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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第54話 王宮監察局の白い部屋

 王宮監察局の廊下は、神殿ほど白くはなかった。


 石の色は少し灰色がかり、壁の装飾も少ない。花も香炉もない。あるのは、磨かれた床と、重い扉と、無駄のない足音だけだった。


 リシェルは、その廊下を歩きながら、自分の手が思ったより冷えていないことに気づいた。


 緊張はしている。


 胸の奥は、ずっと細い糸で引っ張られているようだった。


 けれど、足は止まらない。


 左手には記録箱。

 右側にはアルヴェイン。

 少し後ろにはベルンと、王宮から指定された書記官。

 さらに護衛として、辺境騎士が二人。


 ひとりではない。


 それだけで、廊下の長さは少し違って感じられた。


「顔色は悪くない」


 隣から、アルヴェインが低く言った。


「団長もです」


「俺は聞いていない」


「私も聞かれていません」


「言うようになったな」


「王都なので、少し強くしておこうかと」


 そう返すと、アルヴェインの口元がごくわずかに緩んだ。


 その直後、後ろからベルンがぼそりと言う。


「二人とも、扉の前で漫才を始めるな」


「漫才ではありません」


「似たようなものだ」


 リシェルは少しだけ息を抜いた。


 ベルンは、こういう時ほど普段通りに振る舞う。

 それがありがたかった。


 扉の前で、案内役の役人が立ち止まる。


「こちらです」


 厚い扉が開いた。


 王宮監察局の聴取室は、思っていたよりも簡素だった。


 中央に長机。

 向こう側に監察局長ザイツと、数人の書記官。

 壁際には王宮の警護兵。

 窓は高く、外の光は入るが、街の喧騒は届かない。


 部屋の空気に香りはなかった。


 それが、リシェルには少しだけ救いだった。


 ザイツ局長は、灰色の髪を後ろへ撫でつけた痩せた男だった。感情を見せない顔。けれど目だけは、紙の隙間に隠れた小さな矛盾まで見つけるような鋭さがある。


「北西辺境騎士団長、アルヴェイン殿」


「はい」


「医務・補給連携担当、リシェル・フォルディア殿」


「はい」


 自分の名が王宮の部屋に響いた。


 フォルディア。


 かつて断罪された名。


 けれど今、その後ろには別の肩書きがついている。


 医務・補給連携担当。


 それは、リシェルが辺境で得た役目だった。


「本日は、聖女派支援物資、神殿調合部門出荷記録、および北西辺境補給砦で発生した複数の事案について聴取する」


 ザイツ局長の声は淡々としていた。


「まず確認する。ここは断罪の場ではない。事実確認の場である」


 その一言に、リシェルの胸が小さく震えた。


 断罪の場ではない。


 まるで、こちらの過去を知ったうえで言っているようだった。


「発言はすべて記録される。推測は推測として、所見は所見として、事実は事実として述べるように」


「承知しました」


 リシェルは静かに答えた。


 ザイツ局長の視線が、一瞬だけ彼女に向いた。


「では、始めよう。リシェル・フォルディア殿。あなたが提出した報告書の作成経緯を説明してください」


 最初から、自分に来た。


 リシェルは記録箱を開けた。


 手順は何度も確認した。

 香油の記録から入るか、偽薬草から入るか。

 白百合符丁をどのタイミングで出すか。

 ミラの木札は、軽く扱われないようにどこで示すか。


 迷わず、一番最初の偽薬草から出すことにした。


「発端は、北西辺境補給砦へ届いた薬草荷の検分です」


 リシェルは写しを机へ置いた。


「見た目は通常の乾燥薬草に似せられていましたが、乾燥の具合、紐の新しさ、香りに違和感がありました。箱底には白百合に似た符丁が刻まれていました」


 書記官の筆が動く。


「その白百合符丁について、当初から聖女派との関連を疑ったのですか」


 ザイツが問う。


「いいえ」


 リシェルは即答した。


「白百合そのものは王都で広く使われる意匠です。花の形だけで聖女派と断定することはできません。ですので、最初の時点では“荷の識別符丁の可能性”として記録しました」


 ザイツの目が少し動く。


「断定しなかった理由は」


「証拠が足りなかったからです」


「よろしい」


 短い言葉だった。


 それでも、リシェルは少しだけ息がしやすくなった。


 この人は、感情より手順を見る。


 ならば、話せる。


「その後、西の林縁村で同系統の偽薬草が確認されました」


 リシェルは、小箱を取り出した。


 布をほどき、ミラの木札を机に置く。


 王宮の長机の上に、小さな木札が置かれた。


 それは、この部屋では明らかに異質だった。


 上質な紙、王宮の封蝋、神殿の写し。その中に、村の少女が書いた木札。


 書記官のひとりが、わずかに眉を動かした。


 リシェルは見逃さなかった。


 けれど、声は変えなかった。


「これは、西の林縁村の少女ミラが書いた証言です。彼女は事前に配布した白百合符丁の注意札と薬草見分け表を見て、村へ入ろうとした偽薬草を見抜きました」


 ザイツ局長は木札を手に取った。


 しばらく、黙って読んだ。


「字は幼いが、内容は明確だな」


「はい」


「この証言を重視した理由は」


「実際に被害を防いだからです」


 リシェルはまっすぐ答えた。


「王都式の文書ではありません。けれど、彼女が匂い、紐、箱底の印を確認し、不審と判断して砦へ知らせたことで、村に偽薬草が入るのを防ぎました。身分や年齢より、何を見て何を判断したかを重視しました」


