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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第14話 薬棚の再編、砦の再編

 雪の砦では、物が尽きる気配は、音より先に匂いで分かることがある。


 煎じ薬の葉が減れば、医務棟の空気から青い渋みが薄れる。樹脂系の傷薬が少なくなれば、火にかけた鍋から立つ重い甘さが弱くなる。熱冷ましの乾燥葉が底をつけば、湯気に混じる清涼な香りが消える。


 リシェルは、辺境へ来てからそういう変化に敏感になっていた。


 朝、医務棟へ入った瞬間にも分かった。


 足りていない。


 ただ何となく減っているのではない。必要なものほど先に消えていく、不穏な減り方だ。


 棚の前へ立ち、木箱を一つずつ引き出していく。乾燥葉。樹脂。煎じ用の樹皮。胃を守る草。熱を抑える葉。傷口を洗うための粉末。どれも残ってはいる。だが、残り方に偏りがあった。


「やっぱり……」


 思わず呟くと、すぐ近くで帳面を広げていたベルンが片眉を上げた。


「何だ」


「熱病対応の余波だけではありません」


 リシェルは次の引き出しを開けた。


「減っているものが、はっきり偏っています。傷薬と熱冷まし、あと胃を守る系統。使う頻度が高いから減るのは当然ですけど、補充の入り方が噛み合っていません」


 ベルンがのそりと立ち上がり、棚へ寄る。


 老人の荒れた指先が、木箱の底をなぞった。


「……たしかに」


「この三つは減りが早いのに、補充の印が少ない。逆に、凍傷用の塗布薬と咳止め用の乾燥花は、必要量に対してまだ余裕がある」


「辺境の薬棚なんて、そんなものだろう」


「いいえ」


 リシェルは首を振った。


「足りないなら足りないなりの減り方になるはずです。でもこれは、使われた量と帳面の動きが揃っていない」


 言いながら帳面へ手を伸ばす。


 ここ数日の消費量を書き込んだ仮記録。それと、砦に元々あった在庫帳。二つを並べて見比べると、さらに違和感が強くなる。


 誰かが使った量と、帳面の上で減った量が、微妙に違うのだ。


「……ベルン先生」


「何だ」


「これまで棚の管理、誰が」


「儂だ」


「全部を?」


「いや。実際の出し入れは若いのにもさせる。儂は使い方と最終確認だ」


「じゃあ、帳面の記入は」


「その時その時だな。忙しい時はまとめる」


 リシェルは静かに息を吐いた。


 辺境らしいやり方だ。間違ってはいない。だが、それでは今みたいな時にズレが見えにくい。


 王都なら、こういう帳面仕事は「理屈っぽい」と嫌われた。けれど今の彼女には、それがむしろ救いに思える。


 記録は、人の気分で変わらない。


 だからこそ、綻びが見つかる。


「並べ替えます」


 唐突に言うと、ベルンが露骨に嫌そうな顔をした。


「何をだ」


「薬棚です。置き方と帳面の切り方を全部見直します」


「全部?」


「はい」


 リシェルは一つずつ木箱を引き出しながら言った。


「今は“あるものを置く”順番になっています。でも必要なのは“最優先で使うものが、一目で分かる”並びです。それと、消費と補充を同じ帳面で追っているから、忙しい時にズレが埋もれる」


「理屈だな」


「現場のための理屈です」


 そう返すと、ベルンは腕を組んだまましばらく黙っていた。


 その時、奥からトーマスが湯桶を運んできて、棚の様子を見て目を丸くする。


「うわ、何これ」


「薬棚の再編成よ」


「さいへんせい?」


「並べ替えと記録の作り直し」


「大仕事じゃないですか」


「大仕事ね」


 リシェルは小さく笑った。


「だから手伝って」


「え、俺もですか」


「もちろん」


 トーマスは一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐに「やります」と言った。辺境の人間は、こういう時の返事が早い。王都ならまず「なぜ私が」が先に立つ者も多かっただろう。


