第11話 辺境で芽吹く居場所
砦へ戻った夜の空気は、村へ向かった時よりさらに冷えていた。
北西辺境補給砦の石壁は、夜になると昼間以上に無骨さを増す。雪を受けた灰色の壁面は青白く沈み、見張り台の灯だけがところどころに揺れている。その光の下を、交代の兵が短い言葉を交わしながら歩いていく。無駄な声はない。だが静かすぎることもない。生きている砦の夜だと、今のリシェルには分かる。
村での熱病対応を終え、全員が疲れ切っているはずなのに、砦の空気はどこか張りつめたままだった。
熱病の種が村にあったのなら、砦に戻った者たちの中にも体調を崩す者が出るかもしれない。補給便に遅れが出れば、北側の前線が困る。水桶の洗浄と煮沸を徹底させても、すでに飲んだ者の熱は時間差で出る可能性がある。
安心するには、まだ早い。
だがそれでも、村の子どもの熱が少し下がり、母親の泣き顔が安堵へ変わった瞬間を見たからか、リシェルの胸の中には小さな温かさが残っていた。
誰かの役に立てた。
それも、社交の飾りや建前ではなく、たしかに命へ触れる形で。
その感覚が、疲労の底で静かに灯っている。
「令嬢」
医務棟へ向かう石段の手前で、ガレスに呼び止められた。
振り向くと、副官はいつものように厳つい顔のまま立っていたが、その目元には昼間までとは違う色があった。警戒や不信よりも、もっと実務的な評価の色。
「はい」
「村の件、助かった」
短い。
飾りもない。
だが、ガレスのような男が自分からそれを口にするのは、きっと簡単なことではないのだろう。
リシェルはわずかに目を見開いたあと、静かに頭を下げた。
「皆さんが動いてくださったからです」
「それでも最初に水だと言ったのはお前だ」
そう言ってから、ガレスは少しだけ視線を逸らした。
「……正直、最初は王都から厄介払いされた飾り物だと思っていた」
「そうでしょうね」
否定しないと、副官は逆に気まずそうな顔になった。
「だが違った。少なくとも今日見た限りでは、お前はちゃんと現場を見ている」
その言葉は重かった。
王都で、誰一人として言わなかった言葉だからだ。
あなたはちゃんと見ている。
それだけで、胸の奥が少しだけ痛くなるほど熱くなる。
「ありがとうございます」
「だから礼を――いや、もういい」
途中で投げるように言い直し、ガレスは不器用に咳払いした。
「それと、村から戻ってから兵たちの中で少し話が広まってる」
「話?」
「“あの令嬢、ちゃんと役に立つ”とな」
副官は面白くなさそうに口を曲げる。だがその面白くなさは、嫌悪ではない。照れに近いような、扱い慣れぬものへの戸惑いのようなものだった。
「まだ“ちゃんと”の一言付きなんですね」
思わず零すと、ガレスは一瞬だけ目を丸くし、次いで低く笑った。
「気にするな。ここの連中は疑り深い」
「そういうふうに見えます」
「だが、一度認めた相手は裏切らん」
その言葉には、砦で生きる者たちの気質がそのまま滲んでいた。
王都では、人は簡単に掌を返す。今日は褒めても、明日には笑う。人を見るのではなく、空気を見るからだ。
ここでは逆なのだろう。
簡単には認めない。だが一度認めたら、その評価は軽々しく覆らない。
「……いい場所ですね」
ぽつりと漏れた本音に、ガレスが少しだけ眉を上げた。
「砦がか」
「はい」
「変わった女だな。初めて来た令嬢は大抵、寒い、臭い、硬い、狭い、のどれかを最初に言う」
「全部その通りですけど」
リシェルが答えると、ガレスはまたわずかに笑った。
「だろうな」
それだけ言って副官は持ち場へ戻っていった。
残されたリシェルは、白い息を吐きながら少しだけ夜空を見上げる。
狭い。寒い。臭う。硬い。
たしかにそうだ。
王都の快適さに比べれば、ここは何一つ恵まれていない。
けれど、それでも。
ここには、自分がいる理由がある。
その一点だけで、どんな暖かな屋敷よりも心が落ち着くのだから不思議だった。
医務棟へ入ると、熱気と薬草の匂いが一気に頬へ当たった。
村から戻ったばかりの者たちの確認が始まっており、ベルンがすでに二人の兵へ順番に指示を飛ばしている。トーマスは湯を運び、別の若い兵が使用済みの布を回収していた。
「戻ったか」
ベルンが振り向きもせず言う。
