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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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45/61

第45話 辺境の薬師は、王都の聖女を恐れない

 アルヴェインの熱が完全に下がったのは、翌日の昼近くだった。


 眠りは浅かった。痛みが引いたわけではない。古傷の周囲にはまだ赤黒い痕が残り、体を起こすだけでも眉間に皺が寄る。それでも、前夜のような脈の乱れはない。瞳にも焦点が戻っていた。


 リシェルは寝台脇で脈を取り、慎重に息を吐いた。


「まだ安静です」


「分かっている」


「本当に?」


「……半分は」


「全部です」


 即座に言うと、アルヴェインは少しだけ目を細めた。


「医務担当は厳しいな」


「患者が言うことを聞かないので」


「患者扱いか」


「倒れた人は患者です」


 リシェルがきっぱり言うと、部屋の隅にいたベルンが鼻を鳴らした。


「もっと言え。こいつは昔から痛みを我慢すれば済むと思っている」


「昔から、ですか」


「昔からだ」


 アルヴェインがわずかに顔をしかめる。


「余計なことを言うな」


「倒れた奴に発言権は少ない」


 ベルンは容赦がなかった。


 そのやり取りを聞いて、リシェルは少しだけ安心した。


 こうして軽口が戻ってきたということは、山は越えたのだ。


 もちろん、安心しきるには早い。


 原因物は押さえた。

 見張り小屋の灰も、乾燥木片も、荷馬車の残骸も保管してある。

 神殿調合部門の印も写し取った。

 ガレスは西の林縁村周辺の巡回を強化し、ミラの村には追加の警告を出した。


 けれど、王都側が次にどう動くかは分からない。


 だからこそ、今日中に報告書をまとめる必要があった。


 リシェルはアルヴェインの額に手を当て、熱が戻っていないことを確認した。


「少し眠ってください」


「報告書は」


「私が書きます」


「俺も確認する」


「起き上がらずに確認してください」


「……強いな」


「団長が倒れたので、強くならざるを得ません」


 そう返すと、アルヴェインは一瞬だけ黙った。


 それから、低く言う。


「心配をかけた」


 不意打ちだった。


 リシェルは言葉に詰まる。


 この人が、自分からそんなふうに謝るのは珍しい。


「……本当に、心配しました」


「ああ」


「怒っています」


「王都にか」


「王都にも。団長にも少し」


「俺にも?」


「倒れるまで無理をするからです」


 言ってから、昨夜の状況は彼の無理だけではなかったと分かっていても、どうしても言わずにいられなかった。


 アルヴェインは反論しなかった。


「次から気をつける」


「その言葉、信用していいですか」


「半分くらいは」


「全部です」


 また同じやり取りになり、ベルンが奥で低く笑った。


 リシェルは自分でも少し笑ってしまい、それからゆっくり立ち上がった。


「小会議室で、報告をまとめます。ガレス副官、ベルン先生、レヴェント様にも同席してもらいます」


 エドガーの名を出した時、アルヴェインの目がわずかに動いた。


「エドガーもか」


「王都側の調査には、彼の証言と照合が必要です」


「分かっている」


「面白くないですか」


「面白くはない」


 素直な返事だった。


 リシェルは小さく息を吐く。


「でも、必要です」


「ああ」


 アルヴェインは目を閉じる。


「必要なら使え。俺の感情より、今は証拠が先だ」


 その言葉に、胸の奥が熱くなる。


 この人は感情を隠さない。

 けれど、それでこちらの判断を縛らない。


 だから信じられるのだ。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


「でも、言いたいので」


 いつもの返事をすると、アルヴェインの口元がほんの少しだけ緩んだ。


「知っている」


 小会議室に集まった面々の顔は、誰もが険しかった。


 ガレスは昨夜からほとんど眠っていない。目の下に疲れがあるが、姿勢は崩れていなかった。ベルンは不機嫌そうに薬草袋を抱えている。エドガーは王都の外套を脱ぎ、簡素な上着姿で席についていた。隣にはマティアスが控え、記録用の紙を広げている。