 その頃には、ガレスも医務棟へ顔を出していた。


「何の騒ぎだ」


 副官の視線が、次々と棚から外へ出される木箱に止まる。


「騒ぎではありません」


 リシェルは帳面を持ち上げた。


「再編です」


「再編?」


「薬棚と補給帳の切り直しをします。今のままだと、必要なものがどこまで減っているか見えにくいので」


 ガレスは露骨に面倒そうな顔をした。


「今やる必要があるのか」


「今だからです」


「理由は」


「熱病の余波がまだ終わっていない。補給路の不安もある。ここで必要物資のズレを見逃すと、次に足りなくなった時に遅れる」


 言いながら、帳面の一ページを開いて見せる。


「ここです。樹脂系は実際の使用量に対して、補充が半日ずれて記録されてる。胃薬用の乾燥葉はもっとひどい。出した人と記録した人が別になっていて、昨日の分が今日の消費みたいに見えてます」


 ガレスは帳面を覗き込み、顔をしかめた。


「……よく見つけるな」


「見ようとしたからです」


「嫌味か」


「事実です」


 副官は一瞬だけ目を細めたが、怒りはしなかった。


 むしろ次の瞬間には、ちらりとベルンを見る。


「先生」


「儂を見るな。言ってることは合ってる」


「なら?」


 ベルンは大きく息を吐いた。


「好きにやらせるしかないだろうな。今さら半端に触るほうが面倒だ」


 それは許可だった。


 リシェルは小さく頭を下げる。


「ありがとうございます」


「礼を言うな。うまくいったら初めて聞く」


 相変わらずだ。


 だがもう、そのぶっきらぼうさの奥にあるものが少し分かる。


 この人は、軽々しく褒めない代わりに、本当に駄目なら最初から止める。止めないということは、少なくとも“やる価値はある”と見ているのだ。


 薬棚の再編は、想像していた以上に大掛かりになった。


 まず、棚を用途ごとに分ける。


 熱病・発熱系。

 傷・洗浄・止血系。

 胃腸・煮沸補助・水対策系。

 凍傷・寒冷障害系。

 予備・希少薬材。


 それまでの棚は、届いた順や昔からの慣習で置かれていたらしい。だから必要な時に取り出せる者は、長年の勘で場所を覚えた者だけだった。


 リシェルは木箱の表へ札を付け、引き出しごとに墨で記号を書き、誰が見ても分かる順へ並べていく。さらに、それぞれの木箱の中へ最低必要量の線を引いた。


「ここより下がったら、補給の優先度を一段上げる」


 そう説明すると、トーマスが感心したように声を上げる。


「見ただけで分かる」


「忙しい時は、書かれた文より見た印のほうが早いから」


 ガレスも腕を組んだまま棚を見回していた。


「つまり、誰が見ても危ない減り方が見えるようにするわけか」


「はい。勘に頼るのを減らします」


「勘を捨てるのか」


 今度はベルンが言った。


 リシェルは首を振る。


「捨てません。勘の早さは必要です。でも、勘しか残らない状態だと、人が倒れた時に一気に崩れます」


 老人は少しだけ目を細めた。


 その表情は、反論を探しているというより、言葉の重さを測っているように見えた。


「……人が倒れた時、か」


「はい」


 リシェルは静かに答える。


「例えば、ベルン先生が高熱で倒れたらどうしますか」


「倒れん」


「例えばです」


「仮に倒れても、若いのが」


「今の棚だと若い方は困ります」


 きっぱり言うと、トーマスが「はい、困ります」と即答した。


 ガレスが吹き出しかけ、ベルンは露骨に苦い顔をした。


「お前は少し黙れ」


「でも本当です」


「本当なのが腹立つ」


 そのやり取りに、医務棟の空気が少しだけ和らぐ。


