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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第3話 追放先は辺境砦

三日という時間は、長いようでいて、実際には何ひとつ立て直すには足りなかった。


 王都の噂は二日目には完成され、三日目には飽きられ始めていた。


 それが何よりも残酷だった。


 婚約破棄された侯爵令嬢。聖女候補に嫉妬して嫌がらせを重ねた悪役令嬢。公爵家に見限られ、父侯爵にすら遠ざけられた哀れで醜い女。人は新しい話題を得るまで、そうした物語を好んで咀嚼する。だが一度語り尽くせば、あとは「もう終わったこと」として脇へ追いやるだけだ。


 王都にいたリシェルという存在は、たった三日で、消費されるべき醜聞へ変えられた。


 それでも彼女は、最後まで泣かなかった。


 泣いて済むなら、もっと早く泣いていただろう。


 むしろ出発前の二日間、彼女は驚くほど淡々としていた。必要なものを選び、不要なものを切り捨て、記録を書き足し、母の手記を読み返し、薬草辞典の索引に目を通す。王都に残る誰かへ未練のこもった手紙を書くこともなかった。婚約者へ弁明する文も、友人へ別れを告げる文も、一通も。


 書いたところで、届かないと知っていたからだ。


 出発の朝は、薄曇りだった。


 季節の境目のように曖昧な空で、雪が降るにはまだ少し温く、けれど風は十分に冷たい。フォルディア侯爵家の正門前には、辺境行きの馬車が一台、護送騎士を乗せるための馬が四頭、それに荷馬車が一台停まっていた。


 想像していたより、ずっと簡素だった。


 もちろん侯爵家の娘が動くのだから、最低限の体面は整っている。だがそれだけだ。見送りのために並ぶ使用人たちの列も、いつもより明らかに短い。家族の姿は、まだ玄関口に見えない。


