第4話 薬師の矜持
北西辺境補給砦、第三駐屯区。
その名を耳にした時には、もっと静かな場所を想像していた。
王都から遠く離れた果ての砦。雪に閉ざされ、凍てついた石壁の中で、限られた兵と物資が細々と生き延びている――そんな光景を勝手に思い描いていたのだ。
だが、実際に門をくぐった砦は、静けさとは正反対の場所だった。
馬のいななき。車輪の軋み。兵士たちの怒鳴り声。鉄を打つ甲高い音。運び込まれる樽と木箱。雪を踏みしめて走る足音。石壁に囲まれた狭い空間の中で、あらゆるものがせわしなく動いている。
ここは辺境の果てであると同時に、前線を支える喉元でもあるのだ。
補給が滞れば、もっと北の砦が飢え、戦い、死ぬ。
その緊張が、目に見えぬ形で空気のあちこちに張りついていた。
馬車が中庭の端へ停まると、近衛騎士が先に降りた。護送書簡を受け取った砦の兵士と短く言葉を交わしてから、扉を開く。
「到着です」
「ええ」
リシェルは外套の襟元を押さえ、雪に覆われた地面へ足を下ろした。
冷気が肌を刺す。
王都の冬とは質が違う。肌寒いを通り越して、空気そのものが刃物のようだった。息を吸うだけで胸の奥がきゅっと縮む。
だが、立っていられないほどではない。
リシェルは背筋を伸ばし、周囲を見回した。
兵士たちの視線がこちらへ向く。好奇の色はあるが、王都のようなあからさまな侮蔑ではない。彼らにとって重要なのは、目の前に来た女が“侯爵令嬢”かどうかではなく、“使えるかどうか”なのだろう。
その事実は、むしろ彼女の呼吸を少しだけ楽にした。
「王都からの薬師候補だと?」
低い声とともに、厚手の革鎧の上から毛皮付きの外套を羽織った男が近づいてきた。四十代くらいだろうか。肩幅が広く、日焼けした顔にはいくつもの古傷が走っている。ひと目で現場叩き上げと分かる男だった。
「第三駐屯区副官、ガレスだ」
ぶっきらぼうに名乗る。
近衛騎士が一歩前へ出た。
「王都よりの正式通達に基づき、フォルディア侯爵家令嬢リシェル・フォルディアを引き渡す。薬師人員不足への臨時補充要員として記載あり」
「令嬢、ねえ」
ガレスは露骨に眉を寄せた。
その視線が、リシェルのドレスではなく、実用向けに整えた旅装と外套、手袋、足元のブーツを順番に見ていく。
「今は人手が足りん。貴族のご令嬢を飾っておく余裕はないぞ」
「飾られるつもりはありません」
リシェルは即座に言った。
副官の目が少しだけ細まる。
「ほう」
「わたくしは薬師として来ました。役に立たぬなら、ここへ送られた意味がありません」
その場にいた何人かの兵士が目配せを交わした。王都の令嬢にしては、妙に話が早いとでも思われたのだろう。
ガレスはしばし無言で彼女を見た後、鼻を鳴らした。
「口だけなら何とでも言える」
「そうですね」
リシェルは頷いた。
「ですから、必要な仕事をください」
思っていたよりも声がよく通った。
雪まじりの風の中でも、それははっきりと響いたらしい。副官は意外そうな顔をしたまま、やがて顎をしゃくる。
「医務棟へ連れていけ。だが今は中も混んでいる。空き部屋はないと思え」
兵士の一人が了解の声を上げる。
その時だった。
中庭の反対側から、慌ただしい叫び声が上がった。
「門前だ! 荷車が一台、まだ外に!」
「違う、巡回組が戻るぞ!」
「怪我人がいる!」
空気が一変する。
先ほどまで物資運搬に追われていた兵士たちが、一斉に門の方を振り向いた。ガレスの顔が険しくなる。
「何人だ!」
「まだ不明です! 雪道で魔獣に襲われたと!」
その一言で、周囲の動きが鋭くなった。
門のほうで角笛が短く鳴る。
副官はすぐさま命じた。
「担架を出せ! 医務棟に火を足せ! 熱湯と布、急げ!」
指示が飛び交う中、リシェルの意識は自然とその流れに吸い寄せられた。
怪我人。
雪道。
魔獣。
条件が悪い。
傷だけで済んでいるとも限らない。爪や牙に毒性があればなおさらだ。
「副官殿」
自分でも考えるより早く、口が動いていた。
ガレスが苛立たしげに振り向く。
「何だ」
「わたくしも医務棟へ参ります」
「邪魔になる」
「そうとは限りません」
「令嬢」
「薬草を扱えます。止血も固定も、簡易の解毒も心得ています」
副官の目に、今度は明確な不信が浮かんだ。
「王都のご令嬢が、雪道で魔獣にやられた兵の処置をする、と?」
