第51話 雪の砦を発つ日
王都へ向かう準備は、思っていたよりも静かに進んだ。
もっと慌ただしくなると思っていた。王宮監察局からの召喚状。アルヴェインとリシェルへの正式聴取。神殿調合部門の台帳。聖女派支援物資。白百合の符丁。
並べれば、どれも大事だ。
けれど砦の人々は、騒がなかった。
必要な荷をまとめ、馬車の車輪を確認し、道中の宿営地を洗い、護衛の人数を決め、医務用の薬箱を積む。ただそれだけを、淡々と進めていく。
辺境の人々は、危機の前で声を大きくしない。
動くのだ。
そのことを、リシェルはもう知っている。
医務棟の中央机には、王都へ持っていく記録が積まれていた。
偽薬草の検分記録。
白百合符丁の写し。
聖女派支援物資の香油瓶。
神殿調合部門の印を写した紙。
イアンの症状記録。
アルヴェインの古傷反応の経過。
西壁見張り小屋で回収された木片と灰。
ミラの証言木札。
ベルンの所見。
ガレスの補給記録。
これだけ揃っているのに、不安は消えない。
王都は、事実だけで動く場所ではないからだ。
言葉の飾り。
涙。
身分。
派閥。
噂。
善意の形をした圧力。
そういうものが、事実の上へ幾重にも布をかぶせる。
だから、記録は一枚では足りない。
何枚も重ねる。
どこから見ても同じ結論になるように。
誰が読んでも逃げ道を作れないように。
「リシェルさん、ミラちゃんの木札、こっちの箱でいいですか?」
トーマスが布張りの小箱を持ってきた。
「ええ。割れないように包んでください」
「木札なのに、香油瓶より丁寧に扱ってますね」
「当然です」
リシェルは即答した。
「これは、村の子が自分の目で見て、自分の言葉で書いた証言です。王都の誰かに笑われても、軽く扱わせません」
トーマスは、少しだけ目を丸くしたあと、すぐに笑った。
「リシェルさん、王都に行く前からもう戦ってますね」
「戦っているつもりはないのだけれど」
そう言うと、奥からベルンの声が飛んできた。
「戦ってる奴は、だいたいそう言う」
リシェルは振り返る。
ベルンは大きな薬箱を抱えて、薬瓶を乱暴に詰めていた。いや、乱暴に見えるだけで、実際には揺れても割れないよう布で細かく固定している。
「先生、本当に同行されるんですか」
「誰が団長の面倒を見る」
「王都にも医師はいます」
「信用ならん」
「一刀両断ですね」
「王都だぞ」
昨日も聞いた言葉だった。
トーマスが噴き出しそうになって、必死に口を押さえる。
ベルンはそれを睨み、それからリシェルに向き直った。
「それに、お前もだ」
「私?」
「王都へ行けば、どうせ無理をする。茶を出されれば飲み、質問されれば答え、寝ろと言っても記録を書く。目に見えている」
「そこまで信用がないんですか」
「あるから言っている」
その言葉は、少し意外だった。
ベルンは薬箱の蓋を閉める。
「お前は必要なことをやる。必要だと思えば、自分の疲れを後回しにする。だから監視がいる」
リシェルは何も言えなかった。
厳しい言い方なのに、胸の奥が温かくなる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
「でも、言いたいので」
「団長みたいな返しをするな」
そこでまた、トーマスが笑いをこらえきれなかった。
出発前日の午後、西の林縁村からミラが来た。
父親らしき男に連れられて、雪道を歩いてきたのだろう。頬は赤く、外套には雪がついていた。けれど、目はまっすぐだった。
「薬師様!」
医務棟に入るなり、ミラは両手で小さな袋を差し出した。
「これ、持っていってください」
「これは?」
「村で一番匂いが強い見本草です。王都の人たちが偽物を持ってきた時、本物と比べられるように」
布袋の中には、丁寧に束ねられた乾燥薬草が入っていた。
葉の縁は少し丸まり、奥に土の甘い匂いがある。
リシェルはその匂いを嗅いで、胸がきゅっとなった。
辺境の匂いだ。
自分がこの砦で得たものの匂い。
「ありがとう。必ず持っていくわ」
「あと」
ミラは少し緊張したように、自分の胸元からもう一枚の小さな木札を出した。
「前の字、ちょっと下手だったから、書き直しました」
「そんなこと」
「でも、王都の人が見るんですよね?」
ミラは真剣だった。
「だったら、ちゃんと書きたくて」
リシェルは木札を受け取った。
そこには、前より少し整った字で書かれていた。
白百合の印を見ました。匂いが変だったので、砦へ知らせました。薬師様に教わったことは、本当でした。