 ロイドが、厚手の外套を持ってきた。


「北向けに誂え直したものでございます。時間が足りず、急ごしらえではありますが」


 濃紺の生地に毛皮の縁取りがついた、実用本位の外套だった。王都で映える華美さはないが、風を遮るには十分そうだ。


「ありがとう、ロイド」


 受け取ると、老執事は目元を和らげた。


「お嬢様には、本来ならもっと多くのものをお持たせすべきでした」


「十分よ。むしろ、これ以上荷が重いと邪魔になるわ」


「そのようにおっしゃると思っておりました」


 彼は小さく笑ったが、その笑みには深い陰があった。


 リシェルは視線を少し上げ、屋敷の二階の窓を見た。レースのカーテンが揺れた気がしたが、誰がいるのかは分からない。継母か、セレナか、それともただの風か。


 玄関の扉が開き、ようやく父が姿を現した。


 後ろに継母とセレナも続いている。だが三人とも、まるで遠縁の娘を送り出す時のような顔つきで、そこに家族としての温度はなかった。


「時間だ」


 父は階段の上から言った。


「ええ」


 リシェルは正門前から数歩戻り、礼を取った。


 見送りにあたっても、父は階段を下りてこなかった。娘を自ら馬車へ乗せる気など、最初からないのだろう。


「辺境では軽率な言動を慎め。王都での不始末を繰り返すな」


「承知しております」


「向こうでの働きによっては、いずれ戻る時期も考えよう」


 その言葉を聞いた瞬間、継母がわずかに目を動かしたのが分かった。戻す気などないくせに、と言いたげな動きだった。


 父自身も、おそらく本気ではない。ただ体面上、「永久追放ではない」という形にしておきたいだけだ。


 継母は扇で口元を隠しながら言った。


「どうかご自愛なさって。辺境はお辛いでしょうけれど、反省の時間はたっぷりあるはずですわ」


 反省。


 その言葉にだけ、かすかに毒が滲んでいた。


「ええ。静かな土地で考えるには、ちょうどよいかもしれません」


 リシェルがそう返すと、継母は言葉の端に何かを感じ取ったのか、一瞬だけ目を細めた。


 セレナは最後まで“優しい妹”の役を崩さなかった。


「お姉様、お手紙を差し上げてもよろしいかしら」


「あなたが書きたいのなら」


「もちろんですわ。辺境では寂しいでしょうから」


「そうね」


 リシェルはほんの少しだけ微笑んだ。


「でも、届く前に季節が変わってしまうかもしれないわ」


 その返答に、セレナはまたも一瞬だけ表情を止めた。彼女は自分が優位に立っていると信じている。だからこそ、余裕のある言葉しか返ってこないと思っていたのだろう。


 しかしリシェルはもう、かつてのように曖昧に微笑むだけの姉ではなかった。


「……お気をつけて」


 そう言ってセレナは下がった。


 それが、王都の家族との最後の言葉になった。


 リシェルは踵を返し、馬車へ向かう。


 ロイドが扉を開き、乗り込みやすいように踏み台を整えてくれた。彼女が足をかける直前、老執事は周囲の目を盗むように一歩だけ近づき、小さな布包みを手渡した。


「これは?」


「乾燥薬草と、少しばかりの保存食です。表向きの荷には入れませんでした」


 声が震えていた。


「……ありがとう」


「旦那様には内密に」


「ええ」


 布包みをそっと自分の手荷物へ滑り込ませ、リシェルは馬車へ乗り込んだ。


 扉が閉まる寸前、ロイドが深く頭を下げるのが見えた。


 それが王都で最後に見た“味方の姿”だった。


 馬車が動き出す。


 石畳を踏む車輪の音が、規則正しく響く。侯爵家の門がゆっくりと遠ざかり、見慣れた屋敷の尖塔も、整えられた庭も、冬枯れの生垣も少しずつ視界の端へ流れていく。


 不思議と、涙は出なかった。


 離れる瞬間に急に惜しくなるかと思っていたが、そんなこともない。ただ長く息を止めていた場所から、ようやく一歩外へ出られたような感覚だけがあった。


 馬車の向かいには、護送役として付けられた近衛騎士が一人座っていた。三十代半ばほどの無骨な男で、金髪を短く刈り込み、顔には細かな傷がいくつもある。名を名乗る際も儀礼的で、あくまで「護送対象」と「任務担当」の距離を崩さなかった。


「北西辺境補給砦までは、順調でも五日ほどかかります」


「五日」


「途中、王都西門外の宿場で一泊、以降は街道沿いの中継地を使います。冬場は天候で遅れることもある」


「承知しました」


 騎士は少し意外そうな顔をした。もっと取り乱すか、泣き言を言うと思っていたのかもしれない。


「何か必要なものがあれば、早めに申し出てください。辺境に近づくほど調達は難しくなります」


「では、薬草をいくつか」


「……薬草?」


「熱冷ましに使えるものと、傷薬の材料があれば」


 騎士はまじまじと彼女を見た。


 侯爵令嬢の口から出るには、あまりにも実務的な要求だったからだろう。


「必要であれば、宿場で確認します」


「お願いします」


 それきり会話は途切れた。


 王都の街並みが流れていく。石造りの建物、硝子窓に反射する鈍い光、冬の朝市へ急ぐ人々。人々は侯爵家の紋章入り馬車を見れば一応道を開けるが、その中に乗っているのが誰かまでは知らない。いや、知っている者もいるのかもしれない。悪役令嬢が辺境へ送られる。そんな話は、きっと格好の見世物だった。


 だが馬車の中から見える彼らは、すぐに別のことへ気を取られていく。


 子どもを叱る母親。店先で値切る女たち。水桶を運ぶ少年。世の中は、一人の令嬢の没落とは無関係に動いている。


 その当然のことが、今のリシェルには奇妙に救いでもあった。


 王都西門を出る頃には、空がさらに曇っていた。城壁の外へ出ると、街道の両脇に広がる冬枯れの野と、低い丘陵地が視界を占める。街中の匂いも薄れ、土と風の匂いが濃くなった。


