第5話 雪風の砦
雪は、夜になるほど音を奪っていった。
北西辺境補給砦第三駐屯区。王都から遠く離れたその砦は、昼の喧騒が嘘のように、夜には別の顔を見せる。もちろん静寂と呼べるほど穏やかではない。見張り台からは定時の合図が飛び、厩舎では馬が鼻を鳴らし、どこかで鍛冶の槌音も遅くまで響いている。だが、王都のように人の噂と笑いと音楽が重なって空気を濁らせることはない。
ただ必要な音だけが残る。
それがこの土地の夜だった。
医務棟の一角に、リシェルの仮の寝台が用意されたのは、その日の深夜に近い時刻だった。
“部屋”と呼ぶにはあまりに簡素で、白い漆喰の壁と、小さな窓と、寝台一つ、机一つ、粗末な衣装箱があるだけ。しかも医務棟の端に設けられた空き区画を急ごしらえで仕切ったような造りで、隣の物音も咳払いもよく聞こえる。
だが、王都を追われた身には十分すぎた。
少なくともここには、陰で囁きながらこちらを値踏みする夫人も、上品ぶった侮蔑を向ける令嬢たちもいない。
あるのは乾いた薬草の匂い、熱湯の湯気、擦り鉢の音、そして命を繋ぎ止めようとする人間たちの気配だけだ。
「狭いが、今は我慢しろ」
そう言って部屋を案内したのは、副官のガレスだった。最初に会った時と同じく無骨な顔のままだが、その声音からは朝の露骨な不信が少しだけ削がれていた。
「十分です」
リシェルが答えると、ガレスは部屋の中を一瞥した。
「王都のご令嬢には耐え難いだろうがな」
「今日一日で、もう少しひどい場所も見ました」
「……口は達者だ」
呆れたように言いながらも、ほんのわずかに口元が緩む。
それを笑みと呼ぶには足りない。けれど、この砦ではその程度が歓迎に近いのかもしれなかった。
「明日の朝、正式に仕事を割り振る。それまでは休め。医務棟の中を勝手に歩き回るのは構わんが、無理はするな」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない。今はただ、人手が足りんだけだ」
言い残して去っていく副官の背を見送り、リシェルは一人、小さな部屋に立った。
外套を脱ぎ、ゆっくり椅子に腰を下ろす。
手を見ると、昼間に何度も洗ったはずなのに、爪の際にまだうっすらと血の色が残っていた。王都にいた頃なら、すぐに侍女が慌てて湯と香油を持ってきただろう。だがここでは、自分の手は自分で洗う。
当たり前のことなのに、妙に心が落ち着く。
荷物は少ない。母の手記、薬草辞典、必要な衣類、常備薬、ロイドから渡された乾燥薬草の包み。それだけだ。少なすぎるようでいて、今の自分にはむしろちょうどよかった。
机に母の手記を置き、その上に今日の記録を書きつける。
到着時刻。門前で搬入された負傷者の数。雪狼による裂傷。腐敗毒の疑い。使用した樹脂、乾燥根、葉。痙攣した兵士の反応。
書いているうちに、不思議と心が静かになっていく。
王都での数日は、何もかもが他人の手によって決められていく感覚だった。誰かの言葉で罪を着せられ、誰かの都合で婚約を破棄され、誰かの判断で辺境へ送られる。そこに自分の意思はほとんどなかった。
けれど今日一日だけで、少なくともこの砦では、自分の判断で人が動いた。
それだけで胸の中に、かすかな温度が残っている。
その時、壁越しに誰かの低い声が聞こえてきた。
「……薬液の配合、変えたのはあの令嬢か」
「らしい」
「団長が止めるなと言った」
「団長が?」
「だから余計に面倒だ。外れなら始末が悪い」
「だが、昼の痙攣は収まった」
「偶然かもしれん」
「偶然であれができるか」
医務棟の者たちの話し声だ。
聞こえないふりをしようかと思ったが、自然と耳に入る。
まだ信じられてはいない。
けれど、完全に否定もされていない。
その間にいることが、今はありがたかった。王都では、最初から最後まで“悪役令嬢”という結論が先にあり、そこから一歩も動かなかったのだから。
窓の外を見ると、雪は静かに降り続いていた。
砦の石壁に沿って、風が白く流れていく。見張り台の明かりが揺れ、その向こうで槍の先が時おり鈍く光った。
ここは厳しい土地だ。
だが、厳しさがそのまま残酷さにはならない。少なくとも今のところは。
