第59話 噂は、今度は王都を噛み返す
翌朝、王都の噂は向きを変え始めていた。
昨日までリシェルの背中を追っていた言葉は、こうだった。
辺境の元悪役令嬢。
聖女様の支援に難癖をつけた女。
婚約破棄された恨みで王都へ戻ってきた女。
だが、今朝は違った。
控え館の廊下を歩く侍従たちの声が、ほんの少しだけ変わっている。
「神殿の台帳、本物らしい」
「オルグレン司祭まで留め置かれたとか」
「では、あの令嬢は本当に……」
「いや、まだ分からない。王都の噂なんて当てにならん」
最後の言葉を聞いた時、リシェルは少しだけ足を止めた。
王都の噂なんて当てにならない。
その言葉が、もっと早く広がってくれていたら。
一瞬だけ、そう思った。
けれど、すぐに首を振る。
過去は戻らない。
今できることは、噂がまた別の形で誰かを傷つけないよう、事実を積み上げることだけだ。
朝の控え室で、リシェルは記録箱の中身を確認していた。
香油瓶と木片、灰の原本はすでに監察局の保管に移された。手元にあるのは写しと控えだ。ミラの木札も写しを取られ、原本は慎重に返された。
リシェルは、その木札を布で包み直した。
「大事そうだな」
アルヴェインが言った。
今日は寝台ではなく椅子に座っている。ベルンから許可は出ているが、「長時間立つな」「急に動くな」「王宮の階段で格好つけるな」と三つも釘を刺されていた。
「大事です」
リシェルは答えた。
「この木札がなければ、村の側で何が起きていたかを王宮に示せませんでした」
「王宮の書記官が、あれを証拠品として扱った時、少し驚いた顔をしていたな」
「はい」
「嬉しかったか」
「……嬉しかったです」
リシェルは素直に認めた。
「村の子の言葉が、王都の正式な記録に入ったことが」
「それでいい」
アルヴェインは静かに言った。
「王都は身分の高い者の言葉ばかり残したがる。残したくない言葉ほど、こちらから押し込め」
「押し込め、ですか」
「上品に言えば、提出しろ」
「最初から上品に言ってください」
リシェルがそう返すと、アルヴェインはわずかに目を細めた。
そこへベルンが薬箱を抱えて入ってきた。
「王宮へ行く前に薬だ」
「またですか」
アルヴェインが少しだけ嫌そうな顔をする。
「まただ。傷が重い顔をしてる」
「していない」
「してる」
ベルンはまったく取り合わない。
リシェルもアルヴェインの顔を見る。
「……少し、重いですか?」
アルヴェインは一瞬だけ黙った。
「少しだ」
「では飲んでください」
「二対一か」
「患者対医務です」
「勝てないな」
アルヴェインは観念して薬を受け取った。
苦そうな顔で飲み干すのを見て、リシェルは少しだけ安心する。
王都の噂が変わっても、聴取が進んでも、アルヴェインの古傷が消えるわけではない。あの痛みは、まだ彼の体に残っている。
だから、気を抜いてはいけない。
王都は、痛みさえ政治の道具にする場所なのだから。
王宮監察局では、中間整理の場が設けられた。
正式な裁定ではない。
だが、これまでの聴取内容と押収記録をもとに、関係者へ現時点での整理が告げられる場だった。
聴取室より広い部屋に、関係者が集められていた。
ザイツ局長。
王宮書記官。
神殿本部の調査官。
エドガーとマティアス。
アルヴェインとリシェル。
そして、少し離れた席にセシリア。
彼女は昨日と同じく、白百合の飾りをつけていなかった。
それだけで、王都の人々の視線は彼女へ集まる。
聖女候補なのに白百合をつけていない。
たったそれだけのことで、王都は意味を探す。
リシェルは、その視線の危うさを感じた。
昨日まで自分を刺していた噂が、今度はセシリアへ向かおうとしている。
それは当然の報いだと言えば、そうなのかもしれない。
けれど、噂が誰かを一方的に飲み込む怖さを、リシェルは知っている。
だから、簡単には喜べなかった。
ザイツ局長が口を開いた。
「現時点で確認された事項を整理する」
