第47話 神殿の白い壁に、辺境の記録が刺さる
王都の神殿本部は、白い石でできている。
磨き上げられた床。高い天井。祈りの声がよく響く回廊。壁には聖人たちの絵がかかり、窓から差し込む光は、まるでそこにいる者すべてを清めるように淡く広がっていた。
だが、その朝の会議室に清らかな空気はなかった。
長机の上には、北西辺境補給砦から届いた報告書が置かれている。
香油の瓶底に刻まれた調合印の写し。
兵イアンの症状記録。
アルヴェインの古傷の反応図。
西壁見張り小屋から回収された木片の記録。
偽薬草と白百合符丁の照合表。
そして、リシェル・フォルディアの署名。
神官長は、何度目か分からないほどその書類を読み返していた。
年老いた指が、紙の上で止まる。
「……これは、ただの苦情ではないな」
低い声だった。
会議室にいた神官たちが、誰もすぐには答えない。
誰かが咳払いをした。
誰かが視線を逸らした。
誰かが、目の前の香油瓶の写しを見て唇を引き結んだ。
神官長は顔を上げる。
「祈祷済み香油として送られたものに、神殿内部の調合印がある。成分表は提出されていない。使用者に症状が出ている。さらに、同系統と見られる木片が辺境騎士団長の古傷を悪化させた」
ひとつずつ言葉にしていく。
そのたびに、会議室の空気が重くなった。
「これを、辺境側の誤解で済ませる者はいるか」
誰も手を挙げなかった。
神官長は机の上の紙を軽く叩いた。
「では、調べる」
その一言で、部屋の奥に控えていた若い神官が顔を上げた。
「調査を、正式に?」
「当然だ」
神官長の声は冷たかった。
「聖女派支援会、神殿調合部門、香油の保管記録、出荷経路。すべて確認する」
「しかし、聖女候補セシリア様の名が関わっております」
「だからだ」
神官長は即座に返した。
「聖女候補の名が関わっているからこそ、曖昧にしてはならん。祈りの名で危険な物が動いたとなれば、神殿そのものの信用に関わる」
その場の全員が押し黙った。
祈りは、信頼で成り立つ。
その信頼に混ぜ物があったと知れれば、聖女派どころか神殿全体が揺らぐ。
神官長は、報告書の最後の一文に視線を落とした。
聖女の名を使って命を危険に晒すなら、薬師としてこれを否定する。
「強い言葉だ」
ぽつりと呟く。
隣にいた神官が、おずおずと口を開いた。
「反抗的、とも取れます」
「そう取る者は、この報告書を読む資格がない」
神官長は鋭く言った。
「感情で叫んでいる文ではない。症状、物証、経路、所見。すべてを並べたうえで、最後に立場を示している。むしろ、よく抑えている」
会議室に沈黙が落ちる。
「リシェル・フォルディア……婚約破棄された令嬢か」
「はい。王都では、悪評もございました」
「その悪評を書いた者も調べろ」
神官長の言葉に、今度こそ数人が顔を上げた。
「神官長、それは」
「香油の件と無関係とは限らん」
彼は静かに言った。
「辺境で医務を担う者の信用を崩そうとしたなら、その前段階として王都での評判操作があっても不思議ではない」
誰も反論できなかった。
神官長は最後に、白い封筒を一枚取り出した。
「王宮へも回答を出す。神殿本部として、調査に入るとな」
「聖女派には」
「知らせる。だが、先に調合部門の記録を押さえる」
その声には、老いた者特有の静かな怒りがあった。
「祈りを盾にして薬を隠す者がいるなら、神殿の中であろうと許さん」
同じ頃、離宮の温室では、セシリアが朝の茶を前にしていた。
茶は冷めている。
白百合は今日も花瓶に美しく活けられている。
何も変わらないように見える。
だが、セシリアの指は、カップに触れないままだった。
エリナが静かに入ってくる。
「セシリア様」
「何かしら」
セシリアは微笑んだ。
昨日よりも、少しだけ作るのに力がいる微笑みだった。
「神殿本部が、調合部門の記録確認に入るそうです」
カップの縁に、セシリアの指がかすかに触れた。
小さな音が鳴る。
「早いのね」
「辺境側の報告に、アルヴェイン団長の署名があるためかと」
「リシェル様だけなら、握り潰せた?」