 リシェルは外套を少し掻き合わせる。


 王都の中にいたときより、むしろ呼吸が楽だった。


 昼過ぎ、最初の宿場町へ入る前に馬車は一度止まった。先行していた騎士が引き返してきて、御者へ何事か告げている。外が少し騒がしい。


「何かありましたか」


 リシェルが問うと、向かいの騎士が短く答えた。


「街道脇で荷車が横転している。道を塞いでいるらしい」


「けが人は?」


「まだ分からない」


 その返答を聞いた瞬間、彼女の意識は自然と切り替わった。


「わたくしも降ります」


「は?」


「けが人がいるかもしれないのでしょう?」


「お嬢様、これは護送中です」


「見ているだけでも状況は分かります。薬が必要なら判断できます」


 騎士はあからさまに困惑した。侯爵令嬢の仕事ではない、と言いたげな顔だ。だがリシェルは引かなかった。


「街道で何かあれば、次の補給地点まで時間がかかるのでしょう。なら、初動が大切です」


「しかし」


「わたくしを辺境へ送る理由は、薬師不足の穴埋めでもあるのでしょう? 今ここで役に立たないなら、連れていく意味もありませんわ」


 その理屈に、騎士は言葉を詰まらせた。


 しばしの沈黙の後、彼は扉を開ける。


「決して前へ出すぎないでください」


「承知しています」


 地面へ降りると、冬の風が頬を打った。街道の先では、農家らしい荷車が片輪を深い轍に取られて傾いている。若い男が必死に車輪を押し戻そうとしていたが、老人が地面に座り込んで動けず、女が泣きそうな顔でその肩を抱いていた。


「足を挫いたようです!」

「いや、腰も打ってるかもしれねえ!」


 騎士たちが近づくと、農家の家族は恐縮して頭を下げる。だがリシェルはその脇へしゃがみこんだ。


「失礼します。痛むのはどこですか」


 老人は目を丸くした。侯爵家の馬車から降りてきた娘が、突然自分の脈を取り始めたのだから当然だ。


「こ、腰と……足で」

「息は苦しくありませんか。吐き気は?」

「い、いや……」


 脈は早いが乱れは少ない。打撲はあるだろうが、骨が完全に折れている感触ではない。だが足首の腫れは強い。ひねり方が悪ければ歩かせないほうがいい。


「冷やせるものはありますか」


 誰にともなく言うと、若い農夫が慌てて布袋を差し出した。中には売り物の根菜と、朝摘みらしい薬草が少し混ざっていた。


 リシェルの目が止まる。


「これは……野のセージ?」

「へ、へえ。婆さまが腹の具合にいいって」

「葉を数枚いただけますか。あと清潔な布を」


 近衛騎士はまだ半信半疑の顔だったが、彼女の口調があまりにも淀みなかったため、黙って従った。


 リシェルは手荷物から小さな薬包を取り出す。ロイドが忍ばせてくれた乾燥薬草の一つだ。セージと合わせれば、炎症を少し抑えられる。


「温めた湯があれば理想ですが、今は固定を優先します。強く締めすぎると血が止まるので、ここをこう……」


 説明しながら手際よく処置を進めると、周囲の空気が少しずつ変わった。侯爵令嬢に対する遠慮や戸惑いが、「この人は分かっている」という認識へ塗り替わっていくのが分かる。


