第56話 文書係クラウスは、白い紙に嘘を書く
翌朝、王都には薄い霧がかかっていた。
窓の外に見える屋根も、塔の先も、少しだけ輪郭を失っている。白く霞んだ街は美しく見えた。けれどリシェルは、もうその美しさをそのまま信じることができなかった。
王都は、霧が似合う街だと思った。
見せたいものだけを浮かび上がらせ、見せたくないものを柔らかく隠す。
白百合も、祈りも、涙も、噂も。
遠くから見れば、すべてが清らかに見える。
でも、近づけば匂いがある。
紙の端に残る筆圧がある。
台帳の備考欄に、小さく残された文字がある。
リシェルは机の上に、昨日の聴取記録の写しを並べていた。
エドガーの証言。
マティアスの証言。
断罪の夜に使われた手紙。
簡易筆跡確認を行ったクラウス・メルデンの名。
そして、そのクラウスが現在、聖女派支援会の文書係に移っているという事実。
同じ人物の名が、二つの出来事をつなぎ始めている。
あの夜の手紙。
今回の香油支援文書。
どちらも、紙の上で整えられた嘘だった。
「もう起きているのか」
扉の近くから声がした。
アルヴェインだった。
昨日より顔色はいい。だが、まだ無理をさせていい状態ではない。リシェルは反射的に彼の歩き方を見た。
「足取りは悪くありませんね」
「挨拶より先に診察か」
「患者ですので」
「まだか」
「まだです」
アルヴェインは少しだけ苦い顔をしたが、反論はしなかった。だいぶ学習している。
リシェルは椅子を示した。
「座ってください」
「命令か」
「医務担当としての指示です」
「便利な言葉だな」
「団長が言うことを聞いてくれるので便利です」
そう返すと、彼はほんの少しだけ口元を緩め、素直に椅子へ腰を下ろした。
昨日の聴取の疲れは、リシェルにも残っている。
だが、アルヴェインの古傷にも確実に負担がかかったはずだ。王宮監察局の白い部屋で、古傷の経緯を語ることは、肉体だけでなく心にも響いただろう。
「傷は?」
リシェルが尋ねると、彼は短く答えた。
「重いが、昨夜よりはましだ」
「熱は」
「ない」
「測ります」
「信用がないな」
「九割信用しています」
「残り一割は?」
「王都なので」
アルヴェインは小さく息を吐いた。
「ベルンみたいなことを言う」
「先生に鍛えられていますから」
額に手を当てる。
熱はない。
呼吸も乱れていない。
少しだけ安心する。
「今日、クラウス・メルデンが呼ばれます」
リシェルは言った。
「ああ」
「断罪の夜の手紙と、聖女派支援文書。両方に関わっている可能性があります」
「偶然ではないだろうな」
「そう思います」
そう言うと、胸の奥が少し冷えた。
あの夜、自分を追い詰めた証拠の一つが、今回の事件と繋がるかもしれない。
そうなれば、リシェルの婚約破棄は単なる感情の暴走ではなく、誰かが整えた筋書きだった可能性が強まる。
それを知りたい。
でも、知るのが怖い。
アルヴェインは、その迷いに気づいたようだった。
「無理なら同席しなくてもいい」
「同席します」
リシェルは即答した。
「私の筆跡に似せた手紙の件です。聞きます」
「そうか」
「怖いですけど」
「ああ」
「でも、ここで聞かなかったら、また誰かの紙の上で私が別のものにされる気がします」
アルヴェインの目が静かに細くなった。
「なら、聞け」
「はい」
「俺もいる」
その一言だけで、胸の奥の冷えが少し和らいだ。
王宮監察局の聴取室に入ると、昨日とは少し空気が違っていた。
部屋の形は同じだ。
長机。
書記官。
ザイツ局長。
高い窓。
灰色の壁。
けれど、今日は机の向こうにもう一人の男が座っていた。
クラウス・メルデン。
三十代半ばほどの男だった。細い銀縁の眼鏡をかけ、薄茶の髪をきれいに撫でつけている。文官らしく指先は白く、袖口には紙粉が少しついていた。
顔立ちは整っているが、印象に残りにくい。
まるで、紙の余白のような男だと思った。
彼はリシェルを見ても、大きく表情を変えなかった。ただ、礼儀正しく頭を下げる。
「リシェル・フォルディア様。お久しぶりでございます」
丁寧な声。
王都の文書係らしい、角の取れた声。
リシェルは、その声を聞いて思い出した。
断罪の夜、彼は広間の端にいた。
手紙の写しを持ち、エドガーに「筆跡はリシェル様のものと酷似しております」と告げた男。
あの時、彼の声はもっと遠く聞こえた。
今は、はっきり聞こえる。
「クラウス様」
リシェルは静かに返した。
ザイツ局長が口を開く。
「これより、クラウス・メルデン殿の聴取を行う。主な確認事項は二つ。第一に、リシェル・フォルディア殿の婚約破棄時に提示された手紙の筆跡確認。第二に、聖女派支援会文書係として関わった北西辺境向け支援文書である」
クラウスは軽く頭を下げた。
「承知しております」
声は落ち着いている。
