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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第12話 膝を折る密使

 北西辺境補給砦の朝は、いつも通り冷たく、そして忙しかった。


 村の熱病がいったん落ち着きを見せた翌日も、医務棟には小さな不調を訴える兵が絶えない。夜の寒気で傷が疼く者、煮沸水に慣れず胃の重さを訴える者、村から戻ったあとで急にだるさが出た者。どれも大きな災厄ではない。だが、こういう細かな揺れを見落とすと、辺境の暮らしはあっという間に崩れるのだと、リシェルはこの短い間に学び始めていた。


 朝から彼女は医務棟の中央机で、村へ渡した薬草の消費量と、砦側での残量を照らし合わせていた。


 樹脂系の傷薬はまだ持つ。だが胃を守るための乾燥葉は明らかに減りが早い。煮沸水へ切り替えたことで喉の渇きを訴える者が増え、水に混ぜるための薄い薬草も不足し始めていた。


「この分だと、三日で足りなくなるわね……」


 小さく呟くと、隣で帳面をめくっていたベルンが鼻を鳴らした。


「そういう顔をするな」


「どういう顔ですか」


「今にも外へ飛び出して摘みに行きそうな顔だ」


「必要なら行きます」


「やっぱりな」


 老人は呆れたように言いながらも、その声にはもう露骨な拒絶がなかった。


 トーマスが奥から湯桶を抱えて出てきて、会話を聞いたらしい顔で笑う。


「でも、リシェルさんなら本当に行きそうですよね」


「行くわよ。足りなくなってからでは遅いもの」


「怖いなあ」


 そう言いながらも、彼の顔は明るい。


 医務棟の空気は、この数日で確実に変わっていた。最初に砦へ来た時のような“王都の厄介者が来た”という緊張は薄れ、今は“忙しい時にちゃんと手が動く人間”として扱われ始めている。


 それがどれほどありがたいことなのか、リシェル自身が一番よく知っていた。


「令嬢」


 その時、医務棟の外から兵士が顔を出した。


 若い兵で、北門側の見張りに立っている者だ。普段は軽口の一つも叩きそうな顔立ちをしているのに、今は妙に真面目な表情をしていた。


「何かしら」


「副官が、お前を探してる」


 リシェルは手を止める。


「今?」


「すぐ来いって」


 兵の口ぶりに、ただ事ではない気配があった。


 ベルンも帳面から顔を上げる。


「何だ」


「分かんねえ。ただ……」


 若い兵は一度、戸口の向こうを振り返った。


「砦の正門前に、王都の紋章馬車がいる」


 室内の空気がぴたりと止まった。


 王都の紋章馬車。


 その一言だけで、リシェルの胸の奥が一瞬冷たくなる。


 王都から、何かが来たのだ。


 誰が、何のために、こんな辺境の砦へ。


「行ってくるわ」


 立ち上がると、ベルンが低く言う。


「一人で行くな」


「え?」


「何が来たか分からん。トーマス、付いていけ」


「はい!」


 トーマスがすぐに返事をする。


 王都から来たものに対して、老人は明らかに警戒していた。それはきっと、辺境の人間にとって王都が“遠く華やかな中心”である以上に、“面倒なものを持ち込む場所”だからなのだろう。