最後の一文を見た瞬間、胸が詰まりそうになった。
薬師様に教わったことは、本当でした。
それは、王都のどんな美辞麗句より強い証言だった。
「ミラさん」
「はい」
「これは、私が大事に預かります」
「はい!」
「王都で、きちんと見せます」
ミラは少しだけ不安そうに尋ねた。
「王都の人、怒りませんか」
「怒る人もいると思うわ」
「じゃあ……」
「でも、怒る人がいるから隠すのでは、また同じことが起きます」
リシェルは木札を両手で包んだ。
「だから、見せます」
ミラは唇を引き結び、それから大きく頷いた。
「薬師様、負けないでください」
その言葉に、リシェルは少し笑った。
「負けないようにします」
「絶対ですよ」
「ええ。約束」
すると奥からベルンがぼそりと言った。
「約束を増やすな。王都で倒れる気か」
「先生、そういうところです」
トーマスが小声で言い、ベルンに睨まれた。
医務棟に小さな笑いが生まれる。
その笑いを聞きながら、リシェルは思った。
自分は、この場所から王都へ行くのだ。
ひとりで追い出された時とは違う。
今度は、薬草の匂いと、村の少女の証言と、砦の人々の声を持って。
出発の朝、空は晴れなかった。
灰色の雲が低く垂れこめ、遠くの森は薄い霧に包まれている。雪は降っていないが、風は冷たい。
正門前には、王都行きの馬車が用意されていた。
派手な装飾はない。辺境の道を進むために補強された、実用の馬車だ。護衛騎兵が数名。ガレスは砦に残るが、副官代理の若い騎士が同行する。ベルンは大きな薬箱を積み込みながら、ずっと不機嫌そうだった。
アルヴェインは黒い外套を羽織り、馬車の前に立っていた。
顔色は悪くない。
だが、完全に戻ったとは言えない。
リシェルは彼の前に立つなり、無言で見上げた。
「……何だ」
「乗車前に熱を測ります」
「ここでか」
「ここでです」
「兵が見ている」
「患者の体面より体調が大事です」
近くにいた兵たちが、全員そっと視線を逸らした。
アルヴェインは諦めたように息を吐く。
「分かった」
額に手を当てる。
熱はない。
だが、少しだけ肌が冷えている。
「無理はしないでください」
「分かっている」
「長時間座りっぱなしも駄目です。途中で休みます」
「分かっている」
「香りの強いものは避けます」
「分かっている」
「王都で勝手に動かないでください」
「それはお前にも言える」
返されて、リシェルは一瞬黙った。
アルヴェインの目が、少しだけ楽しそうに細くなる。
「言えないだろう」
「……私は必要な時だけです」
「俺もそう言う」
「団長」
「だから、一緒に気をつける」
不意に声が柔らかくなった。
リシェルは、返す言葉を失う。
一緒に。
その言葉が、朝の冷気の中で静かに胸へ落ちた。
「はい」
短く答えると、アルヴェインは少しだけ頷いた。
「王都では、俺から離れるな」
「でも、まずは自分で立ちます」
「ああ」
「それでも、危ない時は」
「俺の後ろへ来い」
「はい」
「そして、お前が前へ出るべき時は」
彼は一度言葉を切った。
「俺が後ろに立つ」
約束のような言葉だった。
リシェルは胸が熱くなるのを感じながら、静かに頷いた。
砦の人々が見送りに来ていた。
全員ではない。持ち場を離れられない者も多い。だが、医務棟の前によく来る兵たち、補給庫の者、村との連絡役、トーマス、ガレス、ミラ親子。
それぞれが、派手な言葉をかけるわけではない。
「気をつけてください」
「王都の飯、腹壊さないでくださいね」
「薬師殿、戻ったらまた講習お願いします」
「団長、今度倒れたら怒られますよ」
「もう怒られている」
そんな声があちこちから飛ぶ。
アルヴェインは無言で受け流していたが、リシェルには分かった。
少しだけ、照れている。
ガレスが最後に近づいた。
「砦は任せておけ」
「頼む」
アルヴェインは短く答える。
ガレスは次にリシェルを見る。
「王都で何を言われても、ここの記録は変わらない」
「はい」
「それを忘れるな」
リシェルは深く頷いた。
「忘れません」
トーマスが布包みを差し出した。
「道中用の写しです。もし荷物が一つ駄目になっても、最低限これがあれば説明できます」
「ありがとう」
「リシェルさんがいつもやってるから、真似しました」
「とても助かります」
トーマスは照れたように笑った。
その笑顔を見て、また胸が温かくなる。
自分のやり方は、もう自分だけのものではなくなっている。
伝わっている。