柔らかな声だった。
しかし、その問いにエリナは答えなかった。
セシリアは笑う。
「冗談よ」
冗談ではなかった。
少なくとも、言った本人はそれを分かっている。
エリナは少しだけ目を伏せる。
「オルグレン司祭は、今朝から神殿本部へ向かわれています」
「でしょうね」
「セシリア様」
「何?」
「本当に、ご存じなかったのですか」
その問いは、あまりにも静かだった。
だからこそ、セシリアの胸へ深く入った。
彼女は、ゆっくり顔を上げる。
エリナは逃げなかった。
温室の中で、二人の視線がぶつかる。
「あなたまで、私を疑うの?」
「疑いたいわけではありません」
「なら、なぜ聞くの?」
「知らなかったなら、止めるべきです。知っていたなら……なおさら、止めるべきです」
セシリアの唇から笑みが消えた。
「簡単に言うのね」
「簡単ではありません」
「あなたは見てきたからそう言うのね。辺境のリシェル様を。皆に必要とされて、団長に守られて、立派に記録を並べるあの方を」
「見ました」
エリナは認めた。
「だからこそ、分かりました。あの方は、もう王都で噂されているだけの方ではありません」
セシリアは、ぐっと手を握った。
白い指先に力が入る。
「それが、何だと言うの」
「敵に回すなら、相応の覚悟が必要です」
「敵?」
セシリアの声が震えた。
「私は、あの方を敵だなんて思っていないわ」
その言葉は、本人にも嘘のように聞こえた。
エリナは静かに言う。
「では、味方ですか」
答えられなかった。
白百合の香りが濃くなる。
セシリアは視線を花瓶へ逃がした。
「私は、ただ……元に戻したかっただけ」
「何をですか」
「全部よ」
声が小さくなる。
「エドガー様が私を見て、皆が私を信じて、リシェル様は……リシェル様は、悪い人で」
最後の言葉は、子どもの言い訳のようだった。
エリナは、悲しげに目を伏せた。
「セシリア様」
「言わないで」
「もう、戻りません」
その言葉に、セシリアは目を見開いた。
「何が?」
「あの夜の形には」
温室が静まり返る。
セシリアは、何か言おうとした。
怒ろうとした。
泣こうとした。
けれど、どれも中途半端に胸の奥で詰まった。
あの夜の形。
エドガーが自分を守り、リシェルが悪女として断罪され、王都がそれを受け入れた夜。
あれは、もう戻らない。
認めたくなかった。
けれど、王都のあちこちで、すでにその形に亀裂が入り始めている。
神殿本部が動いた。
レヴェント家が動いた。
アルヴェインの署名が王宮へ届いた。
リシェルの記録が、白い壁に突き刺さった。
セシリアは、震える手でカップを持った。
茶は冷たかった。
「出ていって」
声は低かった。
エリナは一礼する。
「失礼いたします」
扉が閉まる。
セシリアは、カップを置いた。
かちゃん、と硬い音がした。
白百合の花弁が一枚、音もなく落ちた。
レヴェント公爵家へ戻ったエドガーは、休む間もなく執事長を呼んだ。
旅の疲れは顔に出ている。だが、その目は王都を出た時よりも冷めていた。いや、冷めたというより、ようやく何かを見ようとしている目だった。
「リディア・フォルムについて調べろ」
最初にそう言った。
執事長は一礼する。
「すでに、神殿薬師部門との関係を調べ始めております」
「早いな」
「坊ちゃまが戻られる頃には必要になるかと」
エドガーは少しだけ苦笑した。
「昔なら、こういう先回りをリシェルがしていた」
「はい」
執事長は、否定しなかった。
その率直さが、今はありがたかった。
「彼女は、戻らない」
エドガーは静かに言った。
「そう仰ったのですか」
「ああ」
短い沈黙が落ちる。
執事長は、深く頭を下げた。
「当然かと存じます」
胸に刺さった。
しかし、エドガーは怒らなかった。
「そうだな」
そう答えられたことに、自分でも少し驚いた。
彼は机の上に、辺境から持ち帰った写しを並べた。
リシェルの字。
ベルンの所見。
ガレスの補給記録。
ミラの証言。
アルヴェインの署名。
「彼女は、辺境で戦っている」
「はい」