 王都の屋敷でこんなふうに、実務のために誰かの倒れる可能性を平然と口にすることはなかっただろう。縁起が悪いと怒られ、失礼だと咎められたはずだ。


 けれど辺境では、倒れる可能性を最初から考えることが、生き残るための礼儀なのだ。


 その価値観が、今のリシェルにはしっくり来る。


 昼を回る頃には、棚の並びは半分ほど変わっていた。


 薬箱の札が揃い、最低ラインの印が引かれ、補給帳は新しい形式へ切り分けられる。


 出庫帳。

 使用帳。

 補充予定帳。


 今までは全部が一冊へ押し込まれていた。それでは忙しい時にズレる。だから役割ごとに分けるのだ。


「三冊にする必要があるのか」


 ガレスが問う。


「一冊だと、書く人が変わった時に“どこまで何を書いたか”が埋もれます」


 リシェルは筆を走らせながら説明する。


「出した記録、使った記録、補充を頼んだ記録。それぞれ別なら、どこで止まったかが分かる」


「なるほどな」


 副官は素直にうなずいた。


 その反応に、リシェルは少しだけ意外な気持ちになる。王都の男たちなら、まず「女が口を出す帳面仕事」に興味など示さなかった。だがガレスは、必要と分かればすぐ飲み込む。


 それはたぶん、辺境で生きる人間が“役に立つかどうか”を最優先しているからだ。


 言ったのが誰かは二の次になる。


 医務棟の戸口が開いたのは、そんな時だった。


 空気が少し変わる。


 振り向かなくても分かった。


 アルヴェインだ。


 黒い外套を半ば脱いだ姿で入ってきた彼は、まず棚の前に並ぶ木箱の列を見て、次に札の付いた引き出し、最後に帳面へ目を落とした。


「……何をしている」


 問いは短い。


 だが責める色はない。純粋な確認だ。


「薬棚と補給帳の再編です」


 リシェルは立ち上がらずに答えた。


「必要物資の減り方に偏りがあって、現状だと分かりにくかったので」


 アルヴェインは一歩近づき、札の並んだ棚を見た。


 青い瞳が、ひとつひとつの記号と線を確かめていく。


「最低ラインか」


「はい」


「下回れば」


「補給の優先順位を上げます」


「誰でも分かるようにか」


「忙しい時ほど必要です」


 アルヴェインは棚からリシェルへ視線を戻した。


「王都の連中は、本当にこれを捨てたのか」


 ぽつりと落ちたその言葉に、医務棟が一瞬静まる。


 ベルンもトーマスも、ガレスまで反応を止めた。


 それは皮肉だった。


 だが、ひどくまっすぐな皮肉だった。


 リシェルは一瞬だけ言葉に詰まった。


「……たぶん、見ていなかったんだと思います」


 ようやくそう答える。


「見えなかった、のほうが近いでしょうか」


 アルヴェインの目が、わずかに細くなる。


 何かを言いかけたようにも見えたが、結局それは口にしなかった。


 代わりに、棚の一番上へ置かれた“補充優先”の木札を指で軽く叩く。


「これなら前線へ送る物資の判断も早い」


 今度はガレスが即座に反応した。


「たしかに。補給庫側にも同じ切り方を持ち込めば、医務棟だけ先に逼迫するのを防げるかもしれん」


「できますか」


 リシェルが問うと、副官はうなずいた。


「まずは砦内だけだがな。うまく回れば、補給路の荷積み順まで変えられる」


 その言葉に、胸が少し高鳴る。


 棚を整えるだけの話ではない。


 砦全体の流れが、変わるかもしれないのだ。


 王都では“細かすぎる雑務”としか見られなかったことが、ここでは兵の生死に関わる仕組みへ繋がっていく。


 その感覚は、ひどく鮮烈だった。


「やってみましょう」


 リシェルが言うと、ガレスは「やるのはお前だけじゃない」と返し、トーマスは「でも面白そうです」と目を輝かせ、ベルンは「仕事は増えるがな」とぶつぶつ言いながらも反対しなかった。


