第60話 断罪の夜の手紙が、もう一度開かれる
王宮監察局が、婚約破棄の夜に使われた証拠文書の再調査を始めた。
その知らせは、リシェルにとって奇妙な響きを持っていた。
再調査。
たった三文字の言葉なのに、胸の奥に沈んでいた過去の箱へ、誰かがもう一度手をかけるような感覚があった。
あの夜、開かれたはずの箱。
だが、実際には開かれてなどいなかった。
リシェルの言葉は聞かれず、セシリアの涙が場を動かし、エドガーの怒りが結論を先に決めた。そこへ、手紙、侍女の証言、香油の疑惑、悪意ある噂がきれいに並べられた。
まるで、誰かがあらかじめ用意していた劇のように。
それが今、ようやく解体されようとしている。
控え館の朝は静かだった。
リシェルは机に向かい、王宮から返却された写しを見ていた。断罪の夜に使われた手紙の写し。紙質、筆跡、封蝋の跡、折り目、余白。
何度見ても、自分の字ではない。
似てはいる。
とてもよく似せてある。
けれど、違う。
字は、その人の考え方に似る。
リシェルはそう思っている。
慎重な人は、慎重な線を書く。急ぐ人は、文字の角に息切れが出る。人を傷つけるために書かれた文は、いくら形を整えても、どこかに刃の置き方が出る。
この手紙は、リシェルの字を真似ている。
だが、リシェルの呼吸では書かれていない。
「また見ているのか」
背後からアルヴェインの声がした。
振り向くと、彼は扉の近くに立っていた。今日は顔色がいい。ベルンからも、短時間なら歩いてよいと許可が出ている。
ただし、短時間である。
そこは重要だった。
「座ってください」
「まだ何も言っていない」
「言う前に座ってください」
「医務担当は先回りが早いな」
「患者が予想通りなので」
アルヴェインは少しだけ不服そうにしたが、素直に椅子へ腰を下ろした。
その素直さが、以前より増している。
本人に言うと嫌な顔をされそうなので、リシェルは黙っておいた。
「手紙か」
「はい」
「見るのがつらいなら、やめてもいい」
「つらいです」
リシェルは正直に答えた。
「でも、見ないほうがもっとつらいです」
アルヴェインは黙った。
その沈黙は、いつものように急かさない沈黙だった。
リシェルは手紙の写しへ視線を戻す。
「あの夜、この紙が出された時、私は一瞬だけ混乱しました。字が似ていたからです。自分が書いたはずがないのに、周りの人たちが“これはリシェルの字だ”という目で見ていた。そうすると、自分の記憶のほうがおかしいのではないかと思いそうになりました」
「お前は書いていない」
「はい」
「それは変わらない」
短い言葉だった。
けれど、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
「今日、筆跡鑑定官が来るそうです」
「ああ。ザイツから聞いた」
「正式な鑑定です。ようやく」
「遅すぎるな」
「はい」
リシェルは静かに頷いた。
「でも、遅くても、ないよりはいいです」
そう言えるようになった自分が、少し不思議だった。
以前なら、遅すぎることへの怒りだけで胸がいっぱいになっていたかもしれない。今も怒りはある。けれど、そこに別の感情も混じっている。
ここまで来た、という実感。
自分の言葉が、やっと紙の上で扱われるという安堵。
そして、もう二度と同じように黙らされないという決意。
「リシェル」
「はい」
「今日は、俺も同席する」
「分かっています」
「お前の後ろではなく、隣にいる」
リシェルは手紙から顔を上げた。
アルヴェインは、真っ直ぐこちらを見ていた。
王都へ来る前、彼は同じようなことを言ってくれた。
前へ出るなら、後ろに立つ。
王宮監察局では、隣に立つ。
それが、今も続いている。
「心強いです」
「ならいい」
「でも、長時間は駄目です」
「……今それを言うか」
「今だからです」
アルヴェインは少しだけ息を吐いた。
「分かった。無理はしない」
「本当に?」
「九割くらいは」
「一割が不安です」
「王都なので」
そう返されて、リシェルは思わず笑った。
自分の言い方を真似された。
少し悔しい。
でも、笑えたからよかった。
筆跡鑑定官は、昼前に監察局へ入った。
名をユーディット・レーンという。
四十代半ばほどの女性で、簡素な濃紺の服を着ていた。貴族のような華やかさはないが、紙とインクの匂いが似合う人だった。髪はきっちり結われ、指先は細く、目は鋭い。
彼女は聴取室へ入るなり、リシェルではなく机の上の紙を見た。
「原本は」
挨拶より先にそれだった。
ザイツ局長が頷く。
「こちらに」
断罪の夜の手紙の原本が、封印箱から出される。
リシェルは、思わず息を止めた。
写しではない。
あの夜、自分を追い詰めた紙そのもの。
薄い象牙色の上質紙。
左下に残る封蝋の跡。
整いすぎた文字。
セシリアを傷つける、甘く毒を含んだ文章。
