第48話 調合部門の扉が開く
神殿本部が正式調査に入ったという報せは、王都の白い回廊を想像以上の速さで駆け抜けた。
普段なら、神殿の中で起きた不都合は柔らかな布に包まれる。
祈りの場に混乱はふさわしくない。
信徒を不安にさせてはならない。
聖女候補の名を傷つけてはならない。
そうした言葉が、都合の悪い事実を覆い隠してきた。
だが、今回ばかりは覆いきれなかった。
辺境から届いた報告書には、余白が少なかった。逃げ道を塞ぐように、日時、症状、物証、所見、証言が整然と並んでいた。しかも、そこには北西辺境騎士団長アルヴェインの署名がある。
王家の血に連なる男の名だ。
神殿本部の高官たちは、そこを無視できない。
そしてもう一人、無視できない者がいた。
リシェル・フォルディア。
婚約破棄され、王都の社交界から消えたはずの令嬢。
悪女として語られ、辺境へ追いやられたはずの女。
その彼女が、いま神殿の白い壁へ記録を突き立てている。
その事実が、王都の一部にじわじわと広がり始めていた。
神殿調合部門の扉が開かれたのは、午後の祈りが終わった直後だった。
調合部門は神殿本部の奥、一般の神官や信徒が入らない区域にある。石壁は厚く、窓は高い。中には薬草、香油、聖水、祈祷薬に使われる素材が整然と並び、空気には独特の甘苦い香りが染みついていた。
その部屋の中央で、リディア・フォルムは薬瓶の棚を前に立っていた。
淡い灰色の髪をきっちり結い、細い指には調合でついた薄い染みが残っている。彼女は表情を変えず、神殿本部から派遣された調査官たちを迎えた。
「突然のことですね」
声は落ち着いている。
だが、その目は笑っていなかった。
調査官の先頭に立った初老の神官は、形式的な礼を取った。
「北西辺境補給砦へ送られた香油、および関連支援物資について確認を行います」
「辺境側の誤解でしょう」
リディアは即答した。
「祈祷済み香油は、心身を落ち着けるための補助品です。強い薬効を目的としたものではありません」
「では、なぜ瓶底に医療用調合印が?」
調査官が紙を広げる。
そこには、リシェルが写し取った三つの滴と細い杖の印が描かれていた。
リディアの目が、ほんのわずかに細くなる。
「古い瓶を再利用したのでは?」
「神殿支援物資で、調合印つきの古瓶を再利用したと?」
「あり得ないとは申しません」
「出荷記録を」
調査官は淡々と言った。
リディアは少し間を置いた。
「記録室にあります」
「こちらへ」
「調合部門の記録には秘匿項目があります」
「香油の成分を公開せよとはまだ言っていません。まず、出荷番号と担当者名です」
リディアは口を閉じた。
その一瞬の沈黙だけで、調査官の目はさらに鋭くなった。
部屋の奥で若い調合師が小さく息を呑む。
リディアはその気配を感じ、振り返らないまま言った。
「余計なことは言わなくて結構です」
若い調合師は震えるように頭を下げた。
調査官は、その様子も見逃さなかった。
「では、記録室へ」
リディアはしばらく動かなかった。
だが、拒み続けることはできない。
神殿本部の正式調査である以上、扉はもう開いてしまったのだ。
「……ご案内します」
彼女は静かに答えた。
同じ頃、レヴェント公爵家では、エドガーが神殿から戻ったばかりの使いを前にしていた。
机の上には、辺境から持ち帰った写しと、神殿本部が調査を開始したという書状が並んでいる。
その横には、古い招待状がいくつか置かれていた。
セシリアが断罪の夜より前に参加した茶会。
その茶会の席順。
リシェルが提出したはずの贈答記録。
そして、いつの間にか紛失していた手紙の控え。
エドガーは、それらをひとつずつ見比べていた。
見れば見るほど、綻びは多い。
あの夜、自分は「証拠がある」と思っていた。
セシリアを傷つけた手紙。
悪意ある噂を流したという証言。
茶会で香油をすり替えたという話。
