第53話 悪役令嬢は、記録箱を抱えて王都へ戻る
王都の外壁が見えた時、リシェルは思ったよりも息が苦しくならなかった。
高い白灰色の城壁。
朝の光を受けて淡く輝く尖塔。
門へ続く広い街道。
馬車の列。
荷を積んだ商人。
着飾った貴族の従者。
祈祷布をまとった神官。
何もかも、覚えている。
そして、少しだけ違って見える。
かつてのリシェルにとって、王都は世界そのものだった。貴族として生まれ、貴族として振る舞い、貴族の言葉と沈黙の中で生きる場所。そこから外れれば終わりだと思っていた。
だが今、馬車の窓越しに見る王都は、世界そのものではなかった。
ひとつの大きな街。
権力と噂と祈りが折り重なった場所。
そして、自分を一度悪役にした場所。
それだけだ。
恐ろしくないわけではない。
けれど、絶対ではない。
「顔色は悪くない」
向かいに座るベルンが言った。
褒めているのか診察なのか分からない口調だった。
「ありがとうございます」
「褒めてない。確認だ」
「はい」
リシェルが素直に頷くと、ベルンは薬箱の留め具を確認しながら鼻を鳴らした。
「王都に入ったら、出された茶は飲む前に嗅げ」
「昨日も聞きました」
「今日も言う」
「分かりました」
「甘い匂いがしたら飲むな」
「はい」
「白百合の香りがしたら、まず疑え」
「はい」
「それから、泣いている女の言葉もすぐ信じるな」
リシェルは思わずベルンを見た。
ベルンは真顔だった。
「先生」
「何だ」
「それは薬師の注意ですか」
「王都用の注意だ」
隣でアルヴェインが小さく咳払いした。
笑ったのかもしれない。
リシェルがそちらを見ると、彼は窓の外へ視線を向けたまま言った。
「ベルンにしては穏当だ」
「これで?」
「もっと言うかと思った」
「団長も王都を信用していませんね」
「していたら辺境にいない」
短い返答。
けれど、その声には少しだけ硬さがあった。
アルヴェインにとっても、王都は軽い場所ではない。
血筋で測られ、役目で縛られ、古傷を刻まれた場所。
リシェルは、自分だけが王都へ戻るのではないことを改めて思った。
「団長」
「何だ」
「体調は?」
「問題ない」
即答だった。
リシェルは無言で見つめた。
アルヴェインは少しだけ視線を逸らす。
「……少し、傷が重い」
「すぐ言ってください」
「今言った」
「もっと早くです」
「王都の門を見たら重くなった」
冗談のように言ったが、たぶん半分は本当だった。
リシェルは薬箱から小さな包みを取り出す。
「これを」
「苦いやつか」
「効くやつです」
「同じ意味だろう」
「だいたいは」
アルヴェインは諦めたように薬を受け取った。
そのやり取りを見て、ベルンが満足げに頷く。
「よし。王都へ入る前に患者が言うことを聞いた。今日は少し運がいい」
「私は犬か何かですか」
「犬はもっと素直だ」
アルヴェインが黙った。
リシェルは笑いそうになったが、こらえた。
王都の門が近づいているのに、馬車の中にはこういう会話がある。
それが心を守ってくれる。
王都の門では、想像以上に時間がかかった。
王宮監察局の召喚状があるため、手続きそのものは通る。だが、門番の視線が何度もリシェルへ向けられるのは分かった。
リシェル・フォルディア。
かつて王都で断罪された令嬢。
今は辺境の医務担当として、王宮へ召喚された女。
門番のひとりが、書類に目を落としたまま、わずかに眉を動かした。
その反応に、リシェルは見覚えがあった。
噂を知っている顔。
けれど、口には出さない。
王宮監察局の名があるからだ。
馬車が門をくぐる。
その瞬間、リシェルの胸の奥で何かが静かに軋んだ。
戻ってきた。
王都へ。
追われるように出た場所へ。
今度は、記録箱を抱えて。
街は相変わらず華やかだった。
広い通りには店が並び、焼き菓子の甘い匂い、香油の匂い、花売りの声、馬車の車輪の音が混じっている。冬だというのに、温室育ちの花があちこちに飾られていた。
白百合もある。
花屋の軒先に、神殿へ納めるためだろう白い花束がいくつも並んでいた。
リシェルはその花を見た。
以前なら、美しいと思ったかもしれない。
今は、まず箱底の印を思い出す。
それが少し悲しかった。
「見なくていい」
アルヴェインが静かに言った。
リシェルは目を瞬く。
「分かりましたか」
「顔に出ていた」
「そんなに?」
「少しだけだ」
ベルンが横から言う。
「分かりやすいぞ」
「先生まで」
「王都では、分かりやすいのは損だ。だが、隠しすぎても体に悪い。面倒な場所だな」
「先生、王都に来てから辛辣さが増していませんか」
