第49話 台帳に残った名前
神殿調合部門の記録室は、祈りの場には似つかわしくないほど実務的な部屋だった。
白い石壁に囲まれ、湿気を嫌う薬草や香油のために火鉢は置かれていない。代わりに、壁際には乾燥材を詰めた陶器が並び、棚には分厚い台帳が年ごと、用途ごと、出荷先ごとに整えられていた。
祈りの言葉は、ここにはほとんどない。
あるのは数字と名前と配合番号だった。
誰が調合したか。
どの材料を使ったか。
どこへ出したか。
どの印を瓶底に刻んだか。
神殿がどれほど「秘法」と言い張っても、薬は薬だ。作る者がいて、材料があり、保管され、運ばれる。そこには必ず記録が残る。
その記録の一冊を前にして、調査官たちは言葉を失っていた。
台帳の該当欄には、確かに記されていた。
聖女派支援会向け特別調合品。祈祷済み香油。補助誘引材。出荷先、北西辺境方面。
担当者欄には、リディア・フォルム。
備考欄には、小さな文字で、しかしはっきりと。
対象残滓反応確認用。少量使用。
調査官のひとりが、低く息を吐いた。
「……これは、祈祷済み香油では済まんな」
隣にいた若い神官は、顔を青ざめさせている。
「対象残滓とは、何を指すのでしょうか」
「分からんふりをするな」
初老の調査官が、台帳から視線を上げずに言った。
「辺境の報告書にあっただろう。王都由来の古傷毒性残滓。アルヴェイン団長の件だ」
若い神官は唇を噛んだ。
その名を出した瞬間、部屋の空気は一段重くなる。
ただの兵ではない。
ただの辺境騎士でもない。
王家傍流の血を持つ男。
その古傷を刺激する可能性のあるものを、神殿調合部門が支援物資として辺境へ送った。
もしこれが明るみに出れば、聖女派だけでは済まない。
神殿本部も、王宮も、王都貴族も巻き込む。
「リディア・フォルムを呼べ」
調査官が命じた。
控えていた神官が慌てて部屋を出る。
しかし、ほどなくして戻ってきた時、その顔はさらに青くなっていた。
「リディア調合師が、部屋におりません」
「いつからだ」
「今朝までは確認されています。ただ、調査官殿が記録室へ入られてから、姿が見えず……」
調査官の目が細くなった。
「出入口を閉じろ。調合部門の者は全員、部屋から出すな」
「はい!」
「それと、この台帳は押収する。写しではない。原本だ」
若い神官が目を見開いた。
「原本を、ですか」
「改竄されてからでは遅い」
調査官は台帳を閉じ、封布をかけた。
白い布の上へ、神殿本部の調査印が押される。
その瞬間、部屋にいた者たちは皆、理解した。
神殿の内部で何かが始まったのだ。
祈りの場の奥に隠されていた調合記録が、ついに表へ引きずり出される。
そして、その最初の扉を開いたのは、辺境から届いた一通の報告書だった。
リディア・フォルムは、神殿本部の裏回廊を歩いていた。
逃げている、というほど足早ではない。
だが、いつもの彼女よりも歩幅が大きい。
灰色の外套を羽織り、薬草の匂いが染み込んだ手袋をはめている。小さな鞄には、必要最低限の書類と、いくつかの小瓶。それだけだった。
正面玄関は使えない。
神殿本部が正式調査に入った以上、主な出入口には目がある。調合部門の者が外へ出ようとすれば止められるだろう。
だから彼女は、祈祷用の香草を運び出す裏の通用口へ向かっていた。
そこなら、夕刻前には荷車が出る。
自分が乗らなくても、小瓶や書類だけなら外へ出せる。
そう考えていた。
角を曲がったところで、足が止まる。
そこに立っていたのは、エリナ・ヴァレリーだった。
彼女は白い外套をまとい、いつものように整った姿勢で立っていた。だがその表情は、社交界で見せる柔らかな微笑みではない。
静かで、硬い。
「お急ぎですか、リディア様」
リディアは目を細めた。
「薬草の確認です。香草庫へ」
「鞄を持って?」
「調合師が鞄を持つのは珍しいことではありません」
