第46話 王都へ届く、辺境からの反撃
報告書を積んだ早馬が砦を発ったのは、夜明け前だった。
空はまだ暗く、雪は止んでいた。けれど、地面は昨日までの白を残し、馬の蹄が踏みしめるたびに凍った雪が小さく砕ける音を立てた。
正門前には、ガレスが立っていた。
その隣に、リシェルもいる。
吐く息は白い。外套の襟を上げても、首筋へ入り込む冷気は鋭かった。それでも、リシェルは門から目を離さなかった。
王都へ向かう三通の報告書。
一通は王宮へ。
一通は神殿本部へ。
一通はレヴェント公爵家へ。
どれも、ただの手紙ではない。
辺境で起きた事実を、王都へ突き返すためのものだ。
偽薬草。
白百合の符丁。
聖女派の香油。
神殿調合部門の印。
西壁見張り小屋に紛れ込んだ不審な木片。
アルヴェインの古傷を狙った誘引成分。
そこに書かれているのは、怒りではない。
だが、怒りよりもずっと重いものだった。
証拠である。
「本当に行ったな」
ガレスが低く言った。
「はい」
リシェルは頷いた。
「戻せませんね」
「戻す気があったのか」
「ありません」
即答すると、ガレスは少しだけ口元を動かした。
「ならいい」
早馬は、雪道の向こうへ消えていく。
王都へ届けば、必ず波紋が広がる。
神殿は黙っていないだろう。
聖女派は反論するだろう。
セシリアの周囲は、きっとリシェルをさらに警戒する。
エドガーは王都へ戻れば、自分の信じてきたものと向き合わなければならない。
そして、王宮も。
アルヴェインの古傷が狙われた以上、これは辺境医務だけの問題ではない。
王位継承に連なる男を、神殿調合部門の印が入った物で害そうとした可能性。
それは、王都の奥へ届けば届くほど、無視できなくなる。
「怖いか」
ガレスが唐突に聞いた。
リシェルは少し考えた。
「怖いです」
「だろうな」
「でも、出さなかったほうがもっと怖いです」
そう言うと、ガレスは満足したように頷いた。
「団長が聞いたら、また妙な顔をする」
「妙な顔?」
「嬉しいのに心配で怒ってる顔だ」
思わず笑ってしまった。
たしかに、アルヴェインならそういう顔をするかもしれない。
まだ安静中のはずなのに、報告書を出す直前まで確認しようとして、ベルンに叱られていた。あの時の少し不服そうな顔を思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「戻りましょう」
リシェルは言った。
「団長が起きる前に、熱を測らないと」
「もう起きてる気がするがな」
「……あり得ます」
二人は砦の中へ戻った。
雪の朝は冷たい。
けれど、門を閉じる音は、不思議と重くなかった。
こちらから王都へ、初めてはっきり刃を返した。
その事実が、リシェルの背筋を静かに伸ばしていた。
アルヴェインは、やはり起きていた。
団長室へ入った瞬間、リシェルは寝台の上で上体を起こしている彼を見て、深く息を吸った。
「寝ていてくださいと言いました」
「寝ていた」
「今は起きています」
「少しだ」
「その“少し”が信用できないと、何度言えば」
リシェルが近づくと、アルヴェインは観念したように背を枕へ戻した。
顔色はまだ悪い。けれど昨日よりはいい。熱の名残はあるが、目の奥の濁りは消えていた。
「早馬は出たか」
「出ました」
「そうか」
彼は短く答えた。
それだけだった。
けれど、リシェルには分かる。
その一言の中に、いくつもの感情が入っている。
王都へ刃を返したこと。
自分の古傷を証拠として使ったこと。
リシェルが報告書に名を連ねたこと。
そして、これで後戻りできなくなったこと。
「後悔していますか」
リシェルが問うと、アルヴェインはわずかに眉を動かした。
「何を」
「報告書を出したことです」
「しない」
即答だった。
「なら、よかったです」
「お前は?」
逆に問われ、リシェルは少しだけ視線を落とした。
「私は……少し怖いです」
「ああ」
「王都に、ちゃんと届いてしまうんだと思うと」
「届かせるために出した」
「はい」
リシェルは小さく頷く。
「でも、王都にいた頃の私は、届かせることができませんでした。何かおかしいと思っても、言葉にしても、結局どこかで消えてしまった。誰かの涙や、身分や、綺麗な言い方に押し流されて」
アルヴェインは黙って聞いている。
「だから今、届くかもしれないことが、怖くて……少し、嬉しいです」
言ってから、変な言い方だと思った。
だが、アルヴェインは笑わなかった。
「なら、その感覚は覚えておけ」
「感覚?」
「届く言葉を持った者は、前より狙われる」
低い声だった。
「だが、それでも言葉を持て。お前の記録は、もうただの紙ではない」
胸の奥が熱くなる。
リシェルは、そっと頷いた。
「はい」
「それと」
「はい」
「今日は休め」
急に現実的な命令が飛んできた。
