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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第1話 夜会の断罪、そして婚約破棄

夜会の広間は、今夜もひどく美しかった。


 磨き抜かれた白い大理石の床。高い天井から降る、星屑を閉じ込めたようなシャンデリアの光。金糸で縁取られた深紅の絨毯の上を、絹と香水と笑い声が滑ってゆく。王都でも指折りの名門が集う冬季大夜会は、貴族たちにとって社交であり、取引であり、戦場でもある。


 侯爵令嬢リシェル・フォルディアは、その戦場の只中にありながら、今夜に限っては珍しく、少しだけ肩の力を抜いていた。


 白磁のような肌に、淡い金の髪。今夜の彼女は、フォルディア侯爵家の家色に合わせた深い紅のドレスを纏っている。胸元は慎ましく、それでいて裁断は流れるように優美で、光を受けるたびに細やかな刺繍が燃えるようにきらめいた。亡き母が残した紅玉の首飾りが、喉元で静かに揺れている。


 鏡の前で侍女が何度も「お綺麗です」と微笑んだその姿を、リシェル自身はひどく他人事のように受け止めていた。


 綺麗に見えることと、好かれることは別だ。


 むしろこの場所では、目立つことはしばしば標的になる。


 だから彼女はいつも通り、場の空気を読み、必要以上に前へ出ず、誰かの視線を煽らぬよう慎重に振る舞っていた。婚約者であるエドガー・レヴェント公爵子息の隣に立ち、求められれば微笑み、話題に応じ、失言一つなく役目を果たす。それが今夜の務めであり、これまでずっと続けてきたことだった。


 それなのに。


「……皆様、ご注目ください」


 不意に、広間の空気が変わった。


 高く通る女の声だった。


 楽団の演奏がぴたりと止まり、くつ先で床を打つ軽やかな音さえ消える。ざわめきは一瞬で細く鋭くなり、無数の視線が声の主へと吸い寄せられた。


 リシェルもまた、反射的にそちらを見た。


 広間の中央、階段の前に立っていたのは、淡い白金色の髪をゆるやかに巻いた若い令嬢だった。白いドレスに金の刺繍。胸元には聖印を模した細工のブローチ。いかにも守られるべき清らかさをその身に纏った少女――セシリア・エルンスト。


 最近になって王都の社交界で急速に評判を上げた、聖女候補の一人である。


 彼女は今、薄く涙を浮かべた瞳で、まっすぐにこちらを見ていた。


 嫌な予感がした。


 胸の奥で、冷たい針が一本、静かに沈む。


「今宵、どうしても皆様にお伝えしなければならないことがございます」


 セシリアの声は震えていた。けれどそれは怯えの震えではなく、観客の同情を誘うために絶妙に調律された弱さのように聞こえた。


「わたくし……ずっと、黙っておりました。けれど、もう限界なのです」


 ざわめきが広がる。


 数歩離れたところで、誰かが「あら」と扇子で口元を隠した。別の誰かが、最初から何かを知っていたような顔でうっすらと目を細める。


 その視線の流れが、波のようにリシェルへ向かってくる。


 まだ名前は呼ばれていない。


 それなのに、もう分かった。


 これは自分に向けられたものだ。


「リシェル様は……わたくしのことを、ずっとお嫌いでした」


 一拍。


 広間の空気が、甘く腐った果実のように膨らんだ。


「お待ちなさい」


 リシェルはできる限り静かな声で言った。取り乱してはいけない。ここで声を荒げれば、それだけで相手の思うつぼだ。だからこそ、いつも通り、冷静に。


「いったい何の話をしているのか、説明を――」


「説明すべきは、君のほうだろう」


 低く、冷えた声がその言葉を断ち切った。


 広間の空気がさらにざわつく。


 リシェルはゆっくりと振り返った。


 そこに立っていたのは、彼女の婚約者であるエドガーだった。


 端正な顔立ちに、よく整えられた金髪。濃紺の礼装は彼の長身によく似合い、若き公爵家嫡男としての華やかさと自信を隠しもしない。いつもならば、その姿を見れば自然と背筋が伸びた。けれど今夜、彼の眼差しは見たことがないほど冷たかった。


