第50話 王宮からの召喚状
王都には、いくつもの沈黙がある。
貴族が都合の悪い噂を聞かなかったことにする沈黙。
神殿が祈りの名で不手際を覆う沈黙。
王宮が、政治の均衡を崩さぬためにあえて踏み込まない沈黙。
だが、沈黙にも限度がある。
神殿調合部門の台帳に残されていた一文――対象残滓反応確認用。
その文字は、あまりにも具体的すぎた。
祈りでもない。
偶然でもない。
善意の支援でもない。
何かに反応することを知っていて作られた調合品。
そしてその対象は、北西辺境騎士団長アルヴェインの古傷である可能性が高い。
神殿本部から王宮へ上げられた報告は、その日のうちに王宮監察局の机へ置かれた。
王宮監察局長ザイツは、白髪を後ろへ撫でつけた痩せた男だった。派手な発言は好まない。怒鳴ることも少ない。ただ、書類の矛盾を見つける目だけは、王都でも指折りと言われている。
彼は報告書を読み終え、しばらく指先で机を叩いていた。
「……これは、聖女派の不祥事で済む話ではないな」
控えていた書記官が、静かに頭を下げる。
「アルヴェイン団長の血筋を考えますと」
「血筋だけではない」
ザイツは紙をめくった。
「辺境補給砦の医務体制、村落への薬草流通、神殿支援会、調合部門、白百合の符丁。線が多すぎる」
「王宮として、正式調査を?」
「するしかない」
ザイツは低く言った。
「しなければ、王宮は神殿と聖女派の不始末を見逃したことになる」
「聖女候補セシリア様の扱いは」
そこで、部屋の空気が少しだけ変わった。
聖女候補。
王都の民心を得やすい存在。
神殿の象徴。
貴族たちが利用したがる清らかな看板。
下手に傷つければ、王都の世論が揺れる。
だが、守りすぎれば、王宮の威信が傷つく。
ザイツは、報告書の末尾にあるリシェルの署名を見た。
「まずは、事実確認だ」
「辺境へ監察官を送りますか」
「いや」
ザイツは少し考えた。
「今回は、辺境側の記録が細かすぎる。現地で改めて聞くより、主要関係者を王都へ呼んだほうが早い」
書記官が顔を上げる。
「アルヴェイン団長を、ですか」
「本人の体調次第だ。だが、古傷の被害者であり、王家傍流の当事者だ。話を聞かないわけにはいかん」
「リシェル・フォルディア嬢は」
「呼ぶ」
即答だった。
「この報告書を書いたのは彼女だ。薬師としての所見も必要になる」
「彼女は、王都で悪評のある方ですが」
ザイツの目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「悪評は証拠ではない」
書記官は口を閉じた。
ザイツは報告書を閉じ、封紙を取り出した。
「王宮監察局名で召喚状を出せ。北西辺境騎士団長アルヴェイン、医務・補給連携担当リシェル・フォルディア。聴取目的は、聖女派支援物資および神殿調合部門出荷記録に関する事実確認」
「承知いたしました」
「それと」
「はい」
「セシリア・エルンストにも、任意聴取の準備をさせろ」
書記官の筆が止まった。
「聖女候補様を、ですか」
「任意だ。だが、呼ばれた意味は伝わる」
ザイツは冷静だった。
「白百合の花を飾っているだけでは、もう済まん」
離宮の温室に、その知らせが届いたのは夕刻だった。
空は薄紫に沈み、温室の硝子には王都の灯がぼんやり映っている。白百合の花は、昼間よりも少し濃い香りを漂わせていた。
セシリアは、王宮監察局からの文を読み終え、しばらく動かなかった。
任意聴取。
言葉は柔らかい。
だが、意味ははっきりしている。
王宮が、自分を見る。
神殿でも、聖女派でも、エドガーでもない。
王宮が。
「……どうして」
声が漏れた。
誰に向けたものでもなかった。
机の上には、折れた白百合が一本置かれている。昨夜、エドガーの前で握り潰してしまった花だ。侍女は捨てようとしたが、セシリアが止めた。
なぜ止めたのか、自分でも分からない。
折れた花を見ていると、今の自分のようだった。
清らかに見せようとして、茎の中はすでに折れている。
扉が叩かれた。
「セシリア様。エリナです」
「……入って」
エリナが静かに入ってくる。
彼女は王宮からの文を見ると、すでに内容を知っているように目を伏せた。
「任意聴取の件ですね」
「あなた、知っていたの」
「噂が回っております」
「早いのね」
「王宮監察局が動けば、隠せません」