「まだ門をくぐったばかりだ。これから増える」
頼もしいのか困ったものなのか、分からない。
だが、リシェルは少しだけ肩の力が抜けた。
王宮監察局へ向かう前に、一行は指定された控え館へ入った。
王宮に近い、古い石造りの建物だった。貴族客の宿泊にも使われるが、華美ではない。王宮関係者が事務的に使う場所で、派手な香炉や花飾りが少ないのはありがたかった。
部屋へ通されると、ベルンはすぐに窓を開けた。
「空気を入れ替える」
案内役の侍従が驚いた顔をした。
「こちらの部屋は、すでに整えてございますが」
「整いすぎている部屋は信用ならん」
ベルンが当然のように言う。
侍従は返答に困ったようだった。
リシェルが慌てて補足する。
「同行者に薬師がおりますので、香りや換気の確認をさせてください。団長の体調に関わります」
アルヴェインの名前を出すと、侍従はすぐに態度を改めた。
「失礼いたしました。必要なものがございましたら、お申しつけください」
「茶はいらん。湯だけでいい」
ベルンが即答する。
侍従はさらに困った顔をしたが、礼をして下がった。
扉が閉まる。
ベルンは部屋の隅、カーテン、寝台、机、暖炉の薪まで確認し始めた。
リシェルは記録箱を机へ置く。
その手が、少しだけ震えた。
アルヴェインが気づいた。
「大丈夫か」
「はい」
そう答えてから、少し言い直す。
「いえ。少しだけ、胸が重いです」
「無理に大丈夫と言うな」
「はい」
「ここは王都だ。嫌な記憶が戻って当然だ」
その言葉に、リシェルは目を伏せた。
当然。
そう言われると、少し楽になる。
自分は弱いのではない。
過去を思い出しているだけだ。
「でも、ここはあの広間ではありません」
リシェルは静かに言った。
「私は、あの日のままでもありません」
「ああ」
アルヴェインは頷く。
「それでいい」
その時、扉が叩かれた。
護衛が応対し、低い声で告げる。
「レヴェント公爵家の方が面会を求めています。エドガー様と、マティアス殿です」
リシェルはアルヴェインを見る。
アルヴェインはわずかに眉を動かした。
「会うかどうかはお前が決めろ」
いつもの言葉。
リシェルは息を整えた。
「会います。監察局へ行く前に、王都側の動きを確認したいので」
「分かった」
「団長も同席してください」
「もちろんだ」
即答だった。
少し強すぎるほどに。
リシェルは小さく笑った。
「そこは迷わないんですね」
「迷う理由がない」
エドガーは、前に見た時よりさらに疲れていた。
だが、目は冴えている。
マティアスは書類鞄を抱え、いつものように控えていた。
部屋へ入ったエドガーは、まずアルヴェインへ礼をし、それからリシェルへ向き直った。
「リシェル殿。無事に着いてよかった」
「ありがとうございます。王都側の状況は?」
挨拶より先にそう尋ねると、エドガーは一瞬だけ苦笑した。
「君らしいな」
言ってから、すぐに表情を改める。
「いや。今の言い方はよくないな」
「そこまで気にしなくても」
「気にするべきところだと思っている」
その返答に、リシェルは少しだけ驚いた。
エドガーは変わろうとしている。
少なくとも、自分の言葉が相手を型にはめる可能性に気づき始めている。
「状況を話す」
エドガーは書類を取り出した。
「神殿調合部門の台帳が押収された。リディア・フォルムは拘束。台帳には、対象残滓反応確認用と記載されていた」
「確認用……」
リシェルは唇を引き結んだ。
何度聞いても、嫌な言葉だ。
アルヴェインの傷を、反応を見る対象として扱った。
人ではなく、検体のように。
アルヴェインは表情を変えなかったが、空気が少し冷えた。
エドガーは続ける。
「王宮監察局は、明日午前に正式聴取を行う。まず団長とリシェル殿。午後に神殿側、リディア、聖女派支援会。そして……セシリアも任意聴取に呼ばれる」
セシリア。
その名が部屋に落ちた瞬間、リシェルの胸の奥が小さく揺れた。
嫌いというより、複雑だった。
あの夜の中心にいた人。
泣きながら守られた人。
そして、自分を悪役の位置へ押し込んだ人。
けれど、リシェルは今、彼女を単純な怪物として見ることもできなくなっていた。
彼女の嫉妬。恐れ。利用された感情。止めなかった責任。
どれも、記録のようにはきれいに分類できない。
「セシリア様は、何と?」
リシェルが問うと、エドガーは少しだけ顔を曇らせた。
「詳しいことは知らないと言っている。香油の成分も、木片も、リディアの台帳も。ただ……リシェル殿がいなくなればいいと思ったことはある、と」