ザイツ局長は、まず例の手紙を机へ置いた。
「この手紙について、あなたは当時、筆跡確認を行った」
「はい」
「正式な鑑定か」
「いいえ。あくまで簡易確認です」
「当時、あなたはどう報告した」
「リシェル様の筆跡に酷似している、と」
「本人の筆跡であると断定したか」
クラウスは少しだけ間を置いた。
「断定はしておりません」
リシェルは、胸の奥が冷えるのを感じた。
断定していない。
ならば、なぜあの夜、その言葉は断定のように扱われたのか。
ザイツ局長は淡々と続ける。
「しかし、当時の場では、この手紙はリシェル殿の悪意を示す証拠として扱われた」
「私は、酷似していると申し上げただけです」
逃げ道のある言い方だった。
紙の上で責任を薄める者の言葉。
リシェルは、静かに手を握った。
ザイツ局長の視線が彼女へ向く。
「リシェル殿。この手紙について、あなたの所見を改めて」
「私の字ではありません」
リシェルは答えた。
「形は似せていますが、筆圧の流れが違います。特に、語尾の払いと、名前を書く時の癖が異なります」
クラウスが、初めて小さく笑った。
「ご本人であれば、そう仰るでしょう」
柔らかな言葉。
けれど、棘があった。
アルヴェインの空気が一瞬冷える。
リシェルは彼より先に口を開いた。
「はい。ですので、私の言葉だけで判断すべきではありません」
クラウスの笑みがわずかに止まる。
「正式な筆跡鑑定をお願いします。私が王都にいた頃の帳面、レヴェント家に残る私の記録、辺境での医務記録。複数を比較してください」
ザイツ局長が頷く。
「すでに手配している」
「ありがとうございます」
クラウスは眼鏡の位置を直した。
「時間が経ったものを比較して、どこまで正確な判断ができるかは」
「それを決めるのは鑑定官だ」
ザイツ局長が遮った。
短い一言だった。
クラウスは口を閉じた。
次に出されたのは、聖女派支援文書だった。
北西辺境補給砦へ、聖女派支援会の名で送られた物資一覧。
薬草、毛布、聖水、祈祷済み香油。
その文面は丁寧だった。
辺境の苦難を案じる言葉。
聖女候補セシリアの祈り。
負傷兵への慰め。
神殿の清め。
読み返すほど、美しい。
だからこそ、気味が悪い。
ザイツ局長は言った。
「この支援文書を整えたのは、あなたか」
「はい。文面の整理を担当しました」
「物資内容の決定は」
「支援会および神殿調合部門からの指示です。私は文書係ですので、内容物の調合や成分には関与しておりません」
これも逃げ道のある言い方だ。
文面は整えた。
中身は知らない。
「祈祷済み香油と記載した理由は」
「神殿側からそのように説明を受けました」
「医療用調合印の有無は」
「存じません」
「対象残滓反応確認用という台帳記載は」
「知りません」
答えは淀みない。
淀みなさすぎる。
リシェルは、クラウスの指先を見た。
彼は紙の端を触る時、必ず右手の中指で軽く押さえる癖がある。文書係らしい動きだ。紙を扱い慣れた者の指。
その指が、手紙の話になるとわずかに速く動いた。
香油の話では、ほとんど動かない。
彼にとって隠したい中心は、香油ではなく手紙のほうなのかもしれない。
「質問してもよろしいですか」
リシェルは静かに言った。
ザイツ局長が頷く。
「許可する」
クラウスは薄く微笑んだ。
「どうぞ」
「クラウス様は、断罪の夜に使われた手紙の筆跡確認を“簡易確認”と仰いました」
「はい」
「では、なぜその場で“正式鑑定が必要です”と補足しなかったのですか」
クラウスの目が一瞬止まった。
小さな変化。
だが、あった。
「場の流れもございましたので」
「場の流れ?」
「すでに複数の証言がありました。私はあくまで、筆跡が酷似していると申し上げただけです」
「その“だけ”が、私を断罪する証拠の一つになりました」
部屋が静かになる。
リシェルは続けた。
「あなたは文書係です。言葉の重さも、注釈の有無が文書の意味を変えることもご存じだったはずです」
クラウスの笑みが少し薄くなる。
「リシェル様は、私に責任を負わせたいのですか」
「いいえ」
リシェルは首を振った。
「責任の所在を記録したいだけです」
ザイツ局長の目が、わずかに鋭くなった。
書記官の筆が走る。
「あなたが断定していないのなら、当時“断定ではない”と記録されるべきでした。けれどそうはならなかった。誰がその曖昧さを断定に変えたのか、それを知りたいです」
クラウスは口を閉じた。
リシェルは、もう一つ紙を出した。
自分が持参した宿場町での噂の記録だ。
「昨日、王都近くの宿場で、私は“辺境の元悪役令嬢が聖女様の支援に難癖をつけている”という噂を聞きました。文言が、聖女派支援会周辺の説明に近いと感じています」
クラウスの眉がわずかに動く。
「噂を私に?」
