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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第61話 下級記録庫の少女は、嘘の筆跡を覚えている

 ノーラ・ベルトンの名が出た翌朝、王宮監察局の空気はさらに硬くなっていた。


 リシェルは、控え館の机の前でその名を見つめていた。


 ノーラ・ベルトン。


 聖女派支援会の臨時書記。

 現在は神殿の下級記録庫勤務。

 断罪の夜に使われた手紙の作成に関わった可能性のある人物。


 名前だけなら、どこにでもいそうな下級文官のものだった。


 けれど、その名の後ろに、リシェルの人生を曲げた紙の影がある。


 そう思うと、ただの文字には見えなかった。


「怖い顔をしている」


 アルヴェインの声がした。


 彼は今日も椅子に座っている。ベルンから「歩いていいが、立っている時間を数える」と宣告されたため、さすがに大人しくしていた。


「怖い顔ですか」


「ああ」


「では、今日は少し怖いままで行きます」


「それも悪くない」


 リシェルは、手元の写しを畳んだ。


「ノーラという人が、本当にあの手紙を書いたのだとしたら」


「ああ」


「私は、その人を憎めばいいのでしょうか」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 アルヴェインはすぐには答えなかった。


 代わりに、少し考えるように目を伏せる。


「憎んでもいい」


 やがて彼は言った。


「ただ、憎む前に見るんだろう。お前は」


 リシェルは小さく息を吐いた。


「……そうですね」


「面倒な性分だ」


「団長に言われたくありません」


「俺も面倒か」


「かなり」


 そう返すと、アルヴェインの口元がわずかに緩んだ。


 この人とこうして軽口を交わせることに、リシェルは救われている。


 王都に来てから、毎日のように過去の傷を開かれている。

 セシリアの告白。

 クラウスの文書操作。

 偽手紙の正式鑑定。

 そして今度は、その手紙を書いたかもしれない者。


 ひとつひとつは必要なことだ。


 でも、必要だからといって痛くないわけではない。


 だから、こういう短い会話がなければ、息が詰まってしまう。


 扉が叩かれた。


 入ってきたのは、ベルンだった。


「出るぞ」


「まだ時間まで少しあります」


「王宮の廊下は長い。団長を歩かせる時間を計算に入れろ」


 アルヴェインが眉を寄せた。


「俺は荷物か」


「まだ患者だ」


「昨日より回復している」


「患者が一番調子に乗る時期だ」


 ベルンは容赦がなかった。


 リシェルは思わず笑いそうになったが、今日の緊張を思い出して、すぐに息を整える。


「行きましょう」


 机の上から記録箱を取る。


 箱は、王都へ来た時より軽くなっていた。


 香油瓶も、木片も、灰も、すでに監察局へ預けている。

 けれど、不思議と不安は少なかった。


 預けたというより、正式な記録の中へ移したのだと思えるようになっていたからだ。


 リシェルは最後に、断罪の夜の手紙の写しを鞄へ入れた。


 今日、その紙を書いたかもしれない人間と会う。


 胸は重い。


 けれど、足は止まらなかった。


 ノーラ・ベルトンは、王宮監察局の聴取室に入ってきた瞬間から震えていた。


 年は二十歳前後だろうか。


 薄い栗色の髪をきつく結び、古びた灰色の服を着ている。貴族ではない。下級神官家の出か、あるいは読み書きの才を買われて神殿へ入った娘だろう。


 手にはインク染みがあった。


 指先の爪の間にも、落としきれない黒が残っている。


 リシェルは、その手を見た。


 この手が、あの手紙を書いたのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸がきゅっと縮んだ。


 ノーラは席につく前に、深く頭を下げた。


「ノーラ・ベルトンです」


 声はか細い。


 ザイツ局長はいつも通り淡々としていた。