「そうです」
言い切ると、周囲が一瞬静まり返る。
近衛騎士でさえ、思わず彼女を見た。
たしかに無茶を言っているように聞こえただろう。侯爵令嬢が泥と血の中に立つなど、王都ではほとんどありえないことだ。
けれどここで一歩引けば、この砦での立ち位置は最初から決まってしまう。
“役立たずの厄介者”。
その札を、自分で自分に貼るわけにはいかなかった。
「……責任は持てんぞ」
ガレスが低く言う。
「必要ありません。自分で立ち、自分で働きます」
副官は数秒、無言のまま彼女を見つめた。
その時、門の外から叫びと馬のいななきがさらに近づいた。
「来たぞ!」
「道を空けろ!」
もう迷っている時間はない。
ガレスは舌打ちし、短く命じた。
「勝手に倒れるなよ、令嬢」
「はい」
「医務棟へ来い!」
そう言って副官自身が先に駆け出した。
リシェルも外套の裾を押さえ、雪を蹴ってその後を追う。
門前はすでに混乱の只中にあった。
雪にまみれた荷車が半ば傾いた状態で引きずり込まれ、その周囲に兵士たちが集まっている。馬の体にも赤黒い血が飛び散り、引いてきた兵の一人は顔面蒼白のまま鞍から落ちた。別の兵が腕を押さえ、また一人は腿を裂かれたのか、毛皮の下から濃い血を流している。
匂いが一気に押し寄せた。
血の鉄臭さ。獣脂。汗。雪に濡れた皮革。そして微かに混じる、鼻をつくような生臭い甘さ。
リシェルの鼻先がぴくりと動く。
ただの出血ではない。
あの甘さは――
「この傷、何にやられましたか!」
彼女が声を張ると、兵の一人が驚いたように見た。
「雪狼だ! だが、ただの群れじゃない、妙に狂暴で……」
「牙にぬめりはありましたか」
「ぬめり……?」
「口の中に、泡立つような粘液は」
「……あった、ような」
その返答を聞いた瞬間、リシェルは一番血の多い兵のそばへ膝をついた。
「布をください! きれいなものを多めに!」
周囲が一瞬ためらう。だがガレスが吼えた。
「聞こえなかったか! 布だ!」
兵士たちが一斉に動き出す。
リシェルは手袋を外し、傷口の周りを確かめた。深い裂傷。だがそれ以上に問題なのは、皮膚の縁が微かに灰色がかっていることだった。血の色も、傷の深さのわりに鈍い。
「やっぱり……」
「何か分かるのか」
ガレスが膝をつく。
「雪狼そのものではなく、たぶん腐肉を食べた群れです。牙に腐敗毒が移っている」
「腐敗毒?」
「強いものではありません。でも寒さと疲労の中では回りが早い。傷を洗って終わりにしたら危険です」
副官の目が鋭くなる。
彼は即座に叫んだ。
「湯だ! 酒も持ってこい! 医務棟へ運ぶ前にここで応急処置する!」
リシェルは小袋を取り出した。ロイドから受け取った乾燥薬草の一つ。王都を出る前に、自分でもいくつか組んでおいた携帯用の簡易処方だ。
「これをすり潰して酒に混ぜて。濃く。飲ませるのは少量でいいわ」
「何だそれは」
「胃を守るためです。腐敗毒を飲んだわけではないから万能ではありませんが、悪寒と吐き気を抑えます。あと、傷口を洗うときにこの葉も」
差し出した乾燥葉を、若い兵士が受け取る。困惑しているが、手は止めない。今は一つでも指示が欲しいのだ。
傷ついた兵は荒い呼吸を繰り返していた。
「聞こえますか。目を開けて」
リシェルが顔を覗き込むと、兵はうっすらと瞼を開けた。若い。まだ二十を少し過ぎたくらいだろう。
「眠らないで。眠るなら処置のあと」
「……嬢、さん?」
「あとで好きなだけ驚いていいから、今は息をして」
思わず口をついて出た言葉に、近くの兵士が一瞬だけ目を丸くした。
湯が届く。酒も来る。布も。
リシェルは迷いなく指示を続けた。
「まず傷の周りだけでも流して。奥を無理に擦らないで。冷えたままだと血が止まりにくいから、温布を用意して。足のこの角度、固定具があればすぐ――」
「固定具なら医務棟に」
「なら担架に乗せたらすぐ。次、この方は?」
彼女は次の兵へ移る。
腕を押さえていた男は、傷自体は浅いが手の震えが強かった。出血の量と顔色が釣り合わない。
「寒さだけじゃない……」
「何だ?」
「指先の感覚は?」
問われた兵が呻く。
「……鈍い」
「噛まれた直後、痛みより先に熱っぽさはありましたか」
「……ああ」
やはりだ。
リシェルは唇を引き結ぶ。
