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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第10話 辺境の熱病

 熱は、音もなく広がる。


 雪より静かに、風より確実に、人の間を渡っていく。


 北西辺境補給砦に来てから、リシェルは幾種類もの発熱を見てきた。単純な風寒、傷の化膿による高熱、疲労の蓄積が引き金になる熱、毒の巡りに伴う悪寒と発熱。熱はただ体温が上がるだけの現象ではない。そこには土地と気候と水と食と、人の暮らしそのものが映る。


 だからこそ、その朝、最初に運び込まれた兵士の熱を見た瞬間、リシェルは胸の奥に嫌な予感を覚えた。


「三十九度八分……」


 絞った布を額へ当てながら呟くと、寝台の上の若い兵士が苦しそうに喉を鳴らした。昨夜までは軽い咳程度だった。だが明け方から急に熱が跳ね上がり、関節痛と寒気、そして強い渇きを訴え始めたのだ。


 ベルンが隣で眉を寄せる。


「喉の腫れは弱い。胸の音もそこまで悪くない」


「でも汗の匂いが少し変です」


 リシェルは兵士の首筋へ顔を寄せた。


 汗に混じる匂いが、普通の高熱のそれと少し違う。こもった熱臭の中に、湿った藁と古い水桶のような、鈍く淀んだ匂いが混じっている。


「……水」


 兵士が掠れた声を出す。


 リシェルは少量の水を唇へ含ませる。その指先に触れた肌は、熱いのに妙に乾いていた。


「昨夜、この兵がいた班は?」


 ベルンが問うと、トーマスがすぐに記録札をめくった。


「北西の荷受けと、外れ村への補給便です。昨日は……あ」


「何」


「村から戻った人、もう一人います。今朝、食堂で吐いたって」


 ベルンとリシェルの視線が同時に上がる。


 嫌な一致だった。


「連れてきて」


「はい!」


 トーマスが飛び出していく。


 ベルンは低く唸った。


「風寒じゃないな」


「ええ。傷由来の熱でもないと思います」


「村か」


 短いその一言の重さが、医務棟の空気を変えた。


 辺境の砦は孤立しているように見えて、実際には周囲の小村と密接に繋がっている。薪、干し肉、簡単な織物、案内人、雪道の足場情報。村がなければ補給砦は長く持たないし、砦がなければ村は魔獣に呑まれる。


 だから、村から入る病はそのまま砦に入り、砦から漏れる不調はやがて村へ戻る。


 その循環のどこかで熱病が生まれれば、事態は早い。


「昨日、補給便はどこの村へ?」


 リシェルが問うと、ベルンの代わりに医務棟へ入ってきたガレスが答えた。


「南東の谷筋にある小村だ。雪解け水を溜めて使っているところだな」


「水を?」


「井戸が浅い。冬場は川も凍るから、溜めた水桶頼りの時期がある」


 リシェルは唇を引き結んだ。


 湿った藁の匂い。乾いた高熱。吐き気。水。


 まだ断定はできない。だが、もし思っている通りなら厄介だった。


「副官殿、その村、最近何かありませんでしたか。家畜が死んだとか、井戸が濁ったとか」


 ガレスが眉を寄せる。


「そこまではまだ聞いていない」


「聞いてください。できれば今日のうちに」


「……ただの熱じゃないのか」


「ただの熱ならいいのですが」


 言いながらも、胸の中では確信に近いものが育ち始めていた。


 そこへトーマスが、顔色の悪い兵士を肩で支えながら戻ってきた。こちらは熱というより、全身の倦怠と吐き気が強そうだ。座らせるとすぐに胃液を少し吐いた。


 匂いを嗅いだ瞬間、リシェルは目を細める。


「……やっぱり」


「何だ」


 ベルンがすぐに問う。


「水です。たぶん水が悪い」


 室内が静まり返る。


「この方の吐瀉にも、同じ淀んだ匂いがあります。薬や毒物より、水桶や溜め水の腐り方に近い」


「熱病か」


「はい。でも人から人へ強くうつるタイプというより、たぶん汚れた水が原因の熱です」


 ベルンが顎へ手を当てる。


「……腹を下していない」


「それがむしろ引っかかります。飲んですぐ腸へ来るようなものではなく、もっとじわじわ体に入ったのかもしれません。たとえば水に混じった藻、腐りかけの樽、動物の死骸が触れた水……」


