第2話 悪役令嬢の烙印
夜会の喧騒から切り離された控え室は、ひどく静かだった。
さきほどまで耳を打っていた楽団の旋律も、貴族たちの囁きも、扉一枚を隔てるだけで遠い別世界のように感じられる。けれど、その静けさは安らぎではなく、処刑台へ向かう前の短い空白に似ていた。
リシェルは鏡台の前に立ち、自分の姿を見ていた。
深紅のドレス。乱れていない髪。紅玉の首飾り。少しだけ赤くなった目元。
いま鏡に映っているのは、つい先ほど衆目の前で婚約破棄を言い渡された女だった。聖女候補をいじめた悪役令嬢。嫉妬に狂い、婚約者の心を繋ぎ止めるためなら何でもする陰湿な女。きっと今この瞬間にも、夜会の広間ではそのような筋書きが、いかにも真実らしく語られていることだろう。
鏡の中の女は、そんな怪物には見えなかった。
だが見え方など関係ない。貴族社会では、一度貼られた札が真実そのものになる。
再び、扉が叩かれた。
「お嬢様。侯爵様がお呼びです」
先ほどと同じ声。フォルディア家の執事の一人だ。長年仕えているが、今の声にはわずかに硬さが混じっている。哀れみなのか、厄介事に巻き込まれたくないだけなのか、もう区別する気力もなかった。
「ええ」
リシェルは静かに返事をして立ち上がる。
指先が少し冷たい。だが足は震えていない。そのことに自分でも驚いた。
扉を開けると、年老いた執事は深く頭を下げた。目は合わない。いつもなら柔らかく微笑むその人が、今日はまるで腫れ物に触れるような態度だった。
「こちらへ」
短い案内に従って歩き出す。
磨かれた回廊には、壁灯の明かりが揺れている。さきほどまで慣れ親しんだはずの王城の客室棟の廊下が、今夜は妙によそよそしく感じられた。何人かの使用人とすれ違ったが、皆きまり悪そうに顔を伏せるか、あるいは明らかに噂を知っている目で彼女を盗み見た。
すでに広まっている。
あまりに早い。
けれど当然でもあった。あれだけ人目のある場で断罪されたのだ。今夜が終わる前に、王都じゅうへと噂は駆けるだろう。
侯爵家にあてがわれた控室の前に立つと、執事は一度だけ躊躇うような間を置いた。
「……どうか、お心を強く」
小さく落とされたその言葉に、リシェルは一瞬だけ目を瞬いた。
「ありがとうございます」
そう返すと、執事は苦しげに眉を寄せ、静かに扉を開いた。
室内にはすでに家族が揃っていた。
父・フォルディア侯爵は窓際に立ち、片手を背に回している。厳格な横顔は普段以上に険しかった。継母のマルティナは長椅子に腰掛け、いかにも頭痛がすると言いたげにこめかみを押さえている。義妹セレナはその隣で神妙な顔を作っていたが、目の奥には薄く抑えた高揚が見えた。
エドガーの姿はない。
そのことに安堵すべきなのか、それとも滑稽に思うべきなのか、リシェルには分からなかった。
「座りなさい」
父が言った。
その声音は冷え切っていた。
リシェルは勧められた椅子に腰を下ろす。深く座りすぎると弱く見える気がして、背筋を伸ばしたまま父を見た。
最初に口を開いたのは継母だった。
「……なんということをしてくれたの。今夜のことがどれほど家に打撃を与えたか、分かっているの?」
嘆きの調子を装ってはいるが、その言葉の刃先は正確だった。リシェル本人への心配は一切なく、家の外聞だけを問題にしている。
「わたくしは、何もしておりません」
短く答えると、父の眉がぴくりと動いた。
「まだそんなことを言うか」
「事実です。あの手紙は偽物ですし、証言も不自然でした。少なくとも、わたくしに弁明の機会さえ与えられなかった。父上ほどのお立場であれば、その異様さにはお気づきになったはずです」
「黙れ」
強い声が飛んだ。
室内の空気が張りつめる。
「お前は状況を理解していない。重要なのは、お前がやったかどうかではない。そう見られたという事実だ」
その瞬間、リシェルの胸のどこかがすっと冷えた。
ああ、と心の中で呟く。
やはりそうなのだ。この人は真実など必要としていない。必要なのは、家がこれ以上傷つかぬこと。ただそれだけ。