リシェルが嫉妬からセシリアを追い詰めたという筋書き。
あの時は、すべてが一本の線に見えた。
けれど今見ると、線は不自然に整いすぎている。
誰かが、あらかじめそう見えるように並べたのではないか。
そんな疑念が、頭から離れない。
「坊ちゃま」
執事長が静かに声をかけた。
「リディア・フォルムの出入り記録が一部確認できました」
「出せ」
差し出された紙を受け取り、エドガーは目を走らせた。
リディアは断罪の夜の三日前、セシリアの離宮へ入っている。
その翌日、レヴェント家の薬箱の補充名目で出入りしている。
そして断罪当日、会場へ香油を届けた侍女と接触していた可能性がある。
まだ決定的ではない。
だが、偶然にしては多すぎる。
「……なぜ、俺は見なかった」
エドガーの声は低かった。
執事長は答えない。
その沈黙が、むしろ厳しかった。
「セシリアの言葉ばかり聞いていた」
「当時、坊ちゃまは聖女候補様をお守りすることが正義だとお考えでした」
「正義、か」
苦い響きだった。
「便利な言葉だな」
エドガーは紙を机へ置いた。
今なら分かる。
正義のつもりでいる時ほど、人は自分の見たいものだけを見る。
守るべき相手を決めてしまえば、それ以外の声は邪魔になる。
あの夜、自分にとってリシェルは邪魔な声だった。
だから聞かなかった。
それが、いちばん重い。
「セシリアに会う」
エドガーは立ち上がった。
執事長がわずかに目を細める。
「今すぐでございますか」
「ああ」
「お一人で?」
「マティアスを連れていく」
「かしこまりました」
執事長は頭を下げ、それから静かに言った。
「坊ちゃま」
「何だ」
「お聞きになるなら、最後までお聞きくださいませ」
エドガーは、その言葉に目を伏せた。
リシェルにも、それをしなかった。
最後まで聞く。
ただそれだけのことが、どれほど難しかったのか、今になって思い知っている。
「ああ」
彼は短く答えた。
「今度は、聞く」
北西辺境補給砦には、王都の動きが少しずつ届き始めていた。
神殿本部が調査に入った。
調合部門の出荷記録を確認している。
レヴェント家も独自調査を始めた。
セシリアの周辺に、王都の視線が向き始めている。
医務棟でその報せを聞いたトーマスは、思わず声を上げた。
「すごいです。リシェルさんの報告で、本当に王都が動いてるんですね」
「私一人の報告ではありません」
リシェルはすぐに言った。
「団長の署名、ベルン先生の所見、ガレス副官の補給記録、イアンの症状、ミラさんの証言。全部です」
「でも、まとめたのはリシェルさんです」
「……それは、そうかもしれません」
以前なら、そこで否定していた。
自分など大したことはないと。
皆のおかげだとだけ言って、受け取らなかった。
もちろん、皆のおかげであることは変わらない。
けれど、今は少しだけ受け取れる。
自分がまとめた記録が、王都へ届いたのだと。
ベルンが奥から言った。
「受け取っておけ。謙遜しすぎる奴は面倒だ」
「先生に言われると、なぜか説得力がありますね」
「どういう意味だ」
「褒め言葉です」
「嘘だな」
トーマスが笑いをこらえた。
そんな医務棟の空気が、リシェルにはありがたかった。
王都が動けば動くほど、これから先は重くなる。
セシリアの名前がもっと前に出るかもしれない。
アルヴェインの血筋や古傷も、王都の政治に絡め取られるかもしれない。
だからこそ、こういう何気ないやり取りが、心を支えてくれる。
「団長の様子を見てきます」
リシェルが言うと、ベルンがじろりと見た。
「様子を見るだけだぞ」
「分かっています」
「起こすな」
「分かっています」
「団長が起きようとしたら止めろ」
「それはもちろん」
ベルンは少しだけ満足そうに頷いた。
「なら行け」
団長室へ行くと、アルヴェインは窓際の椅子に座っていた。
寝台ではない。
椅子だ。
