第13話 雪の砦に差す王都の影
翌朝、砦の空気はいつも以上に張りつめていた。
雪は夜のあいだにさらに積もり、見張り台の縁も、厩舎の屋根も、補給樽を積んだ荷台も、白く厚く覆われている。兵士たちは夜明け前から雪を払っていたが、それでも道筋は狭く、足音はいつもより重い。
王都からの使者は、まだ応接棟に滞在していた。
たったそれだけのことが、砦全体の呼吸を変えている。
誰も口にしない。だが、誰もが知っている。
団長に、何かが来たのだ。
しかもただの命令や報告ではない。膝を折るほどの何かが。
医務棟へ向かう途中、リシェルは自然と応接棟のほうを見た。石造りの低い建物の窓には分厚い布が垂らされ、外から中は見えない。出入り口には二人の兵が立っているが、その立ち姿がどこかよそよそしいのは、普段守るべき相手とは少し種類の違うものを守っているからだろう。
「見ても、中は透けませんよ」
横からトーマスが小声で言った。
「分かってるわ」
「でも、気になりますよね」
「ええ」
否定しないと、トーマスは少しだけ困った顔で笑った。
「俺も気になります。でも、聞いたらガレス副官に怒鳴られそうだから、誰も聞かないんですよ」
「賢明ね」
「ですよね」
そう言いながらも、若い兵の目は応接棟へ引かれている。
砦で生きる者たちは、余計な詮索が命取りになると知っている。けれど人である以上、気になるものは気になるのだ。
医務棟へ入ると、ベルンがすでに薬棚の前で腕を組んでいた。
「遅い」
「いつも通りの時間です」
「今日の“いつも通り”は半刻早い」
「急患ですか」
問うと、老人は鼻を鳴らした。
「急患ではない。王都の連中だ」
そのひと言で、リシェルは足を止めた。
「使者の?」
「連れてきた従者が一人、夜のうちに熱を出した。長旅と寒さだろうが、向こうは大げさに騒いでいる」
王都の空気だ、とリシェルは思った。
辺境では、熱が出てもまず自分で立とうとする者が多い。だが王都では、熱が出ればすぐに“このままでは大事になる”という騒ぎ方になる。良し悪しではなく、土地の空気の違いだ。
「診るのですか」
「団長から、最低限は見ろと指示があった」
やはり彼は、砦のことだけでなく、王都の使者がここで倒れた時の面倒さまで見越しているのだろう。
「私も行きます」
「当然だ。お前に見せたいものもある」
その言い方に、リシェルはわずかに眉を寄せた。
「見せたいもの?」
「行けば分かる」
応接棟の一室は、砦の中では珍しく“王都向け”に整えられていた。
床には毛足の短い敷物が敷かれ、暖炉の火も医務棟より強い。客用の長椅子、湯気の立つ茶器、窓辺に置かれた香炉――どれも砦の実用品とは違う、見せるための整え方だった。
だが、その整えられた部屋の空気には、むしろ医務棟よりも緊張が濃く満ちている。
寝台に横たわっている若い従者は額に汗を浮かべ、顔色こそ悪いが、命に関わるほどではなさそうだった。単純な疲労熱と軽い寒気。水分と休息で持ち直す範囲だろう。
問題はその傍らに立つ年配の使者のほうだった。
彼は昨夜、雪の上でアルヴェインへ膝を折った男である。整えられた灰色の外套、寸分の乱れもない礼装、だがその目の奥にはほとんど眠っていない人間特有の緊張がある。
リシェルが入った瞬間、その男は露骨に眉を寄せた。
「……なぜ、この方が」
視線の先にはリシェル。
王都の流儀で言えば当然の反応なのだろう。侯爵家から追放された“悪役令嬢”が、なぜ王家筋の使者の前へ平然と現れるのか。
ベルンが低く言い捨てる。
「医務棟で今いちばん手の空いてない薬師だ。文句があるなら熱を下げる草でも自分で探せ」