 リシェルは机の中央に、証拠を一つずつ並べた。


 聖女派支援物資の香油瓶。

 瓶底の神殿調合印の写し。

 イアンの症状記録。

 西壁見張り小屋から回収した乾燥木片。

 木片を入れていた箱の底にあった調合印。

 燃焼後の灰。

 アルヴェインの症状記録。

 古傷の反応図。

 ベルンの所見。

 偽薬草と白百合符丁の記録。


 これまで別々に見えていたものが、机の上で一つの線になっていく。


 リシェルは一度だけ深く息を吸った。


「始めます」


 誰も口を挟まなかった。


「まず、聖女派から届いた祈祷済み香油について。兵イアンが少量を手首に付着させた直後、発熱、発汗、頭重感、白い花の匂いの残留感、軽い幻覚を起こしました」


 記録紙を示す。


「傷口への使用はありません。洗浄も早かった。それでも症状が出たため、この香油は患者への使用を禁じました」


 エドガーが静かに頷く。


 彼はもう、聖女派の名を聞いてもすぐに庇うような顔はしなかった。


「次に、香油瓶の底です。白百合の飾りではなく、神殿内部の医療用調合印と思われる刻印がありました。ベルン先生の所見では、祈祷品ではなく調合物である可能性が高い」


 ベルンが短く言う。


「薬として作っている。祈っただけの油じゃない」


 リシェルは頷いた。


「そのうえで、神殿側は成分表の提出を拒否しています」


「秘法を理由に、だな」


 ガレスが低く言った。


「はい」


 リシェルは次に、昨夜の木片を示した。


「そして昨夜、西壁見張り小屋で通常の薪とは別の乾燥木片が使われました。燃焼後、団長の古傷が急激に反応。発熱、脈の乱れ、幻覚、古傷周囲の赤筋。これは香油に触れたイアンの症状と一部共通しています」


 エドガーが木片を見つめた。


「この木片にも、同じ印が?」


「箱底に、同じ神殿調合部門の印がありました」


 マティアスが筆を走らせる音が聞こえる。


 リシェルは続けた。


「木片そのものは、触れても即座に症状を起こすものではありません。ですが火に近づけると薄い煙を出します。その煙に含まれる成分が、王都由来の古傷毒性残滓を刺激したと考えられます」


 エドガーが顔を上げた。


「つまり、普通の人間には目立った害が出にくい」


「はい」


「だが、アルヴェイン団長には強く出る」


「はい」


 エドガーは唇を引き結んだ。


「狙い撃ちだ」


 ガレスが低く言う。


「そう見るしかない」


 部屋が重く沈む。


 だが、沈黙しているわけにはいかない。


 リシェルは最後の紙を開いた。


「香油、偽薬草、白百合符丁、神殿調合印、そして昨夜の木片。この五つは、すべて別々の荷として届いています。ですが、共通するのは聖女派あるいは神殿調合部門に近い経路です」


 リシェルは一つずつ指で示した。


「偽薬草は医務棟の信用を落とすため。白百合符丁は荷の経路を示すため。香油は“支援”として砦へ入るため。木片は団長の古傷を刺激するため」


 言葉にすればするほど、怒りが胸の奥で熱を持つ。


 だが、声は荒げなかった。


 荒げてしまえば、王都はきっと言う。


 感情的な女だ、と。


 だからこそ、静かに言い切る。


「これは偶然ではありません。聖女派の名、あるいは聖女派に近い神殿調合部門の経路を使って、辺境の医務と団長を揺らす意図があったと見ます」


 エドガーはしばらく黙っていた。


 やがて、低く言う。


「セシリア本人が、どこまで知っていたかは分からない」


「はい」


 リシェルは頷いた。


「そこは断定しません」


 エドガーは少しだけほっとしたように見えた。

 けれど、その安堵はすぐ苦しさに変わった。


 リシェルは続ける。


「ですが、聖女の名が使われています。聖女候補の支援物資として届き、聖女の祈りとして使用を迫られました。本人が知らなかったとしても、その名が危険なものを通すために利用されたことは事実です」


