第52話 王都へ近づくほど、噂は甘く腐る
翌朝、宿営地の空気は湿っていた。
夜のあいだに降った雪は、地面に薄く積もり、朝日を待たずに馬の蹄で踏み崩されていた。空はまだ暗い。東のほうだけがわずかに白み始め、石造りの宿舎の屋根からは、溶けかけた雪がぽたり、ぽたりと落ちている。
リシェルは、出発前に荷の確認をしていた。
記録箱。
薬草箱。
香油瓶の保管箱。
木片と灰を封じた証拠箱。
ミラの木札。
ベルンの薬箱。
アルヴェイン用の処置薬。
ひとつずつ、封が切れていないか、紐が緩んでいないかを確かめる。
王都へ近づけば近づくほど、荷はただの荷ではなくなる。
記録は武器になる。
証拠は狙われる。
そして、言葉は刃にも毒にもなる。
リシェルは最後にミラの木札が入った小箱を確認し、布をかけ直した。
「それだけ、別に持つのか」
背後から低い声がした。
アルヴェインだった。
黒い外套を羽織り、旅支度を整えている。顔色は昨日よりいい。だが、まだ本調子ではないのは明らかだった。
「はい。これは私が持ちます」
「護衛に預けてもいい」
「いいえ」
リシェルは小箱を胸に抱えた。
「これは、私が王都へ持っていきたいんです」
アルヴェインは少しだけ目を細めた。
「村の少女の証言か」
「はい」
「王都の連中は、軽く見るかもしれない」
「分かっています」
「笑う者もいる」
「その時は、見る目のない人として記録します」
そう答えると、アルヴェインの口元がわずかに動いた。
「強いな」
「ミラさんが書いたものですから」
リシェルは小箱に視線を落とす。
「この木札を軽く扱わせたら、私は辺境で教えてきたことまで軽く扱わせることになります」
自分で言って、胸の奥が静かに熱くなった。
王都へ行くのは怖い。
けれど、自分だけのために行くわけではない。
砦のため。
村のため。
イアンのため。
アルヴェインのため。
そして、白百合の印を見抜いた小さな少女のため。
そう思うと、足元が少しだけ固くなる。
アルヴェインは黙ってリシェルを見ていた。
「何ですか」
「いや」
「何か言いたそうです」
「言うと、お前が照れる」
「では言わないでください」
「いい顔をしている」
結局言った。
リシェルは小箱を抱えたまま、一瞬言葉に詰まる。
「……団長は、そういうところがあります」
「どこだ」
「ずるいところです」
「またか」
「またです」
そのやり取りに、近くで荷を積んでいたベルンがうんざりした顔をした。
「朝から何をやってる。王都へ着く前に雪が溶けるぞ」
アルヴェインは表情を戻し、リシェルは慌てて小箱を荷の中へ入れた。
ベルンは薬箱の封を確認しながら、ぼそりと言う。
「いいか。今日からは宿場も人も増える。王都の匂いも混じる。茶、香油、花、祈祷品、全部まず疑え」
「全部ですか」
「全部だ」
迷いがない。
「人の善意も?」
リシェルが尋ねると、ベルンは少しだけ眉を寄せた。
「善意は疑わんでいい。ただ、善意に何が混ぜられているかは疑え」
その言葉に、リシェルは静かに頷いた。
「はい」
王都へ近づくということは、白百合の香りが強くなるということだ。
清らかな顔をした毒。
祈りの形をした罠。
そして、噂。
それらはきっと、雪より静かに近づいてくる。
昼前には、街道沿いの宿場町へ入った。
辺境寄りとはいえ、昨日の中継地よりはずっと人が多い。商人の荷馬車、旅の神官、毛皮を積んだ狩人、王都方面へ向かう小貴族の馬車。道の両側には小さな店が並び、煮込み料理の匂いと馬の匂いと、人々の声が混じっていた。
リシェルは馬車の窓から外を見た。
王都そのものではない。
けれど、もう辺境の空気だけではなかった。
人の目が多い。
それだけで、少し息が詰まる。
馬車が宿の前で止まると、護衛が先に降りて周囲を確認した。アルヴェインはいつものように先に動こうとしたが、ベルンが無言で睨んだため、一呼吸置いてから降りた。
「よくできました」
リシェルが小声で言うと、彼は横目で見る。
「子ども扱いか」
「患者扱いです」
「なお悪い」
「無理をしなければ普通に扱います」
「努力する」
「努力ではなく実行してください」
アルヴェインは少しだけ苦い顔をした。
その会話を聞いていた護衛の若い騎士が、慌てて顔を逸らす。
笑いをこらえている。
