第57話 祈りを盾にした司祭
オルグレン司祭の召喚は、翌日の朝に決まった。
王宮監察局の廊下には、昨日までよりも人の気配が増えていた。表向きはいつも通りの王宮だ。役人たちは淡々と歩き、書記官は書類を抱え、警護兵は壁際に立っている。
けれど、空気は明らかに変わっていた。
神殿調合部門の台帳。
リディア・フォルムの拘束。
クラウス・メルデンの証言。
そして、オルグレン司祭の名。
聖女派の中心にいた男が、ついに王宮監察局の部屋へ呼ばれる。
その知らせは、王都の内側を静かに揺らしていた。
リシェルは控え館の一室で、朝から記録の整理をしていた。
今日は、昨日までとは違う。
クラウスは文書係だった。
リディアは調合師だった。
セシリアは聖女候補だった。
しかしオルグレン司祭は、聖女派の実務と神殿内部をつなぐ人物だ。
支援会、調合部門、聖女候補、王都の噂。そのすべてに顔が利く。
つまり、白百合の奥へ進むなら、避けて通れない相手だった。
「眠れたか」
アルヴェインが声をかけてきた。
彼は今日は最初から椅子に座っている。ベルンに朝から釘を刺されたため、無駄に立ち歩くことを諦めたらしい。
「少しは」
リシェルは答えた。
「少しか」
「王都でよく眠れるほど、まだ図太くありません」
「それは困るな」
「困りますか」
「これからもっと図太さが要る」
ひどく現実的な言い方だった。
けれど、たぶん本当だ。
リシェルは小さく息を吐き、机の上の記録へ視線を落とした。
「オルグレン司祭は、簡単には崩れないでしょうね」
「ああ」
「クラウス様のように、文書の責任をぼかすだけではなく、祈りや秩序の話に持っていくはずです」
「得意そうな顔をしていた」
「会ったことが?」
「王都にいた頃、一度だけな。人の言葉を聞いているようで、最初から自分の結論に運ぶ男だった」
アルヴェインの声には、あまり好意がなかった。
いや、かなりない。
「団長がそこまで言うなら、相当ですね」
「俺は人の好き嫌いがはっきりしている」
「知っています」
「お前もだ」
「私はそこまででは」
「ないと思っているのは本人だけだ」
リシェルは少しだけ目を丸くした。
アルヴェインは淡々と続ける。
「お前は嫌いなものを嫌いと言わない。代わりに記録する」
「……それは、嫌っていることになりますか」
「なる」
後ろでベルンが薬瓶を鞄へ詰めながら、低く笑った。
「嫌いなものを記録して保管する女か。王都向きだな」
「先生まで」
「ただし、倒れるな。今日は相手が司祭だ。言葉だけで疲れるぞ」
それは冗談ではなく、医師としての忠告だった。
リシェルは頷いた。
「はい」
怖い。
けれど、今日はその怖さを持ったまま行くしかない。
オルグレン司祭は、おそらく祈りを盾にする。
善意を盾にする。
セシリアの清らかさを盾にする。
だからこそ、こちらは記録を出す。
祈りよりも、症状を。
善意よりも、経路を。
清らかさよりも、台帳を。
それが、辺境で学んだ戦い方だった。
王宮監察局の聴取室へ入ると、オルグレン司祭はすでに席についていた。
白い祭服。
穏やかな顔。
年齢を感じさせる落ち着いた声。
細い指には、祈りの指輪が光っている。
彼はリシェルたちを見ると、ゆっくり立ち上がった。
「アルヴェイン団長。リシェル嬢。辺境からの長旅、お疲れさまでございました」
柔らかい言葉。
礼儀正しい所作。
だが、リシェルはその声を聞いた瞬間、背筋の奥に冷たいものを感じた。
この人は、謝らない。
先に労う。
先に穏やかに包む。
先に善意の形を作る。
そこから話を始める人だ。
「お気遣いありがとうございます」
リシェルは静かに返した。
アルヴェインは短く頷いただけだった。
ザイツ局長が席に着く。
「これより、オルグレン司祭の聴取を行う。確認事項は、聖女派支援会による北西辺境向け支援物資、神殿調合部門との連絡、ならびに聖女派周辺の文書作成指示についてである」
「承知しております」
オルグレンは穏やかに答えた。
「ただ、最初に申し上げておきたい。聖女派支援会は、あくまで辺境の皆様を案じて物資を送ったのでございます。悪意など、あるはずもございません」
出た。