ユーディットはそれを手袋越しに扱い、光へかざし、紙の繊維を見た。
「王都南部の紙工房のものですね。貴族向けですが、特注ではありません。入手は難しくない」
淡々とした声だった。
続いて、リシェルが提出した複数の筆跡見本が並べられる。
レヴェント家で書いていた贈答記録。
茶会準備の帳面。
辺境での医務記録。
王都へ来てからの報告書。
そこに、偽手紙が置かれた。
リシェルは見ているだけなのに、指先が冷たくなった。
アルヴェインの手が、机の下でほんの少し動いた。
触れてはいない。
けれど、そこにいると分かる。
それだけで、呼吸が戻る。
ユーディットはしばらく黙って見比べていた。
部屋には、紙の擦れる音だけが響く。
やがて彼女は言った。
「似せています」
誰も口を挟まない。
「かなり練習した字です。字形だけを見れば、当時の簡易確認で“酷似”と出しても不自然ではありません」
エドガーの表情が固くなった。
ザイツ局長は静かに問う。
「本人の筆跡か」
「違います」
短い答えだった。
リシェルの胸が、強く鳴った。
違います。
たった四文字。
それを聞くまでに、どれほど遠回りしたのだろう。
ユーディットは続けた。
「まず筆圧が違います。リシェル殿の字は、線の始まりが慎重で、終わりにわずかに力が抜ける。長く実務文書を書いてきた人の字です。対して、この手紙は形を似せることに集中しすぎて、線の速度が不自然です」
彼女は細い指で一部を示した。
「特に、この“セシリア様”の“様”。リシェル殿の見本では、旁の払いが自然に落ちる。この手紙では、払いの角度だけを真似て、最後に力が残っている。演技した字です」
演技した字。
リシェルは、その言葉を胸の中で繰り返した。
あの手紙は、演技だった。
自分の字を着た、誰かの嘘だった。
「さらに」
ユーディットは紙を別の角度に置いた。
「本文の中盤から後半にかけて、筆跡の緊張が緩んでいます。最初はリシェル殿の癖を強く真似ていますが、後半は別の癖が出ている」
「別の癖とは」
ザイツ局長が問う。
「縦画の収め方に、文書係特有の癖があります。紙面を早く整える者の癖です」
部屋の空気が変わった。
クラウス・メルデン。
誰も口にしなかったが、全員がその名を思い浮かべた。
「クラウス本人が書いた可能性は」
ザイツ局長が尋ねる。
「筆跡見本が必要です」
「すでに取り寄せている」
クラウスが聖女派支援会で作成した文案と、過去の書記記録が並べられた。
ユーディットはそれを受け取り、黙って比較する。
時間が長く感じた。
リシェルは、呼吸を整えることだけを意識した。
やがて、ユーディットは顔を上げた。
「クラウス・メルデン本人の字とも完全一致はしません。ただし、文書の整え方、行間の取り方、特定の語尾の払いに近い癖があります」
「つまり?」
「本人が直接書いたか、本人の近くで文書訓練を受けた者が書いた可能性が高いです。少なくとも、一般の令嬢が感情に任せて書いた手紙ではありません」
部屋の中で、何かが静かに落ちた。
リシェルは、目を閉じそうになった。
でも閉じなかった。
その言葉を、最後まで見届けたかった。
一般の令嬢が感情に任せて書いた手紙ではない。
つまり、あの夜の筋書きの一部は、作られていた。
ザイツ局長は書記官へ命じる。
「正式鑑定記録として残せ。断罪時に用いられた手紙は、リシェル・フォルディア殿本人の筆跡ではない可能性が極めて高い。文書関係者の関与を疑う」
「はい」
筆音が響く。
リシェルは、その音を聞いた。
紙に残る音。
あの夜、紙で曲げられた自分の人生が、今また紙によって少しずつ戻されている。
完全には戻らない。
でも、歪められたままではなくなる。
休憩のため控え室へ戻ると、エドガーが深く頭を下げた。
リシェルに向かって。
その場に、アルヴェインもベルンもマティアスもいた。
「……すまなかった」
声は低く、絞り出すようだった。
「私は、あの手紙を証拠として君を断じた。正式な鑑定もせずに」
リシェルは、しばらく彼を見ていた。
その謝罪は、何度目か分からない。
けれど、今日の謝罪は少し違った。
彼自身の思い込みではなく、正式な鑑定によって崩れた証拠を前にしての謝罪だった。
「謝罪は聞きました」
リシェルは静かに言った。
「はい」
エドガーは顔を上げない。
「でも、今日必要なのは、謝罪より調査です」
「……ああ」
「クラウス様本人が書いたか、近い者が書いたか。誰が指示したのか。なぜあの夜に合わせて用意されたのか。それを見てください」
エドガーは、ようやく顔を上げた。
その目は赤くなっていた。
だが、涙はなかった。
「見る。必ず」
「お願いします」
リシェルはそれだけ言った。
アルヴェインは隣で黙っていた。
だが、彼の気配が少しだけ鋭い。
エドガーへの怒りが消えたわけではないのだろう。
それでも口を挟まなかった。
今はリシェルの言葉を優先してくれている。