アルヴェインは気づいているはずだが、何も言わなかった。
宿の中は暖かかった。
人も多い。
食堂では昼食を取る旅人たちが賑やかに話している。暖炉の近くでは商人たちが地図を広げ、奥の席では神官らしき者たちが湯気の立つ器を前に小声で話し込んでいた。
リシェルたちは、なるべく目立たない奥の部屋へ通された。
王宮召喚状を持っているため、宿側の態度は丁寧だった。だが、その丁寧さの中にも好奇心が見え隠れしている。
辺境騎士団長。
医務担当の令嬢。
王宮へ呼ばれた一行。
噂にならないはずがなかった。
食事は簡素なものを頼んだ。
ベルンは出された茶の匂いを確認し、リシェルにも同じことをさせた。アルヴェインの分は、さらに念入りに見た。
「問題ない」
ベルンが言う。
「ただし、香草が少し強い。団長は湯だけだ」
「そこまでか」
アルヴェインが渋い顔をする。
「そこまでだ」
「分かった」
素直に従った。
リシェルは、その様子を見てほっとする。
だが、その時だった。
隣の食堂から、少し大きな声が聞こえた。
「聞いたか? 王都で例の聖女様の件が騒ぎになってるらしいぞ」
リシェルの手が止まった。
アルヴェインも、ベルンも、ほぼ同時に視線を動かす。
壁一枚を隔てているが、声はよく通る。
「聖女様って、セシリア様か?」
「ああ。何でも、辺境に送った香油がどうとか」
「香油? 聖女様が悪いことするわけないだろ」
「だから妙なんだよ。辺境にいる元悪役令嬢が騒いでるって話だ」
元悪役令嬢。
その言葉が、リシェルの胸を冷たく撫でた。
「ほら、婚約破棄されたフォルディア家の令嬢。嫉妬で聖女様をいじめたって」
「ああ、あの女か。まだ生きてたのか」
軽い笑い声。
リシェルは息を吸った。
胸の奥が、一瞬だけ昔へ引き戻されそうになる。
王都の広間。
ざわめき。
視線。
囁き。
悪女。
嫉妬。
見苦しい。
あの夜の言葉が、また耳元で蘇る。
だが、次の瞬間、机の下でアルヴェインの指がわずかに動いた。
触れてはいない。
けれど、近くにいると知らせるような小さな動きだった。
リシェルは視線を落とし、ゆっくり息を吐いた。
ここは断罪の広間ではない。
自分は一人ではない。
隣の声は続く。
「でもよ、神殿本部が動いたって話もあるぜ」
「じゃあ、本当に何かあったのか?」
「さあな。けど、聖女様の支援を疑うなんて、相当気が強い女だろうよ」
「悪役令嬢ってのは、どこへ行っても悪役なんだな」
また笑い声。
アルヴェインが立ち上がろうとした。
リシェルは、反射的に彼の袖を掴んだ。
アルヴェインがこちらを見る。
その目は冷たかった。
怒っている。
明らかに。
「リシェル」
「行かないでください」
「だが」
「今、ここで黙らせても、噂は消えません」
リシェルは静かに言った。
自分に言い聞かせるように。
「それより、王宮で話します。記録を出します。ああいう噂が、どこから来たのかも含めて」
アルヴェインは、まだ立ち上がりかけた姿勢のまま、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり座り直す。
「強いな」
「強がっています」
「それでも座って止めた」
「団長が今出ていったら、傷に響きます」
「理由はそこか」
「それもあります」
少しだけ笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
ベルンが湯をひと口飲み、低く言った。
「隣の連中の顔を覚えておけ」
「先生?」
「噂は、勝手に歩いているように見えて、足がある。どこから来て、誰が広げているか、見て損はない」
リシェルは目を上げた。
そうだ。
ただ傷つくだけでは駄目だ。
今の言葉も、記録になる。
「トーマスがいたら、きっとすぐ書き留めてくれましたね」
ぽつりと言うと、ベルンが鼻を鳴らした。
「お前が書け」
「はい」
リシェルは小さな手帳を取り出した。
宿場町。
昼。
食堂。
旅商人と思われる男三名。
聖女派香油の件を「辺境の元悪役令嬢が騒いでいる」と表現。
婚約破棄時の悪評が現在も流布。
神殿本部調査の情報は一部伝わっているが、リシェル側の告発として歪められている。
書く。
手が少し震えた。
でも、書く。
これが自分の戦い方だ。
食事を終えたあと、リシェルは宿の裏庭へ出た。