「……つまり、していなくても構わないと?」
「言葉尻を取るな。今さら潔白を訴えたところで、王都の目は変わらん。公爵家との婚約は破談になった。聖女候補への嫌がらせをしたとされる娘を、このまま侯爵家に置いておけば、我が家全体が敵視される」
父はゆっくりと彼女へ向き直った。
「お前には、しばらく王都を離れてもらう」
分かっていたはずの言葉が、改めて告げられると重く沈んだ。
継母がすかさず続ける。
「もちろん表向きは“静養”よ。王都で疲れた心を癒すため、しばし地方の別邸へ……そういう体裁にして差し上げるの。感謝なさい」
静養。
なんと都合の良い言い換えだろう。
だが父はすぐにそれを打ち消した。
「別邸ではない。北西辺境だ」
リシェルは瞬きをした。
思っていたより、ずっと遠かった。
「辺境……?」
「王家直轄の北西防衛線、その補給砦の一つだ。あそこでは薬師や看護人が不足している。お前はもともと薬草学に入れ込んでいただろう。せいぜい役に立つがいい」
部屋の空気が静まり返る。
継母でさえ、そこまでは思っていなかったのか、わずかに目を見開いた。セレナは驚いたふりをして口元を押さえたが、その奥で瞳がほのかに輝いた。
辺境。
それは貴族令嬢にとって、ほとんど追放に等しい響きだった。
社交界から切り離され、王都の流行も政治も届きにくい寒冷地。魔獣被害と疫病の噂が絶えず、兵と庶民と雑多な出入りの中で、身分の高い令嬢など置物にもなれない土地。
父はそこへ、娘を送るという。
「……いつ、発つのですか」
「三日後だ」
あまりにも早い。
荷造りも、心の整理も、何もさせる気がない日程だった。
「随分とお急ぎなのですね」
「これ以上、王都に居座られては困る」
言い切られたその一言に、ようやくリシェルは理解した。
この決定は、今夜の騒動を受けて慌てて下されたものではない。ある程度、最初から想定されていたのだ。婚約破棄の後、自分をどこへ送るか。家はもう決めていた。
そうでなければ、三日後などという具体的な日程は出てこない。
「……前から、準備しておられたのですか」
思わず口にすると、父の沈黙がそれを肯定した。
継母が慌てて口を挟む。
「誤解なさらないで。お父様はただ、万一に備えていらしただけよ。あなたは最近、社交の場でも妙に浮いていたし、変な噂も耳にしていたもの。家として最悪の事態に備えるのは当然でしょう?」
妙に浮いていた。
変な噂。
またしても曖昧で便利な言葉だった。
リシェルはセレナを見た。義妹は困ったように眉尻を下げ、いかにも悲しげに囁く。
「お姉様……どうしてあんなことを。わたくし、信じたくありませんでしたのに」
その声音には優しさが混じっているようでいて、実際には少しも温度がなかった。
リシェルはじっと彼女を見る。
セレナはぱちぱちと瞬きをする。長い睫毛。柔らかな栗色の髪。男たちが守ってやりたくなるような、儚げな美貌。確かにこの顔で涙を見せれば、多くの人間は無条件に信じるだろう。
だが、今夜の一件で彼女がどこまで関わっているのかはまだ分からない。
分からないが、少なくとも得をする側にいるのは間違いなかった。
「信じたくないのなら、なぜ一度もわたくしに尋ねなかったの」
そう言うと、セレナは息を呑んだように見せた。
「お姉様……そんな、責めるような言い方をなさらないで」
「責めているわけではありません。ただ不思議なだけよ。皆、わたくしのことを“以前からおかしかった”と言うのに、誰一人として本人には確認しないのね」
「いい加減にしなさい!」
父が机を叩いた。
重たい音が室内に響き、継母が小さく悲鳴を上げる。
「セレナに当たるな! あの子は何もしていない!」
「ええ。何もしていないのでしょうね」
リシェルは静かに言った。
「何もしていない者が、最も得をすることもありますもの」
その一言で、セレナの顔から一瞬だけ表情が消えた。
ほんの一瞬だった。けれど確かに見えた。仮面がずれる瞬間を。
だが父はそれに気づかず、さらに顔色を悪くした。