「エドガー様……?」


「セシリア嬢に対する数々の嫌がらせ。脅迫文。贈り物への毒物混入未遂。侍女への買収。階段から突き落とそうとした件まで、すべて把握している」


 あまりにも整然とした口調で、彼は言った。


 その内容が耳に入るのに、少し時間がかかった。


 脅迫文。


 毒物混入。


 突き落とす。


 どれも、あまりにひどい言葉だった。


「……何を、おっしゃって」


 やっとの思いで紡いだ言葉は、自分でも驚くほど掠れていた。


「そんなこと、わたくしは――」


「証拠ならある」


 エドガーが指を鳴らすように軽く手を上げると、控えていた従者が前へ出た。


 銀盆の上に、何通もの手紙が載せられている。


 白い封蝋の剥がれた跡。黒いインクの滲んだ文字。まるで最初からこの瞬間のために用意されていたように、それらは広間の照明の下で不自然なほど整然と並んでいた。


 従者が一通を開き、読み上げる。


「『聖女気取りの泥棒猫。あなたのような下賤な女が、エドガー様の視界に入ること自体が罪』」


 次の一通。


「『夜会に出れば、階段から落ちるかもしれませんわね』」


 また一通。


「『二度と殿方に媚びるような真似をなさらないことです』」


 広間のあちこちで小さな悲鳴と、息を呑む音が上がった。


 リシェルは、その手紙を見つめた。


 封蝋の色も紙質も、たしかにフォルディア家で使うものに似せてある。筆跡も、雑に見れば自分の癖に寄せてあるように見えた。だが、ほんの一瞬見ただけでも分かる。これは粗悪な模倣だ。


 彼女は筆圧が一定で、文字の払いを流さない。けれどそこに並ぶ文字は、感情を見せるために意図的に崩し、ところどころに不自然な震えがある。何より、言い回しがあまりにも俗悪すぎる。


 自分をよく知らない者なら騙せるだろう。


 けれど、少しでも会話を交わしたことのある者なら、違和感を覚えるはずだった。


 それなのに。


 誰一人として、違和感を口にしない。


「違います」


 リシェルははっきりと言った。


 広間に響くよう、少しだけ声を強める。


「その手紙は偽物です。筆跡を真似ておりますが、細部が異なります。わたくしはそのような文を送っておりませんし、そもそもセシリア様と二人きりで接触した機会も限られております。贈り物に毒物を混入したという件も、わたくしの管理下にないもののはずです。誰がいつ、どのように発見し、どのような鑑定をしたのか、まずその経緯を――」