 処置を終える頃には、老人の顔色もいくらか落ち着いていた。


「しばらく無理に動かさないでください。次の町までは荷車ではなく、座れる馬車がいいわ。今日中に痛みが増すようなら、宿場で必ず医師を呼んで」


「ありがとうございます、お嬢様……」


 農婦が涙ぐんだ。


 その様子を、近衛騎士が複雑な顔で見ている。


 リシェルは立ち上がり、衣服についた土を払った。王都の令嬢らしい仕草ではないだろうが、もう気にする理由もない。


 道が空き、再び馬車が動き始めてから、向かいの騎士がぼそりと言った。


「本当に、ご存じなのですね」


「多少は」


「多少、で済む手つきではありませんでした」


 リシェルは少しだけ視線を落とした。


「王都では役に立たない知識だと言われていましたから」


 騎士は口をつぐんだ。


 その言葉の意味を、彼なりに考えているのだろう。夜会の噂と、今目の前で見た手際。そこにある落差は、少なくとも彼の中に小さな疑問を残したはずだ。


 その疑問だけで十分だった。今はまだ。


 その晩、最初の宿場で一泊した。


 侯爵家の娘という立場から一応は上等な部屋が取られたが、王都の館に比べれば質素で、壁は薄く、暖炉の火も弱い。けれどベッドは清潔で、湯も熱かった。


 部屋に一人になると、リシェルは窓辺に立った。宿場町の明かりは少なく、夜は驚くほど暗い。けれど空は高く、王都よりも星が見える。


 こんな空を、王都で見たことがあっただろうか。


 いや、あったのかもしれない。ただ、見る余裕がなかっただけだ。


 机に向かい、彼女は今日の記録を書きつけた。


 出発時刻。家族の様子。ロイドから受け取った薬草。街道で出会った横転事故。老人の症状。使えた薬草の種類。近衛騎士の反応。


 書くことで、自分の一日がただの追放ではなく、確かな経過を持つ時間へ変わる。


 母の手記を開くと、古い文字が柔らかな線を描いていた。


『土地が変われば、薬草も変わる。薬草が変われば、人の病も変わる。だから旅は、知識を連れて帰るためにするもの』


 その一節を読んだ時、リシェルは指先でページをそっとなぞった。


「母様……」


 かすかに呼んだ声は、暖炉の火に溶けるように消えた。


 翌朝、出立前に宿の女将が小さな包みを持ってきた。昨日処置をした農家からのお礼だという。中には干した果物と、土地で採れる香りの強い葉が入っていた。


「たいしたものじゃありませんが」

「十分です。ありがたく頂きます」


 王都ではここ数日、枯れた花しか届かなかった。


 辺境へ向かう街道で最初に受け取ったのは、ささやかな感謝の包みだった。


 それだけで、胸の奥の冷えが少しだけ解ける。


 二日目の街道は、さらに人里を離れていった。


 耕地は減り、林が増え、風が鋭くなる。昼頃には馬車の窓に小さな白い粒が当たり始めた。雨ではない。乾いた、軽い雪だ。


「もう降るのね」


 呟くと、近衛騎士が頷いた。


「北西へ向かえば、これが普通になります」


「もっと深く?」


「はい。辺境砦の冬は、王都とは別の国だと思ってください」


 別の国。


 その表現に、リシェルはなぜか少しだけ胸が躍った。


 王都とは別の国。


 つまり、王都の常識や評価が、そのまま通じない場所。


 もちろん厳しさもあるだろう。寒さも、病も、魔獣被害も、人手不足も。楽な土地であるはずがない。けれど少なくとも、王都の夜会の理屈だけで人を測る場所ではないのかもしれない。


 三日目の昼、馬車は小高い丘へ差しかかった。


 御者が速度を落とす。前方に広がる景色を見た瞬間、リシェルは思わず息を止めた。


 遠く、灰色の空の下に白く煙る山並みが連なっている。その麓には濃い針葉樹林が海のように広がり、さらにその先、雪と土に縁どられた街道が細く一本、果ての見えぬ方角へ伸びていた。


「……これが」


「北西への道です」


 近衛騎士の声も、少しだけ硬かった。


「補給砦は、あの山域の手前。ここからが本格的な辺境です」


 王都から遠ざかるほど、世界は狭くなると思っていた。


 だが実際には逆だった。建物と人と噂に囲われた都を離れれば離れるほど、空は広く、地平は遠く、世界は自分の想像よりはるかに大きかった。


 その大きさの前では、自分一人の断罪など、まるで取るに足らない出来事に思える。


 もちろん、傷が消えたわけではない。


 だが、傷だけが世界のすべてではないのだと、この景色は無言で教えてくる。


 四日目の夕刻、風はさらに冷たくなった。


 街道脇に小さな石造りの祠が見え、その先の宿駅には王家の紋章が掲げられている。補給路の中継地なのだろう。出入りするのは商人よりも兵士が多く、宿の食堂では低い声が飛び交っていた。