それが何より嬉しかった。
ベルンが馬車の中から顔を出した。
「いつまで別れの挨拶をしてる。王都が遠くなるぞ」
「先生、旅慣れているんですか」
「王都へ行きたくないから、早く終わらせたいだけだ」
その本音に、周囲から小さな笑いが起きた。
リシェルも笑った。
そして、馬車へ乗り込む前に、もう一度砦を振り返った。
石壁。
見張り台。
医務棟。
雪に覆われた中庭。
薬草の匂い。
自分を必要としてくれた場所。
ここから行く。
ここへ戻るために。
馬車が動き出す。
正門が開き、蹄の音が雪道へ響いた。
門の向こうに広がる白い道。
その先に王都がある。
かつて、リシェルは王都から辺境へ向かった。
追われるように。
断罪された女として。
何も持たず、ただ失ったものを抱えて。
今は違う。
辺境から王都へ向かう。
記録を持って。
証言を持って。
仲間の声を持って。
薬師として。
向かいの席で、アルヴェインが静かにこちらを見ていた。
「どうした」
リシェルが問うと、彼は短く答えた。
「強い顔をしている」
「怖い顔ではなく?」
「強い顔だ」
リシェルは少しだけ笑った。
「怖いです」
「ああ」
「でも、戻る場所があるので」
アルヴェインの目が柔らかくなる。
「そうだな」
ベルンが横から口を挟んだ。
「戻る前に、王都で倒れるなよ」
「先生」
「二人ともだ」
アルヴェインとリシェルは、同時に黙った。
その沈黙が妙におかしくて、リシェルはまた小さく笑った。
馬車は雪道を進む。
砦は少しずつ遠ざかっていく。
けれど、不思議と不安だけではなかった。
背中には、確かにあの場所の気配がある。
辺境の砦で得たものは、王都の門をくぐっても消えない。
リシェルは膝の上の記録箱に手を添えた。
中には、ミラの木札もある。
王都へ戻る。
けれど、もう王都に戻されるわけではない。
自分の足で、進むのだ。
夕暮れ、最初の宿営地に着いた。
辺境と王都を結ぶ中継地のひとつで、小さな石造りの宿舎と厩舎がある。王宮からの召喚状を受けているため、部屋は事前に確保されていた。
しかし、ベルンは部屋に入るなり窓を開け、寝台の匂いを嗅ぎ、茶器を確認し、暖炉の薪まで調べた。
「先生、そこまで」
「王都に近づいている。油断するな」
「まだ辺境寄りです」
「境目が一番危ない」
リシェルは反論しかけて、やめた。
たしかにそうかもしれない。
完全な王都でも、完全な辺境でもない場所。
人も荷も噂も混ざる場所。
こういうところこそ、何かが紛れ込む。
アルヴェインは椅子に座り、ベルンの確認が終わるのをおとなしく待っていた。
珍しく反抗しない。
よほど昨夜までの説教が効いているらしい。
リシェルが少し笑うと、彼は怪訝そうに見た。
「何だ」
「いえ。団長がちゃんと患者をしているので」
「不名誉な評価だな」
「高評価です」
「そうか?」
「はい」
そのやり取りの途中、護衛の騎士が部屋の外から声をかけた。
「団長、王都方面から早馬です」
空気が変わった。
リシェルはすぐに記録箱へ手を伸ばす。
アルヴェインも立ち上がろうとして、ベルンに睨まれ、座り直した。
騎士が差し出した封筒には、レヴェント公爵家の紋。
エドガーからだった。
封を切ったアルヴェインが目を通し、表情をわずかに険しくする。
「何と?」
リシェルが尋ねる。
アルヴェインは文を渡した。
そこには、短く書かれていた。
神殿調合部門の台帳に、対象残滓反応確認用との記載。リディア・フォルム拘束。セシリア任意聴取予定。王都到着後、監察局で合流を望む。
リシェルは、文面を何度も見た。
台帳。
対象残滓反応確認用。
リディア拘束。
セシリア任意聴取。
王都は、もう動き始めている。
「……進んでいますね」
「ああ」
アルヴェインの声は低い。
「俺たちが着く頃には、もっと荒れている」
ベルンが薬箱を閉めた。
「なら、今夜は寝ろ」
あまりに現実的な一言に、リシェルは思わず笑いそうになった。
だが、ベルンの顔は真剣だった。
「王都で戦うなら、寝ろ。飯を食え。熱を出すな。基本だ」
リシェルは文を畳み、深く息を吸った。
「はい」
アルヴェインも短く頷いた。
「分かった」
外では、夜の雪がまた降り始めていた。
王都は近づいている。
白百合の温室も、神殿の白い壁も、断罪の広間も。
すべてが、少しずつ近づいている。
けれど今のリシェルには、眠るべき夜に眠れと言ってくれる人がいる。
それだけで、かつての自分とは違うのだと分かった。