 リシェルは外套を羽織り、トーマスとともに医務棟を出た。


 中庭へ出た瞬間、空気の違いが分かった。


 兵士たちは普段通り働いているようでいて、どこか視線が正門側へ引っ張られている。荷運びの足は止まっていない。だが声量が少し落ち、槍を持つ手つきがわずかに固い。


 正門の向こうに、たしかに馬車が見えた。


 白銀の縁取りが入った深紺の車体。雪を被ってなお輝きを失わない金具。そして扉に刻まれた紋は、王都の上位貴族――いや、もっと直接的に王家に近い使者のものだ。


 リシェルは思わず足を止めた。


 フォルディア侯爵家でも、レヴェント公爵家でもない。


 あの紋は、王家筋へ遣わされる公式の使者が用いるものだ。


「何で、あんなのがここに……」


 トーマスの呟きがかすかに震える。


 その答えは、まだ誰にも分からない。


 中庭の中央では、ガレスが数人の兵へ短く指示を出していた。副官の顔はいつも以上に険しく、正門へ向ける目に明確な警戒がある。


「来たか」


 リシェルに気づくと、彼は歩み寄ってきた。


「何があったのですか」


「王都からの使者だ」


 簡潔な返答。


「内容は?」


「まだ正式には聞いていない。だが、到着してすぐに“団長へ極秘の面会を求める”と言ってきた」


 その言葉に、リシェルは息を呑む。


 団長へ。


 副官や砦主へではない。


 最初からアルヴェインへ、極秘の面会を。


「団長は?」


「すでに出ている」


 ガレスが顎で正門側を示す。


 視線を向けると、アルヴェインがそこに立っていた。


 黒い外套を羽織り、いつものように大きく、静かで、隙がない。正門の手前、ちょうど雪の積もった石段の下に立ち、馬車から降りた二人の使者と向き合っている。


 一人は年配の男で、灰色の外套を几帳面に整え、もう一人は若い従者らしい。どちらも王都の空気をそのまま運んできたような、磨き込まれた装いだった。


 辺境の粗い石と雪の中で、その整いすぎた姿はかえって異質に見える。


 ガレスが低く言った。


「下がって見ていろ。近づくな」


「はい」


 答えたものの、自然と視線は離せない。


 正門前の空気は、雪の冷たさとは別の張りつめ方をしていた。


 年配の使者が一歩前へ出る。


 遠くて言葉までははっきり聞こえない。だがその口調がひどく丁重であることは、身ぶりや頭の下げ方で分かる。


 アルヴェインは動かない。


 風が黒い外套の裾を揺らしても、石像のように立っている。


 何かを告げられたのだろう。使者が両手で書状らしきものを差し出した。


 アルヴェインがそれを受け取る。


 だがその瞬間だった。


 年配の使者が、雪の上へ片膝をついた。


 リシェルの呼吸が止まる。


 片膝ではない。


 次の瞬間には、もう片方の膝も折っていた。


 完全な臣下の礼。


 しかも、辺境の一騎士団長へ向けるには、あまりにも重すぎる礼だった。


 若い従者も、慌てたようにそれに続く。


 正門周辺の空気が一瞬で凍りつく。


 兵士たちの手が止まる。


 トーマスが横で「え」と小さく声を漏らした。


 ガレスの顔は険しいままだが、驚きはないようにも見えた。少なくとも、全く予想外という顔ではない。


 アルヴェインだけが、まるで当然のようにその礼を受けていた。


 いや、“受けてしまっている”というほうが近いかもしれない。


 それがつまり、どういうことなのか。


 胸の奥で、これまで点のまま散っていた違和感が一気に線を結び始める。


 洗練された所作。


 命令に従う周囲の空気。


 古傷に隠された紋。


 王都の使者が“団長”ではなく、彼自身を名指しで呼んだこと。


 そして今、辺境の雪の上で、王都の使者が膝を折っていること。


 まさか。


 けれど、まさかと否定するには、材料が揃いすぎていた。


「……ガレス副官」


 声が少し掠れた。


「何です」


「団長は……いったい、何者なんですか」


 副官はすぐには答えなかった。


 リシェルの横顔をちらりと見てから、再び正門前へ目を戻す。


「俺の口から言えることではない」


 低く、そして珍しく慎重な声だった。


「だが、お前が見たものは見たままだ」


 否定しない。


 それだけで十分だった。


 リシェルはもう一度、正門前を見る。


 アルヴェインは使者へ何か短く言い返しているらしい。声は届かない。だが、その立ち姿には怒りも焦りもない。ただ、ずっと前からこういう場に立つことを知っている人間の静けさがあった。


 彼はただの騎士団長ではない。


 王都から使者が膝を折る相手。


 つまり――


「王位、継承……」


 無意識に漏れた言葉は、雪へ吸い込まれるように小さかった。


 トーマスがぎょっとしてこちらを見る。ガレスは何も言わない。


 だがその沈黙そのものが、答えに近かった。


 リシェルの胸が強く鳴る。


 鼓動がうるさいほど耳の奥で響く。


 最強騎士団長。


 正体を隠す男。


 古傷の奥に隠された紋。


 その全部が、一つの輪郭へ集まり始めていた。


 しばらくして、使者たちはそのまま砦の応接棟へ通された。


 兵士たちは何事もなかったように仕事へ戻るよう命じられたが、完全に平静というわけにはいかなかった。正門前を見ていた者たちは皆、言葉少なに動きながらも、明らかに意識の一部をそちらへ向けている。


