第55話 涙では消えない記録
控え館へ戻ったあと、リシェルはしばらく椅子に座ったまま動けなかった。
体が痛いわけではない。
熱があるわけでもない。
ただ、胸の奥に重い石を置かれたような感覚があった。
王宮監察局の白い部屋。
ザイツ局長の淡々とした声。
書記官の筆音。
セシリアの震える声。
――嫌いでした。
――怖かったからです。
――そうなら、私が悪くないと思えたから。
言葉は、まだ耳に残っていた。
リシェルは膝の上で手を重ねた。
不思議だった。
怒鳴りたいわけではない。
泣き崩れたいわけでもない。
けれど、何かが静かに壊れて、同時に何かが静かにほどけたような気がしていた。
あの夜、自分は理由も分からず悪役にされた。
嫉妬深い女。
聖女候補を傷つけた令嬢。
婚約者に捨てられて当然の女。
その物語は、あまりにも滑らかに王都へ広がった。誰もが分かった顔をして頷き、リシェルの言葉は、その滑らかな物語の上を滑って落ちていった。
今日、その物語の中心にいたセシリアが言った。
信じたかった、と。
それは、ひどく小さく、ひどく残酷な答えだった。
「飲め」
低い声がして、目の前に湯気の立つ器が置かれた。
ベルンだった。
「薬ですか」
「湯だ。少しだけ草を入れた」
「それは薬では」
「黙って飲め」
いつものやり取り。
それだけで、呼吸が少し戻った。
リシェルは器を両手で包み、少しずつ飲んだ。苦味は弱い。喉を通ると、胸の奥の冷えが少しだけ和らいだ。
アルヴェインは窓際に立っていた。
本当なら長く立っていてはいけない。けれど今、リシェルはそれを咎める気力がなかった。彼もそれを分かっているのか、窓辺から動かず、ただこちらを見ていた。
「大丈夫か」
何度も聞かれた問い。
リシェルは器を見つめた。
「大丈夫ではありません」
正直に言った。
「そうか」
「でも、壊れてはいません」
「ああ」
「それが、少し不思議です」
昔なら、きっと耐えられなかった。
セシリアの口から「嫌いだった」と聞いたら、その場で崩れていたかもしれない。自分がどれほど理不尽に悪役へ押し込まれたのかを知ったら、怒りで何も見えなくなっていたかもしれない。
けれど今は、違う。
痛い。
でも、立てる。
それはたぶん、辺境で痛み以外のものを得たからだ。
「今日、ようやく分かりました」
リシェルは小さく言った。
「私は、セシリア様に嫌われていたんですね」
アルヴェインの目が少しだけ険しくなる。
「その言い方は軽すぎる」
「軽く言わないと、重すぎるので」
そう答えると、彼は何も言わなかった。
代わりに、ゆっくり近づいて、向かいの椅子へ腰を下ろした。
ちゃんと座った。
それだけで、少しだけ安心する。
「嫌われていたからといって、お前が悪役になる理由にはならない」
「はい」
「怖かったからといって、お前の人生を壊していい理由にもならない」
「はい」
「謝罪されたからといって、今日許す必要もない」
リシェルは顔を上げた。
アルヴェインは、まっすぐこちらを見ていた。
「覚えておけ」
その声は低かった。
「涙は記録を消さない」
胸の奥に、その言葉が落ちた。
涙は記録を消さない。
セシリアが泣いても。
エドガーが悔いても。
王都が美しい言葉で包もうとしても。
起きたことは消えない。
リシェルが失った時間も、辺境で積み直した時間も、すべてそこにある。
「……はい」
リシェルは頷いた。
「忘れません」
ベルンが横からぼそりと言った。
「忘れたら儂が言う」
「先生も?」
「何度でもな」
その言い方があまりに不器用で、リシェルは少しだけ笑った。
笑うと、胸の奥の石がほんの少しだけ軽くなった。
翌朝、監察局の聴取はエドガーから始まった。
リシェルは同席を求められた。
理由は、断罪の夜に関する証言が、今回の聖女派支援物資の信用操作と関わる可能性があるためだった。
王宮監察局の白い部屋に、再び入る。
昨日と同じ机。
同じ書記官。
同じ無駄のない空気。
違うのは、机の向こう側に座るエドガーの顔だった。
彼は昨夜よりさらに疲れて見えた。だが、その目は逃げていなかった。隣にはマティアスが控え、数冊の帳面と写しを抱えている。
ザイツ局長が淡々と口を開く。
「エドガー・レヴェント殿。あなたは、リシェル・フォルディア殿との婚約を破棄した夜の当事者である。今回の調査に関連し、その時の証拠と証言の出所を確認したい」
「はい」
エドガーは頷いた。
「まず、当時リシェル殿がセシリア殿を害したと判断した根拠は」
エドガーの指が、机の上でわずかに強張った。
「手紙、侍女の証言、茶会での香油すり替え疑惑、セシリアへの悪意ある噂。そして、セシリア本人の訴えです」
