第58話 聖女候補は、白百合の影を見る
オルグレン司祭の一時拘束は、王都の空気を変えた。
誰も大声では言わない。
王都の人間は、声の大きさよりも沈黙の置き方で事態の重さを測る。朝の茶会で名を出さない。回廊で目を合わせない。神殿へ向かう馬車の数が減る。白百合の花束を抱えた侍女が、いつもより早足になる。
それだけで、十分だった。
聖女派に何かが起きている。
王宮が動いている。
北西辺境から来た報告書が、王都の中心まで届いてしまった。
その噂は、香油よりも早く広がった。
そして噂の中心に、セシリア・エルンストの名があった。
離宮の温室では、白百合が咲いていた。
咲いているだけだった。
それなのに、セシリアにはその花が自分を責めているように見えた。
白い花弁。
折れやすい茎。
清らかな香り。
誰かに守られるために整えられた美しさ。
ずっと、自分もそうありたいと思っていた。
清らかで、可憐で、傷つきやすくて、誰もが手を差し伸べたくなる存在。
けれど今、その白さの裏側に影が見えている。
リディアが拘束された。
クラウスが文書業務を止められた。
オルグレン司祭まで、王宮監察局に留められた。
そして、彼らは皆、少しずつセシリアの近くにいた。
自分は何も命じていない。
その言葉は、まだ嘘ではない。
けれど、それだけで済むのか。
温室の扉が叩かれた。
「セシリア様。王宮監察局より、追加聴取の通達でございます」
侍女の声は震えていた。
セシリアはしばらく答えられなかった。
やがて、白百合から手を離す。
「入って」
侍女が通達を差し出す。
封蝋は王宮監察局。
冷たい封だった。
文面は丁寧だった。だが、意味は柔らかくない。
セシリア・エルンストに対し、聖女派支援会、オルグレン司祭、リディア・フォルム、クラウス・メルデンとの関係について、追加の事情聴取を求める。
前回は任意聴取だった。
今回は、少し違う。
まだ強制ではない。
けれど、もう逃げる余地はほとんどない。
「……そう」
セシリアは紙を畳んだ。
「エリナを呼んで」
「はい」
侍女が下がる。
温室に、また白百合の香りだけが残った。
セシリアはその香りを吸い込み、初めて少し気分が悪くなった。
エリナはすぐに来た。
彼女は通達を読むと、しばらく黙っていた。
「追加聴取ですね」
「ええ」
「オルグレン司祭の発言を受けてのものでしょう」
「知っているの?」
「一部は」
エリナはためらったあと、言った。
「司祭は、セシリア様の名を守るため、辺境側の影響力を抑える必要があったと主張しているそうです」
「私の名を守るため」
セシリアは笑った。
乾いた笑いだった。
「守るって、便利な言葉ね」
かつては好きな言葉だった。
守ってもらう。
庇ってもらう。
信じてもらう。
けれど今、その言葉の裏にどれほどのものが隠れていたのか、少しずつ見え始めている。
「私は、何を話せばいいのかしら」
「知っていることを」
「知らないことばかりだと言ったら?」
「では、知らなかった理由を問われます」
エリナの声は静かだった。
「なぜ、自分の名で動く支援会の中身を知らなかったのか。なぜ、危ういと思った時に止めなかったのか。なぜ、リシェル様の悪評が利用されることを許したのか」
セシリアは目を閉じた。
「許したつもりはないわ」
「でも、止めませんでした」
容赦のない言葉だった。
けれど、怒ることができなかった。
その通りだったから。
「私は、リシェル様が嫌いだった」
セシリアは小さく言った。
「今も?」
エリナが問う。
セシリアはすぐ答えられなかった。
嫌い。
そう言えば簡単だった。
けれど、今はその言葉だけでは足りない。
リシェルが怖かった。
羨ましかった。
目障りだった。
消えてほしかった。
でも、辺境で立つ彼女を見た人々の言葉を聞くたび、胸のどこかで分かってしまった。
あの人は、本当に必要とされている。
そして自分は、必要とされるために守られる形を作ってきた。
「分からない」
セシリアは正直に言った。
「嫌いだった。でも今は……あの方を見るのが怖い。嫌いだからじゃなくて、自分が見えてしまうから」
エリナは何も言わなかった。
セシリアは白百合を見つめる。
「王宮で話したら、私は終わるのかしら」
「何を終わりと呼ぶかによります」
「聖女候補として」
「今までと同じ形では、続かないと思います」
はっきり言われた。
胸が痛んだ。
けれど、どこかで分かっていた。
白百合は、もう傷のない花ではいられない。
同じ頃、王宮監察局では、ザイツ局長が集められた記録を見ていた。
机の上には、事件の線を示す紙が並んでいる。
断罪の夜の手紙。
クラウスの簡易筆跡確認。
聖女派支援会の文案。
香油の出荷記録。
リディアの台帳。
オルグレンの発言。
セシリアの聴取記録。