リシェルは胸の中でそう思った。
悪意などない。
善意だった。
支援だった。
祈りだった。
その言葉は、すでに何度も聞いた。
ザイツ局長は表情を変えない。
「悪意の有無は後で判断する。まず事実だ」
その一言で、オルグレンの微笑みがほんの少しだけ固まった。
「北西辺境へ送られた祈祷済み香油について、あなたは知っていたか」
「はい。支援物資の一部として承知しておりました」
「成分は」
「神殿調合部門の秘法でございます。私も詳しい配合までは」
「では、補助誘引材については」
オルグレンの返答が、一瞬だけ遅れた。
ほんの一瞬。
だが、リシェルは見た。
「補助誘引材、でございますか」
「神殿調合部門の台帳に記載がある。祈祷済み香油、補助誘引材、北西辺境方面、対象残滓反応確認用」
ザイツ局長の声は平坦だった。
「あなたは、この台帳記載を知らなかったのか」
「台帳の細部までは存じません」
「細部」
ザイツ局長が、わずかに目を細める。
「対象残滓反応確認用という記載を、細部と呼ぶのか」
聴取室の空気が重くなる。
オルグレンは穏やかな表情を保っていたが、その指が指輪に触れた。
「言葉の選び方が不適切でした。私が申し上げたいのは、調合部門の技術的記録について、私は直接関与していないということです」
「リディア・フォルムには指示を出したか」
「支援物資の準備を依頼したことはあります」
「香油を含めて?」
「はい。ですが、負傷兵の慰めとなるものを、と」
「アルヴェイン団長の古傷に反応するものを、とは?」
「そのような指示は出しておりません」
即答だった。
ザイツ局長は、次の紙を手に取った。
「クラウス・メルデンは、聖女派支援会の文案作成について、あなたから指示を受けたと証言した」
「聖女派支援会の見解をまとめるよう指示しただけです」
「辺境側の報告を“元悪役令嬢による意趣返し”と印象づける文案については」
「私は、そのような表現を直接命じてはおりません」
「直接、か」
ザイツ局長の声がさらに冷えた。
「では、間接的には?」
オルグレンは微笑んだままだった。
「王都には、さまざまな噂がございます。リシェル嬢についても、過去の件が広く知られていた。クラウスが文案を作る中で、その背景に触れたのでしょう」
リシェルの胸が冷たくなる。
過去の件。
その一言で済ませられるものではない。
悪役令嬢として断罪された夜。
聞かれなかった声。
曲げられた手紙。
広げられた噂。
それらを、彼は背景と呼んだ。
「リシェル・フォルディア殿」
ザイツ局長がこちらを見る。
「確認したいことは?」
リシェルは静かに息を吸った。
「はい」
オルグレン司祭が、穏やかな顔でこちらを見る。
その目は、優しげだった。
けれど、少しも温かくなかった。
「オルグレン司祭」
「はい」
「あなたは今、私の過去の件と仰いました」
「ええ」
「その過去の件について、どこまでご存じですか」
オルグレンはわずかに首を傾げた。
「王都で広く知られている範囲でございます。あなたがセシリア様へ強い嫉妬を抱き、いくつかの不適切な行いに及んだと」
「その不適切な行いについて、正式な証拠を確認しましたか」
「当時、レヴェント家と関係者の間で判断されたことと理解しております」
「つまり、ご自身では確認していない」
「私は当事者ではございませんので」
「確認していない噂を、聖女派支援会の文案に利用することは適切ですか」
部屋が静かになった。
オルグレンの微笑みが少しだけ薄くなる。
「利用という言葉は、少し強いのでは」
「では、利用ではなく引用と言い換えます」
リシェルは静かに続けた。
「確認していない噂を、聖女派支援会の立場を守るために引用することは適切ですか」
書記官の筆が走る。
オルグレンはすぐには答えなかった。
「リシェル嬢」
彼は少しだけ声を柔らかくした。
「あなたが過去の件で深く傷ついたことは、理解いたします。しかし、聖女派支援会としては、突然辺境から強い抗議を受けたのです。支援の意図を説明するため、背景に触れることは」
「私の質問は、適切かどうかです」
リシェルは遮った。
自分でも少し驚いた。