「あなたは、かつて聖女派支援会の臨時書記としてクラウス・メルデンの下で働いていた。間違いないか」


「はい」


「現在は神殿下級記録庫勤務」


「はい」


「本日は、リシェル・フォルディア殿の婚約破棄時に提示された手紙について確認する」


 ノーラの肩が、目に見えて跳ねた。


 リシェルは見逃さなかった。


 この人は、知っている。


 少なくとも、何かを。


 ザイツ局長は、手紙の写しを机へ置いた。


「この手紙に見覚えはあるか」


 ノーラは紙を見た。


 顔色が、みるみる白くなっていく。


「……あります」


 部屋の空気が変わった。


 書記官の筆が動き出す。


「あなたが書いたのか」


 ノーラの唇が震えた。


 すぐには答えない。


 その沈黙の中で、リシェルは自分の鼓動が速くなるのを感じた。


 アルヴェインは隣にいる。


 ベルンも後ろにいる。


 それでも、この瞬間は自分一人で聞くしかない。


 ノーラは、膝の上で両手を握った。


「……はい」


 小さな声だった。


 あまりにも小さくて、聞き間違いかと思うほどだった。


 だが、書記官の筆は止まらない。


「私が、書きました」


 リシェルの胸の中で、何かが静かに落ちた。


 怒りはすぐには出なかった。


 ただ、目の前の娘の震える指と、あの夜の広間が重なった。


 自分を悪役にした手紙は、こんな若い書記の手で書かれていたのか。


 ザイツ局長の声は変わらない。


「誰の指示か」


「クラウス様です」


「文面もクラウスが?」


「おおまかな文面は、別の紙で渡されました。私は、リシェル様の字に似せて清書するようにと」


 リシェル様。


 ノーラが自分の名を呼んだ時、声が震えた。


「リシェル殿の筆跡見本は、どこから得た」


「レヴェント家の茶会準備帳の写しと、贈答記録の一部です。クラウス様が持っていました」


 エドガーが同席していたら、どんな顔をしただろう。


 リシェルは一瞬そんなことを思った。


 自分が屋敷のために書いていた記録が、自分を陥れる筆跡見本に使われた。


 皮肉というには、あまりにひどい。


「あなたは、その手紙が何に使われるか知っていたか」


 ザイツ局長が問う。


 ノーラは首を横に振りかけ、途中で止めた。


 嘘をつこうとしたのだろう。


 だが、今さらつけなかった。


「最初は、知りませんでした」


「最初は」


「聖女候補様への脅迫まがいの手紙が見つかったことにする、とだけ聞きました。私は……貴族同士の牽制か、内部確認用の写しだと思って」


「本当にそう思ったのか」


 ザイツの声が少し低くなる。


 ノーラは目を伏せた。


「思いたかったのだと思います」


 その言葉に、リシェルは胸が痛んだ。


 まただ。


 信じたかった。

 思いたかった。

 見ないふりをした。


 王都の嘘は、そういう小さな逃げからできているのかもしれない。


「断罪の夜に使われると知ったのはいつか」


「前日です」


「その時点で止めなかった理由は」


 ノーラは唇を噛んだ。


「怖かったからです」


 声が震える。


「クラウス様に、もう後戻りはできないと言われました。私の名前も記録に残る。下級書記が貴族の争いに口を出せば、神殿にもいられなくなると」


「それで黙った」


「はい」


 ノーラは、涙をこぼした。


 ぼろぼろと、幼い子どものように。


 リシェルは、その涙を見ても胸が動かなかった。


 いや、動かないわけではない。


 痛い。


 でも、涙に流される気はなかった。


 アルヴェインの言葉が胸にある。


 涙は記録を消さない。


 ザイツ局長は、しばらく黙っていた。


 ノーラが泣き止むのを待っているわけではない。


 彼は、泣いている人間にも容赦なく問いを続けるための間を置いているだけだった。


「ノーラ・ベルトン」


「……はい」


「あなたは、この手紙がリシェル・フォルディア殿本人のものではないと知りながら、筆跡を似せて作成した。それが婚約破棄および断罪の場に用いられる可能性を前日に知りながら、報告しなかった。間違いないか」