 ガレスの顔色が変わった。


「村だな」


「ええ。この二人が同じ村の水を飲んだなら、村のほうが先に広がっていてもおかしくありません」


「くそ……」


 副官は即座に踵を返しかけたが、リシェルが呼び止める。


「待ってください。今すぐ村へ人をやるなら、必要なものがあります」


「何だ」


「煎じ薬だけでは足りません。まず水を沸かさせること。できれば大鍋をいくつも。あと水桶の内側を洗うための灰、樽を焼くための火、胃を守る乾燥葉、熱を抑える草、そして――」


 次々に口にしながら、頭の中で必要物資を組んでいく。


 熱病は剣では斬れない。


 けれど、初動が早ければ死者を減らせる。


 そのことをリシェルは本で知り、救護院の話で知り、そして今この瞬間、辺境で試されている。


「行くのか」


 ベルンが低く問う。


「行きます」


 即答だった。


「村の水と容態を見ないと、処方が決まりません」


「危険だぞ」


 ガレスの声は厳しい。


「病だけじゃない。村へ向かう道は狭いし、昨日から魔獣の足跡も増えてる」


「それでも、行かなければ遅れます」


 リシェルは立ち上がった。


 自分の声が思いのほか落ち着いていることに、逆に驚く。


「砦の中だけで熱を抑えても、原因が村に残っていたら繰り返します。今は止めることが先です」


 ガレスは数秒黙り、やがて短く息を吐いた。


「……団長に報告する」


「お願いします」


 副官が出ていく。


 ベルンは唸るように言った。


「お前、本当に躊躇がないな」


「あります」


 リシェルは兵士の汗を拭いながら答えた。


「ただ、躊躇っている間に熱は上がるので」


 その返答に、老人は何も言わなかった。


 代わりに薬棚へ向かい、使えそうな乾燥葉と樹皮を選び始めた。


 それが賛同だと、もう分かるくらいには、この砦の空気に慣れてきていた。


 昼前には、出立の準備が始まった。


 熱病の疑いがあると聞けば、普通なら誰も進んで外れ村へは行きたがらない。だが補給砦はそうも言っていられない立場だ。村が倒れれば、いずれ砦も苦しくなる。


 中庭には二頭立ての軽い補給馬車が用意され、荷台へ大鍋、乾燥薪、布、薬草束、水桶、樽洗い用の灰袋が積まれていく。トーマスが必死に動き回り、ベルンは必要物資を怒鳴りながら選り分け、ガレスは護衛兵の編成を決めていた。