「まだ言い逃れをするのか」


 エドガーの声は、氷のように冷たかった。


「わたくしは、言い逃れなど」


「では、彼女たちの証言も偽りだと?」


 彼が視線を向けると、数人の若い令嬢と侍女が前に出た。皆一様に気まずそうな、けれど決意したような顔をしている。


「わたくし、見ましたの。リシェル様がセシリア様のドレスを踏もうとしているところを……」

「以前から、お二人の不仲は有名でしたわ」

「リシェル様付きの元侍女が、命じられて文を運ばされたと……」


 元侍女。


 そこまで聞いて、リシェルの胸の奥で何かがかちりと音を立てた。


 いた。


 確かに一人、去年の終わりに急に辞めた侍女がいた。病気を理由に実家へ戻したはずだったが、その後の消息を誰も口にしなかった。


 あの時点で、もう準備は始まっていたのか。


 周到だ。


 あまりにも周到すぎる。


 今日この日のために、どれほど前から糸を張り巡らせていたのだろう。


「……見事ですわね」


 気づけば、そんな言葉が唇から零れていた。


 思わず出たそれに、数人の貴族が眉をひそめる。


 リシェルはゆっくりとセシリアを見た。


 少女は怯えたように身を竦め、エドガーの背後へ半歩下がる。


 まるで、自分こそが傷ついた被害者だと言わんばかりに。


「そこまで整えられているなら、わたくし一人の言葉では覆せないのでしょう」


「ようやく認める気になったか」


「認めてはおりません。ただ――」


 リシェルは広間を見渡した。


 見知った顔がいくつもあった。夜会で挨拶を交わした夫人たち。侯爵家と取引のある老貴族。父に媚びへつらっていた者。以前、彼女が紹介した医師に礼を述べていた子爵夫人。


 けれど今、その誰もが自分から目を逸らすか、好奇心に満ちた目で眺めているか、そのどちらかだった。


 助けを期待するほうが愚かだ。


 この場所では、正しさよりも空気が勝つ。


 立場が勝つ。


 先に涙を見せた者が勝つ。


「……少なくとも、最初から結論は決まっていたのでしょうね」


 その一言に、広間がぴんと張り詰めた。


 エドガーの眉が不快げに動く。


「何が言いたい」


「わたくしを問い詰める前に証拠が集められ、証人が用意され、このように人目のある場が選ばれた。真実を明らかにするためではなく、わたくしを断罪するための段取りに見えます」


「慎みなさい、リシェル」


 鋭い声が飛ぶ。


 振り向くと、そこには父――フォルディア侯爵がいた。


 厳格な顔は怒りで強張り、その隣には継母が青ざめたふりをして立っている。少し後ろには義妹セレナの姿もあった。彼女は扇の陰に唇を隠していたが、その目元には隠しきれない安堵があった。


 ああ、とリシェルは思った。


 やはり家も、こちら側ではない。


「父上」


「これ以上、家名に泥を塗るな。お前の振る舞いには以前から問題があった。私は何度も忠告してきたはずだ」


 その口調は断定的で、そこに娘への問いかけは一切なかった。


 以前から問題があった。


 便利な言葉だ、とリシェルはぼんやり思った。


 声を荒げたこともない。誰かを傷つけた覚えもない。むしろ、家の求めるままに振る舞い、婚約者のために社交を整え、表に出ぬところで薬草や調合の勉強を続け、人知れず救護院に薬を送ってきた。だが、それらのどれもが「令嬢らしくない」「目立つな」「余計なことをするな」と押し戻され続けてきた。


 そして今、問題があったことにされる。


 積み上げてきたものなど、最初から誰の目にも入っていなかったかのように。


 不意に、エドガーが一歩前へ出た。


 その仕草がやけに芝居がかって見えたのは、リシェルの心がもう何かを見限っていたからかもしれない。


「フォルディア侯爵令嬢リシェル」


 広間中が静まり返る。


「君の嫉妬深く陰湿な性根は、もはや我慢ならない。セシリア嬢を守るためにも、そして我が公爵家の名誉のためにも――」


 彼は一拍置いた。


 そして、誰もが待ち望んでいた決定的な台詞を告げるように、はっきりと言った。


「この婚約は、今この場で破棄する」


 世界が音を失ったように感じた。


 ほんの一瞬、何も聞こえない。


 次いで、どっと広がるざわめき。驚きと興奮と、どこか甘い残酷さを含んだ囁きの波が広間を満たしていく。


「婚約破棄ですって」

「まあ……ついに」

「レヴェント公爵家もお可哀想に」

「聖女候補をいじめるなんて、なんて浅ましい」


 リシェルは立ち尽くした。


 婚約破棄。


 たった今、彼はそう言った。


 何年も前から定められ、両家の利害と王都社交界の均衡を背負ってきた婚約が、こんなにも軽々しく、衆人環視の場で切り捨てられた。


 悲しい、という感情は少し遅れてきた。


 その前にまず、冷たく澄んだ理解が胸に落ちた。


 ああ、この人は、最初から私を信じてなどいなかったのだ。


 信じる気も、守る気もなかった。


 いざという時に隣へ立つのが婚約者だと、愚かにも信じていたのは自分だけだったのだ。


「……そうですか」


 気づけば、そう呟いていた。


 エドガーが目を細める。


「何か言い残すことは?」


「ずいぶんと、お急ぎなのですね」


「君のような女にこれ以上時間を割く必要はない」


「そう」


 リシェルは静かに息を吸った。


 胸が苦しかった。けれど、もう泣きたくはなかった。この場で泣けば、彼らは安心するだろう。断罪が正しかったのだと、もっともらしく頷くだろう。


 だから彼女は、震えそうになる指先をドレスの裾で隠し、真っ直ぐ顔を上げた。


「では、最後に一つだけ申し上げます」


 広間の視線が、再び集まる。


「わたくしは、セシリア様に嫌がらせなどしておりません。脅迫文も、毒物混入も、突き落とそうとしたことも一度たりともありません。証拠と称するものは拙い偽造であり、証言はあまりに出来すぎている。あなた方が今夜なさっているのは真実の究明ではなく、筋書き通りの公開処刑です」