セシリアは笑おうとした。
だが、笑みはうまく作れなかった。
「私、何を話せばいいのかしら」
「知っていることを」
「知らないことばかりよ」
声が少し高くなる。
「香油の詳しい成分なんて知らない。木片のことも知らない。リディアが何を書いたかも知らない。私は、そんなこと命じていない」
「では、それをお話しください」
「でも」
セシリアは両手を握りしめた。
「でも、リシェル様がいなくなればいいと思ったことはあるわ」
言ってしまった。
口にした瞬間、自分でも息を呑んだ。
エリナは、驚かなかった。
ただ、静かに聞いていた。
「私、あの方が嫌いだった。昔から。何でも分かっているみたいな顔をして、泣きもせず、怒鳴りもせず、ただ見ている。私が泣くと、皆は私を見てくれた。でもあの方だけは、私ではなく、その後ろにあるものを見ようとしていた」
言葉が止まらなかった。
「怖かったの。あの目が」
涙が滲む。
だが、今度の涙は誰かを動かすためのものではなかった。
ただ、勝手に出てきた。
「だから、あの夜……あの方が悪い人だと言われた時、ほっとした。これで、もうあの目を見なくて済むって」
エリナは何も言わない。
「私、そんなに悪いことを考えたの?」
セシリアは震える声で聞いた。
「人を嫌うだけなら、罪ではありません」
エリナは静かに言った。
「けれど、その感情を利用した人たちがいます。そして、セシリア様は危うさに気づいても止めなかった」
鋭い言葉だった。
セシリアは目を伏せた。
「……そうね」
その一言を認めるのに、ひどく時間がかかった気がした。
エリナは少しだけ近づいた。
「王宮では、泣いてもいいと思います。ですが、泣くだけでは通りません」
「分かっているわ」
「本当に?」
以前なら、そんな問いを許さなかった。
だが今のセシリアには、怒る力もなかった。
「……分かっているつもり」
エリナは小さく頷いた。
「それなら、まだ間に合うかもしれません」
「何に?」
「ご自分で話すことに」
セシリアは、折れた白百合を見た。
折れても、花はまだ白い。
けれど、もう支柱では誤魔化せない。
北西辺境補給砦に王宮からの召喚状が届いたのは、二日後の朝だった。
正門の鐘が鳴り、王宮の紋が入った封筒を携えた騎馬使者が通された。
砦の中は、すぐにざわついた。
王宮監察局。
その名が出た時点で、ただの問い合わせではないことは誰にでも分かった。
ガレスが封筒を持って医務棟へ来た時、リシェルはミラから届いた薬草の見分け表を確認していた。
「リシェル」
ガレスの声が硬い。
リシェルは顔を上げた。
「王宮からですか」
「ああ」
ガレスは封を見せた。
「団長とお前宛てだ」
トーマスが息を呑む。
ベルンは奥から顔を出し、露骨に眉をひそめた。
「ついに来たか」
リシェルは手を拭き、封筒を受け取った。
王宮の封蝋。
重い。
紙一枚なのに、手の中で石のように感じる。
「団長のところへ」
「ああ」
ガレスが頷く。
「一緒に読む」
アルヴェインは団長室で待っていた。
まだ完全には回復していない。けれど、顔色はだいぶ戻っている。寝台ではなく椅子に座っていたため、リシェルは部屋に入るなり一度だけ目で咎めた。
彼は小さく肩をすくめた。
「今回は先にベルンの許可を取った」
「本当ですか」
「半分」
「団長」
「座るだけならいいと言われた」
ベルンが後ろから入ってきて、鼻を鳴らした。
「長くとは言ってない」
「だそうです」
リシェルが言うと、アルヴェインは諦めたように息を吐いた。
それでも、召喚状を見る目は鋭い。
ガレスが封を切り、文面を読み上げた。
王宮監察局による正式聴取。
聖女派支援物資、神殿調合部門出荷記録、不審木片および古傷反応について。
北西辺境騎士団長アルヴェイン、ならびに医務・補給連携担当リシェル・フォルディアに対し、王都での聴取出席を求める。
部屋の空気が静かになった。
王都へ来い。
つまり、そういうことだ。
リシェルは文面を見つめた。
王都。
断罪された場所。
追われた場所。
戻るつもりはないと何度も言った場所。
その王都から、今度は正式に呼ばれている。
逃げ出したいような感覚が、胸の奥をかすめた。
けれど同時に、別のものもあった。
行かなければならない。
自分が書いた記録が、王都の扉を開いたのだ。
