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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第6話 最強騎士団長アルヴェイン

 北西辺境補給砦の朝は、鐘ではなく怒号で始まり、昼は雪と鉄の匂いに満ち、夜は火と傷薬の匂いの中で更けていく。


 王都で暮らしていた頃には、一日の流れというものはもっと滑らかで、もっと飾り立てられたものだった。朝は決められた時刻に侍女がカーテンを開き、紅茶と温湯が運ばれ、午前のうちに家庭教師か刺繍か社交の支度、午後は招待状の整理と訪問、夜は夜会か晩餐。そこには確かに秩序があったが、それは絹で包まれた箱庭の秩序だった。


 この砦の秩序は違う。


 雪が強くなれば補給路は閉ざされ、薬が尽きれば誰かが苦しみ、見張りが緩めば誰かが死ぬ。


 だから誰も、見栄えのためには動かない。


 ただ必要だから、働く。


 その単純さは、リシェルの心を驚くほど落ち着かせていた。


 もっとも、体は正直だった。


 砦へ入って二日目の夕刻には、足の裏は張り、肩は重く、指先には細かな切れ傷が増えていた。医務棟と中庭と物資庫を何度も往復し、湯を運び、薬液を練り、傷を診て、書きつけを整理し、ベルンの怒鳴り声に耳を傾け、トーマスに薬棚の位置を教わり、副官ガレスに不足分を報告する。その繰り返しだけで、一日はあっという間に終わる。


 だが疲れているのに、不思議と心は沈まなかった。


 誰かの役に立てたという実感が、疲労の底に小さな火のように残るからだ。


 その日の夕方も、リシェルは医務棟の作業台で、傷口の洗浄用に使う樹脂と乾燥根を刻んでいた。窓の外ではまた雪が舞っている。開きっぱなしの引き戸の向こうから、兵士たちの足音と低い声が断続的に流れ込んでくる。


 ベルンは向かいの机で薬瓶の封蝋を確かめながら、ぶっきらぼうに言った。


「お前、指先の使い方が妙に慣れているな」


 突然の言葉に、リシェルは手を止めずに顔だけ上げた。


「妙、ですか」


「王都の令嬢が香油瓶を持つ手じゃない。細かい作業を日常的にやっていた手だ」


 ベルンの観察は予想以上に鋭かった。


 リシェルは樹脂を小さく砕きながら答える。


「昔から、薬草の下拵えは自分でやっていました」


「使用人にさせずに?」


「任せきりにすると、乾燥の具合も刻み方もばらつくでしょう。香りで分かる範囲もあるけれど、触って確かめたほうが早いものも多いですから」


 ベルンは低く鼻を鳴らした。


「贅沢な話だ。王都じゃ、それを“令嬢らしくない”と言われたろう」


 その一言に、リシェルはほんの少しだけ手を止めた。


 だが次の瞬間にはまた刃を動かす。


「……ええ、たぶん」


「たぶん、か」


「言われたこと自体は何度もあります。でも、そう言った人たちの誰一人、実際に薬が必要な場にはいませんでしたから」


 ベルンが初めて、はっきりとこちらを見た。


 落ちくぼんだ眼差しは厳しいままだが、その奥にある色は以前より少し柔らかい。


「言うじゃないか」


「事実を言っただけです」


「その“事実”とやらを、王都の連中は嫌う」


「でしょうね」


 そこまで会話したところで、医務棟の入り口が急に騒がしくなった。


 トーマスが息を弾ませながら飛び込んでくる。


「ベルン先生! 団長が戻りました!」


 その一言で、室内の空気がぴんと張った。


 ベルンは露骨に顔をしかめる。


「戻ったなら戻ったで静かにできんのか、あの男は」


「静かでしたよ! でも巡回組も一緒で、馬が……あの、雪の谷側の見回りで魔獣の足跡が増えてるって」


「ガレスは」


「中庭です!」


 ベルンは舌打ちしながら立ち上がった。


「薬液はそのまま練っておけ。持ってこいと言われたらすぐ出せるようにしろ」


「分かりました」


 老人が出ていく。


 残されたリシェルは、刻んだ樹脂と乾燥根をさらに擦り合わせながら、無意識に耳を澄ませていた。


 団長が戻った。


 その報せだけで、人の動きが変わる。


 兵士たちの足音に妙な緊張が混じり、廊下を横切る声も一段低くなる。王都で父や公爵家の人間が現れた時の空気とも違う。恐れはある。だがそれだけではない。信頼と、緊張と、反射的な従属が混じっている。