以前なら、司祭の柔らかい声に呑まれていたかもしれない。
けれど今は違う。
「確認していない噂を、支援物資に関する事実確認より先に広げることは、適切ですか」
オルグレンの目が、初めてわずかに冷えた。
ザイツ局長は何も言わない。
ただ、答えを待っている。
長い沈黙の後、オルグレンは言った。
「結果として、不適切な面があったかもしれません」
「結果として、ですか」
「はい」
「では、その不適切な文案によって、私への悪評が再び広がったことは認めますか」
「その因果関係は」
「宿場町で、私は実際に聞きました。辺境の元悪役令嬢が聖女様の支援に難癖をつけている、と。記録も提出しています」
オルグレンは黙った。
リシェルは続けた。
「香油に触れた兵の症状、団長の古傷の悪化、神殿調合部門の台帳。それらより先に、私の過去の悪評を広げる意味は何ですか」
答えはなかった。
少なくとも、すぐには。
その沈黙が、ひとつの答えだった。
ザイツ局長は、別の書類を出した。
「オルグレン司祭。リディア・フォルムとのやり取りを記した手控えが押収されている」
オルグレンの指が止まった。
「手控え?」
「リディアの私的記録だ。そこには、“司祭より、辺境団長の残滓反応確認について再確認あり”とある」
空気が凍った。
リシェルは、思わずアルヴェインを見た。
彼は表情を変えなかった。
けれど、目の奥に静かな怒りが浮かんでいた。
「これは何を意味する」
ザイツ局長が問う。
オルグレンは、ゆっくり息を吐いた。
「リディアの記録の解釈に、誤りがあるのでしょう」
「どう誤りなのか」
「辺境へ送る物資が、団長の体質に合わない可能性があると聞き、確認したのです。危険を避けるために」
「なら、なぜ香油は送られた」
「安全と判断されたからです」
「誰が」
「調合部門が」
「リディアか」
「……はい」
逃げ道は、リディアへ向かった。
リディアが判断した。
クラウスが文案を作った。
セシリアは知らなかった。
自分は祈りと支援の責任者であり、細部には関与していない。
美しいほど、責任が分散されている。
リシェルは、その構図を見て胸が冷えた。
王都の大人たちは、こうやって嘘を分け合うのかもしれない。
ひとりでは背負わない。
少しずつ曖昧にして、誰も決定的には悪くない形にする。
けれど、倒れた人はいる。
傷ついた人もいる。
その事実は分散できない。
「オルグレン司祭」
今度はアルヴェインが口を開いた。
低い声だった。
「はい、団長」
「あなたは俺の古傷を知っていたのか」
「王都でそのような噂は」
「噂ではなく、知っていたのか」
短い問い。
オルグレンは、少しだけ目を伏せた。
「以前、王都の治療記録の一部を見たことはございます」
リシェルの胸が強く鳴った。
治療記録。
つまり、知っていた。
「誰の許可で」
アルヴェインの声が冷える。
「神殿関係者として、王都医療記録の確認を」
「俺の許可ではないな」
「当時は、神殿治療班との連携が」
「俺の許可ではないな」
二度目。
今度は部屋の空気が動かなかった。
オルグレンは黙った。
アルヴェインは続けた。
「俺の傷を記録で見た。その性質も知っていた。リディアへ残滓反応について確認した。そして辺境へ香油と木片が届いた」
ひとつずつ並べる。
リシェルがいつもしてきたように。
「それでも、あなたは善意の支援だったと言うのか」
オルグレンは、しばらく沈黙した。
やがて、静かに言った。
「私は、王都と辺境の安定を願っただけです」
その言葉が出た瞬間、ザイツ局長の目が細くなった。
「安定」
リシェルは呟いた。
オルグレンは、少しだけ顔を上げる。
「そうです。辺境で、追放された令嬢が過度に影響力を持ち、王家の血を引く団長がその判断に深く依存する。これは王都から見れば、危うい状況です」
ついに、本音が少し見えた。
リシェルは息を呑まなかった。
ただ、聞いた。
「聖女候補セシリア様は、王都の民心を支える象徴です。その名が辺境で疑われれば、神殿の信頼も揺らぐ。私は、その揺らぎを抑えようとした」
「そのために、香油を送ったのですか」
「支援を送ったのです」
「その支援で人が倒れました」