 部屋の空気が、わずかに変わった。


 王都の場で、村娘の証言を堂々と出す。


 それは、リシェル自身が思っていた以上に強い行為だったのかもしれない。


 ザイツ局長は木札を丁寧に置いた。


「証拠品として扱う。写しを取れ」


 書記官がすぐに動いた。


 リシェルは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 ミラの木札が、王宮で証拠品として扱われた。


 それだけで、ここへ来た意味がひとつ生まれた気がした。


 次に、香油の話へ移った。


 リシェルは聖女派支援物資として届いた香油瓶を示した。封印済みの箱から取り出し、瓶底の印が見えるように布の上へ置く。


「この香油に少量触れた兵イアンに、発熱、発汗、頭重感、白い花の匂いの残留感、軽い幻覚が出ました」


「使用箇所は」


「傷口ではありません。手首付近の皮膚です。量もごく少量でした」


「洗浄は」


「すぐに行いました」


「それでも症状が出た」


「はい」


 ザイツ局長は、別の紙を手に取った。


「神殿側は、体質による過敏反応の可能性を主張している」


「その可能性は完全には否定しません」


 リシェルは答えた。


「ですが、過敏反応であるとしても、成分不明の調合物を広く負傷兵へ使用することはできません。特に、傷口への使用は危険と判断しました」


「祈祷済み香油という扱いだったが」


「祈祷品であっても、身体へ使用するなら医務判断が必要です」


 ザイツ局長の筆が止まる。


「その考えは、あなた個人のものか」


「北西辺境補給砦医務棟の判断です」


 言い切った。


 自分一人ではない。


 ベルンの所見があり、アルヴェインの承認があり、イアンの症状があり、砦の方針がある。


「ベルン殿」


 ザイツが顔を向けた。


「あなたの所見は」


 ベルンは椅子に浅く座ったまま、不機嫌そうに腕を組んでいた。


 王宮の場でも、まるで医務棟と変わらない態度だった。


「薬として見るなら危険。祈りとして見るなら知らん。だが、肌に触れて具合が悪くなる油を、傷口へ塗る馬鹿はいない」


 部屋の書記官が一瞬、筆を止めた。


 ザイツ局長は眉ひとつ動かさなかった。


「記録には、表現を整えて残す」


「好きにしろ」


 ベルンの返答は雑だった。


 リシェルは少しだけ頭が痛くなったが、ザイツ局長はむしろ理解したように頷いた。


「所見は明確だ」


 それでいいらしい。


 最後に、アルヴェインの古傷と木片の件へ移った。


 その瞬間、部屋の空気がさらに重くなった。


 王宮監察局にとっても、ここが本題なのだろう。


「アルヴェイン殿」


 ザイツ局長が言った。


「あなたの古傷について、話せる範囲で説明を願う」


 リシェルは隣を見た。


 アルヴェインの横顔は静かだった。


 けれど、その手が肘掛けを軽く握っていることに気づいた。


「王都滞在時に受けた傷だ」


 彼は低く言った。


「刃傷ではない。毒性調合と呪の混ざったものが原因と見ている。処置は受けたが、残滓が残った。以降、特定の香油や薬煙で反応することがある」


「今回の木片による煙は、その反応を起こした」


「ああ」


「見張り小屋で使われた木片は、通常の薪に混入していたと」


「報告ではそうだ」


 ガレスは今回同行していない。だが、補給記録は持参している。


 リシェルはその写しを出した。


「こちらが西壁見張り小屋の燃料記録です。通常の薪とは異なる乾燥木片が混入しており、燃焼後、団長の古傷が急激に悪化しました」


「症状は」


「発熱、脈の乱れ、幻覚、傷周囲の赤筋。香油に触れた兵イアンの症状と一部共通しています。ただし、団長のほうがはるかに強く出ました」


「理由は」


「古傷に残る毒性残滓が誘引成分に反応したためと見ています」


「断定か」


「所見です」


 リシェルは答えた。


「ですが、神殿調合部門の台帳に“対象残滓反応確認用”との記載が見つかった以上、この所見の蓋然性は高まったと考えます」


 ザイツ局長の目が、初めてわずかに鋭く光った。