部屋が静まる。
「第一に、北西辺境補給砦へ送られた聖女派支援物資の香油は、単なる祈祷品ではなく、神殿調合部門で作成された調合品である可能性が高い」
書記官たちの筆が動く。
「第二に、神殿調合部門の台帳には、補助誘引材、北西辺境方面、対象残滓反応確認用との記載がある」
セシリアの肩がわずかに揺れた。
「第三に、リディア・フォルム、クラウス・メルデン、オルグレン司祭の三名は、それぞれ調合、文書、支援会運営に関与していた」
淡々とした声が続く。
「第四に、リシェル・フォルディア殿に関する過去の悪評が、今回の辺境側報告の信用を落とすために利用された可能性がある」
その一文が部屋に落ちた時、リシェルは自分の名前が少し違って聞こえた。
悪評。
それはずっと、彼女を縛るものだった。
だが今、その悪評そのものが調査対象になっている。
ザイツ局長は続けた。
「第五に、セシリア・エルンスト殿本人については、香油の成分および補助誘引材の具体的内容を知っていた証拠は現時点で確認されていない。ただし、自身の感情が周囲に利用される危うさを認識しながら止めなかったこと、またリシェル殿の悪評を結果的に維持する態度を取ったことは、本人の証言により確認されている」
セシリアは俯いた。
泣かなかった。
そのことに、リシェルは気づいた。
以前の彼女なら、きっと泣いていただろう。
あるいは、泣くことで場を変えようとしただろう。
けれど今は、俯いているだけだった。
涙では消えない記録の前に、涙を使わない。
それが彼女の小さな変化なのかもしれなかった。
「よって」
ザイツ局長の声が少し低くなる。
「聖女派支援会の活動は、当面王宮監察局および神殿本部の共同監督下に置く。オルグレン司祭は引き続き拘束。リディア・フォルムは調合部門から隔離。クラウス・メルデンは文書業務停止。セシリア・エルンスト殿の聖女候補としての公的活動は、調査終了まで停止する」
部屋の空気が大きく揺れた。
公的活動停止。
それは、セシリアにとって重い処分だった。
聖女候補という立場そのものを取り上げられたわけではない。
だが、白百合の前に立つことは、しばらく許されない。
セシリアは唇を震わせた。
それでも、何も言わなかった。
ザイツ局長は最後に、リシェルへ視線を向けた。
「リシェル・フォルディア殿」
「はい」
「あなたの報告書、および辺境側の記録は、引き続き正式証拠として扱う。必要に応じて追加説明を求める」
「承知しました」
「また、あなたの過去の婚約破棄に関する証拠文書についても、今回の文書操作との関連を含め再調査する」
リシェルの胸が、静かに鳴った。
再調査。
ついに、その言葉が出た。
あの夜が、王都の正式な調査対象になる。
遅すぎる。
けれど、遅すぎても意味がないわけではない。
「お願いします」
リシェルは深く頭を下げた。
中間整理の場が終わったあと、王宮の廊下はざわついていた。
声は抑えられている。
だが、視線は多い。
リシェルが歩くと、何人もが振り返る。昨日までとは違う目だった。
哀れみ。
好奇心。
気まずさ。
そして、急に態度を変えようとする者の浅い媚び。
王都の噂は、今度は別の形でリシェルへ寄ってくる。
「リシェル様」
廊下の先で、ひとりの貴婦人が声をかけてきた。
リシェルは足を止めた。
見覚えがある。
かつての茶会で、セシリア側の席に座り、リシェルへ冷たい視線を向けていた女性だ。侯爵家の親族だったはずだが、名前まではすぐに出てこない。
彼女は扇を胸の前で閉じ、少し困ったように微笑んだ。
「お久しぶりですわ。あの……大変でしたわね」
曖昧な言葉。
何に対しての“大変”なのか、あえて言わない。
リシェルは静かに頭を下げた。
「お久しぶりです」
「わたくしたちも、あの頃は色々と誤解しておりましたの。ほら、王都では噂が早いでしょう?」
軽い声だった。
軽すぎた。
リシェルの隣で、アルヴェインの空気が少し冷える。