「副官殿、この方も同じです。全部の傷を一括りにしないでください。傷が浅く見えても毒が回っている人がいる」
ガレスの顔色が変わった。
「医務棟の薬師たちに伝える」
「いえ、伝えるだけでは足りません。洗浄液の配合を変える必要があります」
「お前にできるのか」
「やります」
返答に迷いはなかった。
ここでできると言わなければ、もう二度と信頼は拾えない。
ガレスは一瞬だけ彼女を見た。雪と血と怒号の中で、侯爵令嬢らしからぬ冷静さで膝をつき、指先を真っ赤にしながら指示を飛ばす女。
そして低く言った。
「来い」
担架が動く。
兵たちを運び込む列とともに、リシェルも医務棟へ走った。
砦の医務棟は思っていたより広かったが、それ以上に消耗が激しかった。薬棚の引き出しは使い込まれ、机には乾ききっていない器具が散らばり、炉の火は絶やさぬよう大きく焚かれている。中ではすでに負傷兵の処置が何件も進んでいた。
「新しい負傷者だ! 雪狼、腐敗毒の疑いあり!」
ガレスの声に、奥から年配の薬師が顔を出した。痩せた男で、眼窩は落ちくぼみ、寝不足が顔に滲んでいる。
「腐敗毒? 何を馬鹿な、雪狼だぞ」
「この令嬢がそう言う」
「令嬢?」
薬師の視線がリシェルへ移り、露骨な困惑が走る。
だがリシェルは怯まなかった。
「ただの雪狼なら、ここまで傷口の縁色は変わりません。腐肉の接触か、別の毒を食んだ個体の群れです。洗浄液は樹脂系を増やしてください。熱湯だけでは駄目です」
「何を根拠に」
「匂いです」
「匂い?」
「甘く腐った匂いが混じっています。あれは内側から腐る時の臭いではなく、付着した腐敗物の臭いです。酒精だけでは散りません」
薬師は眉をひそめたまま、傷ついた兵の一人を診た。傷口へ顔を近づけ、鼻を寄せる。その顔が、わずかに変わる。
「……たしかに」
リシェルは続けた。
「雪狼の牙自体に強い毒はありません。ただ、傷口が冷えて閉じにくい今の環境だと、腐敗毒が血と一緒に回ります。洗浄して、温めて、循環を止めないこと。飲ませるものは胃を荒らさないよう少量で」
「お前、薬師なのか」
「なり損ね、かもしれません」
そう答えながら、彼女は薬棚へ目を走らせた。
置かれている材料は限られている。王都の薬院のように何でも揃うわけではない。だからこそ組み合わせ方が重要になる。
「この樹脂と、この葉、あと乾燥根を。すり鉢はありますか」
年配薬師は数秒迷ったあと、顎で奥を示した。
「……好きにしろ。失敗したら責任は取れんぞ」
「取らせるつもりもありません」
答えると、なぜか相手が鼻で笑った。
ようやく、少しだけこの場所の空気が変わった気がした。
すり鉢に材料を落とし、力を込めて擦る。乾いた根が砕け、樹脂がねっとりと絡み、特有の香りが立ち上る。薄荷に似ているがもっと重く、鼻の奥を刺す匂い。これなら腐敗の臭いに負けない。
作業をしながら、リシェルの意識は妙に冴えていた。
王都の夜会で、彼女は誰の言葉も届かぬ場所にいた。
だが今ここでは違う。必要な知識を口にすれば、人が動く。判断すれば、処置が変わる。手を動かせば、目の前の命が少しだけ助かるかもしれない。
それだけで十分だった。
これ以上の証明など、今は要らない。
「できました」
練り上げた薬液を差し出すと、年配薬師は無言で受け取り、傷へ試した。しばらくして、苦々しい顔のまま言う。
「……悪くない」
それが、この砦流の最大級の賛辞なのだろうと、リシェルは何となく理解した。
そこへ、別の兵士が医務棟へ飛び込んできた。
「まだ一人、外に! 門前で落馬したやつが痙攣してる!」
室内が再び張り詰める。
ガレスが反射的に動こうとしたが、リシェルのほうが早かった。
「その方、噛まれていましたか」
「肩を少し!」
「泡は?」
「……吹いてる!」
リシェルの頭の中で、処置の優先順位が一瞬で組み上がる。
「副官殿、その方が最優先です! 寒さで回りが遅いだけで、今ならまだ止められる!」
「何をする!」
「湯と、強い酒と、炭、それから――」
言いながら彼女は走り出していた。
王都の令嬢ならありえない姿だろう。ドレスの裾を押さえ、雪の付いた床を蹴って外へ飛び出し、門前で倒れている兵へ駆け寄る。
兵士は若く、肩口に浅い傷があるだけだった。だが目は焦点を失い、唇の端には泡が滲み、指先が不自然に強張っている。