あまりにも辺境らしい返しに、使者の口元がぴくりと引きつる。
リシェルは礼だけは崩さず、寝台の従者へ歩み寄った。
「失礼します」
脈を取る。早いが浅くはない。喉の腫れも軽い。胸の音も悪くない。
運ばれた道中、かなり無理をしたのだろう。王都の人間は辺境の冷えに慣れていない。しかも昨夜の緊張状態が続いたなら、熱も出る。
「大丈夫です。今は休息と温かい飲み物を。強い薬は要りません」
そう告げると、使者は露骨に怪訝そうな顔をした。
「それだけ、ですか」
「それ以上をすれば、かえって体がもたれます」
「しかし」
「高熱ではありません。怖がらせるほうが悪化します」
きっぱりと言い切ると、男は一瞬だけ言葉を失った。
リシェルはその表情を見て、少しだけ胸の奥が冷えるのを感じた。
この目だ。
王都の目。
相手を見る前に、立場で値踏みする目。
砦では少しずつ忘れかけていた感覚が、急に戻ってくる。
だが、もう以前のように呑まれはしなかった。
「煮た湯へ乾燥葉を少し混ぜます。喉を潤して、汗を拭いて、眠らせてください。それで下がります」
ベルンが横から補足する。
「令嬢の言う通りだ。心配なら俺が同じことを言ってやるが、処置は変わらん」
それでようやく使者は沈黙した。
だが納得したわけではない。
その顔がそう言っていた。
医務棟へ戻る途中、リシェルは雪の回廊を歩きながら小さく息を吐く。
「久しぶりに、嫌な感じがしました」
隣を歩くベルンが横目で見る。
「王都の匂いがしたか」
「ええ」
「だろうな。ああいう連中は、口より先に値踏みが来る」
老人の言葉は辛辣だが、的確だった。
「でも」
リシェルは少しだけ視線を上げる。
「前ほどは苦しくありませんでした」
「ほう」
「ここで少し慣れたのかもしれません。見られる前に、手を動かすことに」
ベルンはしばらく黙り、やがて鼻を鳴らした。
「なら上出来だ」
その一言が、やけに温かく感じられた。
昼を回った頃、砦の中庭には小さなざわめきが広がっていた。
使者たちが今日にも発つらしい、という噂が兵たちの間を走っているのだ。誰が聞いたのか分からない。だがこういう話は、王都の密談より、砦の荷運びのほうが早く広まる。
「戻るのかな、王都に」
「いや、団長の返事待ちじゃないか」
「返事って何の?」
「知るか。でも昨日の礼は見たぞ」
「見た見た。あんなの、うちの団長にする礼じゃない」
「だから“うちの団長”じゃないんじゃないかって話だろ」
そんな囁きが、樽の陰や厩舎の横で交わされている。
だが、囁きは囁きでしかない。
誰も決定的なところまでは言わない。
そこへ、突然鋭い声が落ちた。
「手を止めるな!」
ガレスだった。
兵たちは慌てて動きを再開する。副官の一喝で中庭のざわめきは散ったが、完全には消えない。
リシェルは医務棟の戸口からその様子を見ていた。
ガレスの顔には苛立ちがある。だがそれは、兵たちが怠けたからというより、空気そのものが浮ついていることへの苛立ちだろう。
そこへ、アルヴェインが現れた。
黒い外套。白い息。雪の中でも変わらぬ静かな威圧感。
彼が中庭へ出ただけで、兵たちの背が自然と伸びる。
だが今日は、いつもの“団長が来た”だけではない別のものが空気に混じっていた。
皆、見てしまったのだ。
王都の使者が膝を折るところを。
アルヴェインはそれを知っているはずなのに、態度を変えなかった。
それがかえって、彼の輪郭を際立たせる。
彼はガレスへ短く何かを告げ、荷車の手配を確認し、そのまま中庭を横切ろうとした。
その時、若い兵士の一人が荷箱を持ち損ね、木箱が傾いた。
中から乾燥肉の束が雪の上へ落ちる。
「す、すみません!」
兵士が青ざめる。