 ノーラは泣きながら頷いた。


「はい」


「声で答えなさい」


「間違いありません」


 書記官の筆音が響く。


 リシェルは、その音を聞いた。


 自分の人生を曲げた行為が、今、ようやく正しい形の文として記録されている。


 ザイツ局長は続けた。


「文案を渡したのはクラウス。その上位指示は」


「クラウス様は、オルグレン司祭からの依頼だと」


「依頼の目的は」


「セシリア様を守るため、と」


 ノーラの声は小さい。


「リシェル様が嫉妬から動いたことにすれば、セシリア様の立場が守られる。エドガー様も決断しやすくなる。そう言われました」


 リシェルは、息を止めなかった。


 でも、胸の奥が冷たくなった。


 エドガー様も決断しやすくなる。


 つまり、あの夜のエドガーの怒りさえ、誘導される前提だったのだ。


 彼の未熟さも、セシリアの恐れも、リシェルの悪評も。


 すべてが使われた。


「セシリア・エルンスト殿は、この手紙の作成を知っていたか」


 ザイツ局長が問う。


 ノーラは、しばらく考えてから首を横に振った。


「分かりません。私は直接お会いしていません。ただ……」


「ただ?」


「清書後、クラウス様が“白百合の方には見せる必要はない。見なくても泣ける方だから”と」


 部屋の空気が、一瞬止まった。


 白百合の方。


 セシリア。


 見なくても泣ける方。


 あまりにも冷たい言い方だった。


 セシリア本人もまた、道具として見られていた。


 リシェルは、胸の奥に複雑な痛みを覚えた。


 自分は被害者だ。


 それは変わらない。


 けれど、セシリアもまた、別の形で利用されていたのだと分かってしまう。


 だからといって許せるわけではない。


 ただ、憎しみを単純な形に保てなくなる。


「リシェル殿」


 ザイツ局長が言った。


「あなたから確認したいことは」


 リシェルは、ノーラを見た。


 泣いている若い書記。


 自分の字を真似た人。


 逃げた人。


 黙った人。


 そして、今になって震えながら認めた人。


「ノーラさん」


 リシェルは静かに呼んだ。


 ノーラがびくりと顔を上げる。


「はい」


「あなたは、私の筆跡を何日練習しましたか」


 予想外の問いだったのだろう。


 ノーラは目を瞬いた。


「……十日ほどです」


「十日」


「はい」


「その間、私がどんな人間か聞かされましたか」


 ノーラは俯いた。


「嫉妬深く、冷たく、聖女候補様を妬んでいる方だと」


「あなたは、私に会ったことがありましたか」


「ありません」


「会ったこともない相手を、そういう人だと思って字を書いたのですね」


 ノーラの涙がまたこぼれた。


「……はい」


 リシェルは手を握った。


 声が震えないように、ゆっくり息を吸う。


「私は、その手紙のせいで婚約を失いました。王都での居場所も、評判も、家族との繋がりも失いました。辺境へ行きました」


 ノーラは泣きながら何度も頭を下げる。


「申し訳ありません」


「今、謝罪は受け取れません」


 リシェルは言った。


 ノーラの動きが止まる。


「でも、あなたの証言は受け取ります。最後まで、嘘をつかずに話してください」


 ノーラは、震える唇で頷いた。


「はい」


「あなたが何を書いたのか。誰から何を聞いたのか。どの筆跡見本を使ったのか。すべてです」


「はい……話します」


 リシェルは頷いた。


 それ以上は言わなかった。


 憎む言葉は、まだ出てこない。


 許す言葉も出てこない。


 ただ、必要な言葉だけを渡した。


 最後まで話してください。


 今は、それで十分だった。


 聴取後、ノーラは保護拘束扱いで別室へ移された。


 彼女は下級書記であり、命令系統の末端でもある。逃亡や証拠隠しを防ぐ意味もあるが、同時に上位者からの口封じを防ぐためでもあった。


 王宮監察局の判断は早かった。


 ザイツ局長は、ノーラの証言をもとに、クラウスとオルグレンの再聴取を決めた。


 さらに、断罪の夜に関わった臨時書記エミール・ラドの行方も追うことになった。


 過去の紙が、また別の紙へ繋がっていく。


 リシェルは控え室の椅子に座り、しばらく何も言えなかった。


 アルヴェインが隣に立つ。


 いや、立とうとしてベルンに睨まれ、座った。


 その動きに、こんな時なのに少しだけ笑いそうになった。


「笑えるなら、まだ大丈夫だ」


 ベルンが言う。


「笑いかけただけです」


「十分だ」


 アルヴェインはリシェルを見た。


「ノーラを憎むか」


 リシェルは目を伏せた。


「分かりません」


「そうか」


「でも、彼女がやったことは消えません」


「ああ」


「怖かったから黙った。命令されたから書いた。そういう理由があっても、私の人生は曲がりました」


「その通りだ」


「でも、彼女だけを憎めば終わる話でもない」


「ああ」


 アルヴェインは静かに頷いた。


「だから、お前は見るんだな」


「はい」


 リシェルは深く息を吐いた。


「見るのは、思ったより疲れますね」


「なら休め」


「そうします」


 素直に言うと、アルヴェインが少しだけ驚いた顔をした。


「今、素直だったな」


「学習しました」


「いいことだ」


 ベルンが満足そうに頷いた。


 その夜、リシェルは今日の記録を書いた。


 ノーラ・ベルトン。

 断罪の夜の手紙を清書したことを認める。

 筆跡見本はレヴェント家の茶会準備帳および贈答記録の写し。

 クラウスより文案を受け取り、リシェルの字に似せるよう指示。

 前日に断罪の場で使われる可能性を知ったが報告せず。

 理由は恐怖。

 オルグレン司祭からの依頼と説明されていた。

 目的は“セシリア様を守るため”“エドガー様が決断しやすくなるため”。

 セシリア本人への直接共有は不明。


 そこまで書いて、筆を止める。


 少し考えた。


 そして、最後に一行を加えた。


 「私の字を真似た手は震えていた。けれど、震える手でも人の人生は曲げられる」


 書いたあと、しばらくその一文を見つめた。


 きつい言葉だと思った。


 でも、消さなかった。


 事実だったから。


 窓の外には、王都の灯がある。


 その灯の中に、まだ見つかっていない紙がある。

 まだ呼ばれていない名がある。

 まだ語られていない沈黙がある。


 それでも、少しずつ開いている。


 断罪の夜の箱は、もう閉じたままではいられない。


 リシェルは筆を置き、静かに目を閉じた。


 明日もまた、誰かの言葉を聞くことになる。


 怖い。


 けれど、聞く。


 自分の人生を、誰かの書いた嘘のままで終わらせないために。

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