 リシェルも外套をきつく締め、薬草袋と記録紙を整えている。


「同行は認められん」


 突然、低い声が落ちた。


 振り向くと、アルヴェインが立っていた。


 黒い外套、雪を含んだ風の匂い、青い瞳。


 脇腹の傷を縫ったのは昨夜だというのに、もう何事もなかったように立っている。だがよく見れば、外套の下で動きがわずかに慎重だ。


 案の定だ、とリシェルは心の中で呟いた。


 休む気など最初からない。


「団長」


 ガレスが一礼する。


「南東谷筋の村で熱病の疑いあり。原因水の可能性が高く、令嬢は現地確認を」


「聞いた」


 アルヴェインの視線がリシェルへ向く。


「お前は行く気か」


「はい」


「病人を診るだけなら、ベルンでも足りる」


「足りるならそれが一番です。でも、原因水の当たりをつけたのはわたくしです。現地で見たほうが早い」


「早いのと、安全なのは別だ」


「それも分かっています」


 言葉を返しながら、リシェルは彼の立ち姿を見た。


 やはり無理をしている。ほんのわずかに重心が片側へ寄っているのだ。医務棟で処置した者にしか分からない程度の差だが、脇腹を庇っている。


 この人こそ、出るべきではないのではないか。


 そう思ったが、今ここで口にしても聞かない顔をしている。


 アルヴェインはさらに言う。


「村へ入って魔獣に出られたらどうする」


「逃げます」


「どこへ」


「団長が守ってくれる場所へ、でしょうか」


 つい、口が滑った。


 周囲の空気が一瞬で止まる。


 トーマスは目を見開き、ベルンは顔をしかめ、ガレスは額へ手を当てた。


 王都なら完全な失言だ。


 だがアルヴェインは怒らなかった。


 ただ、青い目がほんのわずかに細くなる。


「……ずいぶんと信頼されたものだな」


「皆さんがそう言いますから」


 リシェルは少しだけ視線を逸らした。


「団長が前にいると死なない気がする、と」


 その言葉に、中庭のあちこちで兵士たちが気まずそうに咳払いした。たぶん普段陰で言っていることなのだろう。


 アルヴェインはしばらく無言でいたが、やがて短く言った。


「なら、俺も行く」


「団長」


 今度はガレスが顔をしかめる番だった。


「傷が」


「塞がっている」


「昨夜縫ったばかりです」


 思わずリシェルも言った。


 アルヴェインがこちらを見る。


「お前がやった処置なら保つだろう」


 あまりにも真顔で言うので、返す言葉が一瞬出てこない。


 信頼されているのか、無茶を押しつけられているのか、判断に困る言い方だった。


 ベルンが苛立たしげに吐き捨てる。


「団長、お前は自分の体を便利な道具だと思いすぎだ」


「便利だから使う」


「折れたら終わりだ」


「終わらせない」


 会話になっていない。


 けれど、この男にこういう押し問答が日常なのだろうと、なぜか皆の顔つきが教えていた。


 ガレスは観念したように深く息を吐き、配置を変える。


「なら護衛は絞る。団長、令嬢、ベルン、私、あと二名。馬車は軽くして速度を優先する」


「分かりました」


 アルヴェインはそれで決定とみなしたらしい。


 リシェルは抗議しようか迷ったが、結局飲み込んだ。


 この人が来るなら、たしかに道中の危険は減る。脇腹の傷は心配だが、それ以上に彼がいれば隊の判断が早くなるのも分かった。


 王都では、誰が責任を取るかで話が止まることがよくあった。


 この砦では、誰が一番早く決められるかで物事が進む。


 それが今のリシェルには、ひどく頼もしく思える。


 村への道は、砦の巡回路よりさらに狭く、雪も深かった。


 黒ずんだ針葉樹の林を抜け、凍りかけた小川を横目に進み、斜面を下ってまた登る。馬車はぎしぎしと鳴り、車輪が雪へ埋もれるたびに兵士たちが肩を貸した。


 リシェルは馬車の中で揺られながら、薬草袋の口を確かめる。ベルンは対面で腕を組み、目を閉じているようでいて、揺れが大きくなるたびにすぐ片目を開ける。ガレスは御者台に近く、周囲の気配へ神経を尖らせていた。