 アルヴェインという男は、この砦でそれほどまでの重さを持つのだ。


 昨夜、中庭で短く言葉を交わしただけなのに、その存在感は妙に心に残っていた。


 王都の夜会で一瞬だけ手紙を見ていた横顔。


 門前で負傷兵を前にしても騒がず、ただ必要な命令だけを落とした声。


 そして、どこか不自然なほど洗練された所作。


 辺境の最強騎士団長と呼ばれる男に、なぜああいう違和感があるのだろう。


 考えかけたところで、再び足音が近づいてきた。


 今度はトーマスではなく、別の兵士だ。


「リシェルさん!」


 半ば叫ぶような声に、彼女は顔を上げる。


「どうしたの」


「団長が、街道で解毒処置をしたのはお前かって」


 唐突な言葉に、リシェルは一瞬だけ瞬きをした。


 街道で――


 ああ、辺境へ来る途中、荷車の横転で怪我をした老人と、毒を受けた護送騎士の応急処置をした時のことだ。


「そうだけど」


「来いって」


「どこへ」


「中庭!」


 その返答だけで十分だった。


 砦で「来い」と言われたなら、行くしかない。


 リシェルは練りかけの薬液を覆い布で守り、手を拭って外套を羽織る。廊下へ出ると、医務棟の前を横切る兵士たちがどこかざわついていた。


「団長が直接?」

「令嬢を?」

「何だ、また怪我人か?」


 囁きの隙間を抜けて中庭へ出る。


 雪は朝より少し弱まっていたが、風は鋭い。吐く息が白く流れ、頬がすぐに冷える。


 中庭の中央には、巡回から戻ったらしい騎兵たちが集まり、何頭かの馬が落ち着かなげに脚を踏み鳴らしていた。その中心に、アルヴェインが立っている。


 黒い外套の肩に雪を載せたまま、彼は兵の報告を聞いていた。周囲にいるのは副官ガレスと数人の古参兵。誰も大きな声は出していないのに、その場だけ空気が張りつめて見える。


 リシェルが近づくと、ガレスが振り返った。


「来たか」


 アルヴェインも、その声でこちらへ目を向ける。


 青い瞳が、まっすぐにリシェルを捉えた。


「街道で解毒処置をしたのはお前か」


 挨拶も前置きもなく、いきなり核心だった。


 だが不思議と無礼には聞こえない。ただ、回り道を嫌う男なのだと分かる。


「はい」


「誰に教わった」


 問いは短く、鋭い。


 試されているのだと分かった。


「基本は書物と、母の手記です。あとは王都で救護院へ薬を届けていた時に、何度か実地を見ました」


「救護院?」


 ガレスが怪訝そうに眉を寄せる。


 リシェルは言葉を選んだ。


「表立ってではありません。家の名を出すような支援ではなかったので」


 それを聞いても、アルヴェインの表情はほとんど変わらない。


 ただ、目だけがさらに細くなった。


「傷口の色と匂いで、腐敗毒を疑ったそうだな」


「疑った、というよりは……可能性が高いと思いました」


「なぜ断じられた」


「雪狼の牙だけなら、あそこまで皮膚の縁が鈍く変色するには少し早かったです。しかも甘く腐ったような匂いが混じっていた。寒さで血の巡りが落ちていたから、症状の出方も変則的でした」