「遅くはない」
自分に言い聞かせるように呟き、リシェルは兵の顎を支えた。
「聞こえますか。まだ飲める?」
兵は答えない。歯がかちかちと小さく鳴る。
駆けつけたガレスが低く問う。
「助かるのか」
「助けます」
その言葉は、願望ではなかった。
意地だった。
王都で、彼女は何一つ信じてもらえなかった。
ならばここでは、自分の手で示すしかない。
自分が無能でも役立たずでもなく、ただ捨てられるだけの女ではないのだと。
「酒!」
差し出された皮袋を受け取り、炭を砕いて混ぜる。味は最悪だが、今は喉を通すことが先だ。
「口を開けて。少しだけでいい、飲んで」
兵士の喉がかすかに動いた。
次に肩の傷へ布を当て、薬液を染み込ませる。周囲の兵たちは息を詰め、まるで戦場の一手を見守るようにリシェルの動きを追っていた。
雪が降る。
白い粒が血の赤を薄めるように舞い落ちる。
その時だった。
門楼の上から、誰かの低い声が落ちてきた。
「……何をしている」
ざわめきが、ぴたりと止まる。
その声には、不思議な重みがあった。怒鳴っているわけでもないのに、場の空気を一瞬で従わせるような力。
リシェルが顔を上げる。
雪の向こう、門楼の石段の上に、一人の男が立っていた。
黒い外套。雪をかぶってなお、沈まぬ存在感。鋭い青の瞳。王都の夜会で一瞬だけ視線を交わした、あの男だ。
彼は門前の混乱と、血に染まった兵士たちと、膝をついたリシェルを見下ろしていた。
ただ立っているだけなのに、その場の誰よりも強い輪郭を持っている。
ガレスが即座に姿勢を正す。
「団長。巡回組が雪狼に襲われました。腐敗毒の疑いあり、処置中です」
団長。
その言葉に、リシェルは理解する。
この男が、先ほど見張り台の上で見えた“誰もが逆らえない人間”なのだ。
そして男――アルヴェインは、雪の中をゆっくりと階段を下りてきた。
彼の視線は、まず負傷兵に向き、次に薬液の匂いを確かめるようにわずかに鼻先を動かし、最後にリシェルの顔で止まる。
「……街道の令嬢か」
低く、淡々とした言葉。
リシェルの胸が一瞬だけ強く打つ。
覚えられていた。
だが今は、それに意味を見出す余裕はない。
「この方の呼吸が浅いです。温めながら、痙攣が収まるまで顎を固定してください」
リシェルはアルヴェインではなく、周囲の兵に向かって言った。
一瞬、場が凍る。
団長を前にして、令嬢が指示を飛ばしたからだ。
だがアルヴェインは怒らなかった。
ただ、その青い目でリシェルをじっと見た。
「お前が処置をしているのか」
「そうです」
「解毒も?」
「完全ではありません。でも、手をこまねいているよりはましです」
短いやり取りの間にも、兵の指先の震えは少しずつ弱まっていた。
アルヴェインはそれを確認し、ガレスへ言う。
「言い争っている暇はない。必要なものを全部出せ」
「はっ」
「この女を止めるな」
静かな命令だった。
だがその一言で、周囲の空気がまた変わる。
リシェルはわずかに息を吸った。
認められた、とはまだ言えない。
けれど少なくとも、“黙って見ていろ”とは言われなかった。
それだけで十分だった。
兵の痙攣がようやく緩み、喉の鳴りが少し収まる。肩の力が抜けたのを見て、リシェルは深く息を吐いた。
「医務棟へ。今すぐ」
担架が動き、兵士たちが走る。
雪の中に取り残されたような静寂が一瞬だけ訪れる。
その中で、アルヴェインはまだリシェルを見ていた。
まるで、王都から来た罪人の令嬢を見る目ではなく、戦場で思わぬ拾い物を見つけたような目で。
「名は」
問われ、リシェルはゆっくり立ち上がった。
血で赤く染まった指先を隠しもせず、まっすぐ男を見る。
「リシェル・フォルディア」
「そうか」
男はそれだけ言った。
だがその声音には、夜会の時にはなかったわずかな興味が混じっていた。
「無駄死にを一つ減らした。覚えておこう」
雪が二人の間を横切る。
華やかな賛辞ではない。
だが、王都で一度も与えられなかった評価だった。
役立たずではない。
その事実を、誰かがたしかに見た。
リシェルの胸の奥で、何かが静かに火を灯した。
それは復讐心ほど黒くなく、希望と呼ぶにはまだ小さすぎる光だった。
だが確かに、ここに来て初めて生まれたものだった。