 そしてアルヴェインは――


 なぜか、馬車の横を馬で並走していた。


「中に乗らないのですか」


 揺れの合間にリシェルが問うと、外から短い返答が来る。


「視界が狭くなる」


「傷に障ります」


「乗っても障る」


 まったく譲らない。


 リシェルは外套の襟を握りしめ、少しだけ身を乗り出した。


「ではせめて、痛んだら言ってください」


 その言葉に、外から一拍の沈黙が返る。


 やがて低い声。


「お前は本当にうるさいな」


「患者にはいつも言っています」


「誰が患者だ」


「昨夜、医務棟で縫った人です」


 御者台の兵士が吹き出しそうになって慌てて咳払いし、ベルンは対面で「言ってやれ」とでも言いたげに鼻を鳴らした。


 アルヴェインは返答しなかったが、それ以上は何も言わなかった。


 少なくとも馬を速めて逃げたりはしない。


 そのことが、なぜか妙に可笑しかった。


 しばらくして村が見えた。


 谷あいに寄り添うように建つ小さな家々。石と木で組まれた粗末な造りで、煙突から立つ煙も弱い。冬籠りの最中なのだろう、本来ならもっと静かなのかもしれない。だが今日は違った。


 村の入口に立った時点で、空気が重い。


 人の気配はあるのに、元気な動きがない。戸口から覗く顔は青白く、誰もが緊張している。


 馬車が止まると、村長らしい老人が慌てて駆け寄ってきた。


「砦から……! 助かった」


「村の様子を聞く」


 ガレスが短く告げる。


「熱を出した者は何人だ」


「今朝までで七人……いや、八人か。子どもが一人、昼前からぐったりして……」


「水桶はどこだ」


 今度はリシェルが問うた。


 老人が驚いたようにこちらを見る。


「お、お嬢さんは……」


「薬師です。水を見せてください」


 アルヴェインが横から言う。


「従え」


 それだけで老人はうなずき、すぐ案内に立った。


 この男がいるだけで話が早い。


 村の中央には、雪除けの屋根の下に並べられた大きな水桶がいくつかあった。蓋はされているが、縁に薄いぬめりが見える。リシェルは一つの蓋を開け、慎重に匂いを嗅いだ。


 鼻の奥に、湿った藻と腐りかけの木の臭いが広がる。


「これだわ」


 即座に言う。


「桶の内側が傷んでいます。たぶん雪解け前の汚れが残って、そのまま悪くなった。しかも水を継ぎ足して使っている」


 老人が顔色を変える。


「で、でも冬場は全部替えるのが難しくて」


「分かっています。だから今日来てよかったんです」


 リシェルはすぐに振り向いた。


「灰を。桶の中身は全部捨てて、内側を削って洗います。煮沸用の鍋を出してください。村じゅうの飲み水は必ず沸かしてから」


「全員に伝えろ!」


 ガレスが声を張り上げると、兵たちが動く。ベルンも村の女たちへ指示を飛ばし始めた。


 リシェルはさらに続ける。


「熱が高い方は一か所へ集めてください。寝具を近づけすぎないで。冷やしすぎず、でも厚着を重ねすぎないように。子どもは先に見ます」


 村人たちが一斉に動き始める。


 誰も彼も不安で顔がこわばっていたが、それでも指示があるだけで目の色が変わる。絶望のただ中では、人は「何をすればいいか」を知るだけで少し持ち直せるのだ。