 当然だ。


 辺境の砦に王都の使者が来るだけでも珍しい。それが団長へ膝を折るなど、噂にならないはずがない。


 けれど誰もあからさまに口には出さない。


 この砦では、余計な詮索は自分の首を絞めることがあると皆知っているのだろう。


 リシェルは医務棟へ戻ったものの、しばらくは手元の帳面へ集中できなかった。


 ベルンは彼女の様子を見て、珍しく何も言わなかった。


 トーマスも落ち着かないらしく、湯桶を持ったまま何度も戸口のほうを見ている。


「……本当なんでしょうか」


 ついに彼が小声で漏らした。


 誰に向けた言葉でもない。


 だがリシェルは答えられなかった。


 本当かどうか。


 たぶん、もうそこは問題ではないのだろう。あの礼を見た時点で、真実が何であれ“ただの騎士団長ではない”ことは明らかだ。


「手を動かせ」


 ベルンが低く言った。


「こういう時ほど、熱は待ってくれん」


 そのひと言で、リシェルはようやく我に返る。


 そうだ。


 王都からの密使が何を告げに来たとしても、寝台の上の兵の熱はそれを待たずに上がるし、湯は放っておけば冷める。


 だから彼女は再び手を動かし始めた。


 薬棚の確認。煮沸水の入れ替え。軽い咳をする兵への指示。村から戻った班の追加確認。


 目の前の仕事へ集中するたび、胸のざわめきは少しだけ静まる。


 けれど完全には消えない。


 あの人は、何者なのか。


 そして、自分はいつから、その答えがこれほど気になるようになってしまったのか。


 日が傾き始めた頃、応接棟の方角から靴音が近づいてきた。


 複数だ。


 ガレスがすぐに医務棟の入口へ目を向け、トーマスが息を止める。


 やがて姿を現したのは、年配の使者と若い従者、そしてアルヴェインだった。


 彼の表情はいつもと変わらない。だが、その変わらなさが逆に不自然に思えるほど、空気は重い。


 使者は医務棟の前で立ち止まり、アルヴェインへ深く頭を下げた。


 今度は膝こそ折らなかったが、それでも明らかに対等ではない礼だった。


「ご決断を、お待ちしております」


 今度は距離が近く、声が聞こえた。


 王都訛りの磨かれた口調。その中に緊張がある。


 アルヴェインは短く答える。


「返答は急がせるな」


「しかし、王都ではすでに――」


「急がせるなと言った」


 たった一言で、空気が切れるように冷えた。


 使者はすぐに口を閉ざし、再び頭を下げた。


「失礼いたしました」


 そのまま二人は通されていた客間へ戻っていく。


 残されたのは、冬の空気と、重い静けさ。


 医務棟の前で立ち尽くしたリシェルは、気づけばアルヴェインを見ていた。


 彼もまた、こちらへ視線を向ける。


 一瞬だけ。


 けれどその一瞬に、普段よりずっと多くのものがあった。


 疲れ。


 苛立ち。


 そして、隠していたものを見られたと知っている男の静かな覚悟。


「……団長」


 呼びかけるか迷い、結局その名だけが零れた。


 アルヴェインはゆっくりと近づいてくる。


 外套の裾が雪を払う。


 青い瞳が、逃げずにまっすぐこちらを見る。


「見たか」


 問いは短かった。


 だが、何を見たのかは互いに分かっている。


「はい」


 リシェルも誤魔化さなかった。


 ここで取り繕っても意味がないと分かったからだ。


 少しの沈黙。


 それからアルヴェインは低く言った。


「今ここで話すことではない」


「……そうでしょうね」


「だが、いずれ話さねばならん」


 その言葉に、胸が少しだけ強く鳴る。


 いずれ話す。


 つまり、彼は隠し通すつもりではなく、少なくとも自分に対しては、いつか明かすつもりでいるということだ。


 なぜ。


 その問いが喉元まで上がったが、リシェルは飲み込んだ。


 今はまだ、確かに話す時ではない。


 医務棟には熱のある兵がいて、外には見張りの兵がいて、応接棟には王都の使者がいる。そんな中で王位継承だの王家だのと口にできるはずがない。


 アルヴェインはさらに一歩近づき、誰にも聞こえぬよう低く言った。


「お前は、もう王都に戻るつもりはあるか」


 その問いに、リシェルは息を呑んだ。


 それはただの確認ではない。


 王都へ未練があるか。戻れるなら戻りたいと思っているか。誰かの名誉の回復を待っているか。


 そういう意味が幾重にも含まれている問いだと分かる。


 けれど答えは、思ったより早く胸の中にあった。


「……今の王都には、ありません」


 声は静かだった。


「少なくとも、あの夜のままの王都には」


 アルヴェインの目が、ほんのわずかに和らぐ。


 それは安堵か、それとも別の何かか。


「そうか」


 短い返答。


 けれど、その一言の重みはこれまでとは違っていた。


 もはやこれは、砦の団長と新任薬師の会話ではない。