なら、その先で問われることにも、自分の言葉で答えなければならない。
「体調次第だな」
ガレスがアルヴェインを見た。
「団長はまだ無理できない」
「行く」
アルヴェインは即答した。
リシェルとベルンの視線が同時に刺さる。
「……体調が許せば」
言い直した。
ベルンが不機嫌そうに頷く。
「最初からそう言え」
リシェルは文面を見たまま、静かに言った。
「私も行きます」
アルヴェインの目がこちらへ向く。
「分かっているのか」
「王都へ戻ることになる、という意味なら」
「ああ」
「分かっています」
声は震えなかった。
それが自分でも少し不思議だった。
「怖くないか」
アルヴェインが問う。
いつもの問い。
リシェルは少しだけ息を吸った。
「怖いです」
正直に言う。
「でも、今の私は王都に許してもらうために行くわけではありません。自分の記録を、自分の言葉で説明するために行きます」
アルヴェインは黙っていた。
その目に、静かな熱が宿る。
「いい答えだ」
「団長も、無理をしないなら一緒に行けます」
「条件をつけるのか」
「医務担当なので」
「厳しいな」
「患者なので」
ガレスが小さく笑った。
ベルンも、少しだけ口元を動かした。
しかし、すぐに空気は引き締まる。
王都へ行く。
それは、大きな転換だった。
これまで辺境で迎え撃ってきた王都の悪意を、今度はこちらから見に行くのだ。
リシェルは召喚状を机へ置いた。
「持っていくものを整理します」
「記録か」
ガレスが問う。
「はい。香油、木片、灰、符丁の写し、症状記録、ミラさんの証言、ベルン先生の所見、補給記録。あと、私自身の経緯も聞かれるかもしれません」
あの夜のこと。
婚約破棄のこと。
セシリアとの関係。
すべてが王都で再び問われる可能性がある。
胸は痛む。
でも、もう黙らない。
「リシェル」
アルヴェインが呼んだ。
「はい」
「王都では、お前を傷つける言葉も出る」
「分かっています」
「悪役令嬢だの、嫉妬だの、過去の噂も蒸し返される」
「はい」
「その時は」
彼は少しだけ言葉を切った。
「俺の後ろに隠れてもいい」
リシェルは目を瞬いた。
それから、ゆっくり首を振った。
「ありがとうございます。でも、まずは自分で立ちます」
アルヴェインは、少しだけ寂しそうに見えた。
だが、すぐに頷いた。
「なら、俺は後ろに立つ」
あの時と同じ言葉。
リシェルの胸が熱くなる。
「はい」
短く答えた。
それだけで十分だった。
その夜、医務棟で出発準備が始まった。
トーマスは写しをまとめ、ベルンは持参する薬草を選び、ガレスは護衛と道中の経路を組む。
ミラの木札も、持っていくことになった。
トーマスがそれを布に包みながら、少し不安そうに言った。
「王都の人たち、これをちゃんと見てくれますかね」
「見せます」
リシェルは言った。
「村の少女が見抜いた証言です。笑われても、軽んじられても、私は出します」
「笑ったらどうします?」
リシェルは少し考えた。
「その人の見る目がないと記録します」
トーマスは一瞬ぽかんとし、それから笑った。
「強いですね」
「そうなりたいと思っています」
ベルンが横から言う。
「もう十分強い。あとは倒れないようにしろ」
「はい」
「王都の飯は信用するな。水もだ。香りの強いものは避けろ。茶もまず嗅げ」
「先生、全部疑うんですか」
「王都だぞ」
その言い方があまりに真顔だったので、トーマスがまた笑った。
リシェルも少し笑う。
だが、ベルンの忠告は冗談ではない。
王都では、言葉も香りも茶も、すべてが何かをまとっている。
そこへ行くのだ。
リシェルは、机の上に置いた王宮召喚状を見た。
手はもう震えていなかった。
深夜、自室で最後の記録を書いた。
「王宮監察局より召喚状。王都へ戻る。ただし、許しを乞うためではない。記録を説明するために」
筆を置く。
窓の外には、静かな雪の光があった。
王都へ戻る。
その言葉だけなら、少し前の自分は震えていたかもしれない。
だが今は違う。
自分は辺境の薬師として戻る。
砦の医務担当として戻る。
アルヴェインの古傷を狙ったものを、証拠と共に突きつける者として戻る。
悪役令嬢として裁かれた場所へ。
今度は、記録を持って。
リシェルは静かに目を閉じた。
怖い。
けれど、怖いまま進む。
それが今の自分の戦い方だった。