「その言葉を、あなたはどう解釈する」


 リシェルは、一度だけ息を吸った。


 ここからは、重い。


 けれど逃げない。


「対象とは、団長の古傷に残る毒性残滓。反応確認用とは、その残滓がどの程度刺激されるかを見る目的で作られた調合品、または補助材を指す可能性があります」


 部屋が静まり返った。


「つまり」


 ザイツ局長が言った。


「王都側の誰かが、アルヴェイン殿の古傷の性質を知ったうえで、それを刺激する物を辺境へ送った可能性がある、と」


「はい」


 声は震えなかった。


 アルヴェインも何も言わなかった。


 ただ、隣にいる。


 それだけで十分だった。


 聴取は、一度休憩を挟んだ。


 控え室に戻ると、リシェルはようやく深く息を吐いた。


 思った以上に体に力が入っていたらしい。肩が重い。


「よく話した」


 アルヴェインが言った。


「まだ終わっていません」


「ああ。だが、よく話した」


 その言葉が、胸にしみた。


 ベルンが薬草茶の器を差し出す。


「飲め」


「王都の茶は疑えと言ったのに」


「これは儂が淹れた」


「なら安心です」


 一口飲むと、苦かった。


 やっぱり苦かった。


「先生」


「効く」


「まだ何も言っていません」


「顔が言っている」


 リシェルは少しだけ笑った。


 そこへ、扉が叩かれた。


 王宮の書記官が顔を出す。


「次の聴取に移ります。セシリア・エルンスト様が到着されました」


 空気が止まった。


 セシリア。


 リシェルの胸が、静かに鳴る。


 ついに会うのだ。


 あの夜以来、初めて。


 王宮監察局の場で。


 アルヴェインがリシェルを見る。


「無理なら」


「行きます」


 答えは自然に出た。


「彼女の話も、聞きます」


 エドガーが言ったように。


 今度は、最後まで聞く。


 そして、自分も最後まで話す。


 リシェルは記録箱の蓋を閉じ、立ち上がった。


 聴取室へ戻ると、そこにセシリアがいた。


 白いドレス。

 淡い金の髪。

 少し青ざめた顔。

 それでも、彼女は美しかった。


 王都の白百合そのもののように。


 だが、以前と違って見えた。


 完璧な聖女候補ではない。

 少し疲れた、怖がっているひとりの女性だった。


 セシリアも、リシェルを見た。


 その目が揺れる。


 あの夜のように涙を武器にした顔ではなかった。


 少なくとも、最初の一瞬は。


「リシェル様」


 セシリアが小さく言った。


 その声を聞いて、胸の奥に古い痛みが触れた。


 けれど、リシェルは俯かなかった。


「セシリア様」


 静かに返す。


 ザイツ局長が二人を見比べ、淡々と告げた。


「これより、セシリア・エルンスト殿の聴取を行う。リシェル・フォルディア殿、アルヴェイン殿には、必要に応じて確認を求める」


 セシリアは椅子に座った。


 リシェルも座る。


 同じ部屋で、同じ机を挟んで。


 断罪の夜とは違う。


 今回は、誰かの涙だけで場が決まることはない。


 書記官の筆が、静かに動き始めた。


 ザイツ局長の最初の問いは、短かった。


「セシリア・エルンスト殿。あなたは、聖女派支援物資として北西辺境へ送られた香油の成分を知っていましたか」


 セシリアは、ゆっくり首を振った。


「知りませんでした」


「補助誘引材、乾燥木片の存在は」


「知りません」


「リディア・フォルムが調合に関わっていたことは」


「彼女が私の体調管理に関わっていたことはあります。でも、辺境への支援物資を作っていたことは……知りませんでした」


 声は震えていた。


 だが、リシェルはその震えをすぐ嘘とは決めつけなかった。


 見る。


 聞く。


 記録する。


 ザイツ局長は続けた。


「では、あなたはリシェル・フォルディア殿に対し、どのような感情を抱いていましたか」


 セシリアの顔色が変わった。


 部屋の空気が静かになる。


 この問いが来るとは、彼女も分かっていただろう。