ガレスが怒鳴る前に、アルヴェインが立ち止まった。
「拾え」
「は、はい!」
「手が震えている」
静かな指摘だった。
若い兵はびくりと体を強張らせる。
アルヴェインは数歩だけ近づき、低く言った。
「王都の馬車を見た程度で足元が狂うなら、前線では死ぬぞ」
その声は冷たい。
だが、ただ切り捨てる冷たさではない。
「お前が見るべきは雪の上だ。上にいる人間の都合じゃない」
兵士が息を呑む。
「……はい!」
「なら、次は落とすな」
それだけで終わった。
怒鳴り散らすことも、見せしめのように辱めることもない。必要な分だけ言って、前を向かせる。
そのやり方を見て、リシェルはなぜだか胸の奥が熱くなるのを感じた。
この人は、本当に立たせる人なのだ。
ただ命令するのではなく、前を見ろと言う。
だから兵たちは、この人の背中を追うのだろう。
アルヴェインがこちらに気づいた。
一瞬だけ目が合う。
ほんの短い時間だったのに、その視線に昨夜とは少し違うものが混じっていた。隠し事を共有した相手を見る目。警戒だけではない、しかし完全な安堵でもない、微妙な距離。
リシェルは自然と頭を下げた。
アルヴェインはわずかに顎を引き、そのまま応接棟へ向かっていった。
まだ王都の使者と話すのだろう。
その背を見送るうち、胸の奥で小さな焦りが生まれる。
もし、この使者が彼を王都へ連れ戻すために来たのだとしたら。
その時、自分はどう思うのだろう。
いや、もう答えは半分出ている。
寂しいのだ。
そう思う自分に、リシェルは少しだけ戸惑った。
夕方、使者たちはついに発った。
大仰な見送りはない。雪の砦にそんな余裕はないのだろう。だが正門前では最低限の礼が交わされ、副官ガレスが護衛兵数名を付け、王都の紋章馬車は静かに向きを変えた。
リシェルは医務棟の二階廊下から、その様子を見ていた。
年配の使者は馬車へ乗り込む前に、もう一度だけアルヴェインへ深く頭を下げた。今度は膝を折らない。けれど、その礼の重さは隠しようがない。
やがて馬車は雪道を進み、砦から離れていく。
その車輪の跡が見えなくなるまで、アルヴェインは正門前に立ったままだった。
風が黒い外套を揺らす。
その姿は、辺境の団長であると同時に、王都の誰かが迎えに来るべき男にも見えた。
そしてその二つの顔が、どちらも本当なのだと今のリシェルは知っている。
知らなければ、こんなふうに胸が痛むこともなかったのだろうか。
だが知ってしまった以上、もう以前のようには戻れない。
ただの頼れる騎士団長として、ただ憧れるだけでは済まない場所へ来てしまった。
彼が去るかもしれない。
その可能性が、胸の奥へ冷たい刃のように触れる。
その夜、医務棟の仕事が終わる頃には、空は深い紺に沈んでいた。
リシェルは帳面を閉じ、ようやく小さな部屋へ戻ろうとしたが、途中で足が自然に中庭の回廊へ向いていた。
自分でも理由は分かっている。
探しているのだ。
アルヴェインを。
ガレスの言葉通り、やはり用があるなら明日にすべきなのかもしれない。だが、今日のうちに一度だけ顔を見たいと思ってしまう。
応接棟の灯は消えている。
厩舎の向こう、見張り台の下、補給樽の並ぶ影――どこにもいないかと思った時、鍛錬場のほうから微かな金属音がした。
雪を踏んでそちらへ向かう。
鍛錬場は夜になるとほとんど無人だ。だが今夜は、一人だけいた。
アルヴェインだった。
薄い上着のまま、外套も羽織らず、一本の剣をゆっくり振っている。訓練というより、考え事を切るような静かな剣筋。だが脇腹の傷を庇っているせいか、動きは普段よりずっと抑えられていた。
「……何をしているんですか」
思わず言ってしまう。