 話しながら、周囲の兵たちの視線が集まるのが分かった。


 王都の悪役令嬢としてではなく、“何かを見抜いた女”としての視線。


 それだけで、妙に背筋が伸びる。


 アルヴェインは少し黙った後、隣に立つ兵へ顎をしゃくった。


「腕を出せ」


 指された兵士は一瞬ぎょっとしたが、すぐに手袋を外し、前腕を差し出した。


 その腕には、浅いが細長い擦過傷が三本走っていた。乾きかけてはいるが、縁がやや赤黒い。


「今朝、見回りの最中に林で爪をかすめた。本人は大丈夫だと言い張っている」


 アルヴェインの声は平坦だ。


「見ろ」


 命令だった。


 リシェルは兵士の腕を取る。冷えている。だが傷の周りは逆に少し熱を持っていた。


「……これは魔獣ですか」


「霜角鹿の幼獣だそうだ」


 ガレスが答える。


 霜角鹿。草食寄りの魔獣で、通常は人を襲わない。だが冬場の縄張り争いでは角も蹄も鋭くなる。


 リシェルは顔を近づけ、慎重に匂いを確かめた。


 金属の匂い、汗、雪の湿り気。その下に、ごく微かだが青臭いような苦味のある匂いが混じっている。


「葉毒草の汁……?」


「何だと」


 リシェルは兵の腕を放さずに言った。


「林の縁に葉毒草が群生していませんでしたか。冬でも枯れ切らない濃い青緑の葉です。幼獣がそこを踏み荒らしたなら、爪や角に汁が付いたかもしれません」


 兵士は目を見開いた。


「……あった。雪の下に妙な草が」

「触れたところに痺れは」

「少しだけ。でも寒さだと思ってた」


 アルヴェインが短く問う。


「放置すると」


「量は多くありません。でも、体質によっては腫れが広がります。傷の周りを洗って、毒を追い出す軟膏に切り替えたほうがいいです」


 周囲の兵たちがざわめいた。


 小さな傷だ。普通なら見逃されてもおかしくない。だが実際に腕の兵士は、今になってじわじわと不安そうな顔をしている。


 アルヴェインはその傷を一瞥し、兵へ命じた。


「医務棟へ行け。ベルンに洗わせろ」


「はっ」


 兵が駆けていく。


 静寂が一瞬だけ落ちた。


 その中で、アルヴェインはリシェルを見ていた。雪を含んだ青い視線が、ただ単に技術の有無だけでなく、その奥まで見ようとしているように感じる。


「知識だけではないな」


 低い声だった。


 リシェルは思わず眉を寄せる。


「どういう意味ですか」


「見方が現場の人間だ。王都で薬草学を齧っただけの令嬢の目ではない」


 言葉は鋭いが、侮りではなかった。


 むしろ妙に正確で、だからこそ胸の奥に直接落ちてくる。


「……王都では、そう見てもらえませんでした」


 ぽつりと漏れたそれは、言い訳のつもりではなかった。だが場違いな本音だったかもしれないと思い、すぐに視線を逸らそうとする。


 その瞬間、アルヴェインがわずかに首を傾けた。


「だろうな」


 たったそれだけ。


 慰めも同情もない。


 だがその一言には、妙な重みがあった。


 王都では誰も、彼女が見えていなかった。薬草を刻む手も、記録を積む目も、現場で使える知識も、何ひとつ。


 それをこの男は、短い会話の中であっさり見抜いた。


 不思議な感覚だった。


 認められた、というにはまだ早い。だが、少なくとも存在を正しく見られた。


 それだけで胸の奥がひどくざわつく。


 ガレスが咳払いした。


「団長、巡回報告の続きが」


「ああ」


 アルヴェインは頷き、しかし視線だけはまだリシェルから外さなかった。


「お前、医務棟にいるのか」


「今は、そうです」


「雑用には回されていないようだな」


「……ええ、一応は」


 ガレスが不機嫌そうに口を挟む。


「人手不足だから使っているだけです」


「それで足りているなら問題ない」


 アルヴェインの返答は淡々としていた。


 しかしその一言で、副官はそれ以上何も言えなくなる。


 やはりこの男の言葉は、砦の中で重い。


 アルヴェインはリシェルへ向き直り、短く言った。


「今夜、負傷者が増えるかもしれん」


「増える?」


「巡回路の北谷で魔獣の足跡が濃い。前線へ物資を送る隊を早めに動かす」


「……なら、医務棟の薬液と包帯を増やしておいたほうがいいですね」


「判断は早いな」


「怪我人が来てからでは遅いので」


 アルヴェインの口元が、ほんのわずかに動いた。


 笑ったのかと思ったが、次の瞬間にはもう消えていた。


「準備しておけ」


「承知しました」


 答えたその時、彼の背後から一人の古参兵が走り寄ってきた。


「団長、北門側の馬が一頭、脚を取られています」


 アルヴェインは即座にそちらへ向く。動きに無駄がない。振り返りざま、リシェルへ最後に一言だけ落とした。


「必要なものがあるなら、ガレスに言え」


 それだけ言うと、彼は黒馬のほうへ歩き去った。


 雪の中でも大きく見える背中だった。ただ背が高いからではない。周囲が自然に道を空けるからだ。人の上に立つことに、ためらいがない。だが同時に、その背には妙な孤独も見える。