「三日後に出発だ。必要最低限の荷物だけ持て。侍女も一人でいい。いや、むしろいらん。あちらで用意させる」
「父上」
その時、部屋の隅で控えていた老執事のロイドが、珍しく口を開いた。
父が不機嫌そうに視線を向ける。
「何だ」
「辺境は寒うございます。お嬢様は北方向けの外套をお持ちではありません。せめて必要なものは整えませんと」
「最低限でいい」
「しかし――」
「ロイド」
リシェルが小さく名を呼ぶと、老執事は唇を引き結んだ。
彼女は首を横に振る。
これ以上、自分のために言葉を費やさせたくなかった。ロイドまでこの場で父の不興を買えば、侯爵家に残った後の立場が悪くなる。
「必要なものは、自分で選びます」
そう言うと、父はそれで話は終わりだとばかりに背を向けた。
「もう下がれ。明日からは余計な場所へ出るな。王都で誰かと接触することも禁じる。お前に会いたがる者など、もうおるまいがな」
最後の一言は、父の本心だったのだろう。
それが分かったからこそ、リシェルの胸はもう痛まなかった。痛みの代わりに残るのは、乾いた寒さだった。
椅子から立ち上がる。
礼をする必要はないと思った。だが習い性のようにわずかに膝を折り、踵を返す。
扉へ向かう途中、セレナの横を通った。
「お姉様」
小さな声で呼び止められる。
立ち止まると、義妹は誰にも見えぬ角度でほんの少しだけ顔を寄せた。
「辺境は大変だそうですわ。どうか、お身体に気をつけて」
心からの心配など一滴も感じられない、甘い囁きだった。
リシェルは振り返らずに答える。
「ええ。あなたも、足元にはお気をつけて」
セレナが微かに息を止めたのが分かった。
そのまま扉を開け、部屋を出る。
背後で継母が「まあ、なんて嫌味な」と吐き捨てるのが聞こえたが、もうどうでもよかった。
回廊に出ると、ロイドが待っていた。
彼は周囲に人がいないことを確かめると、深く頭を下げた。
「申し訳ございません、お嬢様」
「ロイドが謝ることではないわ」
「ですが……旦那様は、昔から」
言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
昔から。何を言いたかったのか、リシェルには分かった。父は昔から、彼女を“扱いづらい娘”と見ていた。亡き母に似て、妙に物事を考えすぎるところがある。流行より実利を重んじる。社交より本を好み、薬草に興味を示す。侯爵家の長女としては、華やかさが足りない。愛想がない。可愛げがない。
けれど、それでも父の娘であることに変わりはないと思っていた。
多少疎まれていても、いざという時には、最低限の情くらいはあるのだと。
それは、ずいぶんと甘い考えだったのだろう。
「ロイド。少しだけ、お願いがあるの」
「何なりと」
「今夜のうちに、わたくしの荷物をまとめたいの。誰にも触らせたくないものがあるから」
「承知いたしました」
「それから……母の遺品が保管されている箱、覚えている?」
老執事の目が少しだけ揺れた。
「はい」
「あれを、見せてほしいの」
「……かしこまりました」
その返事に、リシェルは小さく息をついた。
母の遺品の中には、いくつかの装身具のほかに、薬草に関する書付や古い辞典がある。父は興味を示さなかったが、彼女にとっては数少ない宝物だった。
自室へ戻るまでの道すがら、壁際の燭台の炎が揺れている。王城の窓の向こうには、冬の夜が広がっていた。暗く、深く、冷たい夜。
けれどその冷たさは、室内の空気より幾分ましに思えた。
部屋へ戻ると、リシェルはまずドレスの裾を持ち上げ、鏡の前に立った。侍女はいない。今は誰にも見られたくなかったので、かえって都合がよかった。
首元の紅玉を外し、掌に乗せる。
これは母が生前、唯一よく身につけていた首飾りだった。記憶の中の母はいつも穏やかで、花よりも薬草の名に詳しく、庭の片隅で葉の香りを比べるような人だった。社交界の華にはなれなかったが、屋敷の使用人や近隣の者たちには不思議と慕われていた。
父が母をどう思っていたのか、リシェルは知らない。
けれど、自分が薬草に惹かれるようになったのは、間違いなく母の影響だった。