「なら、俺は王都で見る」
執事長が顔を上げる。
「何をでしょう」
「俺が見なかったもの全部だ」
言ってから、エドガーは息を吐いた。
「まずは、あの夜の証言を洗い直す。セシリアの周囲、証言した侍女、手紙を運んだ者、香油を用意した者。すべてだ」
「承知しました」
「それと、聖女派支援会にレヴェント家の名で問い合わせを出す。香油の調合経路について」
「強い反発が予想されます」
「構わない」
エドガーは淡々と言った。
「これ以上、見なかったふりはしない」
北西辺境補給砦では、リシェルがアルヴェインの熱を測っていた。
王都で何が起き始めているか、まだ詳しい知らせは届いていない。
ただ、早馬を出した後の砦には、嵐の前とは違う静けさがあった。
動くべきものは動いた。
出すべきものは出した。
あとは、届いた先で何が返ってくるかを待つ。
「熱は下がっています」
リシェルが言うと、アルヴェインは少しだけ不服そうにした。
「なら、起きても」
「駄目です」
「まだ何も言っていない」
「言う前に分かります」
「医務担当は勘が鋭すぎるな」
「患者が分かりやすすぎるんです」
寝台の脇に置いた薬草茶から、薄い湯気が上がっている。
アルヴェインはそれを見て、少し顔をしかめた。
「また苦いやつか」
「効くやつです」
「苦いな」
「飲んでから言ってください」
彼はしぶしぶ器を受け取った。
一口飲み、案の定眉を寄せる。
「苦い」
「効きます」
「王都の毒よりはましか」
ふいにそんなことを言うから、リシェルは返事に詰まった。
アルヴェインは器を下ろし、静かにこちらを見る。
「すまない。冗談にしては悪かった」
「いえ」
リシェルは首を振った。
「でも、笑えないです」
「ああ」
少し沈黙が落ちる。
リシェルは彼の傷の包帯を確認しながら言った。
「王都へ届いたら、どうなるでしょうか」
「騒ぐ」
「でしょうね」
「神殿は、自分たちの失態にしたくない。聖女派は、お前を黙らせたい。王宮は、俺の名前が出た以上、無視しづらい」
「団長は、巻き込まれるのが嫌ですか」
「嫌だな」
即答だった。
けれど、続く声は落ち着いていた。
「だが、もう逃げる話ではない」
リシェルは手を止める。
アルヴェインは窓の外を見た。
「俺は王都が嫌いだ。血筋で人を測り、役目で縛り、勝手に盤上へ置く。だから辺境へ来た」
「はい」
「だが、逃げた先の砦を王都に踏み荒らされるなら、話は別だ」
低い声。
静かだが、強い。
「ここにいる者を守るためなら、王都を見る」
リシェルの胸が熱くなった。
「私も見ます」
「ああ」
「でも、団長はまず寝てください」
せっかくの空気を壊すように言うと、アルヴェインは一瞬だけ黙った。
それから、ごく小さく笑った。
「今それを言うか」
「今だからです」
「強いな」
「辺境の薬師なので」
そう答えた自分の声が、思ったより自然だった。
辺境の薬師。
その言葉は、もう借り物ではなかった。
その日の夕方、王都から最初の返信が届いた。
王宮からではない。
神殿本部からだった。
封を開いたガレスが、珍しく目を丸くした。
「神殿本部が、正式調査に入るそうだ」
医務棟にいた全員が顔を上げた。
ベルンが鼻を鳴らす。
「思ったより早いな」
「調合部門の記録を押さえるとある。聖女派支援会にも確認を入れるそうだ」
トーマスが思わず声を上げた。
「じゃあ、リシェルさんの報告が効いたんですね」
リシェルはすぐには答えられなかった。
効いた。
届いた。
王都の白い壁に、辺境の記録が突き刺さった。
そう思った瞬間、胸の奥に静かな熱が広がった。
泣きたいほどではない。
笑い出したいほどでもない。
ただ、深く息を吸いたくなるような感覚だった。
「……まだ、始まっただけです」
リシェルは言った。
「でも、始まりました」
ベルンが短く頷く。
「上出来だ」
その一言だけで、十分だった。
リシェルは神殿本部からの書状を見つめた。
王都はもう、見ないふりができない。
そして自分も、もう黙って見られるだけの女ではない。