 食事の席で、近衛騎士が初めて少し砕けた口調で言った。


「砦には、厳しい男が多いです。王都の気遣いは通じません」


「そのほうが楽かもしれません」


 リシェルが答えると、彼は一瞬だけ笑いそうになり、結局笑わなかった。


「あなたは……噂と違う」


 思い切ったように出されたその言葉に、リシェルはスプーンを置いた。


「そうですか」


「少なくとも、街道で見た限りでは」


「噂とは便利なものですわね。知らない相手に会う前から、印象を決めてくれるのですもの」


 騎士はばつが悪そうに咳払いした。


「失礼しました」


「いいえ」


 彼女は軽く首を振る。


「あなたが疑うのは当然よ。わたくしも、逆の立場ならそうしたかもしれない」


 本当はそうでもないかもしれない。だが今は、誰かの疑いにいちいち傷つくことをやめたかった。


 五日目の朝、ついに最後の中継地を出る。


 空は完全な鉛色で、雪はもう途切れなく舞っていた。視界の先、丘陵地の向こうに高い柵と石壁の影が見える。近衛騎士が外を見て言った。


「着きます」


 その声に、馬車の中の空気が少し変わる。


 リシェルは膝の上に置いた手を見た。白い手袋の上からでも、指先の冷えが分かる。けれどそれは恐怖だけではない。何か新しい扉の前に立つ時の、緊張に近かった。


 やがて馬車はゆるやかに坂を上り、視界が開けた。


 そこにあったのは、華やかな城でも、貴族の館でもない。


 灰色の石を積んだ堅牢な砦だった。


 高い外壁。見張り櫓。雪をかぶった木柵。門の前には槍を持つ兵士たちが立ち、その向こうでは荷車と人馬がせわしなく行き交っている。火の匂いと、鉄の匂いと、獣脂の匂いが混じり、王都とはまるで違う空気を作っていた。


 ここは飾りの世界ではない。


 生き延びるための場所だ。


 その現実が、馬車の窓越しにもはっきりと伝わってくる。


「北西辺境補給砦、第三駐屯区です」


 騎士の声が響いた。


 門番が前へ出て、護送書簡を受け取る。リシェルは外套の襟を正し、背筋を伸ばした。


 追放先。


 そう呼ばれてきた場所が、今、目の前にある。


 けれどリシェルの胸にあったのは、絶望ばかりではなかった。


 王都から追い出された先にあったのは、終わりの穴ではない。


 まだ名前のついていない、新しい地面だった。


 門が軋んで開く。


 白い息を吐きながら、兵士の一人が馬車の中を覗き込んだ。


「王都からの薬師候補、到着だ!」


 その呼び声に、砦の奥で何人かがこちらを見る。


 侮り、無関心、忙しさ、そしてわずかな期待。


 さまざまな視線の中で、リシェルはゆっくりと息を吸った。


 もう王都の侯爵令嬢としてではない。


 ここでは、自分が何者であるかを、これから示さなければならない。


 馬車が門をくぐる、その直前。


 ふいに砦の上方、雪を受ける見張り台の近くに、一際目を引く黒い影が立っているのが見えた。


 高い背丈。黒い外套。荒々しい冬景色の中でなお、異様に目を引く存在感。


 距離があるのに、青い瞳だけが鋭くこちらを射抜いた気がした。


 誰なのかは分からない。


 けれど、その瞬間リシェルは本能的に悟る。


 あれは、この砦で誰もが逆らえない人間だ。


 そしておそらく、自分の運命を大きく変えることになる男だと。


 次の瞬間には、舞い込む雪に視界が遮られ、その姿は見えなくなっていた。

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