コンコン、と控えめなノック。
「お嬢様、ロイドでございます」
「ええ、入って」
老執事は小さな木箱を抱えて入ってきた。年季の入った箱だが、磨かれている。彼はそれを丁寧に机へ置いた。
「旦那様には、古い書物ゆえ処分してもよいかと何度か問われましたが……私の判断で残しておきました」
その声音には、かすかな誇らしさがあった。
「ありがとう」
リシェルは箱の蓋を開けた。
中には、母の小ぶりな香水瓶、刺繍入りの手巾、銀の髪飾り、そして数冊の本と手記が収められていた。紙は古いが保存状態はいい。乾燥剤として挟まれているのは、おそらく母自身が用いた薬草だろう。開いた瞬間、わずかに懐かしい香りが立った。
ラベンダーと、乾いた薄荷と、少しの土の匂い。
胸が痛くなる。
けれど今夜は、その痛みすら支えに変えなければならない。
「これと、この辞典、それから手記も持っていくわ」
「かしこまりました」
ロイドは一つ一つ布で包みながら、ふとためらうように口を開いた。
「辺境では……坊ちゃんや奥様の目も届きません。ご不便は多いでしょうが、ひょっとすると」
「ええ」
リシェルは小さく笑った。
「やっと好きに薬草に触れられるかもしれないわね」
その言葉に、ロイドは驚いたように顔を上げた。
少しして、老いた目がじわりと和らぐ。
「そのお言葉を聞けて、少し安心いたしました」
「安心?」
「お嬢様が今にも折れてしまいそうに見えましたので」
まっすぐに言われ、リシェルは一瞬だけ言葉を失った。
折れていないと言えば嘘になる。心のどこかは確かにひび割れていた。だが全部ではない。全部を折られてしまう前に、まだ手放せるものがある。
「……たしかに、少しは折れたわ」
正直に言うと、ロイドは黙って続きを待った。
「でも、不思議なの。全部を失った気はしないのよ」
婚約者を失った。家の居場所を失った。王都での立場を失った。けれど、薬草の知識までは奪われていない。母の手記も残った。自分の頭も、手も、まだ使える。
それだけは本当だった。
ロイドが荷物を整えている間、リシェルは机に向かい、白紙を一枚引き寄せた。何を書くでもなく、ただ羽根ペンを手に取る。
今夜のことを忘れたくないと思った。
セシリアの涙の落ちる角度。エドガーの宣告の間。父の声。セレナの目。
そして手紙の違和感。
彼女は一つ一つ書き出し始めた。
手紙の文体。筆圧。証言者の顔ぶれ。元侍女の名前。会場にいた貴族たちの反応。誰が最初に頷き、誰が顔を曇らせ、誰が楽しんでいたか。
薬草の記録をつけるように、事実だけを並べる。
悲しみを整理するには、それが一番よかった。
ロイドがその様子を見て、そっと息を呑んだのが分かった。
「お嬢様……」
「感情で覚えていると、いつか曖昧になるもの。だから書いておくの」
「復讐のため、でございますか」
リシェルは手を止めた。
復讐。
その言葉は甘くも恐ろしくも聞こえた。
「まだ分からないわ」
正直に答える。
「ただ、本当に何が起きたのか、わたくし自身が忘れないためよ」
そうでなければ、いつか自分でも“たしかに少しは悪かったのかもしれない”と信じ込まされてしまいそうだった。
書き終えた紙を畳み、母の手記の間へ挟む。
その時だった。
窓の向こう、城門へ続く中庭の端に、人影が見えた。
黒い外套をまとった長身の男。
夜会の広間で一瞬だけ目が合った、あの男に似ていた。
暗くて顔までは見えない。だが、雪を待つ夜気の中でも微動だにせず立つ姿には、妙な緊張感があった。
誰かを待っているのか。あるいは考え事でもしているのか。
リシェルが目を凝らしたその時、男はふいにこちらを見上げた。
距離があるのに、なぜか目が合った気がした。
深い青の視線。
次の瞬間には彼は踵を返し、暗がりの向こうへ消えていった。
「……どなたかいらっしゃいましたか」
ロイドに問われ、リシェルは窓辺から離れる。
「いいえ。気のせいかもしれないわ」
そう答えたものの、胸の奥には小さな棘のような感覚が残っていた。
あの男だけが、広間で手紙を見ていた。
