表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/61

第47話 神殿の白い壁に、辺境の記録が刺さる

 王都の神殿本部は、白い石でできている。


 磨き上げられた床。高い天井。祈りの声がよく響く回廊。壁には聖人たちの絵がかかり、窓から差し込む光は、まるでそこにいる者すべてを清めるように淡く広がっていた。


 だが、その朝の会議室に清らかな空気はなかった。


 長机の上には、北西辺境補給砦から届いた報告書が置かれている。


 香油の瓶底に刻まれた調合印の写し。

 兵イアンの症状記録。

 アルヴェインの古傷の反応図。

 西壁見張り小屋から回収された木片の記録。

 偽薬草と白百合符丁の照合表。

 そして、リシェル・フォルディアの署名。


 神官長は、何度目か分からないほどその書類を読み返していた。


 年老いた指が、紙の上で止まる。


「……これは、ただの苦情ではないな」


 低い声だった。


 会議室にいた神官たちが、誰もすぐには答えない。


 誰かが咳払いをした。

 誰かが視線を逸らした。

 誰かが、目の前の香油瓶の写しを見て唇を引き結んだ。


 神官長は顔を上げる。


「祈祷済み香油として送られたものに、神殿内部の調合印がある。成分表は提出されていない。使用者に症状が出ている。さらに、同系統と見られる木片が辺境騎士団長の古傷を悪化させた」