 正体を隠した男と、偶然その一端を見てしまった女の会話だ。


 その変化を、リシェル自身も感じていた。


「団長は」


 気づけば、自分も問い返していた。


「戻るつもりがあるのですか。王都へ」


 真正面からの問い。


 ガレスが少し離れたところで息を止めた気配がした。トーマスなどは固まっているだろう。


 けれどアルヴェインは、怒りもしなければ咎めもしなかった。


 ただ静かに、少しだけ遠くを見るような目をした。


「必要になれば、戻る」


「必要、とは」


「この国が、俺を必要とした時だ」


 その言葉には、妙な寂しさがあった。


 王位を望む者の野心ではない。


 逃げたいわけでも、喜んで飛び込むわけでもない。ただ、必要なら立つのだと、それだけを決めているような響き。


 リシェルはその横顔を見て、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。


 この人はきっと、ずっとそうやって生きてきたのだ。


 自分が何を望むかより先に、何が必要かで立つ場所を決めてきた。


 辺境で兵を守るのも、王都へ戻るかどうかを決めるのも、同じ延長線上にあるのだろう。


 だからこそ、彼の周囲にはあの静かな強さがある。


「……では」


 リシェルは小さく言った。


「その時が来るまでは、ここにいるのですね」


「ああ」


 迷いのない返答。


 その一言に、なぜか少しだけ安心してしまう自分がいた。


 この砦にいる。


 今はまだ、ここに。


 アルヴェインは最後にもう一度、彼女を見た。


「この話は、まだ誰にもするな」


「分かっています」


「ガレスにも、ベルンにもだ」


「はい」


 副官がすぐ近くにいる状況でその名を出すあたり、この男なりの信頼の置き方が見える気がした。


 完全には誰にも預けない。


 だが、自分には伝える。


 その意味の重さを、リシェルはちゃんと感じていた。


「……ありがとうございます」


 ぽつりと漏れた言葉に、アルヴェインが眉を寄せる。


「何に対してだ」


「まだ分かりません」


 正直に言う。


「でも、話すつもりだと言ってくださったことに」


 アルヴェインはしばし黙っていた。


 それから、ごく小さく息を吐く。


「お前は本当に、妙なところで素直だな」


 その言い方は、呆れというより、半分諦めたような柔らかさを含んでいた。


 リシェルは少しだけ微笑む。


「よく言われます」


「だろうな」


 また同じやり取り。


 なのに今は、その繰り返しが不思議と愛おしく感じられる。


 外では雪が静かに降っている。


 王都から来た密使は、まだ応接棟にいる。


 砦の兵たちは、きっと今夜も陰でざわめくだろう。


 けれど、それでも。


 この瞬間、リシェルははっきりと知っていた。


 自分はもう、ただ婚約破棄されて追放された令嬢ではない。


 辺境で薬師として立ち、熱を見て、水を嗅ぎ分け、兵を助け、そして王位継承の秘密を知る男と向き合っている。


 運命はもう、王都の夜会で切られたところで止まってはいない。


 むしろ今、ここから本当に動き始めているのだ。


 その夜、部屋へ戻ったリシェルは、机の前でしばらく動けなかった。


 母の手記、薬草記録、村の熱病の経過、砦の在庫一覧。


 いつもなら書くべきことが山ほどある。


 だが今日は、それらのどれより先に、胸の中で渦を巻くものが大きすぎた。


 アルヴェインは王位継承に連なる男だ。


 王都の使者が膝を折るほどの相手だ。


 そしてその男は今、辺境の砦で騎士団長として生き、兵を守り、自分へ少しずつ正体の端を見せている。


 紙へ手を伸ばし、リシェルはそっと一行だけ書いた。


 「騎士団長アルヴェインは、やはりただの騎士ではない」


 そこまで書いて、筆を止める。


 その先を、今夜はまだ書けなかった。


 代わりに窓の外を見る。


 雪の向こう、見張り台の灯が小さく揺れている。


 たぶんこの砦のどこかで、アルヴェインもまた眠らぬ夜を過ごしているのだろう。王都から来た呼び声と、辺境に残る責務とのあいだで。


 そしてリシェルもまた、その渦の外側にいるだけではなくなってしまった。


 だが不思議と、怖さだけではなかった。


 自分が見たものは確かだ。自分が選んでここに立っていることも、もう確かだ。


 ならば、たとえ相手が王位継承者であっても、きっと向き合える。


 薬草と傷を見てきた目で、人の本質も見誤りたくはなかった。


 アルヴェインがどんな名を持つ男であろうと、まず知っているのは、あの人が辺境で兵を守る男だということだ。


 その事実が、今のリシェルにとっては何よりも強かった。

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