第45話 辺境の薬師は、王都の聖女を恐れない
アルヴェインの熱が完全に下がったのは、翌日の昼近くだった。
眠りは浅かった。痛みが引いたわけではない。古傷の周囲にはまだ赤黒い痕が残り、体を起こすだけでも眉間に皺が寄る。それでも、前夜のような脈の乱れはない。瞳にも焦点が戻っていた。
リシェルは寝台脇で脈を取り、慎重に息を吐いた。
「まだ安静です」
「分かっている」
「本当に?」
「……半分は」
「全部です」
即座に言うと、アルヴェインは少しだけ目を細めた。
「医務担当は厳しいな」
「患者が言うことを聞かないので」
「患者扱いか」
「倒れた人は患者です」
リシェルがきっぱり言うと、部屋の隅にいたベルンが鼻を鳴らした。
「もっと言え。こいつは昔から痛みを我慢すれば済むと思っている」
「昔から、ですか」
「昔からだ」
アルヴェインがわずかに顔をしかめる。
「余計なことを言うな」
「倒れた奴に発言権は少ない」
ベルンは容赦がなかった。
そのやり取りを聞いて、リシェルは少しだけ安心した。
こうして軽口が戻ってきたということは、山は越えたのだ。
もちろん、安心しきるには早い。
原因物は押さえた。
見張り小屋の灰も、乾燥木片も、荷馬車の残骸も保管してある。
神殿調合部門の印も写し取った。
ガレスは西の林縁村周辺の巡回を強化し、ミラの村には追加の警告を出した。
けれど、王都側が次にどう動くかは分からない。
だからこそ、今日中に報告書をまとめる必要があった。
リシェルはアルヴェインの額に手を当て、熱が戻っていないことを確認した。
「少し眠ってください」
「報告書は」
「私が書きます」
「俺も確認する」
「起き上がらずに確認してください」
「……強いな」
「団長が倒れたので、強くならざるを得ません」
そう返すと、アルヴェインは一瞬だけ黙った。
それから、低く言う。
「心配をかけた」
不意打ちだった。
リシェルは言葉に詰まる。
この人が、自分からそんなふうに謝るのは珍しい。
「……本当に、心配しました」
「ああ」
「怒っています」
「王都にか」
「王都にも。団長にも少し」
「俺にも?」
「倒れるまで無理をするからです」
言ってから、昨夜の状況は彼の無理だけではなかったと分かっていても、どうしても言わずにいられなかった。
アルヴェインは反論しなかった。
「次から気をつける」
「その言葉、信用していいですか」
「半分くらいは」
「全部です」
また同じやり取りになり、ベルンが奥で低く笑った。
リシェルは自分でも少し笑ってしまい、それからゆっくり立ち上がった。
「小会議室で、報告をまとめます。ガレス副官、ベルン先生、レヴェント様にも同席してもらいます」
エドガーの名を出した時、アルヴェインの目がわずかに動いた。
「エドガーもか」
「王都側の調査には、彼の証言と照合が必要です」
「分かっている」
「面白くないですか」
「面白くはない」
素直な返事だった。
リシェルは小さく息を吐く。
「でも、必要です」
「ああ」
アルヴェインは目を閉じる。
「必要なら使え。俺の感情より、今は証拠が先だ」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
この人は感情を隠さない。
けれど、それでこちらの判断を縛らない。
だから信じられるのだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「でも、言いたいので」
いつもの返事をすると、アルヴェインの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「知っている」
小会議室に集まった面々の顔は、誰もが険しかった。
ガレスは昨夜からほとんど眠っていない。目の下に疲れがあるが、姿勢は崩れていなかった。ベルンは不機嫌そうに薬草袋を抱えている。エドガーは王都の外套を脱ぎ、簡素な上着姿で席についていた。隣にはマティアスが控え、記録用の紙を広げている。
リシェルは机の中央に、証拠を一つずつ並べた。
聖女派支援物資の香油瓶。
瓶底の神殿調合印の写し。
イアンの症状記録。
西壁見張り小屋から回収した乾燥木片。
木片を入れていた箱の底にあった調合印。
燃焼後の灰。
アルヴェインの症状記録。
古傷の反応図。
ベルンの所見。
偽薬草と白百合符丁の記録。
これまで別々に見えていたものが、机の上で一つの線になっていく。
リシェルは一度だけ深く息を吸った。
「始めます」
誰も口を挟まなかった。
「まず、聖女派から届いた祈祷済み香油について。兵イアンが少量を手首に付着させた直後、発熱、発汗、頭重感、白い花の匂いの残留感、軽い幻覚を起こしました」
記録紙を示す。