リシェルは扉を開けた瞬間、無言で彼を見た。
アルヴェインは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「……寝台にはいた」
「今はいません」
「少し座っただけだ」
「その“少し”について、あとでベルン先生と話し合いましょうか」
「それは困る」
素直だった。
リシェルはため息をつき、近づいて額に手を当てた。熱は高くない。顔色も昨日よりはいい。だが、無理をしていい状態ではない。
「団長」
「分かっている」
「何をですか」
「戻る」
「今すぐ」
アルヴェインは黙って立ち上がろうとし、リシェルに睨まれて動きを止めた。
「……本当に強くなったな」
「患者が手間をかけるので」
「俺は患者か」
「まだ患者です」
彼は小さく息を吐き、寝台へ戻った。
リシェルは椅子を引き、寝台のそばに座る。
「王都から、少し動きがありました」
「ああ。ガレスから聞いた」
「神殿本部が調合部門を調べているそうです」
「遅いくらいだ」
「レヴェント家も、リディア・フォルムを追い始めています」
アルヴェインの目が少し鋭くなる。
「エドガーは動いたか」
「はい」
「使えるか」
容赦のない言い方だった。
リシェルは少しだけ苦笑する。
「使える、という言い方は」
「必要な駒ではある」
「団長」
「分かっている。お前の元婚約者を駒扱いするのは面白くないな」
「そこではありません」
思わずそう返すと、彼はわずかに口元を緩めた。
「冗談だ」
「分かりにくいです」
「よく言われる」
「誰にですか」
「ガレスに」
それは想像できた。
リシェルは少し笑い、それから真面目な顔に戻る。
「エドガー様は、見るべきものとして見ると言いました。罪滅ぼしではなく」
「なら、少しはましだ」
「団長は、まだ信用していませんね」
「当然だ」
即答だった。
「信用は、言葉ではなく積み上げるものだ」
リシェルは、その言葉に静かに頷いた。
自分もそう思う。
謝罪を受けたから終わりではない。
見直したと言われたから戻れるわけではない。
エドガーが変わろうとしているなら、それはこれからの行動で示されるべきものだ。
「でも、王都で動く人は必要です」
「ああ」
「私たちは、ここから王都を見ます」
そう言うと、アルヴェインがこちらを見た。
「私たち、か」
その響きに、リシェルは自分の言葉を思い返して少し頬が熱くなった。
「……砦として、という意味です」
「そうか」
「そうです」
「分かった」
納得したような顔をしているが、少し楽しんでいる気配があった。
この人も、体調が戻ると少し意地が悪い。
「団長」
「何だ」
「今、からかいましたか」
「少し」
「患者なのに」
「患者にも娯楽は必要だ」
「安静が必要です」
そう言うと、彼は今度こそ小さく笑った。
その笑顔を見て、リシェルは胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
倒れた夜の彼を、まだ忘れられない。
熱に浮かされ、離れるなと願うように言った声も、握り返してきた手の弱さも。
だから、今こうして笑っているだけで、十分すぎるほど安心する。
「リシェル」
「はい」
「王都が本格的に動けば、お前の名前もさらに出る」
「分かっています」
「悪意も来る」
「それも」
「怖いか」
何度も聞かれた問い。
けれど、答えは少しずつ変わっている。
「怖いです。でも、今は怖いまま進めます」
アルヴェインは静かに目を細めた。
「いい答えだ」
「団長がそう言うなら、たぶん大丈夫ですね」
「俺の判断を信用しすぎるな」
「では、半分くらいにします」
「少ないな」
「患者なので」
今度はリシェルが少しだけ笑った。
王都の夕刻、エドガーはセシリアの離宮へ向かった。
いつもなら、通される前から柔らかな香りが漂っていた。白百合、薄い香油、甘い茶菓子。だが今日、その香りは少しだけ重く感じられた。