「まだあなたに結びつけるとは言っていません。ただ、言葉は自然発生しません。誰かが整え、広げ、繰り返します。あなたは聖女派支援会の文書係です。今回の件に関し、辺境側の報告を“元悪役令嬢の意趣返し”と表現した文書、あるいは口頭説明に関わりましたか」
沈黙。
長くはなかった。
けれど、確かにあった。
クラウスは静かに言った。
「私は、聖女派支援会の立場を説明する文案を作成しました」
「その中に、私の過去の婚約破棄に触れる文言は?」
「文脈上、必要と判断した箇所はあります」
リシェルの胸が冷えた。
「つまり、今回の香油に関する辺境側の報告を、私個人の過去と結びつける文章を作ったのですね」
「聖女派支援会への不当な攻撃である可能性を示すためです」
「不当かどうかは、事実確認の後に判断されるべきです」
リシェルの声は静かだった。
「ですが、あなたの文書は先に印象を作った」
クラウスの表情が、ほんの少しだけ崩れた。
ザイツ局長が書記官へ視線を向ける。
「聖女派支援会が配布、または口頭説明用に使用した文案をすべて押収しろ」
「はい」
「クラウス殿。あなたは当面、監察局の許可なく文書業務に携わることを禁ずる」
クラウスの顔色が変わった。
「局長、それは」
「文書による印象操作の疑いがある」
「私は指示に従っただけです」
「誰の指示か」
クラウスは黙った。
沈黙。
今度の沈黙は、逃げ場を探す沈黙だった。
ザイツ局長の声が冷える。
「誰の指示か」
クラウスは、長く目を伏せた。
やがて、小さく言った。
「オルグレン司祭です」
部屋の空気が変わった。
オルグレン司祭。
聖女派幹部。
リディアに続き、ようやく中心に近い名が出た。
リシェルは、胸の奥で静かに息を吸った。
紙に書かれた嘘の奥から、書かせた者の影が見え始めている。
聴取後、控え室でエドガーが待っていた。
彼も別室で話を聞いていたらしい。顔は硬い。
「オルグレンの名が出たな」
「はい」
リシェルは答えた。
「断罪の夜にも、今回の支援文書にも、聖女派の文書操作が関わっていた可能性が高まりました」
エドガーは目を伏せる。
「私は、その文書に踊らされた」
「踊らされたとしても、踊ることを選んだのはあなたです」
少し厳しい言葉になった。
だが、エドガーは怒らなかった。
「ああ」
短く頷いた。
「その通りだ」
アルヴェインは、二人のやり取りを黙って見ていた。
リシェルは少しだけ息を吐く。
今日の聴取は、昨日とは違う疲れがあった。
セシリアの涙ではなく、クラウスの整った言葉。
紙の上で責任をぼかす人間の怖さ。
そして、噂が意図的に作られていた可能性。
王都の戦い方は、やはり辺境とは違う。
「リシェル殿」
エドガーが言った。
「君の質問がなければ、クラウスはもっと逃げたと思う」
「私が聞きたかっただけです」
「それでも、聞いた」
彼は静かに言った。
「昔の私は、聞かなかった」
リシェルは何も言わなかった。
その沈黙を、エドガーは責めとは受け取らなかったようだ。
ただ、深く頭を下げた。
控え館へ戻った頃には、外は暗くなっていた。
リシェルは部屋に戻るなり、今日の記録を開いた。
クラウス・メルデン。
断罪の夜の手紙は「酷似」とのみ確認。正式鑑定ではない。
当時、断定ではないとの補足なし。
聖女派支援会の文案作成に関与。
辺境側報告を「元悪役令嬢の意趣返し」と印象づける文案を作成。
指示者としてオルグレン司祭の名。
書いているうちに、胸の奥が少しずつ冷えていく。
怒りではない。
理解が進む時の冷たさだった。
あの夜も、今回も、誰かが言葉を整えていた。
手紙。
証言。
支援文書。
噂。
人は剣だけで傷つくわけではない。
白い紙に書かれた嘘で、人生は簡単に曲げられる。
リシェルは、最後に一行を書いた。
「文書係クラウスは、白い紙に嘘を書いた。ただし、嘘は紙に残る」
筆を置く。
扉が軽く叩かれた。
アルヴェインだった。
「まだ書いていたか」
「今日の分だけです」
「それが長い」
「必要なので」
「知っている」
彼は部屋に入り、机の上の記録へ視線を落とした。
「オルグレンの名が出た」
「はい」
「次は、聖女派の中心だ」
「怖いですね」
「ああ」
「でも、少しだけ……近づいている気がします」
「何に」
リシェルは少し考えた。
「真実に、というより、あの夜の形がどう作られたのかに」
アルヴェインは静かに頷いた。
「なら、見届けろ」
「はい」
「ただし、今日は寝ろ」
「団長も」
「俺も寝る」
「本当に?」
「本当に」
「では、信用します」
「何割だ」
「今日は八割」
「減ったな」
「王都なので」
アルヴェインは小さく笑った。
その笑いを見て、リシェルも少しだけ笑えた。
王都の白い紙に、嘘は書かれた。
けれど、嘘もまた記録に残る。
それを見つける目を、今のリシェルは持っている。