 ひとつずつ言葉にしていく。


 そのたびに、会議室の空気が重くなった。


「これを、辺境側の誤解で済ませる者はいるか」


 誰も手を挙げなかった。


 神官長は机の上の紙を軽く叩いた。


「では、調べる」


 その一言で、部屋の奥に控えていた若い神官が顔を上げた。


「調査を、正式に?」


「当然だ」


 神官長の声は冷たかった。


「聖女派支援会、神殿調合部門、香油の保管記録、出荷経路。すべて確認する」


「しかし、聖女候補セシリア様の名が関わっております」


「だからだ」


 神官長は即座に返した。


「聖女候補の名が関わっているからこそ、曖昧にしてはならん。祈りの名で危険な物が動いたとなれば、神殿そのものの信用に関わる」


 その場の全員が押し黙った。


 祈りは、信頼で成り立つ。


 その信頼に混ぜ物があったと知れれば、聖女派どころか神殿全体が揺らぐ。


 神官長は、報告書の最後の一文に視線を落とした。


 聖女の名を使って命を危険に晒すなら、薬師としてこれを否定する。


「強い言葉だ」


 ぽつりと呟く。


 隣にいた神官が、おずおずと口を開いた。


「反抗的、とも取れます」


「そう取る者は、この報告書を読む資格がない」


 神官長は鋭く言った。


「感情で叫んでいる文ではない。症状、物証、経路、所見。すべてを並べたうえで、最後に立場を示している。むしろ、よく抑えている」


 会議室に沈黙が落ちる。


「リシェル・フォルディア……婚約破棄された令嬢か」


「はい。王都では、悪評もございました」


「その悪評を書いた者も調べろ」


 神官長の言葉に、今度こそ数人が顔を上げた。


「神官長、それは」


「香油の件と無関係とは限らん」


 彼は静かに言った。


「辺境で医務を担う者の信用を崩そうとしたなら、その前段階として王都での評判操作があっても不思議ではない」


 誰も反論できなかった。


 神官長は最後に、白い封筒を一枚取り出した。


「王宮へも回答を出す。神殿本部として、調査に入るとな」


「聖女派には」


「知らせる。だが、先に調合部門の記録を押さえる」


 その声には、老いた者特有の静かな怒りがあった。


「祈りを盾にして薬を隠す者がいるなら、神殿の中であろうと許さん」


 同じ頃、離宮の温室では、セシリアが朝の茶を前にしていた。


 茶は冷めている。


 白百合は今日も花瓶に美しく活けられている。


 何も変わらないように見える。


 だが、セシリアの指は、カップに触れないままだった。


 エリナが静かに入ってくる。


「セシリア様」


「何かしら」


 セシリアは微笑んだ。


 昨日よりも、少しだけ作るのに力がいる微笑みだった。


「神殿本部が、調合部門の記録確認に入るそうです」


 カップの縁に、セシリアの指がかすかに触れた。


 小さな音が鳴る。


「早いのね」


「辺境側の報告に、アルヴェイン団長の署名があるためかと」


「リシェル様だけなら、握り潰せた?」


 柔らかな声だった。


 しかし、その問いにエリナは答えなかった。


 セシリアは笑う。


「冗談よ」


 冗談ではなかった。


 少なくとも、言った本人はそれを分かっている。


 エリナは少しだけ目を伏せる。


「オルグレン司祭は、今朝から神殿本部へ向かわれています」


「でしょうね」


「セシリア様」


「何?」


「本当に、ご存じなかったのですか」


 その問いは、あまりにも静かだった。


 だからこそ、セシリアの胸へ深く入った。


 彼女は、ゆっくり顔を上げる。


 エリナは逃げなかった。


 温室の中で、二人の視線がぶつかる。


「あなたまで、私を疑うの?」


「疑いたいわけではありません」


「なら、なぜ聞くの?」


「知らなかったなら、止めるべきです。知っていたなら……なおさら、止めるべきです」


 セシリアの唇から笑みが消えた。


「簡単に言うのね」


「簡単ではありません」


「あなたは見てきたからそう言うのね。辺境のリシェル様を。皆に必要とされて、団長に守られて、立派に記録を並べるあの方を」


「見ました」


 エリナは認めた。


「だからこそ、分かりました。あの方は、もう王都で噂されているだけの方ではありません」


 セシリアは、ぐっと手を握った。


 白い指先に力が入る。


「それが、何だと言うの」


「敵に回すなら、相応の覚悟が必要です」


「敵?」


 セシリアの声が震えた。


「私は、あの方を敵だなんて思っていないわ」


 その言葉は、本人にも嘘のように聞こえた。


 エリナは静かに言う。


「では、味方ですか」


 答えられなかった。


 白百合の香りが濃くなる。


 セシリアは視線を花瓶へ逃がした。


「私は、ただ……元に戻したかっただけ」


「何をですか」


「全部よ」


 声が小さくなる。


「エドガー様が私を見て、皆が私を信じて、リシェル様は……リシェル様は、悪い人で」


 最後の言葉は、子どもの言い訳のようだった。


 エリナは、悲しげに目を伏せた。


「セシリア様」


「言わないで」


「もう、戻りません」


 その言葉に、セシリアは目を見開いた。


「何が?」


「あの夜の形には」


 温室が静まり返る。


 セシリアは、何か言おうとした。

 怒ろうとした。

 泣こうとした。


 けれど、どれも中途半端に胸の奥で詰まった。


 あの夜の形。


 エドガーが自分を守り、リシェルが悪女として断罪され、王都がそれを受け入れた夜。


 あれは、もう戻らない。


 認めたくなかった。


 けれど、王都のあちこちで、すでにその形に亀裂が入り始めている。


 神殿本部が動いた。

 レヴェント家が動いた。

 アルヴェインの署名が王宮へ届いた。

 リシェルの記録が、白い壁に突き刺さった。


 セシリアは、震える手でカップを持った。


 茶は冷たかった。


「出ていって」


 声は低かった。


 エリナは一礼する。