セシリアは応接室で待っていた。
白いドレス。淡い金の髪飾り。少し潤んだ瞳。いつも通りの姿。
けれど、エドガーにはもう、それがいつも通りに見えなかった。
「エドガー様」
セシリアは立ち上がり、安堵したように微笑んだ。
「ご無事でよかった。辺境は寒かったでしょう?」
「ああ」
「お疲れではありませんか? お茶を」
「その前に、聞きたいことがある」
セシリアの笑みが、ほんの少し固まった。
「聞きたいこと?」
「聖女派の香油についてだ」
部屋の空気が変わった。
侍女が動きを止める。
セシリアは少しだけ目を伏せた。
「その件は、私も心を痛めています。まさか、辺境の方があんな誤解を」
「誤解ではない」
エドガーは遮った。
セシリアの目が揺れる。
以前なら、遮れなかった。
彼女が悲しげに目を伏せれば、まず慰めただろう。
だが今は、最後まで聞くために来た。
そして、聞くだけでは足りない。
「兵に症状が出ている。アルヴェイン団長も倒れた。香油と木片には、神殿調合部門の印があった」
「私は、そんなこと知りません」
声が少し速くなった。
「本当に?」
エドガーは静かに問う。
セシリアの瞳が潤む。
「エドガー様まで、私を疑うのですか?」
その言葉は、昔と同じ形だった。
胸を締めつけるような、守りたくなるような声。
けれど今、エドガーの脳裏には別の声が浮かんだ。
――私は、言わなかったのではありません。聞いてもらえなかったんです。
リシェルの声だ。
エドガーは、揺れなかった。
「疑うべきことが起きている」
セシリアの目から、涙が一粒こぼれた。
以前なら、それで終わっていた。
だが、今日は終わらない。
「リディア・フォルムは、君の近くにいたな」
セシリアの肩がわずかに揺れた。
「体調管理をしてもらったことはあります」
「断罪の夜の前にも?」
「……覚えていません」
「思い出してくれ」
エドガーの声は低かった。
セシリアは、涙を浮かべたまま彼を見た。
そこには、驚きがあった。
エドガーが、涙で止まらないことへの驚き。
そして、少しの恐怖。
「どうして」
セシリアは小さく言った。
「どうして、今さらリシェル様の味方をするの」
「彼女の味方をしているのではない」
「では何ですか」
「事実を見ている」
その言葉に、セシリアは唇を震わせた。
事実。
リシェルの言葉。
辺境の記録。
神殿本部の調査。
エドガーの問い。
全部が、彼女の周りを囲み始めている。
セシリアは小さく首を振った。
「私は、悪くないわ」
その言葉が、応接室に落ちた。
エドガーは、静かに彼女を見ていた。
その言葉を、彼はもう簡単には信じなかった。
その夜、神殿調合部門の記録室で、ひとつの台帳が見つかった。
聖女派支援会向け特別調合品。
祈祷済み香油。
補助誘引材。
出荷先、北西辺境方面。
担当者欄には、リディア・フォルムの署名。
そして備考欄には、小さな文字でこう記されていた。
対象残滓反応確認用。少量使用。
調査官は、その一文を見た瞬間、顔色を変えた。
祈りの香油などではない。
それは、反応を見るための調合品だった。
神殿の白い壁の奥で、ようやく最初の扉が本当に開いた。
北西辺境補給砦に、その知らせが届くのはまだ先のことだった。
けれど、その夜、リシェルはなぜか眠れなかった。
医務棟の窓から外を見ると、雪は止んでいる。
遠くの見張り台に、灯が一つ揺れていた。
王都で何かが動いている。
そんな予感があった。
リシェルは記録紙を開き、まだ何も知らないまま一行だけ書いた。
「白い壁の奥にも、必ず記録は残っている」
筆を置く。
王都がどれほど美しい言葉で覆っても、どこかに痕跡は残る。
それを見つける目を、こちらはもう持っている。
リシェルは静かに窓を閉めた。
辺境の夜は冷たい。
けれど、もう孤独ではなかった。