 エドガーは何も言わなかった。


 反論できないのだろう。


 リシェルは一度、机の上の香油瓶を見た。


 淡い金色の液体。


 美しく、清らかで、危ういもの。


「私は、聖女様の祈りそのものを否定したいわけではありません」


 ゆっくりと言った。


「でも、聖女の名を使って命を危険に晒すなら、私は薬師として、それを否定します」


 小会議室が静まり返った。


 その言葉は、リシェル自身の中から出たものだった。


 王都で黙っていた頃の自分には、きっと言えなかった。


 けれど今は言える。


 薬師として。

 医務担当として。

 辺境で必要とされている者として。


 ベルンが満足そうに鼻を鳴らした。


「よく言った」


 ガレスも短く頷く。


「報告書にそのまま書け」


 エドガーは、少し苦しげに目を伏せた。


「……重い言葉だな」


「軽くはありません」


 リシェルは答えた。


「人が倒れています。団長も、イアンも」


「分かっている」


 エドガーは顔を上げる。


「王都へ戻ったら、私も調べる。セシリアの周囲、聖女派支援会、神殿調合部門、リディア・フォルム。その名に関わるものを」


「お願いします」


 リシェルは静かに言った。


 そこには、過去の婚約者としてではなく、調査に必要な協力者としての距離があった。


 エドガーも、それを理解しているようだった。


「君は、本当に戻らないのだな」


 不意に彼が言った。


 リシェルは一瞬だけ目を伏せ、それから答えた。


「はい」


「ここで戦うのか」


「戦うという言い方が正しいかは分かりません。でも、ここで見ます。記録します。必要なら否定します」


 エドガーは小さく息を吐いた。


「それが、今の君の強さか」


「そう言ってくれた人がいます」


 リシェルの視線は、自然と会議室の扉のほうへ向いた。


 そこにはアルヴェインはいない。


 まだ安静にしている。


 けれど、彼の言葉はここにあった。


 エドガーもそれに気づいたのだろう。


 少し寂しそうに笑った。


「団長か」


 リシェルは答えなかった。


 否定しないことが、答えになっていた。


 会議の最後に、アルヴェインの部屋へ報告書を運んだ。


 まだ起き上がる許可は出していない。だが、上体を少しだけ起こす程度ならとベルンが渋々認めたため、彼は枕を背にして書類を読んだ。


 リシェルは隣で、無理をしないか目を光らせていた。


「顔が怖い」


 アルヴェインが言う。


「患者が無理をするからです」


「まだしていない」


「これからしそうなので」


「信用がないな」


「半分くらいは」


「少し増えたか」


 そんなやり取りをしていると、部屋の空気が少しだけ和らいだ。


 アルヴェインは報告書を最後まで読み、しばらく黙っていた。


「よくまとまっている」


「ありがとうございます」


「このまま王都へ出せる」


「はい」


 アルヴェインは紙を閉じた。


 その青い瞳は、まだ熱の名残で少し暗い。けれど、意志は戻っていた。


「次は王都がこちらを見る番ではない」


 低い声だった。


「こちらが王都を見る番だ」


 リシェルの胸が静かに鳴った。


 それは第3章の終わりにふさわしい言葉だった。


 これまで、王都は一方的にこちらを測ってきた。

 リシェルを悪女として。

 辺境を未熟な土地として。

 アルヴェインを血筋の駒として。

 支援という名で、祈りという名で、都合よく動かそうとしてきた。


 だが、もう違う。


 辺境は見ている。

 記録している。

 証拠を持っている。


 そして、黙らない。


「はい」


 リシェルは頷いた。


「王都を見ます。聖女派も、神殿調合部門も、白百合の符丁も」


「危険だぞ」


「分かっています」


「怖くないか」


「怖いです」


 正直に答えた。


「でも、怖いから見ない、という段階は過ぎました」


 アルヴェインは静かにこちらを見た。


 その目に、わずかな誇らしさが浮かぶ。


「本当に強くなったな」


「辺境のせいです」


「俺のせいでは?」


 どこかで聞いたやり取りだった。


 リシェルは少しだけ笑う。


「かなり」


 アルヴェインは一瞬だけ黙った。


 それから、視線を逸らす。


「……そうか」


「今、照れましたか」


「熱のせいだ」


「熱は下がっています」


「では古傷のせいだ」


「それも今は落ち着いています」


「医務担当は細かいな」


「必要なので」


 久しぶりに、心から笑えた気がした。


 昨夜の恐怖は、まだ消えていない。

 彼の手の熱も、苦しげな呼吸も、離れるなと言った声も、胸に残っている。


 けれど、今こうして言葉を交わせている。


 それが救いだった。


 夕刻、正式報告書は三通作られた。


 一通は王都の王宮へ。

 一通は神殿本部へ。

 一通はレヴェント公爵家を通じた独自調査用の写しとしてエドガーへ。


 封をする前、リシェルは最後に内容を確認した。


 聖女派支援物資の香油。

 偽薬草。

 白百合符丁。

 神殿調合印。

 西壁見張り小屋の木片。

 アルヴェインの古傷反応。

 イアンの症状。

 ミラの証言。

 ベルンの所見。

 リシェルの結論。


 すべてが、ひとつの章の終わりを告げるように並んでいた。


 エドガーは写しを受け取り、深く頭を下げた。


「必ず調べる」


「お願いします」


「リシェル」


 彼は一瞬だけ、昔のように名を呼んだ。


 リシェルは静かに彼を見る。


 エドガーは言い直した。


「……リシェル殿」


 その距離を選んだことに、少しだけ驚いた。


「私は、王都で見てくる。君がここで見ているように」


 リシェルは頷いた。


「はい」


 それ以上の言葉は、今は必要なかった。


 彼は過去の人だ。

 けれど、今後の調査に必要な人でもある。


 その距離でいい。


 その距離が、今のリシェルにはちょうどよかった。


 夜、医務棟へ戻ると、トーマスが机を片づけていた。


「終わりました?」


「第3章分は、たぶん」


 思わずそんな言い方になり、リシェルは自分で少し笑った。


 トーマスは意味が分からず首を傾げた。


「章?」


「何でもないわ」


 ベルンが奥から言った。


「まだ終わっとらんぞ。王都に喧嘩を売ったんだ。次はもっと面倒になる」


「分かっています」


「ならいい」


 リシェルは自分の机に座り、記録紙を開いた。


 今日の最後の一行を書く。


 「聖女の名を使って命を危険に晒すなら、私は薬師としてそれを否定する」


 そして、もう一行。


 「次はこちらが王都を見る番」


 筆を置く。


 窓の外では雪が止み、雲の隙間から淡い月明かりが差していた。


 辺境の夜は、まだ冷たい。


 王都の白百合は、まだ遠くで咲いている。

 その花の陰に、どれほどの毒や嘘や祈りが隠されているのかは分からない。


 けれど、もう恐れて俯くだけのリシェルではない。


 辺境の薬師は、王都の聖女を恐れない。


 そう言えるだけの記録と、仲間と、居場所を、彼女はこの雪の砦で手にしていた。

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