「それらの証拠を、あなたは自分で確認したか」
短い問いだった。
エドガーは一瞬だけ目を伏せた。
「十分には、していません」
書記官の筆が走る。
リシェルは静かに座っていた。
心臓は少し早い。
けれど、昨日よりは落ち着いていた。
「十分には、とは」
ザイツ局長が問う。
「セシリアの証言と涙を重く見ました。周囲の者が同じ方向の話をしたため、私の中で結論が先に固まっていました。手紙の筆跡、香油の入手経路、侍女の利害関係、噂の出所……それらを精査しませんでした」
エドガーの声は低い。
だが、はっきりしていた。
「私は、リシェル殿の言葉を最後まで聞かなかった」
部屋が静まる。
その言葉は、昨日のセシリアの告白とは違う重さを持っていた。
セシリアは、自分の恐れを語った。
エドガーは、自分の怠慢を語っている。
どちらも、リシェルを悪役にした夜の一部だった。
「当時、リシェル殿は弁明したか」
「しました」
エドガーは即答した。
「しかし、私は聞きませんでした」
リシェルは、膝の上で手を握った。
やっと。
その言葉が、胸の奥で小さく響いた。
やっと、あの夜の自分の声が、なかったことにされずに記録されている。
ザイツ局長は表情を変えない。
「マティアス殿。あなたは当時、レヴェント家の執事見習いとして周辺実務を見ていたと聞いている」
「はい」
「リシェル殿が担っていた実務について証言を」
マティアスは姿勢を正した。
「リシェル様は、レヴェント家における贈答管理、茶会準備、侍女の体調記録、来客の好みの整理、季節ごとの薬草茶の調整などを、正式な役職ではないにもかかわらず継続的に担っておられました」
ザイツ局長の眉がわずかに動いた。
「正式な役職ではない?」
「はい。婚約者としての気遣い、令嬢としての配慮という扱いでした。しかし実質的には、屋敷運営の一部を支えるものでした」
リシェルは、視線を落とした。
マティアスは続ける。
「リシェル様がいなくなった後、屋敷では冬期贈答、茶葉管理、侍女の配置、客人対応に複数の乱れが出ました。記録が残っております」
「提出を」
「こちらです」
マティアスが帳面を差し出す。
書記官が受け取り、ザイツ局長へ渡した。
ザイツ局長は数枚めくり、リシェルを見る。
「リシェル殿。この記録に誤りは?」
「ありません」
「あなたは、当時これらの実務負担について申し出たことがあるか」
「あります」
リシェルは答えた。
声は静かだった。
「けれど、正式な仕事として扱われることはありませんでした」
「誰に申し出た」
「エドガー様に。執事長にも一部相談しましたが、婚約者としての立場が曖昧だったため、正式な指示系統には乗りませんでした」
エドガーが目を伏せた。
「その申し出を、私は軽く扱いました」
自分から言った。
リシェルは少しだけ彼を見た。
エドガーは苦しそうだった。
だが、逃げなかった。
「なるほど」
ザイツ局長は帳面を閉じた。
「つまり、当時のリシェル殿は“悪意ある妨害者”として扱われたが、同時期に複数の家務実務を支えていた事実がある」
「はい」
エドガーとマティアスが同時に答えた。
リシェルは、その一文が記録されるのを聞いた。
悪意ある妨害者。
家務実務を支えていた事実。
その二つが、初めて同じ紙の上に並んだ。
次に出されたのは、断罪の夜に使われた手紙の写しだった。
リシェルはその紙を見た瞬間、指先が冷たくなるのを感じた。
覚えている。
セシリアを傷つける言葉が書かれた手紙。
自分の筆跡に似せられた文字。
あの夜、証拠として掲げられた紙。
ザイツ局長は、それを机の中央へ置いた。
「筆跡鑑定は当時行われたか」
エドガーが答える。
「簡易的な確認のみです」
「誰が」
「セシリア側に近い書記官が」
部屋の空気が少し冷えた。
「その者の名は」
「クラウス・メルデン」
マティアスが補足する。
「現在、聖女派支援会の文書係に移っています」
書記官の筆が速く動いた。
ザイツ局長の目が細くなる。
「聖女派支援会の文書係」
「はい」
「今回の支援物資の文書にも関わっている可能性は」
「調査中です」
リシェルは黙って聞いていた。
線がまた一つ繋がる。
断罪の夜の手紙。
聖女派支援会。
文書係。
香油の支援文書。
王都の物語は、やはり一本ではない。
いくつもの細い糸が絡んでいる。
「リシェル殿」
ザイツ局長が声をかけた。
「この手紙について、あなたの見解は」
リシェルは紙を見た。
胸は痛む。
けれど、もう目を逸らさなかった。
「私の筆跡に似せていますが、私の字ではありません」
「理由は」