「失礼いたします」


 扉が閉まる。


 セシリアは、カップを置いた。


 かちゃん、と硬い音がした。


 白百合の花弁が一枚、音もなく落ちた。


 レヴェント公爵家へ戻ったエドガーは、休む間もなく執事長を呼んだ。


 旅の疲れは顔に出ている。だが、その目は王都を出た時よりも冷めていた。いや、冷めたというより、ようやく何かを見ようとしている目だった。


「リディア・フォルムについて調べろ」


 最初にそう言った。


 執事長は一礼する。


「すでに、神殿薬師部門との関係を調べ始めております」


「早いな」


「坊ちゃまが戻られる頃には必要になるかと」


 エドガーは少しだけ苦笑した。


「昔なら、こういう先回りをリシェルがしていた」


「はい」


 執事長は、否定しなかった。


 その率直さが、今はありがたかった。


「彼女は、戻らない」


 エドガーは静かに言った。


「そう仰ったのですか」


「ああ」


 短い沈黙が落ちる。


 執事長は、深く頭を下げた。


「当然かと存じます」


 胸に刺さった。


 しかし、エドガーは怒らなかった。


「そうだな」


 そう答えられたことに、自分でも少し驚いた。


 彼は机の上に、辺境から持ち帰った写しを並べた。


 リシェルの字。

 ベルンの所見。

 ガレスの補給記録。

 ミラの証言。

 アルヴェインの署名。


「彼女は、辺境で戦っている」


「はい」


「なら、俺は王都で見る」


 執事長が顔を上げる。


「何をでしょう」


「俺が見なかったもの全部だ」


 言ってから、エドガーは息を吐いた。


「まずは、あの夜の証言を洗い直す。セシリアの周囲、証言した侍女、手紙を運んだ者、香油を用意した者。すべてだ」


「承知しました」


「それと、聖女派支援会にレヴェント家の名で問い合わせを出す。香油の調合経路について」


「強い反発が予想されます」


「構わない」


 エドガーは淡々と言った。


「これ以上、見なかったふりはしない」


 北西辺境補給砦では、リシェルがアルヴェインの熱を測っていた。


 王都で何が起き始めているか、まだ詳しい知らせは届いていない。


 ただ、早馬を出した後の砦には、嵐の前とは違う静けさがあった。


 動くべきものは動いた。

 出すべきものは出した。

 あとは、届いた先で何が返ってくるかを待つ。


「熱は下がっています」


 リシェルが言うと、アルヴェインは少しだけ不服そうにした。


「なら、起きても」


「駄目です」


「まだ何も言っていない」


「言う前に分かります」


「医務担当は勘が鋭すぎるな」


「患者が分かりやすすぎるんです」


 寝台の脇に置いた薬草茶から、薄い湯気が上がっている。


 アルヴェインはそれを見て、少し顔をしかめた。


「また苦いやつか」


「効くやつです」


「苦いな」


「飲んでから言ってください」


 彼はしぶしぶ器を受け取った。


 一口飲み、案の定眉を寄せる。


「苦い」


「効きます」


「王都の毒よりはましか」


 ふいにそんなことを言うから、リシェルは返事に詰まった。


 アルヴェインは器を下ろし、静かにこちらを見る。


「すまない。冗談にしては悪かった」


「いえ」


 リシェルは首を振った。


「でも、笑えないです」


「ああ」


 少し沈黙が落ちる。


 リシェルは彼の傷の包帯を確認しながら言った。


「王都へ届いたら、どうなるでしょうか」


「騒ぐ」


「でしょうね」


「神殿は、自分たちの失態にしたくない。聖女派は、お前を黙らせたい。王宮は、俺の名前が出た以上、無視しづらい」


「団長は、巻き込まれるのが嫌ですか」


「嫌だな」


 即答だった。


 けれど、続く声は落ち着いていた。


「だが、もう逃げる話ではない」


 リシェルは手を止める。


 アルヴェインは窓の外を見た。


「俺は王都が嫌いだ。血筋で人を測り、役目で縛り、勝手に盤上へ置く。だから辺境へ来た」


「はい」


「だが、逃げた先の砦を王都に踏み荒らされるなら、話は別だ」


 低い声。


 静かだが、強い。


「ここにいる者を守るためなら、王都を見る」


 リシェルの胸が熱くなった。


「私も見ます」


「ああ」


「でも、団長はまず寝てください」


 せっかくの空気を壊すように言うと、アルヴェインは一瞬だけ黙った。


 それから、ごく小さく笑った。


「今それを言うか」


「今だからです」


「強いな」


「辺境の薬師なので」


 そう答えた自分の声が、思ったより自然だった。


 辺境の薬師。


 その言葉は、もう借り物ではなかった。


 その日の夕方、王都から最初の返信が届いた。


 王宮からではない。


 神殿本部からだった。


 封を開いたガレスが、珍しく目を丸くした。


「神殿本部が、正式調査に入るそうだ」


 医務棟にいた全員が顔を上げた。


 ベルンが鼻を鳴らす。


「思ったより早いな」


「調合部門の記録を押さえるとある。聖女派支援会にも確認を入れるそうだ」


 トーマスが思わず声を上げた。


「じゃあ、リシェルさんの報告が効いたんですね」


 リシェルはすぐには答えられなかった。


 効いた。


 届いた。


 王都の白い壁に、辺境の記録が突き刺さった。


 そう思った瞬間、胸の奥に静かな熱が広がった。


 泣きたいほどではない。


 笑い出したいほどでもない。


 ただ、深く息を吸いたくなるような感覚だった。


「……まだ、始まっただけです」


 リシェルは言った。


「でも、始まりました」


 ベルンが短く頷く。


「上出来だ」


 その一言だけで、十分だった。


 リシェルは神殿本部からの書状を見つめた。


 王都はもう、見ないふりができない。


 そして自分も、もう黙って見られるだけの女ではない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