 何人かが顔をしかめた。


 だが彼女は止まらなかった。


「それでも、ここでわたくしの言葉を聞こうとする方が一人もいないのであれば――この場に、もうわたくしの居場所はないのでしょう」


 それは啖呵ではなかった。


 ただの事実だった。


 その言葉に、エドガーは不機嫌そうに眉根を寄せたが、すぐに冷笑へと変えた。


「ようやく身の程を理解したようだな」


 理解したのは、あなたのほうだろうか。


 喉まで出かかった言葉を、リシェルは飲み込んだ。


 この男に、これ以上何を言っても無駄だ。


 視界の端で、セシリアがほっとしたようにエドガーの袖へ指を添えるのが見えた。その仕草は無垢な小鳥のようでいて、どうしてこんなにも計算高く見えるのだろう。


 その時だった。


 広間の後方、列席者のさらに向こうで、黒い軍装めいた礼服を纏った男が一人、壁際に立っているのが目に入った。


 見覚えはない。


 だが、その存在感は異様だった。


 夜会に集う青年貴族たちのような華やかさはない。むしろ荒削りで、冷たい鋼を思わせる。背は高く、肩幅も広く、装飾を排した黒の衣装がその体躯の強さを際立たせていた。黒髪。彫りの深い横顔。雪解けの夜の湖のように冴えた青い瞳。