「予期せぬ反応でした」
「対象残滓反応確認用と台帳にあります」
「調合部門の言葉です」
また、責任が逃げる。
だがもう、逃げ道は細くなっていた。
ザイツ局長が静かに言った。
「オルグレン司祭。あなたの発言は記録された。王都と辺境の安定を目的に、リシェル殿の過去の悪評を利用し、アルヴェイン殿の古傷に関する記録を把握したうえで支援物資に関わった。そう整理される」
オルグレンの顔から、少しだけ血の気が引いた。
「局長、それはあまりに」
「反論があれば、具体的に」
沈黙。
今度の沈黙は、長かった。
聴取が終わったあと、廊下へ出ると、リシェルはようやく息を吐いた。
足元が少し頼りない。
アルヴェインが隣に立つ。
「大丈夫か」
「……少し、腹が立っています」
「いいことだ」
「いいことですか」
「ああ。今のお前は、傷つくより先に怒れている」
そう言われて、リシェルは自分の胸に手を当てた。
たしかに、痛みより怒りが強かった。
オルグレンは、自分を危険な存在のように語った。
追放された令嬢が辺境で影響力を持つことが危うい、と。
王家の血を引く団長がその判断に依存することが危うい、と。
つまり、彼にとってリシェルは人ではなく、王都の秩序を乱す要素だった。
そしてアルヴェインもまた、ひとりの人間ではなく、王都が管理すべき血筋だった。
「私は、危うい存在なのでしょうか」
ぽつりと漏れた。
アルヴェインの目が鋭くなる。
「王都にとってはな」
即答だった。
リシェルは彼を見る。
「俺にとっては、必要な人間だ」
その言葉は、まっすぐだった。
飾りも迷いもない。
胸の奥で、怒りとは別の熱が灯る。
「……ずるいです」
「今日もか」
「今日もです」
少しだけ笑えた。
ベルンが後ろから近づいてきた。
「怒って笑えるなら大丈夫だ。戻って飯を食え」
「先生、そればかりですね」
「王都で一番信用できるのは、食って寝た人間の判断だ」
「名言みたいに言わないでください」
「名言だ」
ベルンは真顔だった。
リシェルは、今度こそ少し笑った。
その日の夕方、王宮監察局はオルグレン司祭の一時拘束を決めた。
表向きの理由は、証言整理および関係文書の保全のため。
だが、実質的には逃亡と証拠隠しを防ぐためだった。
聖女派の中心に、初めて王宮の手が入った。
その知らせは、瞬く間に王都へ広がった。
離宮の温室でそれを聞いたセシリアは、長く黙っていた。
白百合の花は、今日も咲いている。
けれど彼女には、その白が少しずつ崩れて見えた。
オルグレン司祭が拘束された。
リディアも。
クラウスも文書業務を止められた。
次は誰か。
その問いの答えを、セシリアはもう分かっていた。
いずれ、自分にも来る。
直接命じなかったとしても。
詳しく知らなかったとしても。
自分の感情が、どれほど利用されたのか。
そして、自分がどれほど見ないふりをしたのか。
そこからは逃げられない。
「私は……」
言いかけて、声が消えた。
悪くない。
いつもの言葉が、今日は出てこなかった。
控え館に戻った夜、リシェルは今日の記録を書いた。
オルグレン司祭。
辺境で追放令嬢が影響力を持つことを危ういと発言。
王家傍流の団長が私の判断に依存することを危険視。
私の過去の悪評利用を“背景説明”と主張。
団長の古傷に関する治療記録を確認していたことを認める。
王都と辺境の安定を名目に、支援物資を正当化。
そこまで書いて、筆を止める。
そして、最後に一行を加えた。
「祈りを盾にした言葉は、記録の前で少しずつ剥がれた」
扉の向こうから、アルヴェインとベルンの言い合う声が聞こえた。
「もう寝ろ」
「水を取りに」
「人を呼べ」
「そこまででは」
「患者が一人で歩くな」
「俺は団長だ」
「今は患者だ」
リシェルは思わず笑ってしまった。
笑いながら、少しだけ涙が滲みそうになった。
王都は怖い。
でも、この声がある。
辺境から持ってきたものは、記録箱の中だけではない。
自分の周りに、ちゃんとある。
リシェルは筆を置き、深く息を吐いた。
次はいよいよ、聖女候補セシリアの立場そのものが問われるだろう。
白百合の奥は、もう見え始めていた。