 見送っていると、トーマスが小声で寄ってきた。


「団長、直接話したんですか」


「ええ」


「すごいな……」


「そうなの?」


「普通、団長は必要なことしか言わないです。いや、今も必要なことしか言ってないですけど……でも、あんなふうに長く人を見るの珍しい」


 長く。


 そう言われて初めて、自分も少し呼吸が浅くなっていたことに気づく。


 トーマスはさらに声を潜めた。


「団長、ここの兵には怖がられてますけど、強いんです。めちゃくちゃ」


「最強騎士団長、なのでしょう?」


「そうです。でも、ただ強いだけじゃなくて……何ていうか、みんな団長が前にいると死なない気がするんです」


 それは兵士にとって、最大級の信頼なのだろう。


 リシェルは視線を遠くへ向ける。中庭の向こうで、アルヴェインが片脚を痛めた馬の様子を確かめている。大柄な馬が落ち着かない様子で首を振っていたが、彼が手綱に触れると、不思議と動きが静まった。


 人だけではない。馬まで従うのか、と少し可笑しくなる。


 だがその一方で、またあの違和感が胸をかすめた。


 あの所作だ。


 手綱の持ち方、部下への視線の流し方、質問の切り込み方。どれも辺境で叩き上げた武人の荒さと、別の種類の洗練が同居している。


 たとえば王都の上級貴族が、幼い頃から体に叩き込まれるような。


 そこまで考えかけたところで、ベルンの怒鳴り声が飛んできた。


「令嬢! 突っ立ってないで薬棚を見ろ! 今夜は包帯も軟膏も足りなくなる!」


「今行きます!」


 返事をして医務棟へ戻る。


 トーマスが慌てて後を追いながら笑った。


「すっかり怒鳴られてますね」


「それだけ使われているということね」


「前向きだなあ」


 リシェルも少しだけ笑う。


 使われている。


 その言葉が今は妙にうれしかった。


 医務棟へ戻ると、すぐに忙しさが押し寄せる。包帯の在庫確認、煎じ薬の仕分け、夜間当番の割り振り、熱を出した兵への冷却布の交換。考える暇もないほどに手を動かしていると、昼間のやり取りが夢のように遠くなる。


 だが、ふとした瞬間に思い出す。


 ――知識だけではないな。

 ――見方が現場の人間だ。

 ――だろうな。


 たったそれだけの言葉が、こんなにも心に残るとは思わなかった。


 王都では、言葉は飾りだった。褒め言葉も非難も、その場の空気を整えるための道具にすぎなかった。


 けれどアルヴェインの言葉は違う。


 短く、容赦なく、飾り気もないくせに、妙に深く刺さる。


 それはきっと、彼が言葉を軽く使わない男だからだ。


 夜半近く、医務棟の作業がようやく一段落した頃、リシェルは一人で薬棚の前に立っていた。残量を書きつけた札を整理し、次の補充候補を並べ直す。炉の火は赤く揺れ、外の風音が壁越しに低く鳴っている。