そう思った時、扉が控えめに叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、昼間に擦り鉢を差し出してくれた若い兵士だった。まだ二十前後だろうか。頬は赤く、緊張したように背を伸ばしている。両手には木盆が載っており、その上には湯気の立つ深皿と硬い黒パン、それに小さな湯呑みがある。
「食堂からです」
「ありがとう」
受け取ろうとすると、若い兵士は少し戸惑ったように言った。
「あの……昼のやつ、助かりました」
リシェルは瞬きをした。
「わたくし一人で助けたわけではないわ」
「でも、あんたがいなきゃ、先輩たぶん危なかったです」
王都なら“あんた”などという呼び方は無礼の極みだろう。だがその言葉に見下しはなかった。素朴で、率直で、だからこそかえって胸に残る。
「そう言ってもらえるなら、うれしいわ」
答えると、兵士は少しだけ顔を明るくした。
「俺、トーマスです。雑用も医務棟の手伝いもやってます。何かあれば呼んでください」
「ええ、トーマス」
名前を呼ぶと、彼は照れたように頭をかき、すぐに失礼しますと出ていった。
扉が閉まる。
盆の上の食事を見る。
煮込みは塩気が強く、肉は硬そうで、パンも王都の焼きたての白パンとは比べものにならない。けれど、湯気を立てるそれは今のリシェルにとって何よりも温かく見えた。
スプーンを口に運ぶ。
濃い塩気と香草の匂いが舌に広がる。決して繊細ではない味だ。だが体の芯がじんわりとほどけていくようで、いつの間にか彼女は夢中で皿を空にしていた。
王都では、食卓に並ぶ品数こそ多くても、ここ数日は何を食べても砂のようだった。
けれど、この砦で最初に口にした温かな煮込みは、驚くほどちゃんと味がした。
食事を終えた頃には、疲労が一気に押し寄せてきた。
寝台へ横になると、体が石のように重い。
今日だけで、どれだけのことがあっただろう。王都を出て、街道を越え、辺境に入り、負傷兵の処置をし、団長と呼ばれる男に見つめられた。
その男――アルヴェインの青い瞳が、ふと脳裏をよぎる。
王都の夜会で一瞬だけ目が合った時から、あの視線だけは妙に記憶に残っていた。人を断罪する熱も、人を慰める甘さもない。ただ真っ直ぐに、事実を見ようとする目。
そして今日、門前で“無駄死にを一つ減らした”と言った時の声。
賛辞ではない。慰めでもない。だが、その素っ気ない言葉のほうが、社交界の空虚な褒め言葉よりよほど重かった。
彼は何者なのだろう。
砦の誰もが逆らえぬ“団長”。兵士たちが名を出すだけで背筋を伸ばす男。副官ガレスですら、彼の前では明らかに空気が変わる。
見た目は若い。三十に届くかどうかというところだろうか。にもかかわらず、あの場の全員が彼に従っていた。
ただ強いだけではない。
あれは――上に立つことに慣れた人間の空気だ。
その考えが胸に落ちた時、リシェルはうとうとと眠りへ落ちていった。
翌朝は、鐘の音ではなく外の怒鳴り声で目が覚めた。
まだ薄暗い。窓の外は白く、雪は夜の間も積もったらしい。吐く息が室内でもかすかに白い。
リシェルは素早く起き上がり、冷えた水で顔を洗う。王都なら侍女が湯を運んできていた時間だが、ここではその手間さえ惜しいのだろう。
旅装より動きやすい服に着替え、髪を後ろでまとめる。華やかさはない。だが手元が邪魔されないぶん、かえって落ち着いた。
部屋を出ると、医務棟の廊下にはすでに人が行き交っていた。
負傷兵の容態確認、薬棚の補充、湯の入れ替え、雪かきの指示。誰もが忙しそうだ。王都の屋敷の朝と違って、ここには“ゆっくり起きて朝食を取る”という発想そのものがなさそうだった。
「起きたか」
声をかけてきたのはガレスだった。手には板状の記録札を持っている。
「朝は早いのですね」
「ここじゃ普通だ」
副官は彼女の姿を一瞥した。
「令嬢らしい服はもう捨てたのか」
「仕事の邪魔になるものは、いずれ着なくなるわ」
「……案外、見切りがいいな」
言いながら、彼は記録札を一枚差し出してきた。