「はい。団長の傷を見る前に、村へ行った班の水分摂取量を確認したいです」
「もう書かせている」
即答だった。
「あと熱が出た二名は隔離、村の井戸水を飲んだ連中は全員煮沸水へ切り替えた。お前がいない間にやることはやっている」
「さすがです」
「当たり前だ」
そのぶっきらぼうさに、リシェルは少しだけ口元を緩めた。
王都では、誰かとこうして同じ仕事を分け合う感覚がほとんどなかった。自分がやっていても気づかれず、誰かがやってくれても共有されない。表に出る成果だけが注目され、その過程は軽んじられる。
けれどここでは違う。
できる者が、できることをやる。
その単純さが、たまらなく楽だ。
「リシェルさん!」
奥からトーマスが顔を出した。
「村から荷物が届いてます!」
「荷物?」
案内されると、医務棟の隅の机に、小さな包みがいくつか積まれていた。粗い布で包まれたもの、木の皿に乗せられたもの、藁紐で結ばれたもの。どれも高価なものではない。だが手渡した相手の顔が浮かぶような、素朴な包みだった。
「村の人たちが」
トーマスが少し興奮したように言う。
「干し林檎とか、燻した肉の切れ端とか、冬越し用の根菜とか……“お嬢さんに渡してくれ”って」
リシェルは包みを見つめた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
王都でも贈り物は届いた。だがそれは家同士の付き合いや打算や見栄で選ばれたものだった。豪華で、高価で、けれど誰の顔も浮かばない贈り物。
今ここにあるのは違う。
少ししおれた干し果実。小ぶりな芋。焼きの甘い黒パン。
どれも冬の辺境では貴重なものだ。それを分けてくれたのだ。
「受け取っていいのかしら」
思わず小さく呟くと、ベルンが向こうから言った。
「突き返すほうが失礼だ」
「そういうものですか」
「助かった礼を返したいだけだ。貴族の社交じゃない」
その言葉に、リシェルはそっと布包みを抱えた。
温かくはない。
けれど、不思議と手の中にぬくもりがあるように感じた。
「……うれしい」
零れた本音に、トーマスがにかっと笑う。
「でしょう?」
「あなたが得意げになることじゃないでしょう」
「でも、なんか俺もうれしいです」
そう言われて、リシェルも笑ってしまった。
医務棟の灯りの下で、自分が自然に笑っていることに気づく。王都では、微笑む時すらどこかで形を整えていた。口角の角度、目線の落とし方、見られ方。
今の笑みには、そういう計算がない。
ただうれしいから笑っている。
そんな当たり前のことを、こんな場所でようやく思い出すのかと、少し可笑しくなった。
その夜遅く、医務棟の仕事がようやく一段落した頃、リシェルは小さな部屋へ戻った。
机の上には母の手記と、昼間まとめた記録紙が置かれている。村の水桶の状態、熱の出方、村人の容態、煮沸の手順、使用した乾燥葉の量。忘れないうちに整理しなければならないことは山ほどあった。
けれど今日は、その前に一つだけしたいことがあった。
村から届いた包みを一つずつ開ける。
布をほどくと、中には手のひらほどの干し林檎が二枚、少し硬い黒パン、皮付きの小さな芋、そして子どもの手らしい拙い文字で書かれた紙切れが入っていた。
「おねつをさげてくれてありがとう」
たったそれだけの文。
けれど、リシェルはしばらくそれを見つめたまま動けなかった。
子どもの熱が下がること。
母親が泣きやむこと。
村に湯が沸き、夜を越えられること。
それら全部が、ちゃんと誰かの中で“助けられたこと”として残っている。
王都では、自分が何をしても“して当然”で終わった。あるいは“勝手なこと”と切り捨てられた。
けれどここでは違う。
ちゃんと見てくれる人がいて、ちゃんと返してくれる手がある。
それは、想像していた以上に大きな救いだった。
「……ここに来て、よかったのかもしれない」
ぽつりと呟く。
婚約破棄された夜の自分が聞いたら、そんなことはありえないと笑うだろう。
けれど今は、本当にそう思える。
少なくとも王都にいたままでは、今のこの感覚は知らずに終わったはずだ。
その時、戸が静かに叩かれた。
こんな時間に誰だろうと思いながら「どうぞ」と返すと、入ってきたのはアルヴェインではなく、ガレスだった。