 すると、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。


 副官ガレスと、もう一人。


 足音だけで分かるほどに落ち着いた歩調。


 アルヴェインだ。


 なぜかそれが分かった瞬間、胸が少しだけ強く打った。


 扉が開き、案の定、黒い外套を脱いだアルヴェインが入ってくる。中に着ているのは簡素な軍装だが、飾りを排したその服のほうがかえって彼の体格のよさを際立たせていた。


 ガレスが薬棚と札を見て、眉を上げる。


「もうやっていたのか」


「今夜、負傷者が増えるかもしれないと聞いたので」


 答えると、副官は鼻を鳴らした。


「判断だけは本当に早いな」


 アルヴェインは棚の中身を一瞥し、リシェルへ問う。


「足りないのは」


「包帯、樹脂系、解熱用の乾燥葉。あと胃を守る煎じ薬も減っています」


「理由は」


「巡回兵の疲労が強いからです。寒さで胃が縮んでいる方が多い。それに今夜負傷者が出た場合、痛み止めばかり強くすると逆に弱ります」


 ガレスがわずかに感心したような顔をする。


 アルヴェインは短く頷いた。


「補給庫から回させる」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。必要だから出すだけだ」


 その言い方に、リシェルは一瞬だけ目を細めた。


 この男は本当に、飾ることをしない。


 だがだからこそ、言葉が信用できる。


 アルヴェインは棚の端に置かれた母の手記を見つけたらしく、わずかに視線を止めた。


「それは」


「母の手記です」


「薬師だったのか」


「ええ。表立って名乗ることはありませんでしたけれど」


 アルヴェインの目に、ほんのわずかな色が走った。興味か、それとも別の何かか。


「そうか」


 また短い返答。


 それだけなのに、なぜだかそれ以上聞かれたくないことまで見抜かれそうな気がして、リシェルは無意識に手記へ手を置いた。


 その仕草を見ていたのか、アルヴェインはそれ以上追及しなかった。


「今夜は北門側の見張りを増やす。何かあればすぐに叩き起こされるぞ」


「眠れるなら、ですけれど」


 つい本音が口をついた。


 ガレスがぎょっとした顔をし、トーマスが奥で吹き出しそうになるのを堪える。


 だがアルヴェインは、数拍遅れてから、低く言った。


「なら、立ったままでも休めるよう覚えろ」


 あまりにも辺境らしい返しに、リシェルは思わず唇を引き結んだ。


「努力します」


「努力で済めばいいがな」


 そのやり取りに、医務棟の空気がほんの少しだけ緩む。


 ガレスが呆れたように額を押さえた。


「団長、令嬢にそれを言いますか」


「令嬢だから言う必要はない」


 きっぱりとした言葉だった。


 王都なら、それはひどく冷たい言い方に聞こえたかもしれない。だがリシェルには、むしろ逆に響いた。


 令嬢だから特別扱いしない。


 つまり、役に立つなら一人の働き手として扱う、ということでもある。


 王都では逆だった。令嬢だから、触るな。令嬢だから、知るな。令嬢だから、余計なことをするな。


 ここでは、その檻が少しずつ外されていく。


 アルヴェインは最後にもう一度、薬棚と札を見た。


「明日、巡回路の薬草帯を確認しろ」


 突然の命令に、リシェルは瞬いた。


「わたくしが?」


「北西の薬草は王都と違う。お前が使うなら、まず覚えろ」


 まさに彼女自身が考えていたことだった。


 それを先回りするように言われ、胸の奥が小さく跳ねる。


「……はい」


「ガレス、護衛を付けろ」


「了解です」


 そこでようやく話は終わったらしく、アルヴェインは踵を返した。


 黒い背中が医務棟の戸口へ向かう。去っていくその姿を見ながら、リシェルはふと気づいた。


 この男は、自分をただ助けた令嬢として見ているのではない。


 使えるかどうか、そしてどこまで使えるのかを、はっきり見極めようとしている。


 それは厳しさだ。


 だが同時に、期待でもあるのかもしれない。


 王都では、最初から何も期待されていなかった。


 だからこそ、その違いがひどく鮮やかに感じられた。


 扉が閉まり、外の風音が少し強くなる。


 トーマスがこっそり寄ってきて、小声で言った。


「リシェルさん、団長に気に入られたんじゃないですか」


「……それは違うと思うわ」


「でもあんなふうに話すの珍しいですよ」


「気に入られたというより、働けるか試されているだけよ」


 そう答えながらも、自分の頬が少しだけ熱い気がして、リシェルは薬瓶の整理に視線を落とした。


 気に入られた、などという甘い言葉で片づけるには、あの視線はあまりに鋭い。


 けれど、それでも。


 最強騎士団長アルヴェインが、自分を“見ている”。


 その事実は、なぜか思っていた以上に彼女の胸を騒がせるのだった。

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