「今朝の仕事だ。医務棟の薬棚確認、残量不足の洗い出し、昨日の負傷者の容態確認。年寄り薬師のベルンが一応見るが、あいつは寝不足で頭が回っていない」
「ベルン?」
「昨日、樹脂を試したやつだ」
「ああ」
あの落ちくぼんだ目の薬師か。
「……わたくしに、そこまで任せるのですか」
思わず問うと、ガレスは鼻を鳴らした。
「任せるんじゃない。足りないから使うだけだ」
「そう」
「だが、団長がお前を止めるなと言った以上、完全な雑用にも回せん」
その言葉に、リシェルは一瞬だけ視線を上げた。
団長が、止めるなと言った。
昨日のあの一言が、もう砦の中でそれだけの効力を持っているのだと分かる。
「分かりました」
「あと、嘔吐した兵が一人いる。昨日の痙攣のやつじゃない。別件かもしれんが、一応見ろ」
それだけ告げると、副官は別の兵を怒鳴りつけながら去っていった。
リシェルは記録札を手に、医務棟の中へ進む。
薬棚を開けると、内容は想像以上に偏っていた。傷薬に使える軟膏は多いが、解熱系が少ない。胃の不調に使える乾燥葉も残量わずか。逆に、寒冷地特有の霜焼けや凍傷向けの塗布薬は比較的多い。配属地の事情がそのまま棚に現れているのだ。
「土地が変われば、薬草も変わる」
昨夜読んだ母の手記の一文が頭をよぎる。
王都の常識のままでは通じない。
けれど、だからこそ面白いとも思った。
ベルンはやはり寝不足の顔で現れた。灰色がかった髪を後ろで束ね、肩には毛布を引っかけている。
「起きたか、令嬢」
「おはようございます」
「昨日の処方、傷には効いた。痙攣も深夜には収まった。礼を言うつもりはないが、悪くない」
ぶっきらぼうだが、やはりこの砦ではそれが最大限の評価らしい。
「十分です」
「気に入らんな、その返事」
「そうですか?」
「王都の女なら、もっと鼻持ちならんか、泣きつくかのどちらかだと思っていた」
「どちらでもなかったようで残念です」
ベルンはふっと鼻で笑った。
「まあいい。棚を見たなら分かるだろうが、こっちは慢性的に人も薬も足りん。お前が本当に使えるなら助かる」
本当に使えるなら。
まだその留保は消えていない。
だが王都のように最初から否定されるよりはずっといい。
午前の仕事は、思っていた以上に慌ただしかった。
昨日の負傷兵の熱の上下を確かめ、傷口の変化を見る。解毒用の薬液を追加で練り、霜焼けで指先を傷めた兵に塗り薬を渡し、食堂勤務の女が運んできた咳止め用の煎じ薬の相談に乗る。医務棟の中は常に誰かしらが出入りしていて、落ち着いて椅子に座る暇もない。
だが不思議と、リシェルは疲労より先に集中を感じていた。
必要とされる場所では、体の動きまで変わるのだろうか。
王都で「余計なこと」と片づけられてきた知識が、ここでは誰かの熱を下げ、誰かの痛みを和らげ、誰かの朝を少しだけ楽にする。
その事実だけで、胸の奥の冷えが少しずつほどけていく。
昼が近づいた頃、トーマスが駆け込んできた。
「リシェルさん!」
昨日よりも、呼び方に迷いがない。
「どうしたの」
「門の外から荷が来たんですけど、薬箱が一つ凍って開かないって!」
「凍って?」
「夜のうちに荷車で運んできたらしくて……ベルン先生が怒ってます」
リシェルは思わず立ち上がった。
薬が凍れば成分が分離するものもある。無理にこじ開ければ器具も割れる。傷薬か煎じ用かによっても対処が違う。
「案内して」
トーマスに続いて外へ出る。
中庭では、兵士たちが一つの大きな木箱を囲んでいた。表面に霜が白く張りつき、金具の部分が完全に凍っている。ベルンが苦々しい顔で何かをこじ開けようとしていたが、見ているだけで嫌な音がした。
「無理にやると壊れます」
リシェルが言うと、ベルンが振り向く。
「分かっている。だが待っている暇もない」
「温め方を間違えると中まで駄目になります」
「じゃあどうする」
リシェルは箱の木目と霜の付き方を見た。
「火のそばへ寄せすぎないで。まず布をぬるま湯で何枚も濡らして、金具部分に巻いてください。外側からじわじわ戻したほうがいい。中身が薬液なら急熱は危険です」
「……やってみろ」
言われるままに兵たちが動く。
湯を含ませた布で霜を溶かし、金具を少しずつ温める。焦って力任せにやらなければ、やがて金属は小さく軋んだ。
