ぶ。俺の馬を使え」
「団長の馬を?」
トーマスが目を丸くする。
「歩かせるより早い」
それだけ言うと、アルヴェインは負傷兵を軽々と抱え上げた。血と雪にまみれた兵の体が、大柄な男の腕の中で驚くほど小さく見える。
リシェルはその手際を見ていた。
速いだけではない。重傷者を動かす時の角度、支え方、頭の守り方。まるで彼自身も医務の心得があるかのようだ。
その違和感がまた胸をよぎる。
辺境の騎士団長にしては、知りすぎている。
ただ戦ってきた男とは、どこか違う。
「何だ」
視線に気づいたのか、アルヴェインがこちらを見る。
「……いえ」
危うく問いそうになった。
なぜ、そこまで手慣れているのですか、と。
だが今はそんなことを聞く場ではない。
アルヴェインは負傷兵を馬へ乗せながら、ガレスへ命じる。
「北側の見回りを倍にしろ。飢えた群れがまだいる」
「了解」
「ベルン、戻ったらすぐ脚を見る準備をしろ」
「分かってる」
命令が飛ぶたび、人が迷いなく動く。
その光景を見て、リシェルはあらためて思う。
この男がここにいる限り、兵たちは死なない気がする。
トーマスの言葉は誇張ではなかった。
砦へ戻る道は行きよりも早かった。負傷兵を乗せた馬を中心に、全員が雪を蹴る。リシェルも外套の裾を掴みながら必死についていく。
途中、何度か足を取られかけたが、そのたびに前を走るアルヴェインの背が視界に入り、なぜだか不思議と転ばずに済んだ。
砦の門が見えた時には、頬は痛く、息は熱く、指先の感覚も少し鈍くなっていた。
それでも彼女は立ち止まらなかった。
医務棟へ負傷兵を運び込み、再び処置が始まる。
止血のやり直し、裂傷の確認、縫合準備。ベルンが怒鳴り、トーマスが走り、ガレスが周囲の兵を捌く。リシェルもまた迷わず手を動かした。
その最中、外から入ってきた若い兵士が、処置中のリシェルを見てぽつりと呟いた。
「……本当にやるんだな」
その一言は小さかった。だが、医務棟のざわめきの隙間にはっきり届いた。
別の兵士が答える。
「最初は飾りかと思ってた」
「王都の悪役令嬢って噂だったろ」
「噂は噂だな」
「少なくとも、俺たちの血は見てる」
その言葉に、リシェルの手が一瞬だけ止まりかけた。
王都では、誰も自分のしていることを見なかった。
噂だけが先に走り、実際の手や目や言葉は何一つ見てもらえなかった。
けれど今、ここでは違う。
噂ではなく、自分の手元を見ている。
血に汚れた指先を、雪で濡れた裾を、迷わず止血をする姿を。
それだけで十分だった。
それだけで、自分がここにいる意味があると思えた。
処置が一段落し、負傷兵の容態がようやく安定した頃には、外はもう薄暗くなっていた。
医務棟の外へ出ると、雪は少しだけ弱まっている。空は灰青色に沈み、砦の灯火が一つずつ点き始めていた。
冷えた空気の中へ息を吐くと、白く広がって消える。
その時、背後から低い声がした。
「止血は早かったな」
振り向くと、アルヴェインが立っていた。
いつ来たのか分からないほど静かな足取りだった。
「ありがとうございます」
「礼を言うなと言ったはずだ」
昨日も聞いた言葉だ。
なのに今日は、少しだけその言い回しに慣れた気がする。
「では、訂正します。必要なことをしました」
「それでいい」
短いやり取り。
だが、それだけで胸の奥が妙に落ち着かない。
アルヴェインは少しだけこちらを見下ろした。雪明かりの中で見る青い瞳は、昼間よりも深く見える。
「お前を“役立たずのご令嬢”だと思っていた者が、砦にはまだ多い」
「分かっています」
「今日で少し減った」
その言葉に、リシェルは瞬きをした。
王都では一度だってもらえなかった評価。
たったそれだけの事実が、驚くほど胸に沁みる。
「……そうなら、うれしいです」
「うれしい、か」
アルヴェインはわずかに目を細めた。
「変わった女だな」
「そうでしょうか」
「普通の貴族令嬢なら、認められる前に泣き言を言う」
その口調には侮蔑ではなく、本気の不思議さがあった。
リシェルは少しだけ考えてから答える。
「王都では、泣いても何も変わりませんでしたから」
アルヴェインの目が、一瞬だけ鋭くなる。
何かを問われるかと思った。
だが彼は追及しなかった。ただ短く息を吐き、視線を少しだけ逸らす。
「……そうか」
その二文字だけで、なぜかこれ以上なく分かった気がした。
彼は無闇に踏み込まない。
けれど、聞かなかったことにもしない。
それがこの男の距離の取り方なのだろう。
「団長!」
向こうからガレスの声が飛ぶ。北門側で何かあったらしい。
アルヴェインは振り返りざま、リシェルへひと言だけ残した。
「明日も早い。倒れるな」
「そちらこそ」
つい返してしまった言葉に、自分で少し驚いた。
だがアルヴェインは咎めなかった。
ほんのわずかに口元を動かし、そのまま去っていく。
笑ったのかどうかも分からないほど小さな動きだった。だが確かに、今までとは違う何かがそこにあった。
雪風の砦で、王都の噂は少しずつ剥がれ落ちていく。
悪役令嬢。
婚約破棄された女。
追放された厄介者。
そんな札より先に、今ここでは、血を止める手があり、傷を見る目があり、必要な時に走る足がある。
それを見てもらえるだけで、人はこんなにも救われるのかと、リシェルはようやく知り始めていた。
役立たずではない。
その証明は、誰かに弁明して勝ち取るものではないのだ。
ただ目の前で、積み重ねていくしかない。
けれど、その積み重ねを見てくれる人がいるのなら――それはきっと、王都で奪われたものとは別の形の希望になっていく。