「傷口への使用はありません。洗浄も早かった。それでも症状が出たため、この香油は患者への使用を禁じました」
エドガーが静かに頷く。
彼はもう、聖女派の名を聞いてもすぐに庇うような顔はしなかった。
「次に、香油瓶の底です。白百合の飾りではなく、神殿内部の医療用調合印と思われる刻印がありました。ベルン先生の所見では、祈祷品ではなく調合物である可能性が高い」
ベルンが短く言う。
「薬として作っている。祈っただけの油じゃない」
リシェルは頷いた。
「そのうえで、神殿側は成分表の提出を拒否しています」
「秘法を理由に、だな」
ガレスが低く言った。
「はい」
リシェルは次に、昨夜の木片を示した。
「そして昨夜、西壁見張り小屋で通常の薪とは別の乾燥木片が使われました。燃焼後、団長の古傷が急激に反応。発熱、脈の乱れ、幻覚、古傷周囲の赤筋。これは香油に触れたイアンの症状と一部共通しています」
エドガーが木片を見つめた。
「この木片にも、同じ印が?」
「箱底に、同じ神殿調合部門の印がありました」
マティアスが筆を走らせる音が聞こえる。
リシェルは続けた。
「木片そのものは、触れても即座に症状を起こすものではありません。ですが火に近づけると薄い煙を出します。その煙に含まれる成分が、王都由来の古傷毒性残滓を刺激したと考えられます」
エドガーが顔を上げた。
「つまり、普通の人間には目立った害が出にくい」
「はい」
「だが、アルヴェイン団長には強く出る」
「はい」
エドガーは唇を引き結んだ。
「狙い撃ちだ」
ガレスが低く言う。
「そう見るしかない」
部屋が重く沈む。
だが、沈黙しているわけにはいかない。
リシェルは最後の紙を開いた。
「香油、偽薬草、白百合符丁、神殿調合印、そして昨夜の木片。この五つは、すべて別々の荷として届いています。ですが、共通するのは聖女派あるいは神殿調合部門に近い経路です」
リシェルは一つずつ指で示した。
「偽薬草は医務棟の信用を落とすため。白百合符丁は荷の経路を示すため。香油は“支援”として砦へ入るため。木片は団長の古傷を刺激するため」
言葉にすればするほど、怒りが胸の奥で熱を持つ。
だが、声は荒げなかった。
荒げてしまえば、王都はきっと言う。
感情的な女だ、と。
だからこそ、静かに言い切る。
「これは偶然ではありません。聖女派の名、あるいは聖女派に近い神殿調合部門の経路を使って、辺境の医務と団長を揺らす意図があったと見ます」
エドガーはしばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「セシリア本人が、どこまで知っていたかは分からない」
「はい」
リシェルは頷いた。
「そこは断定しません」
エドガーは少しだけほっとしたように見えた。
けれど、その安堵はすぐ苦しさに変わった。
リシェルは続ける。
「ですが、聖女の名が使われています。聖女候補の支援物資として届き、聖女の祈りとして使用を迫られました。本人が知らなかったとしても、その名が危険なものを通すために利用されたことは事実です」
エドガーは何も言わなかった。
反論できないのだろう。
リシェルは一度、机の上の香油瓶を見た。
淡い金色の液体。
美しく、清らかで、危ういもの。
「私は、聖女様の祈りそのものを否定したいわけではありません」
ゆっくりと言った。
「でも、聖女の名を使って命を危険に晒すなら、私は薬師として、それを否定します」
小会議室が静まり返った。
その言葉は、リシェル自身の中から出たものだった。
王都で黙っていた頃の自分には、きっと言えなかった。
けれど今は言える。
薬師として。
医務担当として。
辺境で必要とされている者として。
ベルンが満足そうに鼻を鳴らした。
「よく言った」
ガレスも短く頷く。
「報告書にそのまま書け」
エドガーは、少し苦しげに目を伏せた。
「……重い言葉だな」
「軽くはありません」
リシェルは答えた。
「人が倒れています。団長も、イアンも」
「分かっている」
エドガーは顔を上げる。
「王都へ戻ったら、私も調べる。セシリアの周囲、聖女派支援会、神殿調合部門、リディア・フォルム。その名に関わるものを」
「お願いします」
リシェルは静かに言った。
そこには、過去の婚約者としてではなく、調査に必要な協力者としての距離があった。
エドガーも、それを理解しているようだった。
「君は、本当に戻らないのだな」
不意に彼が言った。
リシェルは一瞬だけ目を伏せ、それから答えた。
「はい」
「ここで戦うのか」
「戦うという言い方が正しいかは分かりません。でも、ここで見ます。記録します。必要なら否定します」
エドガーは小さく息を吐いた。
「それが、今の君の強さか」
「そう言ってくれた人がいます」
リシェルの視線は、自然と会議室の扉のほうへ向いた。
そこにはアルヴェインはいない。