もし本当に同じ人物なら、なぜ。
問いは答えにならぬまま、夜の底へ沈んでいく。
荷造りは夜更けまで続いた。
豪奢なドレスは置いていくものが多かった。辺境であれほどの装いは不要だ。代わりに、動きやすい日常着、厚手のケープ、手袋、ブーツ。薬草を刻むための小刀。乾燥させた常備薬。小さな乳鉢。母の手記。
持っていけるものは限られている。
だが、その限られた中に、彼女にとって必要なものはほとんど収まった。
夜半を過ぎた頃、ロイドが下がり、部屋に再び一人きりになる。
リシェルは寝台には入らず、窓辺の椅子に座った。
王都の灯りが遠く滲んでいる。
明日になれば、噂はさらに広がるだろう。明後日には、彼女が辺境へ送られることも知れ渡るかもしれない。貴族たちは同情するふりをして面白がり、令嬢たちは安心し、男たちは“厄介な女が消える”と胸を撫で下ろすのだろう。
好きに思えばいい、とリシェルは思った。
今夜までは、それで十分だった。
だが三日後、自分は王都を出る。
そこから先は、もう誰も自分を知る者のいない場所だ。
そう考えた時、恐ろしいはずなのに、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
王都では、常に“フォルディア侯爵家の長女”であらねばならなかった。婚約者に恥をかかせぬよう、家の名を汚さぬよう、目立ちすぎず、かといって無能にも見せず、絶妙な均衡の中で生きてきた。
辺境では、その均衡は崩れる。
ならば、自分は何者になれるのだろう。
その問いに、心がわずかに動く。
怖い。
けれど、怖さと同じだけ、奇妙な解放感もあった。
「……わたくしは、まだ終わっていない」
誰に聞かせるでもなく、リシェルは呟く。
窓ガラスに映った自分の顔は、まだ弱々しく、疲れていた。けれど、その目の奥にある光だけは消えていない。
その時、遠くの塔で鐘が鳴った。
深夜を告げる音が、王都の冷えた空気を震わせる。
婚約を失った夜。
家を失った夜。
悪役令嬢の烙印を押された夜。
けれど同時に、それはリシェル・フォルディアという一人の女が、初めて何者でもなくなる夜でもあった。
何者でもなくなった者は、まだ何者にでもなれる。
そのことを、今はまだ誰も知らない。
翌朝、王都は見事なまでに早かった。
フォルディア侯爵家の朝食室へ入る前に、すでに廊下の先でひそひそと囁く声が聞こえていた。
「昨夜の断罪、ご覧になって?」
「ええ、なんでも聖女候補にひどい嫌がらせを」
「レヴェント公爵子息がその場で婚約破棄なさったとか」
「まあ恐ろしい。前から気位ばかり高い方だとは思っていたのよ」
扉の陰で聞こえた声は、訪ねてきていた親族筋の夫人たちのものだった。
一晩でここまで回るのか、とリシェルは感心すらした。
彼女はそのまま扉を押し開ける。
途端に会話が止んだ。
席についていた夫人たちの顔に、気まずさと好奇心が同時に浮かぶ。その視線をまともに受けながら、リシェルは何事もないように頭を下げた。
「おはようございます」
誰もすぐには返事をしなかった。
ややあって、継母が無理に微笑む。
「……ええ、おはよう。今日は部屋で食べていてもよかったのよ?」
「そういうわけには参りませんわ。まだ家を出たわけではありませんもの」
答えながら席につく。
その瞬間、夫人たちの中の一人が堪えきれずに言った。
「リシェルさん、昨夜のことは本当に残念でしたわ。でも、若い方はつい感情に流されることもありますものね」
慰めているようでいて、すでに有罪を前提にした言い方だ。
「ご心配ありがとうございます」
リシェルは穏やかに返した。
「ですが、わたくしは何もしておりませんので」
場の空気が凍った。
継母があからさまに顔をしかめる。夫人たちは扇の陰で視線を交わした。ああやはり、と思う。彼女が否定すればするほど“見苦しい悪役令嬢”の像が補強される仕組みになっているのだ。
それでも、黙認はしない。
たとえ誰も信じなくても、自分だけは事実を捨ててはいけない。
朝食は味がしなかった。