リシェルは目を瞬く。
「私は元気です」
「嘘だな」
「団長に言われたくありません」
「俺は患者だ」
「だから寝ていてください」
「お前も寝ろ」
「私は患者ではありません」
すると、部屋の入口からベルンの声がした。
「二人とも似たようなものだ」
老人は薬箱を抱えて立っていた。
「片方は倒れた患者。片方は倒れる寸前の医務担当。どっちも面倒だ」
「先生」
「今日は交代で休ませる。異論は認めん」
ベルンは勝手に机へ薬を並べ始めた。
アルヴェインもリシェルも、一瞬黙った。
その沈黙が妙におかしくて、リシェルは少しだけ笑ってしまった。
アルヴェインも、ほんのわずかに口元を緩めた。
こういう時間があるから、まだ立っていられるのだと思った。
昼前、エドガーが医務棟を訪れた。
王都へ戻る準備のためだった。
滞在は短かった。だが、彼はここで多くのものを見た。香油、木片、神殿調合印、アルヴェインの容態、リシェルの記録、砦の動き。
そして、自分が見ていなかったもの。
医務棟の入口で、エドガーは足を止めた。
「リシェル殿」
その呼び方にも、少し慣れた。
かつてのように名前だけで呼ばれないことに、胸が痛まないわけではない。けれど、今の距離としてはそれでよかった。
「王都へ戻られるのですね」
「ああ」
エドガーは頷いた。
「こちらで見たことを、レヴェント家としても調べる。聖女派支援会、神殿調合部門、リディア・フォルム。セシリアの周辺も含めて」
セシリアの名を出す時、彼の声は少しだけ沈んだ。
まだ彼の中で、彼女は完全に敵にはなっていないのだろう。
それは当然だ。
かつて信じた相手を、一夜で切り捨てられる人間ばかりではない。
リシェル自身も、過去と距離を置くのに時間がかかった。
「お願いします」
リシェルは言った。
「ただし、無理に私のためと思わないでください」
エドガーが目を上げる。
「え?」
「これは私だけの問題ではありません。砦の医務、村の薬草、団長の古傷、王都の神殿。多くのものが関わっています」
「……ああ」
「だから、あなたが見るべきものとして見てください。罪滅ぼしではなく」
エドガーは、しばらく黙った。
それから、小さく笑った。
苦い笑みだった。
「君は、本当に容赦がない」
「そうでしょうか」
「ああ。でも、今はそれがありがたい」
彼は少しだけ息を吐く。
「罪滅ぼしで動けば、また自分の感情を中心にしてしまう。そう言いたいのだろう」
リシェルは答えなかった。
けれど、それで十分だった。
エドガーは頷く。
「分かった。見るべきものとして見る。王都で起きていることを」
「はい」
「そして、もしセシリアが……」
そこで言葉が止まる。
リシェルは待った。
無理に先を促さない。
エドガーは拳を握り、それから低く言った。
「もし彼女が知っていたなら、私はそれも見なければならない」
「はい」
「知らなかったとしても、彼女の名が使われたことは事実だ」
「はい」
エドガーは顔を歪めた。
苦しそうだった。
だが、目は逸らしていない。
それは、かつての彼とは違うところだった。
「リシェル殿」
「はい」
「私は、あなたに許してもらうために動くのではない」
「はい」
「王都で、自分が見なかったものを見るために動く」
リシェルは静かに頷いた。
「それでいいと思います」
エドガーは深く頭を下げた。
王都の公爵家嫡男としてではなく、ひとりの人間としての礼だった。
リシェルは、それを受けた。
許したわけではない。
過去が消えたわけでもない。
けれど、この先のために、彼が必要な場所へ戻ることは認められる。
そう思った。
エドガーが発つ前、アルヴェインも短く顔を出した。
安静にしていろと何度も言ったのに、外套を羽織って廊下まで出てきたため、リシェルは思わず睨んだ。
「団長」
「見送りくらいはできる」
「患者です」
「歩ける」
「歩ける患者が一番厄介なんです」
横でガレスが小さく咳払いした。
エドガーはそのやり取りを見て、少しだけ複雑そうな顔をした。
けれど、すぐに表情を整え、アルヴェインへ向き直る。
「団長。今回見たことは、王都へ持ち帰ります」
「ああ」
「聖女派の件も、神殿調合部門の件も、調べる」
「期待はしない」
アルヴェインは容赦なく言った。
エドガーの顔が少し引き締まる。
「でしょうね」
「だが、結果は求める」
「必ず」
短いやり取り。
そこに友情はない。
けれど、必要な緊張と協力関係があった。
エドガーは最後にリシェルを見た。
「また報告を送る」
「お待ちしています」
その言葉は、昔の関係へ戻るものではない。
ただ、王都と辺境をつなぐ新しい線だった。
馬車が正門を出る。
雪道の向こうへ、レヴェント家の馬車が遠ざかっていく。
リシェルはそれを見送った。
胸は静かだった。
痛みは残っている。
でも、引き戻される感覚はなかった。