静かな告白だった。
リシェルはすぐには返事をしなかった。
その言葉は、予想できたものだった。
それでも、実際に聞くと胸に冷たいものが沈む。
いなくなればいい。
誰かにそう思われていた。
そして、その思いを周囲が形にした。
「そうですか」
リシェルはそれだけ言った。
エドガーは痛むような顔をする。
「すまない」
「エドガー様が謝ることでは」
「いや。私はあの感情に乗った側だ」
リシェルは黙った。
それは、否定できなかった。
アルヴェインが低く言う。
「セシリア本人の責任と、周囲が利用した責任は分けるべきだ」
全員が彼を見る。
アルヴェインは静かに続けた。
「だが、分けることと、無かったことにすることは違う」
重い言葉だった。
リシェルは小さく頷く。
「はい」
エドガーも同じように頷いた。
「監察局も、そこを見るはずだ」
「噂については?」
リシェルが尋ねると、エドガーの表情がさらに険しくなった。
「悪化している。聖女派の一部が、辺境側の告発を“元悪役令嬢による意趣返し”として広げている」
「宿場でも聞きました」
「やはりか」
「はい」
リシェルは手帳を開き、昨日の記録を見せた。
エドガーはそれを読み、深く眉を寄せた。
「君は、これも記録したのか」
「噂にも出どころがありますから」
「……本当に、君は」
そこで言葉を止めた。
今度は“君らしい”とは言わなかった。
代わりに、真剣な顔で言った。
「監察局へ出すべきだ。これは印象操作の証拠になる」
「はい。そのつもりです」
マティアスが小さく頷き、手帳の該当部分を写す準備を始めた。
その姿を見て、リシェルは少し不思議な気持ちになった。
王都の人間であるエドガーとマティアスが、今は自分の記録を広げる側にいる。
過去は戻らない。
だが、立ち位置は変わることがある。
夕方、王宮監察局から明日の聴取順が正式に届いた。
リシェルは自室に戻り、机へ記録を並べた。
何度も確認したものばかりだ。
それでも、王都で出すとなると重みが違う。
香油瓶。
木片。
ミラの木札。
症状記録。
噂の記録。
セシリアの発言。
エドガーの証言。
すべてを明日、白日の下へ置く。
窓の外には王都の灯が広がっていた。
かつては美しいと思った灯。
今は、そのひとつひとつの窓の中に、噂や沈黙や思惑があるのだと分かる。
扉が軽く叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのはアルヴェインだった。
ベルンの許可を取ったのか、歩き方はゆっくりだった。
「寝ていなくて大丈夫ですか」
「少しだけだ」
「その言葉は信用できません」
「ベルンに言われた。半刻で戻れと」
「なら座ってください」
リシェルが椅子を示すと、彼は素直に腰を下ろした。
それだけで少し安心する。
「明日、怖いか」
アルヴェインが問う。
リシェルは窓の外を見た。
「怖いです」
「そうか」
「でも、怖い理由が前と違います」
「どう違う」
「前は、自分の言葉が誰にも届かないことが怖かった。今は、届いた言葉が何を動かすのかが怖いです」
アルヴェインは静かに聞いていた。
「でも、それは悪い怖さではない気がします」
「なら、持っていけ」
「何を?」
「その怖さもだ」
リシェルは振り向く。
アルヴェインの青い瞳は、王都の灯を受けても揺れていなかった。
「怖くないふりをする必要はない。お前は怖いまま、記録を出せばいい」
胸の奥が、静かに熱くなる。
「はい」
「俺も隣にいる」
「後ろではなく?」
「明日は隣だ」
短い言葉。
けれど、明確な意思があった。
王宮監察局の場では、リシェルは一人で立つのではない。
アルヴェインもまた、当事者として隣に立つ。
「心強いです」
「ならいい」
「でも、無理は」
「しない」
「本当に?」
「本当に」
「……九割くらい信用します」
「増えたな」
少しだけ笑い合う。
その小さな笑いが、明日への恐怖をほんの少しだけ薄めた。
夜、リシェルは最後の記録を書いた。
「王都へ戻った。噂はまだ腐っている。だが、記録もここにある」
少し考えて、もう一行加える。
「明日、王宮監察局で話す。悪役令嬢としてではなく、辺境の薬師として」
筆を置く。
窓の外では、王都の灯が揺れていた。
かつて自分を飲み込んだ街。
明日、その中心で、リシェルは初めて自分の言葉を最後まで届ける。
怖い。
けれど、もう俯かない。
記録箱は机の上にある。
ミラの木札も、その中にある。
そして隣には、明日一緒に立つと言った人がいる。
それだけで、今夜は眠れる気がした。