「今です」
ベルンがそっと留め具を上げる。
箱が開いた瞬間、周囲から安堵の声が漏れた。
中には封蝋された薬瓶と乾燥葉の包みがいくつも収められている。幸い、急激な温度変化で中身が死んだ様子はない。
「助かった……」
誰かが呟く。
ベルンは箱の中身を確認しながら言った。
「こういうのはどこで覚えた」
「王都では必要ありませんでしたけれど、本には載っています」
「本、ねえ」
老人はぼやくように言った。
「本しか読まん奴は現場で使い物にならんことも多いが、お前は本と現場の繋ぎ方を知っているらしい」
その評価に、リシェルは少しだけ目を伏せた。
本当にそうだろうか。
王都では、知識があっても披露する場所すら与えられなかった。だから現場で使えるかどうか、自分でもずっと確信が持てなかった。
けれどここでは、その不安を考える暇すらない。次々と仕事が来て、それに応えるしかない。
それはある意味で幸福だった。
その時、中庭の向こうから馬の足音が響いた。
早く、鋭く、重い蹄の音。
兵士たちの空気が一瞬で変わる。誰もが反射のように背を正し、作業の手を止める者すらいる。
リシェルも振り向いた。
白く霞む雪の向こうから、一頭の黒馬が中庭へ入ってくる。その背に乗る男は深い色の外套を羽織り、雪をものともせぬ姿勢で手綱を捌いていた。
アルヴェインだった。
昨日、門前で負傷兵の処置を見下ろしていたあの男。
砦の“団長”。
彼が馬を降りると、周囲の兵士たちは無言のまま道を空けた。命令されなくとも、そうするのが当然であるかのように。
アルヴェインは数人に短く報告を受け、頷き、視線を上げた。その目が中庭を巡り、開いた薬箱の前で止まる。
「何をしている」
低い声。
ベルンが即座に応じる。
「輸送薬箱が凍っていました。令嬢の指示で開封を」
アルヴェインの目が、すぐにリシェルへ移る。
雪明かりの下で見ると、その青い瞳は昨日よりさらに冷たく澄んで見えた。だが冷たいだけではない。相手を量ろうとする鋭さがある。
「開いたのか」
「はい」
ベルンが答えるより先に、リシェルが返していた。
「急熱させずに金具だけ戻しました。中身は確認中です」
団長を前にして、周囲の兵たちがわずかに息を飲む気配がした。やはり普通の令嬢なら、もっとしおらしく控えるのだろう。
だがアルヴェインは咎めなかった。
むしろ少しだけ顎を引き、中身を一瞥して言った。
「損耗は」
「今のところ見当たりません」
「そうか」
それだけ言って彼は踵を返しかけたが、ふと動きを止めた。
再びリシェルを見て、淡々と問う。
「寝台は足りたか」
思いがけない言葉に、リシェルは一瞬だけ返答を失った。
心配、というほど柔らかな響きではない。確認。あるいは管理の一環に近い。けれど、砦の団長がわざわざ自分の寝台のことまで口にするとは思っていなかった。
「……十分でした」
「ならいい」
短く言い置いて、アルヴェインはそのまま去っていった。
残された中庭に、白い雪だけが静かに舞う。
トーマスがぽかんと口を開け、ベルンは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「団長が寝台の心配とはな」
「心配というより、確認では」
リシェルが言うと、ベルンは横目で見た。
「この砦では、団長がわざわざ口にする時点で十分珍しい」
その言葉がなぜか胸の中に残る。
昨日の“止めるな”。今日の“寝台は足りたか”。
どちらも過剰な優しさではない。だが、無関心でもない。
王都では誰一人として、自分の居場所が足りているかどうかなど気にしなかった。
それを思い出してしまい、リシェルは無意識に手袋越しの指先を握った。
中庭にはまだ雪が降っている。
風は強く、空は低い。
厳しさだけなら、この砦は王都よりはるかに容赦がないだろう。
それでも、ここで交わされる一つ一つの言葉のほうが、王都の何百もの美辞麗句より、ずっとまっすぐに胸へ届く気がした。
雪風の砦。
その名の通り、ここは甘くない。
だが甘さの代わりに、人の真価だけははっきりと見えるのかもしれなかった。