「筆の入りが違います。私は縦画の始まりに少し間を置く癖があります。この手紙は、形だけを似せていて、筆圧の流れが違う。特に、名前を書く時の最後の払いが不自然です」
ザイツ局長は書記官へ合図した。
「筆跡鑑定官へ回せ」
「はい」
「当時の鑑定記録も取り寄せる」
リシェルは息を吐いた。
あの夜、聞かれなかったことが、今聞かれている。
それだけで、過去の暗闇に少しだけ光が入る気がした。
休憩時間、エドガーは控え室の前でリシェルを呼び止めた。
アルヴェインは少し離れたところにいた。
見える距離。
何かあればすぐ来られる距離。
エドガーはそれを見て、少しだけ苦笑した。
「団長は、本当に君をよく見ている」
「見張られているような時もあります」
「それは、心配しているのだろう」
「分かっています」
リシェルは答えた。
その言葉に迷いがなかったからか、エドガーの顔にかすかな痛みが走った。
「今日、言わなければならないと思った」
彼は低く言った。
「あの夜、君の声を聞かなかったと」
「はい」
「それで何かが償えるわけではない」
「そうですね」
リシェルは否定しなかった。
エドガーは深く息を吐いた。
「でも、記録には残った」
「はい」
「それだけでも、意味はあるだろうか」
問いは弱かった。
リシェルは少し考えた。
「あります」
エドガーが顔を上げる。
「あの夜、私は聞かれませんでした。今日、聞かれなかったことが記録されました。それは、意味があります」
「そうか」
「でも、それで終わりではありません」
「ああ」
「これから、当時の証言がどこから来たのか。誰が何を並べたのか。見てください」
エドガーは、まっすぐ頷いた。
「見る」
短い返事。
けれど、以前より信用できる気がした。
信用しきるわけではない。
ただ、彼が今度こそ目を逸らさないかどうかを、見てもいいと思った。
午後の聴取では、聖女派支援会の文書係クラウス・メルデンの名が正式に浮上した。
彼は、香油支援文書の整備にも関わっていた。さらに、断罪の夜に使われた手紙の簡易筆跡確認を行った人物でもあった。
ザイツ局長は、その名を聞いても表情を変えなかった。
ただ、短く命じた。
「クラウス・メルデンを召喚」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
断罪の夜と、今回の香油事件。
別々だったはずの二つが、同じ人物の名で繋がり始めた。
リシェルは、机の上の記録を見つめた。
涙では消えない記録。
アルヴェインの言葉が、胸に残っている。
セシリアの涙。
あの夜の涙。
昨日の謝罪の涙。
それらは、確かに人の心を揺らす。
けれど、記録は消えない。
そして今、消されなかった記録が、王都の奥へ進み始めている。
その日の聴取が終わった頃、王宮の窓の外は夕焼けに染まっていた。
控え館へ戻る馬車の中で、リシェルは記録箱に手を置いた。
中身は少し減っている。
ミラの木札は証拠品として写しを取られ、手紙の筆跡確認も始まった。香油瓶と木片も、監察局の管理下に入った。
自分の手から離れたことに不安もある。
けれど、それは同時に、王宮の正式な記録になったということでもある。
アルヴェインが隣で言った。
「疲れた顔をしている」
「疲れました」
「今日は認めるのが早いな」
「学びました」
「いいことだ」
ベルンが向かいで頷く。
「飯を食って寝ろ」
「そればかりですね」
「基本が一番難しい」
本当にそうだと思った。
控え館へ戻ったら、たぶんまた書きたいことが山ほど出てくる。
今日の聴取。
エドガーの証言。
手紙の筆跡。
クラウス・メルデンの名。
セシリアの涙では消えなかったもの。
けれど、今夜は少しだけ休もう。
そう思える自分に、リシェルは少し驚いた。
辺境に来る前なら、休むことに罪悪感があった。
今は、休むことも明日の準備だと分かる。
「団長」
「何だ」
「今日、隣にいてくれて助かりました」
アルヴェインは一瞬だけ黙った。
それから、視線を窓の外へ逸らす。
「そうか」
「照れました?」
「疲れているだけだ」
「熱は?」
「ない」
「後で測ります」
「……分かった」
ベルンが低く笑った。
「よし。患者が素直だ」
「私は患者では」
「まだ患者だ」
アルヴェインは反論を諦めた。
その横顔を見て、リシェルは小さく笑った。
今日、王都の記録に新しい線が引かれた。
断罪の夜と、香油事件。
涙と、台帳。
噂と、証拠。
まだ全ては見えていない。
けれど、確かに奥へ進んでいる。
リシェルは窓の外に流れる王都の景色を見た。
かつて自分を悪役にした街。
その街の中で、ようやく自分の声が記録され始めていた。