過去は王都へ戻っていく。
そして自分は、ここに残る。
その違いが、今ははっきり分かった。
王都へ向かった報告書は、三日後、最初の波を起こした。
まず神殿本部がざわついた。
聖女派支援物資に含まれていた香油で兵に症状が出た。
しかも瓶底に神殿内部の医療用調合印があった。
成分表の提出を拒否した補祭の名も記録されている。
通常なら、辺境の訴えなど「現地の誤解」で処理されただろう。
だが今回は違った。
報告書にはアルヴェインの署名があった。
王家傍流に連なる男。
北西辺境騎士団長。
そして、王都の一部が決して無視できない血筋。
さらに、レヴェント公爵家にも同じ写しが渡っている。
どこか一か所で握り潰すには、少し大きくなりすぎていた。
神殿本部の一室で、年老いた神官長は報告書を読み、深く皺の刻まれた額に手を当てた。
「誰が、こんなものを辺境へ送った」
その問いに、控えていた神官たちは誰もすぐ答えられなかった。
聖女派支援会。
神殿調合部門。
支援物資管理役。
いくつもの部署の名が浮かんでは消える。
だが、報告書の最後に添えられた一文が、神官長の目に止まった。
「聖女の名を使って命を危険に晒すなら、薬師としてこれを否定する」
署名は、リシェル・フォルディア。
神官長は低く呟いた。
「この令嬢は、なかなか厄介な目を持っているな」
同じ頃、離宮の温室では、セシリアが報告の写しを受け取っていた。
白百合の花瓶の前で、彼女は紙を開く。
読み進めるうちに、指先から血の気が引いていく。
香油。
兵の症状。
アルヴェインの古傷。
木片。
神殿調合印。
正式抗議。
そして、リシェルの一文。
聖女の名を使って命を危険に晒すなら、薬師として否定する。
セシリアは、その文を何度も読んだ。
薬師として。
リシェルは、自分をそう名乗った。
悪役令嬢でも、元婚約者でも、追放された女でもなく。
薬師として、聖女の名に反論した。
その事実が、セシリアの胸を強く刺した。
「……ひどい」
声が漏れた。
誰に向けた言葉か分からない。
リシェルがひどいのか。
自分の名を使った者たちがひどいのか。
それとも、何も止められなかった自分がひどいのか。
考えたくなかった。
オルグレン司祭が背後から声をかけた。
「セシリア様」
彼はいつものように穏やかな顔をしていた。
だが、今日はその穏やかさが少しだけ薄い。
「ご心配には及びません。辺境側の過剰反応です」
セシリアは振り返る。
「本当に?」
「もちろんです」
「でも、アルヴェイン様が倒れたと」
「古傷の一時的な悪化でしょう」
「本当に?」
同じ問いを繰り返した。
オルグレンはわずかに眉を動かす。
セシリアは、初めて彼の目をじっと見た。
「私は、誰かに死んでほしいなんて言っていません」
「もちろんです」
「私は、アルヴェイン様を傷つけてほしいとも言っていない」
「誰もそのようなことは」
「では、なぜこんな報告が来るのですか」
声が少し震えた。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。
オルグレンは少しだけ間を置き、穏やかに言った。
「王都の秩序を守るためには、時に誤解を受けることもございます」
その言葉で、セシリアの中の何かが冷えた。
誤解。
便利な言葉だ。
あの夜、リシェルに向けた疑いも、今ならそう呼べてしまうのかもしれない。
セシリアは白百合へ視線を落とした。
花は相変わらず白い。
けれど、その白さが少し怖かった。
レヴェント公爵家では、エドガーが戻るより先に報告書の写しが届いた。
執事長はそれを読み終え、長く黙っていた。
そして、静かに呟いた。
「リシェル様は、王都へ戻らずとも王都を動かし始めましたな」
それを聞く者はいなかった。
だが、その言葉は正しかった。
辺境の雪の中で書かれた報告書は、王都の温室へ、神殿へ、公爵家へ、確かに届き始めていた。
夜、北西辺境補給砦では、リシェルが医務棟の窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が入ってくる。
薬草の匂いが、ほんの少し薄まる。
遠くの見張り台には灯がともっていた。アルヴェインはまだ団長室で安静中。ベルンが見張っているので、今日は無茶はできないだろう。
リシェルは机に戻り、記録紙を開いた。
王都へ報告書を送った。
エドガーが王都へ戻った。
神殿、聖女派、レヴェント家、それぞれが動き出す。
最後に、一行を書く。
「辺境から出した言葉は、王都へ届いた」
その一行を見て、胸の奥が静かに熱くなった。
まだ戦いは終わらない。
むしろ、これから王都の中心へ近づいていく。
けれど、もうただ怯えるだけではない。
辺境の薬師は、雪の砦から王都を見始めた。
そして王都もまた、彼女を無視できなくなっていた。