「ええ。ですが、調査官があなたを探しています」
「なら、あとで伺います」
リディアは横を通り過ぎようとした。
エリナは動かなかった。
通路は狭い。女二人がすれ違うには十分だが、相手が道を譲らなければ通れない。
「退いてください」
リディアの声が少し低くなる。
エリナは、静かに彼女を見た。
「台帳が見つかったそうです」
リディアの目が一瞬だけ揺れた。
本当に一瞬だった。
けれど、エリナは見逃さなかった。
「何の話ですか」
「祈祷済み香油。補助誘引材。北西辺境方面。対象残滓反応確認用」
ひとつずつ言う。
リディアの顔から、表情が消えた。
「ずいぶん詳しいのですね」
「たまたま耳に入りました」
「耳に入った情報を、あなたはどうするつもりです」
「少なくとも、見なかったことにはしません」
その返答に、リディアは短く笑った。
冷たい笑いだった。
「辺境へ行って、ずいぶん正義感がお強くなったのですね」
「正義感ではありません」
エリナの声は落ち着いていた。
「保身です」
リディアが眉を上げる。
「保身?」
「このまま黙っていれば、私もあなた方と同じ側に沈むことになります。それは困ります」
あまりにも王都らしい言い方だった。
綺麗事ではない。
善意でもない。
自分が沈まないために、見たものを見たと言う。
だが、だからこそリディアには厄介だった。
エリナは聖女派の中にいる。
辺境も見た。
セシリアの近くにもいる。
そして、自分の立ち位置を守るためなら、必要な情報を差し出すこともできる。
「あなたも、清らかな方ではありませんね」
リディアが言う。
「存じております」
エリナは微笑まなかった。
「ですが、少なくとも香油で人を倒すほどではありません」
その言葉が落ちた瞬間、空気が冷えた。
リディアの指が、鞄の持ち手に食い込む。
「証拠もなく、よくそんなことを」
「証拠は台帳にあるのでしょう?」
遠くから足音が近づいてきた。
調査官たちだ。
リディアは視線だけで出口の方向を探った。
エリナは、それも分かっていたように一歩だけ横へ動いた。
しかし、道を空けるためではない。
通路の向こうから来る神官たちに、リディアの姿が見えるようにするためだった。
「こちらです」
エリナが声を上げる。
リディアは、はじめて明確に表情を歪めた。
「エリナ様」
「私は見たものを報告するだけです」
彼女は静かに言った。
「辺境で、そういう方を見てきましたから」
その言葉に、リディアは何も返せなかった。
神官たちが駆け寄ってくる。
調合部門の扉が開いただけではない。
その中にいた者たちも、ひとりずつ光の下へ引き出されようとしていた。
セシリアがリディアの拘束を知ったのは、その日の夕方だった。
知らせを持ってきたのはエリナではない。
神殿本部から派遣された若い神官だった。
彼は緊張した面持ちで、離宮の応接室に立っている。セシリアは白い椅子に腰掛け、穏やかに話を聞いていた。
少なくとも、表面上は。
「リディア・フォルムが?」
「はい。調合部門の台帳確認に関連し、事情聴取のため身柄を留められております」
「事情聴取」
セシリアはゆっくり繰り返した。
「まるで罪人のようね」
若い神官は答えに困った顔をした。
「現時点で罪が確定したわけではございません。ただ、出荷記録に不審な点があり」
「それは、私に関係があるのですか」
声は柔らかかった。
しかし、部屋の空気は少し硬くなる。
「現時点では、セシリア様に直接の確認事項はございません」
「現時点では」
セシリアは微笑んだ。
「そう」
若い神官は深く頭を下げ、早々に退室した。
扉が閉まると、セシリアは膝の上で重ねていた手をほどいた。
指先が冷たい。
リディアが拘束された。
台帳が見つかった。
調合部門が調べられている。
次は、どこへ来る?