「まだ起きていたか」
「ええ。何かありましたか」
「いや、大したことじゃない」
副官は少し言いづらそうに視線を逸らした。
「団長が……」
そこで一度区切る。
「何か?」
「医務棟で探していた」
リシェルは目を瞬いた。
「わたくしを、ですか」
「そう聞こえた」
副官は腕を組む。
「だが、お前が部屋へ戻ったと知ったら、それ以上は何も言わなかった」
短い報告。
それだけなのに、胸の奥が妙にざわつく。
あの人が、自分を探した。
理由は分からない。傷のことかもしれないし、村の報告かもしれないし、まったく別の実務的な確認かもしれない。
それでも、その事実だけでなぜこんなに落ち着かなくなるのだろう。
ガレスはじっとリシェルを見て、ふっと口元を動かした。
「……分かりやすいな」
「何がですか」
「顔だ」
即答され、リシェルは慌てて頬へ手を当てた。
「変な顔をしていました?」
「いや。悪くない」
副官はそれ以上は言わず、戸口へ向かう。
「団長も今日は傷がある。お前も疲れている。用があるなら明日にしろ」
それだけ言い残して去っていった。
静けさが戻る。
リシェルはしばらくその場に立ち尽くしていた。
用があるなら明日にしろ。
まるで自分がすぐにでも会いに行くと分かっているような言い方だ。実際、その通りなのが悔しい。
会いに行きたい、というより、気になってしまう。
傷の具合が本当に悪化していないか。村から戻ってまた無茶をしていないか。そして、なぜ探したのか。
考えれば考えるほど落ち着かなくなり、リシェルはごまかすように記録紙へ向かった。
だが、筆を取ってもなかなか文字が進まない。
村の熱病の経過をまとめようとして、気づけば脇に小さくこう書いていた。
「この砦で、少しずつ居場所ができている気がする」
書いた瞬間、自分で少しだけ驚いた。
居場所。
そんな言葉を、自分がもう一度使う日が来るとは思っていなかった。
王都の屋敷は“家”ではあっても“居場所”ではなかった。婚約者の隣も、社交界の輪も、侯爵家の長女という席も、どれも役割ではあっても安らげる場所ではなかった。
けれどこの砦の狭い部屋、薬草の匂い、怒鳴り声の飛ぶ医務棟、ぶっきらぼうな老人や若い兵たちの笑い声、その中にいる今の自分は、確かに少しずつ息をしやすくなっている。
それはまだ、根を張ったと言えるほど確かなものではない。
けれど芽吹き始めてはいる。
雪の下で、凍土の隙間から小さな芽が顔を出すように。
翌朝、医務棟へ向かう途中で、リシェルは広場の端に立つアルヴェインの姿を見つけた。
まだ日が昇りきる前の淡い光の中、黒い外套を羽織った姿は昨日までと変わらず鋭い。だが近づいてみると、脇腹をかばう癖はまだわずかに残っている。
やはり無理はしている。
そう思うと、胸のどこかがきゅっと締まる。
アルヴェインは彼女に気づき、短く視線を向けた。
「起きていたか」
「はい。団長こそ」
「寝た」
「本当に?」
「お前は毎回それを確認するのか」
「必要だと思うので」
そう返すと、彼はいつものように少しだけ目を細めた。
「……面倒な女だな」
「よく言われます」
「王都でもか」
「ええ」
「だろうな」
またそれだ。
だが今は、その短いやり取り自体が少し心地よくなり始めている自分がいる。
アルヴェインは一歩近づき、低く言った。
「村の件、よくやった」
正面から。
今度は誰かへの説明でも、他の者を通した評価でもなく、直接。
リシェルは一瞬だけ言葉を失った。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
「でも、言いたいので」
言い切ると、彼はほんのわずかに口元を緩めた。
その表情を見た瞬間、リシェルの胸の奥で何かが小さく跳ねた。
雪風の砦。
厳しく、荒く、冷たい場所。
けれどその中で、自分は少しずつ見つけ始めている。
誰かに役に立てること。ちゃんと見てもらえること。そして――ぶっきらぼうで無愛想なくせに、必要な言葉だけはまっすぐにくれる男の隣で、不思議と心が落ち着いていくことを。
辺境で芽吹く居場所は、まだ小さい。
だがそれは確かに、リシェルの中に根を張り始めていた。