まだ安静にしている。
けれど、彼の言葉はここにあった。
エドガーもそれに気づいたのだろう。
少し寂しそうに笑った。
「団長か」
リシェルは答えなかった。
否定しないことが、答えになっていた。
会議の最後に、アルヴェインの部屋へ報告書を運んだ。
まだ起き上がる許可は出していない。だが、上体を少しだけ起こす程度ならとベルンが渋々認めたため、彼は枕を背にして書類を読んだ。
リシェルは隣で、無理をしないか目を光らせていた。
「顔が怖い」
アルヴェインが言う。
「患者が無理をするからです」
「まだしていない」
「これからしそうなので」
「信用がないな」
「半分くらいは」
「少し増えたか」
そんなやり取りをしていると、部屋の空気が少しだけ和らいだ。
アルヴェインは報告書を最後まで読み、しばらく黙っていた。
「よくまとまっている」
「ありがとうございます」
「このまま王都へ出せる」
「はい」
アルヴェインは紙を閉じた。
その青い瞳は、まだ熱の名残で少し暗い。けれど、意志は戻っていた。
「次は王都がこちらを見る番ではない」
低い声だった。
「こちらが王都を見る番だ」
リシェルの胸が静かに鳴った。
それは第3章の終わりにふさわしい言葉だった。
これまで、王都は一方的にこちらを測ってきた。
リシェルを悪女として。
辺境を未熟な土地として。
アルヴェインを血筋の駒として。
支援という名で、祈りという名で、都合よく動かそうとしてきた。
だが、もう違う。
辺境は見ている。
記録している。
証拠を持っている。
そして、黙らない。
「はい」
リシェルは頷いた。
「王都を見ます。聖女派も、神殿調合部門も、白百合の符丁も」
「危険だぞ」
「分かっています」
「怖くないか」
「怖いです」
正直に答えた。
「でも、怖いから見ない、という段階は過ぎました」
アルヴェインは静かにこちらを見た。
その目に、わずかな誇らしさが浮かぶ。
「本当に強くなったな」
「辺境のせいです」
「俺のせいでは?」
どこかで聞いたやり取りだった。
リシェルは少しだけ笑う。
「かなり」
アルヴェインは一瞬だけ黙った。
それから、視線を逸らす。
「……そうか」
「今、照れましたか」
「熱のせいだ」
「熱は下がっています」
「では古傷のせいだ」
「それも今は落ち着いています」
「医務担当は細かいな」
「必要なので」
久しぶりに、心から笑えた気がした。
昨夜の恐怖は、まだ消えていない。
彼の手の熱も、苦しげな呼吸も、離れるなと言った声も、胸に残っている。
けれど、今こうして言葉を交わせている。
それが救いだった。
夕刻、正式報告書は三通作られた。
一通は王都の王宮へ。
一通は神殿本部へ。
一通はレヴェント公爵家を通じた独自調査用の写しとしてエドガーへ。
封をする前、リシェルは最後に内容を確認した。
聖女派支援物資の香油。
偽薬草。
白百合符丁。
神殿調合印。
西壁見張り小屋の木片。
アルヴェインの古傷反応。
イアンの症状。
ミラの証言。
ベルンの所見。
リシェルの結論。
すべてが、ひとつの章の終わりを告げるように並んでいた。
エドガーは写しを受け取り、深く頭を下げた。
「必ず調べる」
「お願いします」
「リシェル」
彼は一瞬だけ、昔のように名を呼んだ。
リシェルは静かに彼を見る。
エドガーは言い直した。
「……リシェル殿」
その距離を選んだことに、少しだけ驚いた。
「私は、王都で見てくる。君がここで見ているように」
リシェルは頷いた。
「はい」
それ以上の言葉は、今は必要なかった。
彼は過去の人だ。
けれど、今後の調査に必要な人でもある。
その距離でいい。
その距離が、今のリシェルにはちょうどよかった。
夜、医務棟へ戻ると、トーマスが机を片づけていた。
「終わりました?」
「第3章分は、たぶん」
思わずそんな言い方になり、リシェルは自分で少し笑った。
トーマスは意味が分からず首を傾げた。
「章?」
「何でもないわ」
ベルンが奥から言った。
「まだ終わっとらんぞ。王都に喧嘩を売ったんだ。次はもっと面倒になる」
「分かっています」
「ならいい」
リシェルは自分の机に座り、記録紙を開いた。
今日の最後の一行を書く。
「聖女の名を使って命を危険に晒すなら、私は薬師としてそれを否定する」
そして、もう一行。
「次はこちらが王都を見る番」
筆を置く。
窓の外では雪が止み、雲の隙間から淡い月明かりが差していた。
辺境の夜は、まだ冷たい。
王都の白百合は、まだ遠くで咲いている。
その花の陰に、どれほどの毒や嘘や祈りが隠されているのかは分からない。
けれど、もう恐れて俯くだけのリシェルではない。
辺境の薬師は、王都の聖女を恐れない。
そう言えるだけの記録と、仲間と、居場所を、彼女はこの雪の砦で手にしていた。