それが分かった。
午後には、クラウス・メルデンが再び呼び出された。
彼は前回より顔色が悪かった。
筆跡鑑定の結果を告げられた時、眼鏡の奥の目が明らかに揺れた。
「この手紙は、リシェル殿本人の筆跡ではない可能性が極めて高い」
ザイツ局長が淡々と告げる。
「文書関係者の関与が疑われる。クラウス殿、心当たりは」
「……ございません」
「あなた本人の字とは完全一致しない。ただし、文書の整え方にあなたの癖が近いと鑑定された」
「それは、王都の文書係なら似ることも」
「あなたの下で文書訓練を受けた者は」
クラウスは黙った。
ザイツ局長は待った。
沈黙は長く続かなかった。
「……当時、聖女派支援会の臨時書記が数名おりました」
「名を」
クラウスは唇を噛んだ。
「一人は、ノーラ・ベルトン。もう一人は、エミール・ラド」
「その者たちは現在どこに」
「ノーラは神殿の下級記録庫へ。エミールは……退職しています」
「退職時期は」
「断罪の夜の、ひと月後です」
書記官の筆音が速くなる。
リシェルは、胸の奥が冷えるのを感じた。
また一つ、名が出た。
あの夜の手紙を書いたかもしれない者。
クラウスは苦しげに言った。
「私は、あの手紙を書いていません」
「では、誰が書いた」
「知りません」
「誰が用意した」
「……文案の確認はしました」
部屋の空気が止まった。
ザイツ局長の声が低くなる。
「文案の確認?」
クラウスは顔を伏せた。
「手紙そのものではありません。内容の方向性です。リシェル様が書いたと見えるように、感情的すぎず、しかし悪意が伝わる文面にする必要があると……」
リシェルの手が、膝の上で固まった。
感情的すぎず。
しかし悪意が伝わる。
リシェルが書いたと見えるように。
その言葉は、刃だった。
誰かが、自分の人間性まで計算して偽物を作った。
アルヴェインの声が低く響いた。
「誰の指示だ」
クラウスは顔を上げられなかった。
ザイツ局長も同じ問いを重ねる。
「誰の指示か」
長い沈黙。
やがて、クラウスは小さく言った。
「オルグレン司祭を通じて、依頼が来ました」
「依頼元は」
「……聖女派支援会の上層、としか」
「名は」
「私は、直接聞いていません」
「では、オルグレン司祭は知っている可能性があるな」
クラウスは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
聴取が終わる頃、リシェルは疲れ切っていた。
怒りも悲しみも、少しずつ体の奥へ沈んでいく。
控え室に戻ると、ベルンが何も言わずに湯を出した。
今日は苦い薬草茶ではなかった。
ただの湯だった。
「今日は薬ではないんですね」
「今は胃に入るものが少ないほうがいい」
「そういう判断ですか」
「そういう判断だ」
リシェルは器を受け取った。
手が少し震えている。
アルヴェインが隣に座った。
「よく耐えた」
「耐えた、のでしょうか」
「ああ」
「途中で、怒るより先に寒くなりました」
「当然だ」
彼の声は静かだった。
「あれは、お前を人として見ていない言葉だ」
その通りだった。
感情的すぎず。
しかし悪意が伝わるように。
それは、リシェルという人間を見ているようで、実際には“悪女らしいリシェル像”を作るための言葉だった。
「私は、ずっと誰かが作った私を裁かれていたんですね」
リシェルは呟いた。
アルヴェインは少しだけ目を伏せた。
「そうだな」
「本物の私は、聞かれなかった」
「ああ」
「でも、今日少しだけ……偽物だと記録されました」
「それは大きい」
リシェルは湯を飲んだ。
温かかった。
胸の奥の冷えが、ほんの少しだけ和らぐ。
「団長」
「何だ」
「隣にいてくれて、ありがとうございました」
アルヴェインは、また少しだけ視線を逸らした。
「何度でもいる」
短い言葉。
その一言だけで、目の奥が熱くなった。
泣くなら今ではない。
そう思った。
でも、少しだけならいいかもしれない。
リシェルは器を両手で包み、深く息を吐いた。
夜、記録を書いた。
正式筆跡鑑定。
断罪の夜の手紙は、私本人の筆跡ではない可能性が極めて高い。
字形は似せているが、筆圧、線の速度、語尾の払いが異なる。
文書関係者の関与が疑われる。
クラウス、文案確認を認める。
“感情的すぎず、しかし悪意が伝わる文面”という方向性。
オルグレン司祭を通じた依頼。依頼元は聖女派支援会上層の可能性。
最後に、もう一行。
「断罪の夜の手紙は、私の字を着た嘘だった」
筆を置く。
窓の外には、王都の灯がある。
その灯は、昨日より少しだけ遠く見えた。
リシェルはようやく、自分の中にあった古い震えが少しだけ静まったのを感じた。
まだ終わっていない。
だが、あの夜の紙は、もう絶対の証拠ではない。
嘘として、記録された。
それだけで、長い冬の中に細い光が差したようだった。