聖女派支援会か。
オルグレン司祭か。
それとも、自分のところか。
セシリアは立ち上がり、温室へ向かった。
そこには今日も白百合が咲いている。
けれど、花の白さが以前ほど頼もしく見えなかった。
「私は、知らなかった」
小さく呟く。
それは、事実の一部ではある。
香油の成分までは知らなかった。
木片のことも知らなかった。
アルヴェインを直接狙う計画を、自分が命じたわけではない。
だが、止めなかった。
その場にいて、危ういと感じて、それでも強く止めなかった。
リシェルがいなくなればいい。
リシェルの価値が落ちればいい。
リシェルが悪女として戻ればいい。
その感情を、周囲に利用された。
では、自分は本当に無関係なのか。
考えたくなかった。
セシリアは白百合の花瓶へ手を伸ばし、花弁を撫でた。
その時、背後で声がした。
「セシリア」
エドガーだった。
彼は扉のところに立っていた。
いつものように優しく微笑んではいない。
旅の疲れも、辺境で見たものの重さも、まだ顔に残っている。
「エドガー様」
セシリアはすぐに微笑みを作った。
「お戻りだったのですね。お疲れではありませんか?」
「リディアが拘束された」
挨拶を飛ばしてそう言った。
セシリアの笑みが少しだけ固まる。
「聞きましたわ」
「君は、どこまで知っていた」
まっすぐな問いだった。
セシリアは目を伏せた。
「また、その話ですか」
「答えてくれ」
「私は、何も知りません」
「何も?」
「香油の詳しいことなんて、私には分かりません。神殿の方々が、辺境の支援に必要だと」
「木片のことは」
「知りません」
「アルヴェイン団長の古傷を狙った可能性については」
「知らないと言っています!」
思わず声が大きくなった。
温室に、その声が反響する。
セシリア自身も驚いたように口を閉じた。
エドガーは、黙って彼女を見ている。
以前なら、この時点で彼は謝っただろう。怖がらせた、疑ってすまない、と。
だが今は、動かない。
「……どうして」
セシリアの目に涙が浮かぶ。
「どうして、そんな目で見るの」
エドガーは答えない。
「昔は、私を信じてくれたのに」
「昔は、リシェルの話を聞かなかった」
その一言で、セシリアの涙が止まった。
エドガーは続けた。
「だから今は、聞く。君の話も。リシェルの記録も。神殿の台帳も。全部だ」
「リシェル様、リシェル様って……」
セシリアの声が震える。
「あなたまで、あの方を見るの?」
「今は、見る必要がある」
「私は?」
その問いは、ほとんど悲鳴に近かった。
「私は、どうなるの?」
エドガーの表情が痛むように揺れた。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
「君が何をしたかによる」
セシリアは、息を呑んだ。
それは、彼から初めて向けられた裁きのような言葉だった。
彼女の手が、白百合の茎を握る。
今度は、花が折れた。
ぱきり、と乾いた音がした。
北西辺境補給砦に、リディア拘束の報せが届いたのは翌日の昼だった。
早馬で運ばれてきた書状を、ガレスが医務棟へ持ち込んだ。
「神殿調合部門で台帳が見つかった。リディア・フォルムが事情聴取のため拘束」
その場にいたトーマスが目を見開く。
「本当に見つかったんですか」
「台帳には、香油と補助誘引材の記録があるらしい」
リシェルは、しばらく言葉を失った。
白い壁の奥にも、必ず記録は残っている。
昨夜、自分が書いた一行。
それが現実になった。
「……対象残滓反応確認用」
ガレスが書状を読み上げる。
「そう書かれていたとある」
ベルンが低く唸った。
「つまり、最初から反応を見るために作ったわけだ」
「はい」
リシェルは静かに頷いた。
「祈りの香油ではなく、調合品です」
トーマスが怒ったように拳を握る。
「ひどいですよ。そんなものを支援物資みたいに送るなんて」
「ええ」
リシェルの声は静かだった。
怒りはある。
だが、それ以上に、事実が見つかったことの重みがあった。
アルヴェインの部屋へ報告に行くと、彼は書状を読んで、しばらく黙っていた。
「対象残滓反応確認用、か」
低い声。
「人の傷を、実験台のように扱う言葉だな」
リシェルは胸が痛んだ。
「はい」
「怒っているか」
「怒っています」
「俺もだ」
アルヴェインは書状を閉じた。
「だが、怒りだけでは足りない」
「はい」
「次は、この台帳を王宮へ上げさせる」
彼の目は冷静だった。
まだ完全に回復していないのに、その奥にはもう次の手が見えている。
「神殿本部だけで処理させるな。王宮が見ろ。俺の名前が出ている以上、引きずり出せる」
「……団長」
「何だ」
「無理はしないでください」
思わず言うと、アルヴェインは少しだけ目を細めた。
「今のは無理ではない」
「政治的な話も、体に悪いです」
「それは新しい診断だな」
「本気です」
アルヴェインは、少しだけ表情を緩めた。
「分かっている。動くのは書状だ。俺はまだ寝台にいる」
「本当に?」
「本当に」
「信用します」
「半分か」
「七割くらい」
「増えたな」
少しだけ笑い合う。
けれど、すぐに空気は引き締まった。
台帳が見つかった。
リディアが拘束された。
神殿調合部門の扉が開いた。
次は、聖女派の中心へ近づく。
そしてそこには、セシリアがいる。
リシェルは窓の外を見た。
雪の砦は静かだった。
しかし、その静けさの向こうで、王都の白い壁が少しずつ崩れ始めている。
その夜、リシェルは記録紙に新しい一行を書き加えた。
「台帳に残された文字は、祈りより正直だった」
そして、その下にもう一行。
「調合部門の扉が開いた。次は、白百合の奥を見る」
筆を置くと、手が少し震えていた。
怖い。
けれど、もう止まらない。
記録は、王都の奥へ届き始めている。
そしてリシェル自身もまた、雪の砦から王都の中心を見つめ始めていた。