少しだけ空気を吸いたかった。
護衛は距離を取ってついている。アルヴェインは来ようとしたが、ベルンに「患者は座ってろ」と止められていた。
裏庭には薪が積まれ、井戸があり、雪をかぶった桶が並んでいる。
表の食堂の声は、ここまでは届かない。
リシェルは井戸のそばに立ち、白い息を吐いた。
傷つかなかったわけではない。
元悪役令嬢。
嫉妬。
どこへ行っても悪役。
王都から離れても、噂は追ってくる。
しかも、こちらが事実を積み上げるほど、向こうはまた別の物語を作る。
聖女様の善意を疑う悪女。
辺境騎士団長をたぶらかした令嬢。
神殿へ楯突く気の強い女。
いくらでも形を変える。
それが、怖い。
「リシェル殿」
背後から声がした。
振り向くと、護衛の若い騎士が少し離れて立っていた。
「何か?」
「いえ、その……先ほどの食堂の件です」
彼は気まずそうに頭を下げた。
「申し訳ありません。私が止めるべきか迷って」
「あなたが謝ることではありません」
「でも、聞いていて腹が立ちました」
その正直な言葉に、リシェルは少し驚いた。
若い騎士は続ける。
「自分は砦で、リシェル殿が何をしてきたかを見ています。ミラの村の偽薬草も、イアンの件も、団長の処置も。だから、何も知らない人たちが笑うのが」
彼は言葉を探すように拳を握った。
「悔しかったです」
リシェルは、しばらく何も言えなかった。
見ている人がいる。
砦だけではない。
同行している騎士も、同じように感じてくれている。
それだけで、胸の痛みが少しだけ和らいだ。
「ありがとうございます」
リシェルは言った。
「でも、今は止めなくて正解です。あの場で争えば、また別の噂になります」
「はい」
「ただ、覚えていてください。ああいう言葉が、どう広がっているか」
「分かりました」
「王都では、もっと聞くと思います」
自分で言って、少しだけ胸が痛んだ。
だが、若い騎士はまっすぐ頷いた。
「その時は、ちゃんと見ています」
その言葉は、とても素朴だった。
だからこそ、心強かった。
夕方までに、宿場町を出た。
道は少しずつ広くなり、すれ違う馬車も増えていく。王都へ近づいている証拠だった。
馬車の中で、リシェルは昼の噂を書き直していた。
感情を削り、事実を残す。
それでも、手帳の端には少しだけ力が入った跡が残った。
アルヴェインは向かいの席で、それを見ていた。
「無理をするな」
「無理ではありません」
「嘘だな」
「……少しだけ無理です」
「それならいい」
「いいんですか」
「少しならな」
彼は窓の外へ視線を向けた。
「完全に無理をしないで進めるほど、王都は甘くない」
「はい」
「だが、無理をしたら戻る場所を間違えるな」
「戻る場所?」
「俺たちのところだ」
胸が静かに鳴った。
俺たち。
それは、アルヴェイン一人のことではない。
砦。
医務棟。
ベルン。
ガレス。
トーマス。
ミラ。
辺境で積み上げたすべて。
リシェルは手帳を閉じた。
「はい。間違えません」
アルヴェインは、ほんの少しだけ安心したように目を細めた。
「ならいい」
ベルンが隣で眠ったふりをしながら、ぼそりと言った。
「戻る前に倒れるなよ」
「先生、起きていたんですか」
「寝てても聞こえる」
「便利ですね」
「年寄りだからな」
どこまで本気なのか分からない返事だった。
リシェルは小さく笑う。
昼の噂の痛みは、まだ消えていない。
でも、消えなくても進める。
そう思えた。
夜、二つ目の宿営地に着いた頃、王都の灯が遠くに見えると護衛が言った。
まだ直接見える距離ではない。
けれど、街道を行き交う人の数、荷の種類、宿の看板、馬車の紋。すべてが王都の近さを告げていた。
リシェルは部屋に入ると、机に手帳を置き、昼の記録の最後に一行を書き足した。
「噂は甘く腐る。だが、腐った匂いも記録できる」
少し物騒な言い方だと思った。
でも、消さなかった。
今の気持ちには、それがいちばん近かった。
王都へ近づくほど、噂は濃くなる。
白百合の香りのように、甘く、清らかそうで、内側に腐りを隠している。
けれど、自分はもうその匂いを知らないふりはしない。
リシェルは窓を開け、冷たい夜気を吸った。
遠くに、王都の空がある。
明日には、そこへ入る。
断罪された場所へ。
今度は、記録箱を抱えて。