 リシェルはまず、一番重いという子どものもとへ急いだ。


 小さな家の中は薄暗く、湿った熱気がこもっていた。寝台に横たわるのは七つか八つほどの男の子。頬は熱で赤く、呼吸は荒い。傍らで母親が泣きそうな顔をしている。


「大丈夫。診せてください」


 脈を取る。早い。だがまだ乱れ切ってはいない。腹を押さえて苦しがる様子は弱い。やはり中心は水だ。


「水を多く飲ませすぎましたか」


「飲まなきゃ熱が下がらないかと……」


「今は少しずつで大丈夫です。沸かした水に塩をほんの少し、あと煎じた葉を混ぜます」


 母親は必死にうなずく。


 リシェルは薬草袋から乾燥葉を取り出し、ベルンへ渡した。


「胃を守るほうを強めてください。子ども用です」


「分かってる」


 老人の返事は相変わらず乱暴だが、手は早い。


 家を出ると、村の広場ではすでに大鍋が火にかけられ、兵士たちが水桶を洗っていた。ガレスは村人の動線を整理し、トーマスは顔を真っ赤にしながら灰袋を運んでいる。


 そしてアルヴェインは、村外れの井戸跡を調べていた。


 あの人は本当に止まらない。


 脇腹の傷を縫ったばかりの男とは思えない働き方だ。


 リシェルが近づくと、アルヴェインは井戸の縁に触れたまま言った。


「水源は浅い。ここへ獣が寄った跡もある」


 その指先の先を見ると、たしかに雪の下に荒れた泥が見える。動物の蹄か、あるいはもっと重い何かの跡。


「桶だけじゃなく、水を汲む場所も問題ですね」


「ああ。しばらくはここを使わせない」


 言いながら立ち上がる動きが、やはりわずかに硬い。


 リシェルは思わず言った。


「傷が開きます」


「開いていない」


「まだ、です」


 アルヴェインは少しだけ目を細めた。


「お前は熱病の最中でもそれを言うのか」


「患者が無茶をしているなら、いつでも言います」


「俺は患者ではない」


「昨夜、医務棟で――」


「その話はいい」


 ぴしゃりと遮られた。


 だが完全な拒絶というより、これ以上続けると自分が不利になるのを察して切ったようにも見える。


 その時、村の広場のほうから子どもの泣き声が聞こえた。つられて別の家でも咳き込みが起こる。


 リシェルはそちらへ走り出しかけたが、アルヴェインが先に低く言った。


「行け」


 その一言に背中を押されるように、彼女は再び村の中へ戻った。


 日が傾き始める頃には、ようやく熱病の広がりに一つ区切りが見え始めた。


 水桶は洗われ、大鍋では常に湯が沸き、熱を出した者たちは集めて寝かされ、軽い者と重い者が分けられる。まだ安心はできない。だが少なくとも、何もしないまま病が広がる段階は越えた。


 村長が何度も頭を下げる。


「ありがとうございます……本当に」


「まだ早いです。今夜が大事です」


 リシェルが答えると、老人は涙ぐみながら何度も頷いた。


 その様子を見て、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 王都では、自分のしていることに礼を言われることはほとんどなかった。して当然、整って当然、滞らないのが当然だったからだ。