 アルヴェインはそのやり取りを見ていた。


 いつものように口数は少ない。だが、その視線の奥にあるものは、以前より少しだけ読みやすくなってきた気がする。


 評価だ。


 そして、たぶん誇らしさに近い何か。


「必要な札と帳面を増やせ」


 彼は短く命じた。


 それは誰に向けてともなく言ったようでいて、実際にはガレスにも、ベルンにも、そしてリシェルにも向けられている。


「不足分は補給庫から回す」


「了解」


 ガレスが即座に答える。


 アルヴェインはそれだけ言うと踵を返しかけたが、戸口のところで一度だけ止まった。


「リシェル」


 名を呼ばれ、胸が小さく跳ねる。


「はい」


「無理をするな」


 何気ないようでいて、そうではないひと言。


 医務棟の誰もが聞いている前で、それを自分にだけ向けて言うのだ。


 トーマスが露骨に目を丸くし、ベルンが鼻を鳴らし、ガレスは何とも言えない顔になった。


 リシェルは一瞬だけ返答に迷い、それでも静かにうなずいた。


「団長も」


 つい言い返してしまう。


 アルヴェインはごくわずかに目を細め、それ以上は何も言わずに出ていった。


 戸が閉まる。


 数秒の静寂。


 そのあと、トーマスがぽつりと呟いた。


「……やっぱり、だいぶ違いますよね」


「何が」


 リシェルが聞き返すと、若い兵は慌てて首を振る。


「い、いえ、別に何でも」


 だが顔には“言いたいことが山ほどある”と書いてある。


 ベルンが面倒そうに言った。


「口を滑らせるなよ、若いの」


「はい……」


「でも、まあ」


 老人は帳面の束を持ち上げる。


「少なくとも、お前が来てから医務棟の回り方は変わった」


 そのひと言は、以前なら絶対に口にしなかった種類のものだろう。


 リシェルは思わず手を止めた。


「先生」


「礼を言うな。うるさい」


 言われる前に先回りされ、思わず笑ってしまう。


 ここへ来たばかりの頃には考えられなかった。


 ベルンにこういう形で認められる日が来るなんて。


 ガレスも腕を組んだまま言う。


「医務棟だけじゃない。補給庫まで噛めるなら、砦の回り方そのものが変わる」


 その言葉に、リシェルはふっと息を呑んだ。


 砦の回り方そのもの。


 自分が整えているのは、単なる薬棚ではない。人が倒れた時に崩れないための骨組みだ。


 王都では、それを誰も見なかった。


 けれどここでは違う。


 見てくれる人がいる。動かしてくれる人がいる。形にしてくれる場所がある。


 それだけで、胸の奥にじんわりと熱が広がる。


 夕刻、ようやく並べ替えがひと区切りついた頃には、医務棟の空気そのものが少し変わっていた。


 木札の位置は揃い、帳面の置き場も決まり、誰が見ても“今どこが危ないか”が一目で分かるようになった。トーマスでさえ、必要な薬箱を以前より迷わず取り出せている。


「これ、すごいですね」


 彼が感心したように言った。


「前はベルン先生がいないと、どこ見ればいいか分からなかったのに」


「先生が倒れた時に困らないように、だもの」


「倒れたら困りますけど」


「だから困らないようにしてるのよ」


 そう返すと、トーマスは「なるほど」と素直にうなずいた。


 その時、医務棟の外から荷車の音がした。補給庫から追加の木札と空帳面が届いたらしい。


 ガレスが本当に動かしてくれたのだ。


 その事実に、リシェルはまた少しだけ胸が熱くなる。


 誰かに“必要だ”と判断されて物が動く。


 それは王都では味わえなかった感覚だった。


 部屋へ戻る前、リシェルは薬棚の前に一人立った。


 整列した木箱。揃った札。最低ラインの印。新しい帳面。


 見た目には地味だ。


 夜会の華やかなドレスに比べれば、誰も褒めないような景色だろう。


 けれど彼女には分かる。


 これは命を守る形だ。


 そして、その形をここで作れたこと自体が、自分の価値の証明でもある。


「……役に立てている」


 小さく呟いた声は、薬草の匂いの中へ静かに溶けた。


 もう“役立たずの令嬢”ではない。


 誰かが貼った札ではなく、自分の手で回した棚と帳面が、そのことを証明している。


 雪の砦に来てから、少しずつ、少しずつ。


 失ったと思っていたものの代わりに、別の確かなものが積み上がり始めていた。

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