しかしリシェルは、自分で答えた。
「噂は早いですね」
「ええ、本当に。ですから、あまりお気になさらないで。皆、悪気があったわけでは」
「悪気がなければ、噂で人を傷つけてもよいのでしょうか」
貴婦人の笑みが固まった。
「い、いえ、そういう意味では」
「では、今後はお気をつけください」
リシェルは静かに言った。
「私は、噂がどう広がったかも記録しています」
貴婦人の顔色が変わった。
扇を持つ指が少し震える。
「記録……」
「はい」
それ以上、リシェルは言わなかった。
貴婦人はぎこちなく礼をして、足早に去っていった。
廊下の向こうで、また小さな囁きが起きる。
アルヴェインが低く言った。
「強いな」
「少し、意地悪でしたか」
「いや」
彼はかすかに笑った。
「ちょうどいい」
ベルンが後ろから言う。
「王都の連中には、記録すると言っておけば半分は黙る」
「先生、それは脅しでは」
「実務だ」
あまりにも堂々としていて、リシェルは少し笑ってしまった。
その日の午後、セシリアが控え室の前でリシェルを待っていた。
白いドレスではあるが、飾りは少ない。
侍女も一人だけ。
以前のように、周囲を白百合で固めた聖女候補ではなかった。
「リシェル様」
セシリアは深く頭を下げた。
「少しだけ、お話しできますか」
アルヴェインがリシェルを見る。
決めるのはリシェルだ。
それが、彼の無言の確認だった。
「短くなら」
リシェルは答えた。
場所は、控え室の扉を開けたまま。
人目がある距離。
セシリアはそれを受け入れた。
「公的活動停止になりました」
「聞きました」
「当然だと思います」
その言葉に、リシェルは少しだけ目を動かした。
セシリアは両手を握っていた。
「私は、何も知らなかったと言えば、少しは楽になれると思っていました。でも……知らなかったことを、ずっと盾にしていたのだと思います」
声は震えていた。
「知ろうとしなかった。止めようとしなかった。リシェル様が悪女でいてくれたほうが、自分が楽だった」
リシェルは黙って聞いた。
「だから、活動停止は当然です」
「そうですか」
「はい」
セシリアは顔を上げた。
目は潤んでいる。
けれど、涙は落ちていない。
「それでも、私は怖いです。聖女候補でなくなったら、自分に何が残るのか分からない」
その言葉は、ひどく正直だった。
リシェルは少しだけ息を吸う。
「それを、これから見ればいいのではないですか」
セシリアが目を見開いた。
「私が言うことではないかもしれません。でも、あなたは今まで、白百合として見られることに慣れすぎていたのだと思います」
セシリアは何も言わない。
「白百合でない自分を、これから見てください」
それは優しさではなかった。
許しでもない。
ただ、リシェルが今言える精一杯の言葉だった。
セシリアは長く黙り、それから小さく頷いた。
「……はい」
リシェルはそれ以上言わなかった。
セシリアも、もう縋らなかった。
ただ一礼して、静かに去っていった。
その背中は、以前より小さく見えた。
夜、控え館でリシェルは今日の記録を書いた。
聖女派支援会、王宮監察局および神殿本部の共同監督下へ。
オルグレン司祭拘束継続。
リディア隔離。
クラウス文書業務停止。
セシリア・エルンスト、公的活動停止。
私の婚約破棄時の証拠文書について再調査決定。
そこまで書いて、少し手を止めた。
そして、もう一行。
「噂は、今度は王都を噛み返し始めた。けれど、噂で人を裁かせてはならない」
筆を置く。
窓の外には王都の灯があった。
昨日までより少し、遠く見えた。
王都はまだ恐ろしい。
けれど、絶対ではない。
噂も、涙も、祈りも、記録の前では少しずつ形を変える。
リシェルは記録箱の上に手を置いた。
ここまで来た。
でも、まだ終わりではない。
あの夜の再調査が始まる。
悪役令嬢として終わった物語が、ようやく別の形で開かれようとしていた。