アルヴェインは剣を止め、振り向いた。
少しだけ驚いたような目。
「お前こそ、何をしている」
「それは、こちらの台詞です」
リシェルは呆れ半分で鍛錬場へ足を踏み入れた。
「傷が開きます」
「開いていない」
「それ、昨日も聞きました」
「なら答えも同じだ」
まったく懲りていない。
だが今夜は、いつもの押し問答だけでは終わらない気がした。
アルヴェインは剣を下ろし、しばらく黙ってから言った。
「使者は帰した」
「見ていました」
「そうか」
短い返答。
雪が静かに降る。
鍛錬場の砂は白く薄く覆われ、二人の足跡だけがそこへ刻まれている。
「……戻るのですか」
問いは、思ったより静かに出た。
アルヴェインはすぐには答えなかった。
やがて、遠くを見るような目で言う。
「今は戻らない」
その一言だけで、胸がほどけるような感覚があった。
情けないほど素直に、安心してしまう。
そんな自分を悟られたくなくて、リシェルは少しだけ視線を逸らした。
「よかった」
ぽつりと漏れた本音に、アルヴェインの目がこちらへ戻る。
「なぜ」
真正面から問われ、言葉に詰まる。
なぜ。
それは、自分があなたにここにいてほしいと思っているからだ。
だがそんなことを、まだ言えるはずもない。
「……砦が困るでしょう」
結局、そう答えるしかなかった。
アルヴェインは数秒黙り、それからごく小さく口元を動かした。
「半分は本当だな」
見抜かれている。
その事実に、頬が少しだけ熱くなる。
リシェルは誤魔化すように言った。
「団長こそ、なぜこんな時間に剣を」
「考えを止めるためだ」
意外な答えだった。
アルヴェインは鍛錬場の端へ視線を向ける。
「王都は、人に考えたくないことばかり思い出させる」
その響きには、疲れと、ほんのわずかな苦みがあった。
王位継承者。
その立場が彼に何を背負わせてきたのか、リシェルにはまだ全部は分からない。
けれど少なくとも、彼が喜んでその名へ戻ろうとしていないことだけは分かる。
「なら」
リシェルは少し考え、懐から小さな布包みを取り出した。
「これ、村の方からいただいた干し林檎です。考えを止めるのに役立つかは分かりませんけど」
差し出すと、アルヴェインは珍しく本気で戸惑った顔をした。
「……何だ、急に」
「お礼です」
「礼を言うなと言った」
「だから、言葉じゃなくて物にしました」
そう返すと、彼はしばらく黙り、やがて布包みを受け取った。
大きな手の中で、村の小さな包みは妙に頼りなく見える。
「辺境の礼は、こうやって返ってくるんです」
リシェルは静かに言った。
「王都みたいに大げさじゃないけれど、ちゃんと温かいでしょう」
アルヴェインは包みを見下ろしたまま、低く息を吐く。
「……ああ」
その短い返答に、いつもの鋼のような硬さはなかった。
雪が降る。
鍛錬場の白い静けさの中で、二人だけが立っている。
王位継承者と、婚約破棄された元悪役令嬢。
そんな肩書きを並べれば、ひどく遠いはずなのに、今この瞬間は不思議なほど近く感じられた。
アルヴェインが小さく言う。
「リシェル」
また、名前で呼ばれる。
それだけで心臓が少し跳ねる。
「はい」
「……ここにいろ」
何気ないようで、そうではないひと言だった。
命令なのか、願いなのか、その中間のような声音。
リシェルは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「そのつもりです」
答えると、アルヴェインもごくわずかに目を細めた。
それははっきり笑ったわけではない。
けれど、冷たい砦の夜の中で、確かに少しだけ温度を持った表情だった。