それらの中心には、二つの名があった。
リシェル・フォルディア。
セシリア・エルンスト。
だが、ザイツはそこだけを見ていなかった。
「感情を利用した者がいる」
彼は低く言った。
書記官が筆を構える。
「セシリア殿の嫉妬、恐れ、劣等感。エドガー殿の庇護欲と思い込み。リシェル殿への悪評。アルヴェイン殿の血筋と古傷。すべて、別々の弱点として扱われた」
「黒幕はオルグレン司祭でしょうか」
書記官が問う。
「中心の一人ではある」
ザイツは言った。
「だが、司祭一人で神殿調合部門、支援会文書、王都の噂をここまで動かせるかは疑問だ」
「さらに上が?」
「上か、横か、外か」
ザイツは紙をめくる。
「白百合の符丁が気になる。神殿だけなら、もっと直接的な管理印を使う。白百合は聖女派の象徴であると同時に、噂を誘導する意匠でもある」
「つまり、あえて聖女候補の名が見えるように?」
「可能性はある」
書記官の筆が止まった。
「セシリア様を守るためではなく、利用するために?」
「両方だろう」
ザイツは淡々と言った。
「守る名目で囲い、囲った名を使って動かす。失敗すれば、聖女候補の未熟さに一部を被せることもできる」
書記官の顔が青ざめる。
王都らしいやり方だった。
誰か一人を完全に黒幕にしない。
誰も完全に無罪にしない。
責任を薄く広く撒き、必要なところだけ切り捨てる。
ザイツは、リシェルの報告書に目を落とした。
「辺境の薬師は、よくここまで線を残したな」
感心とも警戒ともつかない声だった。
「王都の者なら、途中で誰かに潰されていたかもしれない」
書記官が言うと、ザイツは小さく頷いた。
「辺境だから残ったのだろう。王都の手が届く前に、彼女が記録した」
そして、その記録が今、王都の沈黙を裂いている。
控え館では、リシェルが新しい呼び出しの知らせを受け取っていた。
セシリアの追加聴取に、必要に応じて同席を求める可能性があるという。
紙を読んだあと、リシェルはしばらく黙っていた。
アルヴェインは、その向かいに座っている。
今日はベルンに厳しく言われているため、きちんと椅子に座っている。薬草茶も飲んだ。苦そうな顔はしたが、飲んだ。
「同席するのか」
アルヴェインが問う。
「求められれば」
「無理に行く必要はない」
「分かっています」
リシェルは紙を畳んだ。
「でも、聞くべきことがあるなら行きます」
「セシリアを責めたいか」
その問いに、リシェルはすぐには答えられなかった。
責めたい。
そう思う気持ちはある。
当然だ。
けれど、それだけではなかった。
「知りたいです」
「何を」
「セシリア様が、どこまで自分の感情を分かっていたのか。どこから利用されていたのか。どこで止められたのに止めなかったのか」
リシェルは自分の手を見た。
「それを知ったところで、過去は戻りません。でも、曖昧なままにしておくと、また誰かが“聖女様は悪くなかった”か“全部聖女様が悪かった”のどちらかにしてしまう気がします」
アルヴェインは静かに聞いていた。
「どちらも違うと思うのです」
「ああ」
「悪かったところは悪かった。利用されたところは利用された。知らなかったことは知らなかった。でも、知らなかっただけで済まないこともある」
言葉にしているうちに、自分の中でも整理されていく。
セシリアを許したわけではない。
同情だけでもない。
ただ、また誰かの都合のいい物語にされたくないのだ。
今度は、セシリアの罪さえも。
「お前らしいな」
アルヴェインが言った。
リシェルは少しだけ彼を見る。
「型にはめていますか?」
「いや」
彼はかすかに笑う。
「今のは、見たまま言った」
その言葉に、胸が少し温かくなった。
その日の午後、セシリアの追加聴取が始まった。
リシェルは同席を求められた。
聴取室へ入ると、セシリアはすでに席についていた。
昨日より顔色が悪い。だが、泣いてはいなかった。白いドレスはいつも通り整っている。けれど、花飾りはつけていなかった。
白百合がない。
それだけで、少し違って見えた。
ザイツ局長が始める。
「セシリア・エルンスト殿。オルグレン司祭は、あなたの名を守るため、辺境側の影響力を抑える必要があったと発言した。あなたは、そのような意図を共有していたか」
セシリアは両手を膝の上で握った。
「言葉として共有したことはありません」
「言葉として、とは」
「……私が、リシェル様を怖がっていたことは、周囲も知っていました」
部屋の空気が静まる。
「リシェル様が辺境で必要とされているという報告を聞いて、私は動揺しました。エドガー様が辺境へ向かうと知って、嫌だと思いました。アルヴェイン様がリシェル様を守っていると聞いて……許せないと思いました」
声は震えていた。
でも、言葉は止まらない。