だが席を立つ頃には、もう王都のあちこちで自分が“悪役令嬢”として完成していることが分かった。
使用人は必要以上に目を合わせず、訪ねてくるはずだった仕立て屋からは急なキャンセルが入り、花屋から届く予定だった季節の花束も来ない。かわりに、匿名で届けられた小さな箱の中には、黒く枯れた花弁が詰められていた。
侮辱。
それを見ても、リシェルの胸はもう驚かなかった。
むしろ、ここまで徹底しているなら、誰かが流れを作っているのだと確信できる。
午後、彼女は自室の机に向かい、王都で最近起きた出来事を書き出した。セシリアが急速に支持を集め始めた時期。辞めた侍女の名。父が妙に苛立っていた会食の日。義妹が新しいドレスを誂えた時期。公爵家からの贈答の変化。
点を並べる。
まだ線にはならない。
けれど、いつか線になるかもしれない。
夕刻、ロイドが静かに訪ねてきた。
「お嬢様、出立に際しての通達でございます」
「ええ」
「護送役が正式に決まりました。北西辺境の補給砦まで、王城近衛から数名が付きます」
「そう」
「加えて……あちらの砦より、薬師不足につき歓迎すると連絡が」
歓迎。
その言葉に、リシェルは少しだけ目を見開いた。
追放先から歓迎されるなど、奇妙な話だった。だが少なくとも、完全な厄介払いとして閉ざされた場所へ放り込まれるわけではないらしい。
「薬師として、わたくしを?」
「そのようです」
ロイドは少しだけ口元を緩めた。
「道中で薬を必要とする者が出れば、お嬢様のお力は必ず役に立ちましょう」
その言葉を聞いた時、リシェルは初めて、昨夜から胸に溜まっていた息を深く吐き出せた気がした。
悪役令嬢。
婚約破棄された女。
辺境へ送られる厄介者。
王都ではそう呼ばれている。
けれど辺境では、もしかすると別の名で呼ばれるのかもしれない。
その可能性だけが、暗い部屋の中に小さな灯をともした。
その夜、王都の別の一角では、昨夜の断罪劇について報告を受ける男がいた。
黒髪の青年は、手渡された数枚の写しをざっと眺め、鼻で笑う。
「見事に仕立てたものだな」
従者が頭を垂れる。
「いかがなさいますか、アルヴェイン卿」
青年――アルヴェインは、窓の外の冬空を見やった。
昨夜、広間で見た令嬢の横顔が脳裏をよぎる。追い詰められながらも、泣き崩れるのではなく証拠の矛盾を数えようとした女。あの目は忘れにくい。
「しばらくは放っておけ」
「しかし、あの侯爵令嬢は三日後に北西へ送られるとか」
「知っている」
彼は短く答えた。
「だからだ」
従者は怪訝そうに黙る。
アルヴェインは書類を机へ置いた。写しの中には、脅迫文の文面と、証言の要旨がある。どれもよく練られているが、妙に整いすぎていた。現場を知らぬ者が考えた、いかにも悪役令嬢らしい悪意。現実の人間の嫌がらせは、もっと泥臭く、もっと愚かだ。
「本当にあの女がやったのなら、辺境に着く前に化けの皮は剥がれる」
「違うと?」
「少なくとも昨夜のあれだけでは断じきれん」
アルヴェインは淡々と言ったが、その青い瞳はわずかに細められていた。
「そして違うなら――王都はまた、使える人間をくだらぬ内輪で潰したことになる」
彼の声には、王都そのものへの倦みが混じっていた。
冬の夜は深い。
だが北西辺境の夜は、もっと深く、もっと容赦がない。
そこで生き残れるかどうか。
それが、真実を知る一番早い方法かもしれなかった。
リシェルが自室の灯を落とした頃には、王都の空には薄く雪の気配が漂い始めていた。
悪役令嬢の烙印は、もう消えないだろう。
けれど、それが永遠に同じ意味を持つとは限らない。
彼女は窓辺に立ち、暗い夜空を見上げる。
「三日後」
小さく呟く。
それは別れの日であり、始まりの日でもある。
王都で奪われたものを数える夜は、もう終わりにしよう。
これからは、手の中に残ったものを数えるべきだ。
知識。記録。母の手記。自分の手。自分の目。
それだけあれば、まだ何かができる。
そう思えた時、冷えた窓ガラスに映る自分の顔は、昨夜より少しだけ強く見えた。