 彼は他の誰とも違っていた。


 セシリアに同情しているのでもない。エドガーに喝采を送るのでもない。


 ただ静かに、銀盆の上の手紙と証言者たち、そしてリシェルを交互に見ている。


 まるで、断罪そのものではなく、その綻びを数えるように。


 一瞬だけ、視線が合った。


 その眼差しは驚くほど冷静で、驚くほど鋭かった。


 次の瞬間には誰かに遮られ、彼の姿は見えなくなる。


 だが、リシェルの胸には奇妙な感覚が残った。


 今この広間で、自分の言葉そのものではなく、「証拠の不自然さ」を見ていた者が、たった一人だけいた。


 それだけで、なぜか少しだけ呼吸がしやすくなる。


「リシェル」


 父の低い声が耳に刺さる。


「今宵の恥は後で清算する。今は下がれ」


「承知いたしました」


 彼女は深く頭を下げた。


 礼を尽くす必要など、もうどこにもない。けれど侯爵令嬢として最後まで姿勢を崩すまいという意地が、彼女の背を支えていた。


 ざわめきの中を歩く。


 左右から突き刺さる視線は熱く、冷たく、重かった。好奇。侮蔑。安堵。興奮。人はこうも簡単に、誰かの転落を娯楽にできるものなのだと、今さらのように知る。


 ドレスの裾が重い。


 けれど足取りだけは乱さない。


 泣かない。


 振り返らない。


 そうやって広間の出口へたどり着いた時、背後でふっと聞こえた小さな声があった。


「……おかしいな」


 低い男の声だった。


 誰に向けたものかも分からぬ独り言。


 けれど、リシェルにはそれが不思議と届いた。


 扉が閉じる。


 喧騒が遠ざかり、冷えた回廊の静けさが全身に染み込んできた。


 そこでようやく、彼女は小さく息を吐いた。


 足元が揺れる。


 壁に手をつくと、白い手袋の先が震えていた。


 婚約は破棄された。


 悪役令嬢の烙印を押された。


 家も、婚約者も、社交界も、もう彼女の味方ではない。


 けれど不思議なことに、胸の奥底で燃えているのは、絶望だけではなかった。


 これは終わりではない。


 何かが始まる前触れのような、得体の知れない寒気が、確かにあった。


 遠くで風が鳴る。


 冬の王都の夜気は厳しいのに、火照った頬にはちょうどよかった。


 リシェルは首元の紅玉にそっと触れ、瞼を閉じた。


 泣くのは、まだ先でいい。


 今はただ、この夜の形を忘れないようにしよう。


 誰が笑っていたか。誰が目を逸らしたか。誰が最初に涙を見せたか。誰が最初から結論を知っていたか。


 そして――誰が、証拠のほうを見ていたか。


 そのすべてを、忘れない。


 その頃、夜会の広間では、断罪劇の余韻がなおも甘く漂っていた。


 エドガーは周囲の慰めと賞賛を受け、セシリアはか弱く微笑みながらそれを受け流している。フォルディア侯爵は苦々しい顔で関係各所へ頭を下げ、継母は青ざめたふりを続け、義妹セレナは内心の歓喜を隠しきれていなかった。


 そんな中、壁際に立っていた黒衣の男は一枚の手紙を手に取り、わずかに目を細めた。


「どうかなさいましたか、アルヴェイン卿」


 背後から声をかけた老伯爵に、男――アルヴェインは視線を上げぬまま答える。


「筆跡が妙だ」


「は?」


「怒りに任せた脅迫文にしては、整えすぎている。だが、ところどころにわざとらしい乱れがある。書き慣れた人間が感情を装って崩した筆ではなく、逆に“高位の令嬢らしい筆跡”を真似た手つきだ」


 老伯爵は目を丸くした。


「そこまでお分かりに?」


「戦場では報告書一枚の癖で、内通者が分かることがある」


 淡々とした言葉だったが、その声には冷えた苛立ちがあった。


 アルヴェインは広間の扉の向こうをちらりと見やる。


 先ほどの令嬢――リシェル。


 断罪の只中にあってなお、涙で訴えることなく、証拠の矛盾を順に拾い上げようとした女。追い詰められながらも取り乱さず、誰よりも状況を見ていた目。あの目は、ただの高慢な悪役令嬢のものではない。


 それに。


 街道で見たことがある気がした。


 いや、顔ではない。物の見方だ。傷や毒を前にしたとき、感情より先に原因と経過を探るような視線。以前どこかで似た目を見た――そんな気配だけが残る。


「……面白くないな」


 誰にも聞こえぬほど小さく、彼は呟いた。


 この夜会には別件で出席していた。王都の動きを探るため、そしてある家の思惑を見極めるために。だが、思わぬものを見てしまった。


 筋書きの匂いだ。


 しかも雑ではない。かなり前から用意され、複数の家が黙認している匂い。


 その中心にいるのが、あの侯爵令嬢だというのなら。


 王都はまた、くだらない内輪の理屈で、使えるものを捨てたのかもしれない。


 アルヴェインは手紙を盆へ戻した。


 青い瞳に浮かぶのは、夜会の光ではなく、雪を孕んだ北辺の空の色に近い冷たさだった。


 回廊を抜け、自室にあてがわれた控え室へ戻ったリシェルは、扉を閉めた瞬間、ようやく一人になれたことを知った。


 誰もいない。


 誰も慰めない。


 それでいい、と彼女は思う。


 鏡台の前まで歩き、椅子に手をついたところで、とうとう膝から力が抜けた。床に落ちるのだけは避けようとしたものの、座るのか崩れるのか分からない姿勢のまま、しばらく動けなくなる。


 胸が痛い。


 婚約者に捨てられた痛みか。


 家に切られた痛みか。


 それとも、ずっと薄々感じていた孤立が、今夜ついに形を持って自分を殴りつけた痛みか。


 たぶん全部だった。


「……みっともないわね」


 自嘲が漏れる。


 けれど鏡の中の自分は、泣いてはいなかった。


 目は赤い。けれど涙はまだ落ちていない。


 なら、まだ終わりではない。


 コンコン、と扉が鳴った。


 リシェルは身を強張らせた。


「誰」


「フォルディア家の者です。侯爵様がお呼びです」


 やはり来たか。


 夜会が終わる前に、処分が下るのだろう。


 彼女はゆっくり立ち上がり、乱れた裾を整えた。首元の紅玉に触れる。冷たさが皮膚を通じて胸の奥へ落ちてゆく。


「……すぐ参ります」


 扉の向こうへ返した声は、思っていたよりも穏やかだった。


 断罪は終わった。


 だが本当の夜は、まだ始まったばかりなのかもしれない。

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