 それでも、実際に問われると重い。


 セシリアはしばらく黙っていた。


 そして、小さく言った。


「……嫌いでした」


 書記官の筆が止まりかけ、すぐに動き出す。


「理由は」


「怖かったからです」


 セシリアは膝の上で手を握った。


「リシェル様は、いつも見ていました。私が泣いても、皆が私を慰めても、リシェル様だけは……その奥にあるものを見ようとしていた。私は、それが怖かった」


 リシェルは、何も言わなかった。


 セシリアの声は続く。


「あの夜、リシェル様が悪い人だと言われた時、ほっとしました。これで、もうあの目を見なくて済むと思いました」


 その言葉は、刃のようだった。


 けれど、装飾はなかった。


 少なくとも今は、彼女は自分を清らかに見せる余裕を少し失っている。


「リシェル殿」


 ザイツ局長が言った。


「今の発言について、確認したいことはありますか」


 突然、場がこちらへ渡された。


 リシェルは、セシリアを見た。


 言いたいことは、たくさんある。


 どうして。

 なぜそんなことで。

 あなたの恐れのために、私は人生を壊されたのか。

 あなたが怖かったから、私は悪役にされたのか。


 だが、そのままぶつけても何も残らない。


 リシェルは、ゆっくり息を吸った。


「セシリア様」


「……はい」


「あの夜、私があなたを傷つけたという証言が出ました。手紙、香油、噂。あなたは、それを本当に私がしたと信じていましたか」


 セシリアの目が揺れた。


 長い沈黙。


 やがて、彼女は目を伏せた。


「信じたかったのだと思います」


 部屋の空気が重くなった。


「信じたかった?」


 リシェルは静かに繰り返した。


「はい」


 セシリアの声は小さい。


「そうなら、私が悪くないと思えたから」


 その瞬間、リシェルの胸の奥に、ひどく冷たいものが落ちた。


 怒りではない。


 悲しみとも少し違う。


 ああ、と思った。


 この人は、自分の物語を守るために、私を悪役にしたかったのだ。


 ザイツ局長の筆が、淡々とその言葉を記録させている。


 リシェルは目を閉じなかった。


 泣かなかった。


 ただ、静かに言った。


「私は、その物語のために人生を失いました」


 セシリアの肩が震えた。


「……ごめんなさい」


 あまりにも小さな謝罪だった。


 王宮の広い部屋には似合わないほど、弱い声。


 リシェルは、それを受け取ることも、拒むこともしなかった。


 まだ、その段階ではない。


 ただ、記録された。


 それで今は十分だった。


 聴取が終わる頃、王宮の窓の外は夕方になっていた。


 セシリアは退室する時、一度だけリシェルを見た。


 何かを言いたそうだった。


 けれど、言わなかった。


 リシェルも、言わなかった。


 すべてを今日終わらせるには、あまりにも多くのものが壊れすぎていた。


 聴取室を出た途端、体から力が抜けそうになった。


 アルヴェインがすぐに隣へ来る。


「大丈夫か」


「……大丈夫ではないです」


 正直に言った。


「でも、立てます」


「なら、部屋まで歩け。そこからは休め」


「はい」


 ベルンが後ろから言った。


「茶ではなく湯だ。飯も食え。泣くなら寝る前にしろ。明日目が腫れる」


「先生」


「実用的な助言だ」


 リシェルは、少しだけ笑ってしまった。


 笑えたことに、自分で驚いた。


 今日、王都の中心で、あの夜の形が少し崩れた。


 完全ではない。


 裁きが終わったわけでもない。


 けれど、セシリアは言った。


 嫌いだった。

 怖かった。

 信じたかった。


 それは、あの夜には聞けなかった言葉だった。


 リシェルは記録箱を抱え直す。


 悪役令嬢としてではなく、辺境の薬師としてここへ来た。


 そして今日、ようやく自分の言葉は最後まで部屋に残った。

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