「私は、そういう感情を隠しきれませんでした。オルグレン司祭や周囲は、きっとそれを分かっていたと思います」
「では、あなたの感情が利用されたという認識はあるか」
「あります」
小さな声。
だが、はっきりしていた。
「では、あなた自身の責任はどう考える」
ザイツの問いは容赦がない。
セシリアの喉が震えた。
「私は、直接命じていません。香油の成分も、木片も知りませんでした」
そこで一度、言葉が止まる。
これまでなら、そこで終わっていたかもしれない。
けれど、セシリアは続けた。
「でも、止めませんでした」
リシェルは静かに彼女を見ていた。
「危ういと感じた時に、強く止めなかった。リシェル様がいなくなればいいと、思ったことがあった。その感情を、周囲が使うことを……どこかで分かっていたのに、見ないふりをしました」
書記官の筆音だけが響く。
セシリアは顔を上げ、リシェルを見た。
「ごめんなさい」
昨日より少し強い声だった。
けれど、リシェルはすぐ答えなかった。
謝罪を受け取るには、まだ痛みが深い。
ただ、昨日とは違うことも分かった。
セシリアは、少しだけ自分の影を見始めている。
ザイツ局長がリシェルへ視線を向けた。
「リシェル殿。確認したいことは」
リシェルは息を吸った。
「セシリア様」
「はい」
「あなたは、私が辺境で必要とされていることが許せなかったと言いました」
セシリアの肩が少し揺れる。
「はい」
「それは、私が悪女ではなくなってしまうからですか」
部屋が静まった。
セシリアの目が、涙で少し潤む。
けれど、その涙はこぼれなかった。
「……はい」
小さな返事。
「リシェル様が悪女でなくなると、あの夜の私が正しくなくなってしまうから」
リシェルの胸が痛んだ。
分かっていた。
それでも、本人の口から聞くと痛い。
「私は、あなたの正しさのために悪女でいなければならなかったのですね」
セシリアは唇を震わせた。
「……そうです」
書記官の筆が、その言葉を記録した。
リシェルは目を閉じなかった。
「分かりました」
それだけ言った。
許したわけではない。
けれど、また一つ、あの夜の形が記録の中で崩れた。
聴取後、セシリアは退室前に立ち止まった。
「リシェル様」
呼ばれて、リシェルは振り向いた。
セシリアは白百合の飾りのない髪を少し揺らし、深く頭を下げた。
王都の令嬢としては、深すぎる礼だった。
「今すぐ許してほしいとは言いません」
声は震えていた。
「でも、私は……自分が見なかったものを、見ます」
その言葉は、エドガーが言ったものと似ていた。
リシェルは少しだけ胸が痛くなった。
皆、今になって見ると言う。
でも、見てもらえなかった時間は戻らない。
それでも、見ないままよりはいい。
「見てください」
リシェルは静かに言った。
「私のためだけではなく、あなた自身のために」
セシリアは、泣きそうな顔で頷いた。
控え館へ戻ると、アルヴェインが待っていた。
聴取の内容は、あとで記録として共有される。それでも、彼はリシェルの顔を見てだいたい察したようだった。
「疲れた顔だ」
「疲れました」
「今日は認めるのが早いな」
「学習しました」
リシェルは椅子に座り、深く息を吐いた。
「セシリア様は、自分の影を少し見ました」
「そうか」
「でも、それで私の過去が戻るわけではありません」
「ああ」
「許せるかどうかも分かりません」
「急がなくていい」
アルヴェインは静かに言った。
「王都は何でも形にしたがる。謝罪、和解、処罰、決着。だが、人の心はそんなに早く片づかない」
その言葉が、胸にしみた。
「団長がそれを言うと、重いですね」
「俺も片づいていないものが多いからな」
アルヴェインは自分の脇腹に手を当てた。
古傷。
王都が彼に残したもの。
リシェルは静かに頷いた。
「では、私も急ぎません」
「それでいい」
扉の外からベルンの声がした。
「急がなくていいから飯は食え」
リシェルは思わず笑った。
今日も、笑えた。
それだけで十分だった。
夜、リシェルは記録を書いた。
セシリア追加聴取。
私が辺境で必要とされることが許せなかったと認める。
私が悪女でなくなれば、あの夜の自分が正しくなくなるため。
自身の感情が周囲に利用された認識あり。
直接命令は否定。ただし、危うさを感じながら止めなかったことを認める。
最後に、少し迷ってから一行を加えた。
「白百合は、自分の影を見始めた」
筆を置く。
窓の外には王都の夜があった。
まだ真実はすべて見えていない。
オルグレンの奥に何があるのか。
神殿と王宮のどこまでが関わっているのか。
断罪の夜の文書操作は、誰の意図で始まったのか。
けれど、セシリアは今日、自分の影を口にした。
それは小さいが、確かな亀裂だった。
白百合の花弁の下に隠れていた影が、ようやく記録の上に落ちたのだ。