 けれど辺境では違う。


 誰かを助ければ、その助かった誰かや、その家族がちゃんと顔を上げてこちらを見る。


 それだけで、自分がここに来た意味が少しずつ形になる。


「お嬢さん」


 ふいに村の女が、洗い終えたばかりの木椀を差し出してきた。


「薄いけど、温めた汁です。何も食べてないでしょう」


 言われてみれば、朝からまともに口へ入れたものはほとんどない。熱と水と薬草と走り回る足だけで一日を動かしていた。


「ありがとうございます」


 椀を受け取る。


 温かな湯気が顔へ当たる。その瞬間、不意に疲れがどっと押し寄せた。


 村の広場の端、雪を背負うように立っている黒い影が見える。


 アルヴェインだ。


 彼は村人たちが落ち着きを取り戻していく様子を黙って見ていた。誰かに礼を言われても、ただ短く顎を引くだけ。視線は常に周囲を巡り、村の外と人の流れを同時に見ている。


 その姿に、リシェルはなぜか少しだけ胸が詰まった。


 この人は、誰かを守るために立つことがあまりにも自然なのだ。


 だが、それを自分の傷と引き換えにしすぎている。


 椀を持ったまま近づくと、アルヴェインはすぐにこちらを見た。


「倒れなかったな」


「団長こそ」


「お前ほど喋っていない」


「動きすぎです」


 即答すると、彼はほんのわずかに口元を動かした。


「またそれか」


「またです」


 そう返すと、今度は彼のほうが少しだけ笑った。雪の夕暮れの中では見逃しそうな、小さな笑み。


 リシェルは思わず息を飲む。


 笑うのだ、この人も。


 それは当然のことのはずなのに、初めて見た気がした。


「……何だ」


 見つめすぎたらしい。アルヴェインが訝しげに問う。


「いえ」


 リシェルは慌てて椀へ視線を落とした。


「少しだけ、安心しただけです」


「何に」


「村のこともですけど」


 言葉を選ぶ。


「団長が、思っていたより……」


「何だ」


「ちゃんと休まないままでも、倒れなかったことに」


 我ながらひどい言い方だと思ったが、アルヴェインは怒らなかった。


 むしろ少しだけ眉を上げる。


「期待が低いな」


「患者として見ているので」


「誰が患者だ」


 やはりそこへ戻る。


 その繰り返しがなぜか可笑しくて、リシェルは小さく笑った。


 するとアルヴェインはしばらく黙り、やがてごく低く言った。


「……村の処置は早かった」


 唐突な言葉に、リシェルは目を瞬いた。


「はい?」


「お前が来ると言い張らなければ、ここまで手は回らなかっただろう」


 それは、ほとんど褒め言葉だった。


 この男から出るには、十分すぎるほどに。


 胸の奥がふっと熱くなる。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


「必要だから言います」


 そう返すと、アルヴェインはもう何も言わなかった。


 ただその青い瞳が、雪と夕闇の間で少しだけ柔らかく見えた。


 砦へ戻る道のりで、空には早くも夜の色が落ちていた。


 馬車の揺れは相変わらず厳しかったが、村の熱病が一応の抑えに入った安堵と、一日の極端な疲労のせいで、リシェルは半ばうとうとしながら外套へ身を埋めた。


 向かいのベルンは既に舟を漕いでいる。トーマスも荷台の端で肩を揺らしながら眠そうだ。ガレスは目を閉じていないが、黙っている。


 そしてアルヴェインは、帰りもやはり馬車の外を並走していた。


 窓の小さな隙間からその影を見つけるたびに、リシェルは少しだけ気持ちが落ち着いた。


 この人がいるなら、たぶん砦までは無事に戻れる。


 その確信は、もうほとんど理屈ではなかった。


 砦へ帰り着いた頃には、夜はすっかり深くなっていた。


 医務棟へ戻る前に、リシェルはどうしても確認したくて、アルヴェインが馬から降りたところへ声をかけた。


「団長」


 彼が振り向く。


「何だ」


「傷、見せてください」


 周囲の空気が一瞬止まる。


 ガレスが眉をひそめ、トーマスが目を丸くし、ベルンは「やっぱり言ったか」という顔をした。


 アルヴェインだけが表情を変えない。


「必要ない」


「必要あります。今日一日、あれだけ動いたのですから」


「開いていない」


「見ていないのに分かるんですか」


「分かる」


「患者は大抵そう言います」


 そこまで言うと、さすがにガレスが口を挟んだ。


「団長、念のため見せたほうが早いです」


 アルヴェインが横目で副官を見る。


「お前まで」


「令嬢の言う通りです」


 ベルンも腕を組んだまま頷く。


「開いていなければ、それで済む話だ」


 数で押された形になり、さしものアルヴェインも数秒黙った。


 やがて、低く吐き出す。


「……医務棟へ来い」


 それだけ言って歩き出した。


 リシェルは胸の中で小さく息をつく。


 勝った、というより、通した。


 辺境で生きるには、必要なことを必要だと言い切る強さがいるのだと、この数日で少しずつ分かってきた。


 医務棟の戸が閉まり、炉の火が揺れる。


 これからまた、昨夜と同じように彼の傷を見ることになる。


 だが今夜は少し違う。


 ただ縫うだけではない。


 この人が無茶をし続けることも、その無茶を止めきれないことも、そしてなぜか自分がそのたびに気にしてしまうことも、もう少しはっきり見えてしまう夜になる気がした。

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